50年前の根岸-2

By , 2012年3月20日 5:34 PM

【1962年】
 この写真は、1962年10月に根岸小学校の校庭で行われた、八幡橋幼稚園の運動会の模様を写したものです。この時、弟は八幡橋幼稚園の園児で、私は小学校4年生でした。根岸小学校の木造2階建て校舎の様子が、良く分かると思います。この頃、とても広いと感じていた校庭は、後に高校生になってから訪ねた時には、やけに狭く感じられたものでした。校庭を囲むように「口の字型」に建てられた校舎、そして校庭にあった大きな楠、特徴的な昇降口などを懐かしく思い出します。しかしこうして改めて写真を見ると、どの位置から写したものか判然としません。あと10年もすれば、「根岸小学校に通っていた」と言う事だけが記憶に残り、他のことは忘れてしまうのかなぁなどと思っています。
 
【1964年】
 左の写真は、1964年の根岸を写した航空写真です。1964年と言えば、東京オリンピックが開催された年で、私は小学校6年生になっていました。根岸線の根岸-磯子間が開通したのがこの年ですが、この写真は開通前か開通後のものか分かりません。
 この前年の1963年に、根岸中学は新校舎になり、それ以前の旧校舎から移転しました。旧校舎は岸壁の傍に建っていましたので、埋立の様子などがよく見えたのではないかと思います。根岸中学の新校舎の隣は、「横浜プールセンター(通称マンモスプール)」が建つことになる場所です。プールセンターの工事はこの年の12月に始まり、翌年の1965年7月に竣工しました。

 プールセンターが建つ前のこの場所は、「自己紹介」のページに記したように、駐留を終えた米軍のかまぼこ型兵舎が建ち並び、秋にはススキが一面に生い茂り、子供の格好の遊び場でした。米軍から返還され、プールセンターの工事が始まるまでの間、ずっとそんな感じで放置されていたと記憶しています。と言っても、それはほんの短い期間だったろうと思います。子供の頃は、小学校の6年間が永遠に感じられるほど時間の流れがゆっくりでしたから、ほんの数年の間に起きた変化も、私の中では、長い時間の中で起きた変化として記憶されているように思います。

 ですから、自分の記憶と、実際の年数が符合しないことが度々あり、その都度不思議な気持ちになります。もう既に、ブログには何回も書きましたが、あと5年ほど早く生まれていれば、根岸の海のこと、埋立によって変わって行った様子などを、きちんと記憶していたのではないかと思います。
 
【1965年】
 この写真は、1965年、小学校を卒業する年の1月に撮影したものです。根岸小学校の特徴的な昇降口が写っています。校門を入るとすぐに、職員室などがある校舎の通用口があり、それがそのまま昇降口となっていました。細かいところはもう忘れてしまいましたが、写真左手の校舎が6年生の時の教室だったと記憶しています。校舎の裏手には第二校庭があり、そこには回転ブランコやうんていなどが設置されていました。
 私が在学していた頃は、1年から6年まで各学年4クラスあり、1クラス40人程度の生徒数でした。先生や職員を混ぜると、大凡1,000人近い人数が居たことになります。私が在学していた当時に「開校90周年」の記念行事があったと思いますが、もう既に忘却の彼方の出来事となってしまいました。
 
【1967年】
 この写真は、根岸中学の運動会の時のものです。卒業する前年のもので、私は中学3年生でした。生徒の輪の中で、私もフォークダンスを踊っている筈です。たまたま根岸線が通過するところが写っていますが、写真で分かるとおり、どこかの路線のお下がりではないかと思ってしまうような旧式な形をした電車を使用していて、新設された路線と言うイメージはあまりありませんでした。もっともこの頃は磯子駅止りで、利用客もそれほど多くなかったため、地方のローカル線と言う感じだったのかも知れません。その後、磯子の埋立地に建った工場への通勤(新杉田駅)、大規模開発された住宅地の住人の利用(洋光台、港南台)などで飛躍的に利用客が増え、それに伴い主要駅(大船駅)との接続や専用車両の開発などが行われて来ました。

 この写真には、根岸水上飛行場の格納庫だった建物も写っています。根岸線の後ろに写っている大きな四角い建物がそうですが、改修されながら、戦争当時よりこの頃まで利用され続けていたのだと思います。小学生の頃は目と鼻の先に飛行場の跡地があったわけですが、主要な施設はフェンスに囲われ、その中がどうなっていたのかは窺い知ることができませんでした。子供心にも「近づいてはいけない場所」と言う思いがあり、そこへの冒険だけは避けていたように思います。今は製油所の敷地となっていますが、一時期「日航」と呼ばれていた時がありました。勿論、製油所になる前の話です。その頃、中はどのようになっていたのか、一度は冒険してみるべきだったかも知れません。(笑)
 
【1969年】
 自己紹介のページに載せた写真です。高校に入学してから撮影した写真であることはハッキリしているのですが、何年頃撮ったものなのか、実のところ憶えていません。自分で撮影したのに・・・。1969年か1970年のどちらかなのですが、写真は撮るだけではなく、その説明も何処かに記録しておかないと、後で悩む羽目になります。
 この写真には、手前に根岸小学校、向こう側に根岸中学の校舎と音楽室などがある特別校舎、そして体育館が写っています。その右手には横浜プールセンター、その後ろ手には新磯子の工場群が見えます。この写真を撮ってから、40数年が経っています。今、同じ場所(根岸山の登り口)から見ると、どんな景色が見えるのでしょうかねぇ。

※一部の写真は「横浜開港150周年記念行事-みんなでつくる横濱写真アルバム」から引用させていただきました。

6 Responses to “50年前の根岸-2”

  1. せっこ says:

    こんにちは
    原町に来て41年になります。「遠い昔の記憶」を読ませて貰いました。
    このブログを読む切っ掛けは《磯子区環境を考える会》という92’に出来た環境ボランティアグループに4年程前に入会しました。毎年6月に磯子区役所ロビーで環境パネル展を 磯子区と湾岸企業と当会との、合同で展示しております。昨年までは「温暖化軽減にグリーンカーテンを」を担当したいましたが今年度は《磯子区の環境をもっと知ろう》という題で展示します。他の会員は杉田洋光台の方です。
    私は根岸に来た時から、大気汚染と湾岸企業に関心があり、今年は《湾岸企業の紹介》として根岸湾の埋め立てと企業を地図で紹介します。これにあたって、既存の海岸線を地図上に記したいのですが、『50年前の根岸』の航空写真と76年まで、根岸にお住まいだったとの事、(八幡橋神社の祭礼でお会いしてるかも知れませんね)埋立地との区分け線は、山下本牧磯子線と国道16号横須賀街道を結ぶ線で良いのでしょうか。又はJR根岸線のラインなのでしょうか。宜しくお願い致します。
    プログのコメンと欄でお聞きするのは???と、思ったのですがアクセスの方法が無かったので宜しくお願い致します。

    • cube-kojima says:

      せつこ様
      コメントいただき、ありがとうございます。
      ボランティアで活動なさっているとの由、ブログにいろいろ書いている割には、何も具体的な行動はしていない私としては、頭の下がる思いです。また、原町に越されてから41年経つとのことですので、本当に何処かでお会いしているかもしれません。
      根岸、磯子の埋め立てについては、まだ小さかった事もあり、断片的な記憶しか残っていません。せつ子様のご希望にどこまでお答えできるか分かりませんが、昔の航空写真・地図と現在の地図を照らし合わせ、そして薄れかけている記憶を元に、「昔の海岸線」を考えてみました。資料は公開できるようなものでもありませんので、メールで送らせていただきたいと思います。ただ、私の記憶にある海岸線は、旧根岸中学校・三景園・掘割川河口沖・旧根岸水上飛行場跡地辺りからのものしかありません。現在の根岸駅から間門に掛けては、昔の航空写真を元にしたものです。米軍の根岸飛行場があった辺りは立ち入ることはできませんでしたし、米軍から返還された後も、やはり自由に立ち入ることはできなかったと思います。その辺の事情を知っている方がいらっしゃれば、ハッキリと分かると思います。昔の資料を作成するのはご苦労も多いと思いますが、頑張ってください。

  2. 1947年に丸山町に生まれ、大学生の間に中原の山に移り、1976年から3年間はアメリカ、その後34年間山形で過ごし、この春中原に戻って来た浦島太郎です。昔の根岸・磯子懐かしく読みました。私の手元にあった「大昔の根岸・磯子」の写真を「みんなでつくる横濱写真アルバム」に投稿しました。下のURLでご覧ください。大正末から昭和初期の根岸小学校のクラス写真もあります。
    http://www.yokohama-album.jp/picture/view/296/

    • cube-kojima says:

      のんちゃんのパパ様
      コメントをいただき、ありがとうございました。
      昔の話も最近はネタ切れで、なかなかブログの更新が進んでいません。

      そんな中、昔の貴重な写真を掲載されているとの情報をいただき、大変嬉しくなりました。
      「みんなでつくる横濱写真アルバム」は、私も時々見させていただいています。
      今ではもう見ることのできない昔の風景や町の様子など、時間が経つのも忘れて、見入ってしまうこともしばしばです。

      私も、お母上と同じように、生れてから引っ越すまで、原町に25年間住んでいました。
      そんな関係もあり、掲載されている写真には、強く惹かれるものがあります。
      根岸山から、眼下に根岸湾を望む写真は、そうそうお目に掛れない貴重なものだと思います。
      不動坂からの写真は時々見掛けるのですが、根岸山からの写真は本当に珍しいと思います。
      私も根岸小学校に通っていましたので、学校の帰りに根岸山でよく遊びました。
      しかしもうその頃は、海は見えなくなっていました。
      あと5年早く生まれていれば、同じような景色を見ることができたかも知れません。

      その他にも、根岸八幡神社の石段、掘割川天神橋付近、掘割側河口など、どれも貴重な写真ばかりです。
      これからも、また貴重な写真を掲載していただけたらと思います。
      是非、宜しくお願い致します。

  3. まさ says:

    私は1966年生まれの者です。祖母が関東大震災前に磯子に移り住んだと生前聞きました。父も当然横浜生、磯子育ちです。
    実家は今も磯子です。本当に懐かしいお写真拝見しました。岡村のぶどう園私が小学校に入る前まであり50年近く前の事ですが、よく覚えております。実は私の祖父とぶどう園の経営者は友人だったので良く祖父に連れられ遊びに行っていたのです。
    私の実家は旧住所が磯子区磯子字峯で住居表示になってから磯子七丁目です。
    貴殿の書面にありました、旧道を入りしばらく行って右方向「山田谷戸」まさにそこが私の実家です。私が幼少の頃は、山田谷戸に入る所に丸岡ストアと言うパン屋肉屋魚屋が並んでいましたが、貴殿が磯子山に来られていた時既にあったかは不明です。
    今の実家付近を見るとここが約40年ほど前まで字と付く住所だったとは想像出来ないです。
    私がちょうど小学校入学には先に進む磯子山も造成され出しました。しかし車もあまり通らない細い道を山に進むとまだ田んぼもありオタマジャクシやザリガニを取ったりしていました。山を登って下ると貴殿の写真にある広町のバス停で右に行くとぶどう園でした。
    そこに祖父と散歩に行く途中、草もちを作る為のヨモギやツクシを取りながら歩くのがとても楽しかったです。
    私の年齢でもぶどう園を知ってる人は少ないと思います。本当に懐かしいお写真ありがとうございました。
    浜マーケット横の川とても懐かしいです。ハゼ採ったりサワガニもいました。マーケットの出口におじいさんのやっている露店のおもちゃ屋も懐かしい思い出です。
    最後に余談ですが、八幡橋の神社の前に公衆トイレがあるの覚えていらっしゃいますか?そこは祖母が来たときから有ったと言うことです。今でもあります。

    • cube-kojima says:

      まさ様
      初めまして。コメントいただき、ありがとうございます。
      関東大震災の前からご家族が磯子にお住まいだったとの由ですが、そうすると100年近く前のことになりますよね。ご両親は近年の磯子の移り変わりをご覧になって来られたと思いますが、相当に感慨深いものがおありにるのではないかと思います。私の両親は、自分からはあまり昔のことをしゃべりませんでしたが、私が聞くと懐かしそうに話してくれたことがありました。八幡橋から飛び込んで泳いだことや、親戚の漁船に乗って沖合まで行き泳いだこととか、水上飛行艇の話とか、磯子の看板屋のご子息が出征した時に南方から絵葉書をもらったこととか、詳細は憶えていませんがいろいろと聞くことができました。戦前・戦中の話が多かったように思いますが、父母も若かったですし海があった頃は大層面白かったようです。
      私が子供の頃、両親に連れられて山歩きをしたのは1959~60年頃だったと思います。まさ様がお書きになられている丸岡ストア(私が子供の頃は無かったと思います)のところを入って細い道を進んでいくと、民家が途切れ緩い登り坂になり畑が見えるようになります。ここからは細い農道を歩いて行くのですが、途中の水田ではお玉杓子やメダカをすくったりしました。暫く歩いて疲れて来た頃に、ブドウ園に到着します。ブドウ園で一休みしてまた山道を歩いて、今の浜小学校がある辺りに出たのではないかと思います。下の道は整地されていましたが、風が吹くと砂埃が立ったので、多分舗装はされていなかったと思います。車にも出会ったことはありませんでしたし、バスが通っていたのかどうかさえ分かりません。そこから急坂を下って間坂に出て、市電に乗って帰ったような気がしないでもありません(笑)。何せもう60年近く前の子供の時の話ですから、憶えてませんよね。それに、年々記憶も怪しくなって来てますから。汐見台の工事が始まったのは、このあと少し経ってからだったと思います。それからは磯子の山に行くことはありませんでした。
      岡村のブドウ園は知る人ぞ知るみたいなところがあり、根岸・磯子界隈では山歩きをした人しか知らなかったのではないかと思います。1971年に開かれた小学校のクラス会の時に、たまたま岡村のブドウ園のことを話したのですが、知っている人は誰も居ませんでした。小・中学校の友人から、磯子の山を歩いたと言う話も聞いたことがありませんでした。でも、小学校の友人とは峰の山に行ったことがありました。16号の芦名橋の信号から旧道に向かうと、突き当りの旧道沿いに自転車屋さんがありました。そこの息子さんは私の親しい友人の知り合いでしたが私達より2歳ほど年上で、その人が峰の山に連れて行ってくれました。
      山田谷戸には、一時母の実家がありました。元々母の実家は横須賀の久里浜だったのですが、家の仕事の都合で磯子に越して来たそうです。多分、そこで父と知り合ったのでしょうね。その辺りのことは詳しく聞いたことはありませんでした。父母が生きているうちに聞いておけば良かったと思っています。今となっては、聞ける人は誰も居なくなってしまいました。
      八幡橋の公衆トイレのことは覚えています。八幡橋神社では毎年夏になるとお祭りがあり、夜店も沢山出ました。冷たいものを飲んでウロウロしていると、トイレに行きたくなることもありました。ですがさすがに、あの川沿いのトイレだけは怖くて使ったことがありませんでした。明るい時でも使ったことはありませんでしたから、トイレの中がどうなっていたのか知る由もありません。また、トイレの傍の橋の袂に、大きな流しのようなものがあった記憶があります。はっきりした記憶ではないので私の勘違いかもしれませんが、それは牛馬飲水槽と呼ばれたものかも知れません。今は馬車道に移設されているようです。いつ頃移設されたのか分かれば悩まなくて済むのですが、はっきりした記録は無いようです。
      昔の記憶があやふやになって来ると、たった50~60年前のことなのに何で憶えていないのだろうと思うことがあります。数字の50は大したことが無いように思いますが、50年前は自分は高校1年生でした。それを思うと、50年と言う歳月は途方もなく長いものなのだと実感します。普通は、自分の周りの様子を写真に撮ることは少ないと思いますが、それがあれば正確な記憶を保つことができます。この歳になって今更と言う気もしますが、時ある毎に身近な様子も画像に収めるようにしています。
      今年の夏も例年のように暑そうですね。お仕事がお忙しいことと思われますが、どうぞお体をお労わりください。

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