昔の磯子界隈-禅馬川、芦名橋

By , 2011年6月14日 12:59 AM
1975禅馬川21975禅馬川1

 上の写真2点は、禅馬川の写真です。左側の写真は、磯子小学校前から浜マーケットに通じる路地に入って直ぐのところに架かっていた橋です。この道を真直ぐに進むと、浜マーケットの出口を過ぎ、間坂・汐見台・岡村へと続く旧道の入口付近に出ます。右側の写真は、国道16号線側から見た禅馬川です。私が禅馬川に特別の思い出があるのは、母の実家が直ぐそばにあったからです。
 

1960-01-02禅馬川21960-01-02禅馬川1

 上の2点は、禅馬川のそばで撮った、伯父さん達と父母と弟の写真です。写真の日付は1960年1月2日で、先頭の2点の写真よりも15年以上前のものです。写真の向って左側が禅馬川で、この頃はまだ住宅は少なく、川岸も広場のようになっていました。当時、禅馬川沿いの道は、右側の写真のように、大きな門構えの家で行き止まりになっていました。
 母の実家は、根岸の家から歩いても、子供の足で15分ほどしか掛かりませんでしたから、よく遊びに行きました。左側の写真の右手に数軒の住宅があり、母の実家はその内の1軒でした。伯父さん達はまだ独身でしたが、私達兄弟は本当に良く面倒を見てもらいました。それから数年して、母の実家はすぐ近くの久木町に引っ越しました。

 禅馬川は先頭の写真で見るとおりの川で、昔から生活排水が流されていましたので、決して綺麗な川ではありませんでした。それでも、子供の遊び場としては充分面白い場所でした。台風などで大雨が降った翌日は、必ずと言ってよいほど大きな鯉や金魚が泳いでいましたので、それを捕まえるのに大騒ぎしたことがありました。鯉や金魚は、当時「金魚池」と呼ばれていた、岡村の高台にあった養魚場から流されて来たもののようでした。また、伯父さんが空気銃を持っていて、私もそれを持たせてもらい川石の上のカニやスズメを狙うのですが、上手く当った試しはありませんでした。当時の子供たちは、およそ今の時代では考えられないような遊びをしていたのです。

 禅馬川は、写真の場所を過ぎると、国道16号線の下を通って磯子の海に流れ出ていました。川には簡単に降りることができたのですが、国道下へは入れないようになっていたと記憶しています。近所には、私と同年くらいの子供もいましたが、国道下がどのような様子になっているか聞いたことがありませんので、さすがに地元の子供も近づかなかったのだと思います。もっとも、国道の下は下水口のようになっていた筈ですので、見ても何も面白いことはなかったと思います。

 禅馬川が国道下に入り込む場所には、「紅葉軒(コウヨウケン)」(SATURNO IOMさんからご指摘いただきました。この名前をすっかり忘れていたのですが、思い出しました。「小川ペーカリー」と言うパン屋さんも確かにあったと思うのですが、果たして何処だったのか・・・)と言うパン屋さんがあり、浜マーケットの入り口からそのパン屋さんまでの間には「浜書房」があったと記憶しています。禅馬川を過ぎてもう少し八幡橋方面に行ったところにはパチンコ屋さんもあったと思いますし、夕方は買い物客でごった返していましたので、この近辺は結構賑わっていたように思います。
 
1961-08葦名橋のプール左の写真は、当時芦名橋にあった小さなプールの写真です。写真の日付は1961年8月です。現在も同じ場所にあるようですが、多少形が異なるようです。根岸のマンモスプール(通称)は1965年7月の開園でしたから、磯子界隈のプールと言うと、ここしかありませんでした。足を延ばせば白旗にもプールがありましたが(現在の森町公園プール?記憶が曖昧です)、子供が行くには遠かったため、1~2回行っただけだったと思います。

 根岸・磯子と言えば海の直ぐそばですから、プールではなくて海に行きそうなものですが、私には地元の海で泳いだ記憶がありません。本牧から杉田に掛けて、多くの海水浴場があったそうですが、海水浴場そのものの記憶が無いのです。1960年頃から埋め立てが始まりましたので、私が海で泳げる年頃になった時は、地元の海水浴場は残っていなかったのだと思います。海水浴場の記憶と言えば、近場では、金沢八景・野島・湘南海岸などしかありません。私より4~5歳年上の方であれば、根岸湾の海水浴場で泳いだ記憶をお持ちなのではないかと思います。
 

1960-03横浜新道磯子界隈の話とは全く関係ありませんが、珍しい写真が出て来たので掲載します。
1960年3月、横浜新道戸塚料金所の写真です。横浜新道の開通は、前年の1959年10月でした。この写真は、父が会社の慰安旅行で出掛けた際に撮ったものです。

※先頭の禅馬川の写真2点は「横浜開港150周年記念事業」のホームページより引用させていただきました。
※ブログ中の画像は、他所からの引用ではないもの及び、人物が写っていないものに限り、自由にご利用ください。

6 Responses to “昔の磯子界隈-禅馬川、芦名橋”

  1. SATURNO IOM says:

    はじめまして!私は浜マーケットの近くで1957年に生まれ、1972年まで久木町に住んでいた者です。今年に入って小・中学校(磯子小学校-岡村中学)からの友人とのメールのやりとりにて、歳のせいかみょうに磯子ネタで盛り上がっていました。その最中、「磯子山」の検索ワードからこのサイトにたどり着き、楽しませていただいておりました。私は、いまだかつてブログなどに投稿したことは一度もないのですが、あまりにも懐かしく、感激したので、はじめて書き込みをさせていただきました。

    まず最初にウルウルさせていただいた「磯子の山歩き」について・・・
    私の生家は、窓から見上げるとすぐに磯子山が迫っている浜マーケットの脇にありました。物心ついて最初の頃の記憶として、狭くゴチャゴチャした物置のような庭に、斜めに立てかけてあったタテの簾の上に、四角い枠が並び、その中に海苔が干してあったことをうっすらと覚えています。根岸湾の本格的埋立がはじまる直前だったのだと思います。私の亡き母も磯子生まれの磯子育ちで、子どもだった頃はよく八幡橋の上から水着で飛び込んだものだと言っていました。そんな母は目の前の磯子山のことをダイショ山と呼んでいました(尻もち山という呼び名もあるそうですが・・)。 
    小学校3年(いろいろ問題が起きて2B弾、カンシャク玉、紙火薬が禁止になった頃)からの前出友人との遊び場は、埋立の終わった磯子湾の岸壁であり、磯子山の探検でありました。そうゆう意味では磯子は海も山もあり、子どもが遊ぶのにとても良いエリアだったと最近、思います。 「磯子の山歩き」にて貴兄とそのご家族様が芦名橋あたりから磯子山に上り、畑や田んぼ脇の山道からブドウ園に抜けた道程は、私と友人もよく土曜日の午後に行軍したものでした。もっとも私たちは真照寺脇から磯子山を散策し、出来たばかりの汐見台団地でも遊び、浜小学校裏から旧道に抜けて久木町に帰ってきたのでしたが・・・。ですからアップされている尾根道での母子三人でのショットは本当に感激しました!あの写真をジ~と見ていると、尾根道の奥の方から、拾った枝をブンブン振り回し、こちらに向かって歩いてくる子どもだった自分たちが見えてくるようです・・・。あの写真には目立ったランドマークもなにもない写ってはいませんが、当時の磯子山の尾根道でのショットだと言われると・・・みるみるうちに、あの風景に色彩がつき、風がそよぎ、道脇の草が揺れはじめてくるようです・・・。本当にあの1枚はウルウルもので、勝手ながらダウンロードさせていただきました。お母さんも優しそうですね・・・。あの頃のお母さんはみんなスカーフを頭に巻いていました。あの山道も私が中学校卒業頃には宅地開発によって、見事に整地され、跡形もなくなってしまいました・・・。 
    岡村のブドウ園、磯子プリンスホテル、ひばり御殿(跡?)・・・すべてうっすらと覚えていますが、残念ながら偕楽園だけは記憶にありませんでした。偕楽園というと貴兄が書かれているように海にせり出した造りと関東大震災での惨事が有名らしいのですが、1960年代に入って海は埋め立てられ、私が小学校2年の時に磯子駅まで根岸線が開通したので、もう閉業していたのかも・・・もっとも小学生にとって、かりに料亭があったとしてもまったく記憶に残らなかったのかも知れませんが・・・。

    「禅馬川・芦名橋」について・・・
    これもまた、たいへん懐かしく拝見されていただきました!横浜市の開港記念事業のホムペからの上の2枚は私も見知っていたのですが、下の1960年1月2日のご家族、ご親戚での2枚は!上右のモノクロ写真の奥を行った袋小路でのショットですね!(これは、友人がハッキリと断言しており、右写真の人物バック、どんつきの大きな門構えの家は、日本発条所有で、宴会、会合によく使っていたらしく、よく黒ハイヤーが停めてあったともゆうております。ただ、私と友人の記憶によると、国道16号の脇でちょうど禅馬川の上(架橋の端に建てられたのか?)に浮いて見えたパン屋は「紅葉軒」ではなかったかと・・・・たしかに「小川ベーカリー」という屋号も記憶にはあるのですが・・・・・。そして、浜マーケットの裏から海に流れる禅馬川終点のあのパン屋下の暗渠は、本当に真っ暗で、おいそれと冒険を試みれる雰囲気ではとてもありませんでした・・・・。この禅馬川の河口に近いこの付近では生活排水が流され集まり、当時は相当に臭かった記憶もありますし。上流に染色業があるのか時折、水が真っ青になっていることもありました・・・・。
    芦名橋プールは幼稚園の頃によく行きました。小学校になってからは腰越プールに行きはじめ、その後マンモスプール、本牧市民プールのでっかい施設が次々に出来ましたね・・・。前に書いたように、その頃、浜マーケットの傍にあった自宅では夏になるとマンモスプールではしゃぐ子どもたちの歓声が、磯子山から跳ね返って聞こえてきて、歓声ってここまで届くものかと驚かされたものでした。
    ハナシはそれてしまいますが、自動車評論家の徳大寺氏は幼少の頃、よく芦名橋の脇から16号を通る米軍の車両を眺めていたと何かで読んだ記憶があります。
    横浜新道の戸塚料金所!当時のことは知らないのですが、黒沢明監督の「天国と地獄」の後半に犯人(若き日の山崎努)が潜伏する湘南に警察の捜査員が向かう途中、当時の横浜新道からこの料金所がしっかりと出てきますね・・・。

    「八幡橋・屏風ヶ浦」について・・・
    八幡橋神社へはときどき夏のお祭りで行ったことはあるのですが、残念ながら私はあまり記憶が残っていません・・・が、グーグルのストリートビューで見ると、堀割川沿いの公衆トイレが今も昔のまま?の姿で残っていることに驚かされます。 
    八幡橋幼稚園はいつもマンモスプール、市民プールにチャリで遠征するときに道路脇の足下にある窓から半地下になっていた園内を意味もなくのぞいた(笑)ものでした。
    八幡橋は夏場になるとクラゲがたくさん漂っていて、八幡橋幼稚園の脇から検疫所に緩やかに下る岸壁から、友人と棒でクラゲを突っついたり、川岸に停めてある船の柄杓ですくったりした記憶があります。ちなみにその友人は磯子工業高校卒です!
     八幡橋近くにあった平屋?(二階のようなロフトもあったような?)のデパートについても、すっかり忘れていましたが、このサイトによって、おぼろげに思い出させてもらうことができました。

    とまあ、自分の思い出を重ねて、だらだらと書き込んでしまいましたが、今や東京に住んでいる年月の方が遙かに長くなってしまいましたが、記憶に残る懐かしい風景はやっぱり、いそご!磯子!なのです。

    もし、よろしければ昔の、たぶん?山田八戸と呼ばれる坂、禅馬川に架かる磯小校門前の小橋の画像を送らせていただきたいと思います。わたしもこのサイトの写真から突然!思い出した記憶があり、とても感激しましたので・・・。気が向いたらご連絡いただけたらと思います。

    PS
    昭和の男子なら誰もがうらやむ、超~マニアックな車遍歴にも脱帽です!!

  2. cube-kojima says:

    SATURNO IOM様
    コメントいただき、ありがとうございました。
    本当に懐かしい内容のコメントをいただき、感激しております。あの頃の思い出は、海にも山にも沢山ありますが、文章に表せるほどにはまとまらない、断片的なものが多いのです。ある場面をフッと思い出すのですが、それが何時、何処でのことかとなると、途端に心許くなります。特に、根岸・磯子の海が埋め立てられている頃のこととなると、全くと言って良いほど記憶に残っていません。埋め立て前後の事は何となく憶えているのですが、埋め立て工事が行われている最中はどんなだったのか、とんと思い出せないのです。
     八幡橋から間門に掛けて工事用のトラックが頻繁に走っていたこととか、間門近辺の埋め立て地の様子などを断片的に思いだすだけです。多分、危険だからと言う理由で、家庭でも学校でも、埋め立て地の傍には近づかないように言われていたのだろうと思います。
    子供心には、海が無くなることに対する関心は余りありませんでしたから、どうでも良かったのかも知れません。だからこそ今になって、もっと地元の海を心の中に刻みつけておきたかったと、後悔することになるのです。
     磯子の山も、幼少の頃に両親と歩いた思い出だけで、小学校高学年、中学生になってからは行ったことがありませんでした。ですから汐見台団地ができる過程も、磯子の山や海が無くなって行く様子も知りません。小学校の時の友人が、根岸の馬場町から岡村の笹掘に引っ越したので時々遊びに行ったのですが、その時、汐見台の工事のための車がひっきりなしに走っていたのを覚えています。
     岡村のブドウ園から、下の道に出るのは、どの辺りだったのでしょうね。子供の頃は、現在の浜小学校から旧プリンスホテルへ続く道の真ん中あたりだと思っていたのですが、違いますよね?あの頃は、地図を見てどうこうするわけではありませんでしたから、あくまでその時の様子で憶えているだけなので、大きな勘違いをしたまま記憶していることもあるのだろうなと思っています。ちなみに偕楽園は、現在の磯子駅入り口交差点の際にありました。現在のUR都市機構磯子三丁目団地や磯子アイランドビルのある一角です。その頃、現在の磯子区役所に当る場所には浜小学校があったと思うのですが、市電の停留所があったように思うだけで、学校の建屋の記憶はありません。
     磯子の埋め立て地は、私も鮮明に憶えています。小学校高学年の時、近所の少年野球に入っていて、練習や試合では、現在のIHIがある辺りの空き地を利用していました。また、中学生になってからは、その近辺の空き地でUコン飛行機を飛ばしたりして遊んでいました。ただ、途中の道がどうなっていたのかとなると、途端に記憶が曖昧になります。八幡橋からニッパツの傍を通って行ったのか、磯子警察の辺りを通って行ったのか思い出すことができません。
     ブログに記したとおり、母の実家は禅馬川の傍から久木町に越したのですが、その場所は、磯子小学校前から国道16号線の磯子区役所前に出る細い道(角にフルーツ屋さんがあったと思います)の途中にあった、銭湯のところを入って少し行ったところでした。先にも書きましたように、その時々で色々な場面が思い出されるのですが、それらがどのような順番でどのように繋がるのかがハッキリしません。昔の記憶とはそんなものなのかも知れませんが、今回のように、いろいろなお話をお聞かせいただくことで、鮮明になるものもあるのではないかと考えています。また、機会がございましたら、貴重なお話を是非お聞かせいただきたいと思います。
     もし、御所蔵の写真をご提供いただけるのであれば、つたないブログではありますが、是非とも掲載させていただきたいと思います。別途メールを差し上げたいと思いますので、宜しくお願い致します。

  3. SATURNO IOM says:

    cube-kojima様、突然の大病、そして入院されていたとのこと、その後の体調はいかがでありましょうか。蔭ながらお案じ申し上げます。私もバイクの事故で救急車のお世話になったことはありますが、内臓疾患による入院は精神的にも滅入るものだと思います。ゆっくりと体調を戻し、また磯子の話を他の話題の合間にでもゆるゆるアップしていただけたらと楽しみにしております。

    この春の初め頃から、私と友人T(幼・小・中の同級生)とでISOGOの昔ネタで盛り上がっているわけですが、それぞれ覚えているポイントが違ったりで、お互いの記憶を補足しつつ、記憶の糸をたどっている感じであります。ですからcube-kojima様のこのブログにより蘇った記憶もあり、時々思いつつくままにポイントを絞って投稿させていただこうと思っております。

    まさか!「埋めて地でUコン」というワードが出てくるなんて・・・

    [Uコン!]
    1964年5月に磯子駅まで根岸線が開通していますから、その後しばらくして現在の地図の形に埋立作業自体は終わったのだと思います。ただ、埋立が終わった後数年は空き地ばかりだったことはcube-kojima様の記憶そのままです。とくに根岸線のすぐ海側、現在の東京ガスLPGガスタンクのあたりもかなり長い間、だだっ広い空き地のままでした。そこは時期によっては、まさに池といえるくらい大きな水たまりがいつの間にかできていたりして、その池の真ん中あたりに島のように生えた葦の茂みまで、そこら中の板っきれを集めて小さな筏を作って漕ぎ出し、すぐに沈んでずぶ濡れになったことも楽しい記憶です。
    そんな空き地の中でも十分に広くフラットな場所では大人たちがUコンを飛ばしていて、小学生だった私たちは、遠くから「スゲ~」と指をくわえて見ていたものでした。
    ところが恐いもの知らずのバカ小学生たちは徐々に近づき、Uコンの旋回半径内にまで入ってしまい、危うく頭をペラで吹っ飛ばされそうになって、操縦者とそのお仲間達に怒鳴られた記憶があらためて蘇りました!(笑)でもその時、頭上をかすめたその機体はあまりにも異形だったので記憶に残り・・・それは後年、有名なGee Bee Racer(赤/白塗装の)と知りました。

    [鈴木模型店]
    以前、八幡橋幼稚園の前をよく通ったと書きましたが、それは友人Tとその先(根岸駅方面)にある「鈴木模型店」に足繁く通ったからなのです。本牧市民プールからの帰り(チャリで)プラモデルだけを扱う専門店を偶然に見つけた感激はかなりのものでした!それまでプラモは文房具店の店先の平台で売っているのしか知らなかったのですから・・・・
    ショーウインドー正面にスケルトン仕様のポラリス潜水艦がディスプレイされている店内に恐る恐る入ると、見たこともないような魅惑のプラモたちが店内両側の天井まである棚にギッチリ積まれていて、まるでプチ桃源郷を見つけてしまったような軽い興奮がありました。小一時間以上も色々な箱を開けてはうっとりとし、ポケットに残っていた250円でプラモを買うと、眼鏡をかけて痩身でやさしそうな店主のおじさんは、なんと50円のプラモをオマケしてくれるではないですか!ガ~ン!です。文房具店ではオマケなんかしてくれません。小学生ながらプラモ買うならチャリで鈴木模型店に行こう是!となったのも当然だったのです。当初は当時TV放映されていたサンダーバード-キャプテンスカーレットの登場メカものからはじまり、つぎにレベルの1/72スケールのレシプロ戦闘機そしてタミヤの1/35ミニタリーモデルあたり(中学一年)までお世話になったと記憶しています。もっとも財源は小学生の小遣いですから、そう頻繁だったわけではありませんが。
    ・・・でもその店内の中央ゾーンはガキンチョの世界とはまったく違う大人の世界!
    Uコン&ラジコン?およびそのパーツ類が主役として誇らしげにディスプレーしてあったのです。(たしか!)

    [ということは]
    ・・・cube-kojima様はひょっとして「鈴木模型店」大人の世界の常連ではありますまいか?
    さらに偶然が重なるなら、お知り合いがGee Bee Racer機を飛ばしてはおられなかったでしょうか?あの時に頭を吹っ飛ばされかけた、バカ小学生たちはオヤジになってしまいましたが、まだ生きております(笑)
    しかし、残念ながら・・・その鈴木模型店は最近店を閉めてしまったと友人Tから聞きました・・・

    だらだら書いてしまいました。
    送らせていただこうと思っている画像は別途メールにて送らせていただきます。

    • cube-kojima says:

      SATURNO IOM様
      コメント頂戴し、ありがとうございます。
      バイクの事故で入院された経験をお持ちとの由、私も、あと少しで救急車のお世話になるようなバイクの事故は、何回か経験しています。幸い何れの事故も、バイクのひどい壊れ方の割に怪我の程度は軽く、肋骨にヒビが入ったのが最も重い怪我でした。高校1年生の時に必修科目として習った、柔道の受け身が役に立っていたのかもしれません。今回のことで良く分かったのですが、怪我にしても病気にしても、入院するとなると気が滅入りますよね。

      磯子界隈の記憶は、また古い写真が幾つか出て来ましたので、内容がまとまったらブログに掲載したいと思います。今回、別便でお送りいただきました写真や地図などの資料、そして付記していただきましたコメントは、正に感激ものでした!。私はと言えば、「昔の磯子界隈」と題して記事を書いておきながら、そこまでの資料集めはしていませんので、正に頭の下がる思いです。また、いただいた写真にはSATURNO IOM様とご友人の方が写っていますので、このままブログに掲載することはできませんが、個人として所蔵しているだけでは惜しい資料だと思います。ご友人の方との検証を元に、いっそのこと、ご自身のブログを書いてみてはいかがでしょうか?。私は、SATURNO IOM様と同じくISOGOには特別な思いを持っていますので、そのようなブログができることを心待ちにしている一人です。

      ところで、いただいたコメントですが、ちょっと期待外れのお答えとなってしまいそうです。

      [Uコン!]
      私はその頃、中学1年生のガキんちょでしたから、とてものこと、大々的にUコンを飛ばすことなどできませんでした。飛ばしに行っても、空き地の片隅で、皆さんの邪魔にならないようにしているのが精いっぱいでした。ただ、大人の皆さんは親切で、分からないこと、困ったことがあると、いろいろと助けてくださいました。面白かったのは、Uコングループとラジコングループがあり、利用する場所も雰囲気も、それなりに異なっていました。勿論、お互いに仲が悪いわけではなく、Uコンもラジコンも両方飛ばしていた人も何人か居たようです。ですから、夫々の皆さんの地元の模型店では、和気あいあい、大いに盛り上がっていたのではないかと想像できます。私は中学2年になると、本格的にアマチュア無線にのめり込むようになり、Uコンは過去の趣味となってしまいました。ですから、Uコンを飛ばした空き地がいつ頃まで残っていたのか、記憶が定かではありません。

      [鈴木模型店]
      すずき模型店が磯子にできたのは、昭和43年(1968年)とのことでした。場所は磯子区原町12番で、私の家は原町4番にありましたので、道路を渡って直ぐのところでした。ちなみに私の家は、「関東病院」の裏手にありました。ただ、その頃私は高校生になっていて、ブログにも書いたとおり、アマチュア無線と並び「バイク」にも夢中になっていました。ですから、模型屋さんがあることは知っていたのですが、模型やUコン、ラジコンが趣味になることは無く、一度もお店に入ったことはありませんでした。すずき模型店があった一角は、中学の同級生の家があり、並びの床屋さんや衣料品店がそうでした。

      [模型]
      話は前後しますが、小学校から中学初めに掛けて、私も模型作りに夢中になっていました。ただその頃は、SATURNO IOM様のコメントにもあるとおり、近所に本格的な模型店はありませんでした。私の記憶にある模型店と言えば、伊勢佐木町か中村橋商店街の中にあった模型店(日光模型)だけです。伊勢佐木町の模型店(オモチャ屋)は、ヘビ屋さん(まむし酒などを売っていた)の隣りにあったと思います。中村橋商店街の模型店は、商店街のまん中くらいにあったと思います。何れのお店も、名前は忘れてしまいました。小学校高学年の頃は、スロットカーがブームになっていて、私も単に作るだけの模型から動く模型に興味が移って行き、上記の模型店には、より足繁く通うようになっていました。スロットカーは、小学生が趣味とするにはお金が掛かり過ぎましたが、他の欲しいものを全て犠牲にしても良いくらい面白いものでした。今のラジコンカーなどと同様に、ベアシャシーに自分の好みにペイントしたボディを被せるのですが、今で言う「オタク」の世界もしっかりあって、モーターを巻き直して強化したり、このシャシーにはどの銘柄のタイヤが合うとか、チビッ子なりにいろいろと情報を集めて試したりしていました。スロットカーのサーキットは、確か、関内の文化体育館近くにあって、時々走らせに行きました。ただ、利用料金が高く、小学生のお小遣いでは、月に1~2度行ければ良い方だったと思います。この時の、動くものを自分で作ると言うのが、後のUコンやアマチュア無線の通信機製作などに繋がったのだと思います。そう言えば、子供の頃は「関内」と呼ぶことは無かったと思います。「伊勢佐木町、尾上町、浦舟町、長者町、本町」などと、市電の停留所の名前で呼ぶことがほとんどで、「関内」と言う名称を使い始めたのは、根岸線が磯子まで開通してから後のことだったように思います。

      [ということで・・・]
      残念ながら、すずき模型店で、子供の頃のSATURNO IOM様とお会いすることは無かったと思います。でも、何処かですれ違っているのではないでしょうか。SATURNO IOM様の生家のことや、引っ越しされたこと、浜マーケットのことや周辺の様子などをお聞きする都度、忘れていた記憶が蘇ります。引っ越された先で、ご両親がお店を開かれたとお聞きしましたが、そのお店の前辺りに「貸本屋」さんがありました。お店を開かれた当時も貸本屋さんだったかは分かりませんが、あの辺りのお店に何度か行った記憶があり、果たしてそれが何屋さんだったのか思い出せずにいました。資料として送っていただいた地図に、「貸本」と書かれていたのを見つけた時、あの頃の情景が蘇るのを感じました。また、浜マーケットの入り口近くにあった精肉店のチャーシューが美味しかったことや、マーケット中頃にあった「旭屋?」と言う名前の靴屋さんのこと、そしてマーケット出口近くにあった「室ノ木公園」など、一気に懐かしい思い出が噴き出して来ました。浜書房も「ハマ書房」だったこと、そしてパチンコ屋さんの名前が「テキサス」であったこと、「オガワベーカリー」が何処にあったかなど、感涙ものの情報でした。(笑)

      私の母の実家の事や、磯子周辺の親戚のことなど、別メールでお知らせしたいと思います。まだまだ、蘇っていない記憶がいっぱいあると思いますので、これからも宜しくお願い致します。

  4. hirasawa says:

    仕事で地域の地質情報を検索していた際に、
    禅馬川の存在を知り、
    埋め戻される前の禅馬川の情報検索で、
    こちらを訪問させて頂きました。

    また、禅馬川の検索で、
    磯子区のHPから、
    磯子地域の昔の写真のデジタル版が
    ヒットし、
    その中に
    「紅葉軒」の写真がありましたので、
    ここに記載させて頂きました。
    http://www.city.yokohama.lg.jp/isogo/kusei/koho/pictures/digi-pictures.html

    • cube-kojima says:

      hirasawa様
      コメントいただき、ありがとうございます。暗渠化される前の禅馬川の情報を調べられているとの由、大変ご苦労の多いことと思われます。一時、母親の実家が禅馬川の傍にあった関係でブログに掲載しましたが、何らかのお役に立てていれば嬉しいです。古い資料を集めるのは大変な作業と思われますが、どうぞ頑張ってください。

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