昔の磯子界隈-八幡橋、屏風ヶ浦

By , 2011年6月9日 10:00 PM

 私は、自己紹介のページに書いたとおり、横浜市磯子区(根岸)の生まれです。
家庭の事情で、25歳の時に横浜市栄区(当時は戸塚区)に引っ越しました。磯子に住んでいた年月より、今の所在地で過ごした年月の方が長くなってしまいましたが、小さな頃から、多感な青春時代までを過ごした磯子の思い出には、忘れ難いものが多くあります。

 しかし先日、両親の撮り貯めた写真を見ていた時に、私の中では既に忘れてしまっているものが多いことに気付きました。昔は確かに記憶していたことが、今はぼやっとしか思い出せないのです。この記事に書き留めた内容も、あと10年もすれば忘れてしまっているかもしれません。そんな危機感もあって、思い出すままにブログに残して行こうと考えています。
 
八幡橋幼稚園 八幡橋には、私が通っていた「八幡橋幼稚園」がありました。左の写真は1958年頃の写真です。今でこそ、ビルになっていますが、昔は木造の小さな幼稚園でした。園庭が余り広くなかったため、川沿いの道や、動物検疫所との間にあった広場が、外での活動の場でした。直ぐそばには掘割川が流れていましたが、悪戯をしたりして先生に怒られると、両足を持たれて川の上で逆さ吊りにされたりしました。今、そんなことをしたらどのような問題になるか分かったものではありませんが、あの頃は、先生も園児も承知の上で、それを楽しんでいたような気がします。

 雨の日は、外での活動はありませんのでずっと教室に居るのですが、傘をさして外の歩道を行く人の姿を、何故か良く憶えています。またそれぞれの時節には、全園児で直ぐ前の「八幡橋神社」に行ったのも憶えています。ただ惜しいことに、その頃の私は病弱で一年の内の半分程度しか通園しなかったため、幼稚園での思い出はあまり多くありません。

 私の祖母方の親戚は根岸の漁師で、幼稚園の対岸には大伯父さんの船を係留していた河岸があり、時々漁船で掘割川の河口沖まで連れて行ってもらったりしました。祖父が魚を大好きだったこともあり、漁があった日は毎回、祖母はこの河岸に行って獲れたての魚を仕入れていました。時期によって獲れる魚の種類は違うのですが、シャコ、カレイ、ヒラメ、アジ、サバなど、毎日必ず煮魚か刺身が食卓に載っていました。どちらかと言うと魚が苦手だった私は、シャコを茹でている臭いや魚を煮ている臭いに閉口したものです。この河岸の跡は、今もしっかりと残っています。

 この頃は、埋め立てにより根岸がダイナミックに変化して行った時期なのですが、まだ小さかったためか、曖昧な記憶しか残っていないのが残念です。
 
1972年八幡橋 左の写真は、1972年1月の八幡橋です。市電が写っていますが、この年の3月一杯で廃止されました。この写真に写っているパチンコ店ですが、私がまだ小さな頃(1956年頃)、ここにはデパートがありました。このデパートには玩具売場があり、陳列されていた玩具を良く眺めていたことを憶えています。また、その手前にある写真屋さんは「横山写真店」と言ったと思いますが、写真の趣味が高じた高校生の頃、良く通ったお店でした。パチンコ店の向こう側の大きな建物は「バブコック日立」と言う会社の建物です。私は1977年に引っ越したため知らないのですが、この会社は1999年まで、この場所で操業していたそうです。

 私は、小学校、中学校とも地元の学校に通いましたが、高校は金沢八景にある学校に進学しました。金沢八景まで通うのですから、屏風ヶ浦か杉田で京浜急行に乗ることになります。高校に入学する前年の1967年まで、市電は杉田まで行っていたのですが、その年の内に芦名橋止まりとなり、京浜急行の駅まではバスで行くことになりました。その頃のバスは車掌さんが居て、ある時、中学で同級生だった女の子が車掌さんになっていて、随分大人びて見えたものでした。市電が健在だった当時は、何処に出掛けるにも市電に乗ることが多かったので、最初の内は、バスに乗ることが新鮮に感じられました。

 高校への通学は、杉田(聖天橋)までバスで行って、京急杉田駅から電車に乗っていたのですが、通学時間短縮のため屏風ヶ浦駅から乗ることに変更しました。杉田駅までは商店街を抜けて行ったので、その様子に今と大きな違いはなかったと思いますが、屏風ヶ浦駅の周辺は大きく変化しました。私が高校に通っていた頃は、細い片側1車線の道路があるだけで、雨の日などはぬかるんで大変歩きにくかったことを憶えています。その細い道は、今も少しの距離だけ残っています。時々車でそこを通ることがありますが、こんなに細い道だったんだと思うと、隔世の感があります。この道は、屏風ヶ浦から栗木(打越)に抜ける道だったのですが、その細さが影響してか、車の台数が増え始めた頃からは、いつも渋滞していたように思います。

 この道は、屏風ヶ浦駅前を過ぎたあたりから丘を登る様な感じになっていて、坂の頂上付近で道が枝分かれしていました。左側の枝道に進むと、その先には「磯子工業高校」がありました。私が中学生の頃、この高校のアマチュア無線クラブを見学させてもらったことがあり、その影響もあってか、この学校に進学しようと考えていました。将来、プロの無線技術士の資格を取り、それを職業としたいと思っていたのですが、母親の反対に遭い普通高校に進学したのでした。無線技術士の資格は、2級ですが、大学に行ってから数年掛かりで取得しました。調子に乗って無線通信士の資格取得にも挑戦したのですが、こちらは予備試験に合格した時点で熱が冷め、そのままになってしまいました。苦労して取得した資格ではありますが、現状、何の役にも立たないのは大変残念なことです。

※八幡橋の写真は「横浜開港150周年記念事業」のホームページより引用させていただきました。
※ブログ中の画像は、他所からの引用ではないもの及び、人物が写っていないものに限り、自由にご利用ください。

101 Responses to “昔の磯子界隈-八幡橋、屏風ヶ浦”

  1. いずみこ says:

    八幡橋幼稚園の懐かしい写真に目が留まりました。わたしはここの幼稚園出身で、
    中学も、高校もすぐそばです。今は昔の面影はなく、カラフルなビルを見ては
    ため息が出ます。川崎に嫁ぎましたが、母が磯子に居ますので根岸線から時々懐かしい界隈を眺めます。下の1972年頃の写真にある、昭和47年型サニーを今も主人が大切に乗っています。

    • cube-kojima says:

      いずみこ様
       コメントありがとうございます。八幡橋幼稚園に通われ、すぐそばの中学・高校を卒業されたとの由、大変懐かしく読ませていただきました。今は川崎にお住まいとのことですが、生まれ育った地を離れて暮らしていると、昔への懐かしさもより一層増すのではないでしょうか。磯子へは時々お帰りなる機会があるようですので、羨ましく思います。私の方は、今となっては父方の親戚が残っているだけで、磯子に戻る機会は殆どありません。時々、自分が生まれ育った家の辺りを歩いてみたいと思うのですが、なかなか実現できずにおります。
       また、ご主人様が47年型サニーにお乗りになられているとのことですが、これも大変懐かしい気持ちになりました。私も短い期間でしたが、サニー1100に乗っていた時がありました。排気量が小さい割にはキビキビとした走りができ、エンジンの吹き上がりもスムーズで燃費も良く、車好きの人に好まれたように思います。これからも、どうぞ大切になさってください。

  2. アッキ says:

    こんにちは  私は1967 年 横浜 根岸生まれです。40年ほど前まで住んでいました。横浜で初めてエレベーターが入ったマンションで駅から徒歩3分ぐらい 今思えば、素晴らしい環境でした。夕方 マンションの階段や屋上から富士山のシルエットを眺めたものです。その後、家族で千葉に移住、今は私も家族を持ち茨城県に住んでいます。数年前 家内と2人の子供たちに住んでいたマンションや八幡橋幼稚園、根岸小学校 競馬場(今は森林公園でしょうか)等を見せました。幼稚園はビルになっていましてショックでした。まさに1972年の写真は私が幼稚園に通っている時代の風景ですね・・感激です
    この辺に「はま」という市場のようなアーケードがあったとおもいますが・・子供らをつれて来た時ははわかりませんでしたが・・幼い私の手を引いてよく母が連れて行ってくれました・・その母もすでに他界しておりますし、かつて住んでいたマンションの人たちもみんな引っ越してしまい、あの時代は心の中だけとなっております・・たまらない溢れ出る懐かしさにかられコメント致しました。

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      コメントをいただきありがとうございます。
      根岸駅近くのマンションにお住まいだったとの由、思わず懐かしさが込み上げて来ました。

      根岸線が磯子まで開通した1964年当時、根岸駅前は一面の野原でした。
      その後暫くして、トヨタの研修センターや日石関係のビルが建ち、それから駅前に、マンションが建ち並んだように記憶しています。
      その頃は、まだマンションが珍しい時代でしたから、近代的でセンスの良いマンション群には、羨望の眼差しが向けられていたように思います。

      幼稚園は八幡橋幼稚園に通われていたとのことですが、道路向こうにある八幡橋神社への参詣は行われていたのでしょうか。
      そんなことを思い出していると、一気にタイムスリップしたかのような気になります。
      40年と言う年月は、長いようで、本当にアッと言う間に過ぎ去ってしまうものですね。

      根岸には、6歳頃までお住まいだったようですが、周りのことを良く憶えておいでですね。
      「ハマ」と書かれたアーケードは、恐らく「浜マーケット」のことだと思います。
      八幡橋幼稚園よりもう少し先で、根岸駅前から行くにはちょっと距離があります。
      1972年頃でしたら、浜マーケット周辺は、かなり賑やかだったのではないかと思います。

      1972年と言えば、私は大学に通っていた頃で、毎日のように根岸駅を利用していました。
      電車が来るのを待つ間、目に入るのは目の前のマンション群と、旭台の丘の上に建つマンションでした。
      いつか住んでみたいなぁと、漠然と考えていたことを思い出します。

      今でも時々、仕事帰りに本牧から八幡橋に向けて走ることがありますが、間門を過ぎたあたりで、真正面に大きな富士山を見ることがあります。
      現在、私の住んでいるところからも富士山は良く見えますが、予想外の場所から富士山が見えると、自分のいる位置が一瞬分からなくなります。
      晴れていれば、富士山は大抵の場所から見ることができます。流石に、日本一の山です。(笑)

      根岸は、私の父母の地元でもありましたから、親戚やお世話になった方達が沢山いました。
      その方たちは、今や殆ど他界されていて、最近は家どうしの付き合いもありません。
      幸い父母は健勝ですが、昔のことを聞いても、あまり憶えていないようです。
      父母より25歳も若い自分が忘れかけているのですから、憶えていなくて当然かもしれません。
      一抹の寂しさを感じますが、幼少期の思い出は、正に、自分の心の中にだけあるのでしょうね。

      そんな気持ちがあり、このブログを書いていますが、また気が向いた時にでもお読みいただければ幸いです。
      昔の話は、最近ネタ切れですが、何か思い出す度に、新たな記事を書いて行きたいと思います。
      これからも、どうぞ宜しくお願い致します。

  3. アッキ says:

    お返事ありがとうございます。cube-kojima さまのブログを読んでいましたら、あたかも「三丁目の夕日映画」をみているのに近い感覚にさせてくれます。ブラジル領事館?のようなもの(根岸中学の近く)で、バスが出る時、蛍の光の音楽が流れ、幼い私が祖母に言われるまま手を振ると、涙ながしながら私に手を振り返してくれた人たち、根岸小学校のそばの洞窟から流れていた湧水、小学校わきより山を登ったところの外国人の家、父とよく一緒に乗ったレンタル自転車(確か専用車道)根岸小学校で3時間目の終わる休み時間に幼稚園からの友人 坂本君と会う約束をしていたのに、引っ越しの車が来るからと2時間目で サヨナラ も言わないで出てしまった後悔・・ 遠い日の記憶・・・・共感させて頂き、感無量です。今後 も是非 記事を下さい!!!!

  4.  久しぶりです。八幡橋のデパートのことが書いてあったので、(そして、デパートの名前がかいてないので)コメントすることにしました。
    私も何回もこのデパートに行っているはずです。しかし鮮明に記憶にあるのは、父と一緒に弟の五月人形を買いにいったことです。私はまだ3歳にはなっていなかった。買ったのは桃太郎の人形でした。
     このデパートは「野沢屋」です。野沢屋は伊勢佐木町が米軍に接収されたため、伊勢佐木町の店舗が使えず、八幡橋に店を開いていたようです。接収が解除され伊勢佐木町の店が開かれたのは昭和31年頃だったと思う。ちなみに有隣堂も伊勢佐木町で営業できず、桜木町(少しあとには野毛大通りと名前が変わった市電の停留所の近く)のビルに入って、こちらは2階まで使って営業していた記憶がある。
     
     磯子の海水浴場にも何回か連れて行ってもらいました。私が5歳ぐらいの時の写真もあるのですが、人物ばかりが目立って、(おまけに、当時は当たり前だったのでしょうが、従姉が上半身裸で写っていることもあり)少なくとも「みんなでつくる横濱写真アルバム」に投稿できるような写真ではありません。
     海水浴場は三渓園にもありました。kojimaさんは掘り割り川を走っていた「ぽんぽん蒸気」をご存知ですか。小さなディーゼル船のことをこう呼んでいた気がします。この船は汚猥を積んで東京湾外に海洋投棄していたのではないかと思います。この船が三渓園置きで沈んだとかいうことで、「今年は三渓園で泳いではいけない」とみんなが言っていたのを思い出します。
     天神橋から八幡橋に向かう横須賀街道に関しては、米軍の戦車がひっきりなしに走っていったのを覚えています。天神橋の横須賀街道の縁で戦車の列を眺めていました。朝鮮戦争で、横須賀から朝鮮に運び出したのでしょう。1952年生まれではこの記憶はないでしょうね。
     岡村のぶどう園はあまり記憶にありません。私の遊ぶ範囲はせいぜい天神橋から岡村天神まででした。中久保に小学校(関東学院三春台)の同級生住んでいたので、何回か遊びにいったことがあります。その友達の家が家並みの最後で、そこから先は田んぼでした。小学校高学年から中学の頃は何回か笹堀の方から未舗装の田舎道を自転車で磯子の丘の上にこぎ上がりました。宮様の別邸が道の先に見える、それが目印でした。緩く上って行く道の右側に田んぼと小川があり、途中で自転車を止めては小川の様子を眺めました。磯子の丘の上からは磯子旧道の急坂(こちらは舗装されていた!)を自転車で一気に(ブレーキはもちろんかけますが)下るのが楽しみでした。  

     まだ続きがあるかもしれません。

  5. ZEPHER says:

    まだこの書き込みは、続いているのでしょうか。
     さて、おどろきました、ほんとに。なんとも懐かしい「八幡橋幼稚園」が、しかも、建て替えられるまえの園舎がです。私は、この幼稚園には、昭和24年から2年間かよいました。もう、卒業してから60数年経過しているので、たぶん、みなさんより、少し歳上です。八幡橋ー間門の道路を緩やかに下った道(当時は、舗装もなく、両側は草がしげっていて、バッタもいました)の左側に、入り口があり、進んでゆくと玄関がありました。左側は、やや大きな遊戯室、右側は、たしか、長椅子なんかがおいてあったような気がします。
     先生で名前を憶えているのは、副園長先生だった「うちだ」先生。紙芝居もたのしかった。とくに、幼稚園での強烈な記憶は、あの給食に出た、粉ミルク。たぶん、アメリカからのララ物資とかいうのでしょうか。庭には、大きなドラム缶があって、その中にぎっしり、固まって入っていました。その匂いが独特で、私は、全く飲む気がしませんでした。ひそかに、隣の子に飲んでもらっていました。
     幼稚園でほかになにをしていたかなんて、もう、すっかり忘却のかなた。川を
    行き来する、ポンポンと音のする小さな船を眺めていたり、たまには、動物検疫所の中に連れて行ってもらったりしていました。卒業式のまじかに桜木町近くのどこかで、「かわいいかわいいさかなやさん」を3人で踊らされた(写真も残っています)のを覚えています。それに、向かいの八幡橋神社にもよくゆきましたね。
     でも、よくまあ、こんな写真が残っていましたね。そのほかにも、根岸の飛行場など、なんとも、ほんとに懐かしい。私の小さなころには、根岸の海はまだまだ埋め立てられては、いませんでした。よく海に遊びにゆきましたが、そのあたりのことは、またいずれ。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      コメントいただき、ありがとうございます。最近、ほとんど更新していませんが、何とか生きております(笑)。八幡橋幼稚園のご記憶に、感嘆致しました。こんなに細かいところまで鮮明に覚えていらっしゃるとは、まさに驚きです。私は小さな頃は病弱で、幼稚園は一年のうちの半分ほどしか通っていなかったと思います。その中で記憶に残っていることをブログに書きましたが、殆ど覚えていないと言った方が良いと思います。幼稚園の写真は、この他に先生方が写っているものがあります。4歳年下の弟もこの幼稚園に行っていましたので、先生方の写真は私のものか、弟のものか判然としません。自分がお世話になった先生を覚えていないのですから、話は進みませんよね。それと、根岸の海のこと、「よく遊びに行かれた」との由ですが、もう興味深々です。埋め立てが始まった頃、私は小学校2年生でした。そんなこともあり、根岸の海についてはあまり記憶が残っていません。根岸の海では、三景園下の海岸で、何回かアサリ取りをした記憶があります。勿論、根岸・磯子の海水浴場の記憶はありません。埋め立て前のお話をお聞きできれば、記憶が蘇る?ことがあるかもしれません。お時間のある時にでも、またご投稿いただければ幸いです。

  6. ZEPHER says:

    温かく仲間に入れていただき、ほんとにありがとうございます。八幡橋幼稚園は、やさしい心を持つ子供になるような教育をしてくれたのでしょう。
     八幡橋幼稚園の経営者のことですが、当時、あるいは、もっと後まで、「ひらなか」さんという一族が経営しておられたような気がします。今は、ある学校法人になっていて、その法人は、ほかに幼稚園、専門学校を擁しているようです。いつごろ、元の園舎があんなに立派な、大きな建物になったのでしょうか。経営者が変わったころなのでしょうか。なお、八幡橋幼稚園は、開園は昭和8年ですから、かなりはやかったのですね。
     もうすこし、思い出話ですが、通園にはバスケットなるものを下げて、お弁当を入れていました。お弁当は、冬は、左側にあった遊戯室の石炭ストーブの上に載せて温めから食べていました。食べる前の手を合わせ、2本の親指と人示指の相手方岡村豪哉仇に箸を挟んで、「おとうさん、おかあさん、いつもお弁当をありがとうございます。」なんて唱えてから食べていました。あの箸の流儀は、他では見られないやりかたで、小さいころに、相続人とその家や、小学校はじめころ、そんな風に食事前にすると、笑われましたね。いたずらをしても、川にさかさまにぶら下げられるような、先生は当時はいませんでした。きっと、威勢のいい、若い先生がその後入ってこられたのでしょう。
     なお、もう絶版になっていますが、寺田透という方の「わが井伏鱒二・わが横浜」(講談社文芸文庫)の、113ページに次のような記述があります。
    「学生が肋膜炎にかかり、一家で転地療養のために八幡橋のたもとに転居した。そこへ、西戸部から訪ねて行ったことがある。その頃は市電は磯子まではきていなかった。・・・・・(そこのうちから)外に出て遊ぼうと言って木戸を開けると、その外は、すぐに深い砂浜で、笹に砂がもつれてつもり、堀際は、小さな砂丘のようになっていた。正確な場所の記憶はないのだが、磯子から根岸の方へ橋(まさに八幡橋・・と思われる)をわたって、すぐ左の神社の鳥居からそう離れていないところだった。」                                    寺田さんは大正4年の生まれなので、たぶん、大正10年ころでしょうか。我々の八幡橋幼稚園のあったところは、海の砂浜のすぐそばで、その海側には何も埋立地もなかった、千葉市まで、ずっと見はるかす広々とした海があったようです。それに、飛行艇の基地になった通称「根岸飛行場」は、」昭和15年に完成されていますから。どうでもいいようなことですが、そんあ時代もあったのですね。この寺田さんお本には、かなり昔(かなりの戦前の時期)の横浜の磯子あたりのことがまだ書かれています。またご紹介いたします。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      コメントいただき、ありがとうございます。八幡橋幼稚園のことですが、いつ頃今の建物になったのか、私も知りません。私が根岸から栄区に引っ越す前までは、旧来の園舎だったと思います。引っ越してから既に37年余りが経過していますので、今、磯子近辺に行くとその変貌ぶりに驚きます。八幡橋神社の境内も、私たちが子供だった頃とは、随分様変わりしているようです。私がまだ小学生の頃、神社の境内には踊り舞台があって、お祭りや盆踊りの時は、そこで楽奏がされていました。いつの間にか舞台は無くなりましたが、大きくなるに連れて神社に行く機会は無くなったので、いつ頃撤去されたのかは分かりません。社の裏側は、木々が立つ苔むした感じの庭でしたが、今は違うようですね。幼稚園の話に戻りますが、川の上で逆さ吊りにされたのは、「悪戯ばかりしているとこうだからな!」と、半分冗談のような感じだったと思います。勿論、その先生は男の先生でしたが、あの頃、女の先生も気の強い人が多かったように思います。小学校の6年間は、全て女の先生が担任でしたが、気が強いと言うよりも「怖い!」と感じる先生ばかりでした。根岸の海については、昭和以降の画像や写真は多くあるのですが、それ以前の資料となると、なかなか有りません。そのようなわけで、ご紹介いただいた「わが井伏鱒二・わが横浜」を是非読んでみたいと思い、探してみました。Amazonで中古本が販売されていましたので、早速注文しました。貴重な資料をご紹介いただき、ありがとうございました。ちなみに、昭和9年の根岸近辺の地図を見ると、動物検疫所と根岸水上飛行場になる場所、そして現在の根岸駅辺りが埋め立てられています。それ以外は、全て海です。これらの埋め立てが始まる前は、全て砂浜だったんですね。そう言えば磯子近辺も、電車道から向こうは埋立地ですよね。その頃の写真でもあったら、是非是非見てみたいものです。こんな昔の情景が分かるのは、そのような記録や書籍が残っているからですよね。今の時代、昔に比べて記録を残すのは遥かに安易ですから、自分の日常の風景のようなもの、周りの建物とか、道路とか、季節の行事とか、いろいろなものを残しておきたいと考えています。自分の孫やその子供が50年後に、うわ~こんなだったんだ!とでも感じてくれれば、嬉しいかなと思います。

  7. ZEPHER says:

     昭和9年には、検疫所、根岸飛行場、根岸駅あたりがすでに埋め立てられていたわけですね。
     八幡橋神社は、幼稚園を出た後も、お祭りで毎年出かけました。幼稚園側の正門の右手に部隊がありました。お祭りのときに、お神楽の舞をやっていましたが、子供には面白くもなかったので、露店で、金魚すくいなどをしていました。たしか、根岸神社のお祭りが、8月14日、15日 ついで、八幡橋神社が16日、17日で、連続して楽しい思い出があります。しかしです、八幡橋神社のお祭りが終わると、秋風が吹き、オーシーツクが盛んに鳴きはじめ、夏休みの終わりの近いことが、ひしひしと感じられ、ああ!宿題!やってない!って、焦り始めるのです。
     八幡橋神社の堀割川側の入り口の幼稚園よりの、石の柱の塀の真ん中の石柱が、一部見事に折れていたのを私はありありと覚えているのです。なんで、そこだけが壊れているんだろうと不思議に思っていました。その後、修復されましたが、「本牧ララバイ」(樋口修吉著・講談社・1988年発行)302ページに「大型のアメ車は、根岸に向かう道へのカーブを曲がり切れず、八幡神社の石垣に激突した。」書いてあるのです。これには、「ぶっ飛んだあ!」って感じでした。えっ!そんなこと知ってた人が、ぼく以外にもいたんだあ!この本は、別に大した本とは言いかねるのですが、横浜を舞台に、戦後の妙に自由な明るい一時期を描いたドタバタ的な本ですが、このくだりには、ほんとにびっくりしました。著者は、横浜出身ではないのですが、いくつかの都市を舞台に細密に地理的な書き込みをする人で、私は、この本以外には、読んだことはありません。
     こんなどーでもいいことにこだわるのは(寺田さんの同じようなことを言っています)、どうかと思いますが、ここは、そういう方々が集まるところと思って、初めて披露するのです。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      コメントいただき、ありがとうございます。
      八幡橋神社のこと、懐かしく読ませていただきました。お祭りの日付とか、根岸神社の次が八幡橋神社のお祭りだったとか、本当に良く覚えていらっしゃいますね。確かに、お祭りが終ると、夏休みももう直ぐ終りと言う感じでした。一般の家にはクーラーなんて無い時代ですから、毎日、ただただ暑かった感じが残っています。
      お祭りと言えば、八幡橋神社のお祭りに山車が出たことを覚えていらっしゃいますか?。今の消防器具置き場のところに、山車を仕舞っておく背の高い小屋があり、その隣には小さな鐘楼が建っていたと思います。私が小さかった頃の記憶として、山車が電車道を根岸方面に向かって引かれて行く情景が残っています。写真も何処かにあったように思いますが、見つかりません。父親が健在の内に、もっといろいろなことを聞いておこうと思っているのですが、なかなか機会が掴めないでいます。
      それと、門柱が折れていたことがあるとのことですが、私の記憶には残っていません。私が神社に遊びに行くようになった頃には、既に修復されていたのではないでしょうか。
      根岸神社のお祭りですが、私は行ったことがありません。通っていた小学校が隣だったのですが、学校の帰りに石垣を登ったり降りたりして遊んだ記憶しかありません。八幡橋神社以外のお祭りと言うと、坂下公園とか磯子の浜のお祭りなどには、ほとんど毎年通っていました。ただ残念なことに、もう50年近く前のことですし、その日暮らし(笑)のような遊び呆けた毎日を送っていたので、肝心なことをあまり覚えていません。
      それにしても、いろいろな本を読まれているのですね。本を読むことは、自分の記憶を確認できたり、知らない知識を得たり、さまざまな効果がありますよね。私も、本はよく読む方ですが、自分の興味がある本しか手にしないので、偶然の出会いみたいなのがありません。最近では、本は通販で買うことが多いのですが、久しぶりに本屋さんに行ってみようかと思います。
      昔の記憶のメモ帳みたいな感じで書き始めたブログですが、皆様から貴重なコメントをいただき、当初から比べれば、遥かに厚みのある内容になってきたと感じています。ただ、当の本人が一向に新しい記事を書けないので、本当に申し訳なく思っています。野毛にある中央図書館に行って古い地図でも見れば、何か思い出すかなと期待はしているのですが、今のところ実現できていません。とは言うものの、自分の記憶に無いことは書けませんので、皆様からのコメントが頼りのような処もございます。
      またお時間のある時にでも、コメントいただければ幸いです。

  8. ZEPHER says:

    cube-kojima様
     八幡橋神社の山車のことは、私は記憶がありません。たしか、お神楽の舞をする奥の建物の中にお神輿が安置してあったことは、覚えていますが。

     私は、生まれは横浜中区の本牧でした。しかし、私が1歳少しの昭和20年5月29日横浜大空襲があって、本牧の私の家は跡形もなく全焼しました。この時、私は、母の背中に背負われて、猛火の中を逃げまどったのですが、火災の熱気で足の後ろ側にひどい火傷を負いました(いまでも、ひどいケロイドが残っています)。ほとんど死んでいてもおかしくなかったのですが、いくつかの奇跡的な幸運が重なり一命をとりとめました。

     横浜大空襲の際のアメリカ軍が撮った写真には、もうもうと煙をあげる本牧付近も写っています。(有隣堂の「横浜大空襲」の写真、ネットにも、同じ写真がでています。)ついでに、言うと、このときの空襲では、サイパン島等から来襲したB29は、なんと515機、硫黄島から援護のためにきたP51が101機で、如何に規模が大きかったがわかります。約3650人が亡くなっています。3月10日の東京空襲では、300機のB29で、10万人がなくなっていますから、東京の場合は、よほど不幸な条件がかさなったのでしょう。
     
     そんなわけで、ようやく根岸の坂下公園ちかくのやや根岸小学校よりのところに居を移し、私が物心がついたのは、あの山の下でした。場所柄、根岸神社の氏子になるわけで、お祭り、山車なども、基本的には、根岸神社が私のお祭りでした。本来、私は、根岸小学校にゆくはずだったのです。遊び友達も皆根岸小学校にゆきましたが、いろいろな事情により、別の小学校にゆきました。でも、横浜根岸には、27歳まで、住んでいました。当時住所には、「西根岸」がついていましたが、なくなってしまったのは、返すがえすも残念です。

     さて、根岸湾の埋め立てのことなどですが、ネットの「旧海軍の基地と施設・横浜航空基地(付:横浜水上飛行場)の中の、6ペ-ジの3枚に写真のうち、左下の写真をご覧ください。横浜市航空基地の、写真では右側に、この後根岸中学校が建った場所に当たるところが写っています。昭和22年撮影とのことですが、私は、このまだ完全に資格になっていない小さな湾が右側に食い込んでいますが、私は、この小さな湾をよく覚えています。兄ら年上の者とよく、このあたり又はで遊びにゆきました。当はほとんど、草ぼうぼうで、一部大きなトウモロコシなどが植わっていました。そこから、海へは、楽に入れました。そこの付近の海はちょっと沼地みたいなかんじでしたが、アサリが取れたり、小さなハゼが泳いでいました。どういうわけか、ギンヤンマがたくさん飛んでいました。また横浜航空基地の根岸側の海の中に大きな飛行艇が1機斜めに傾いて、沈んでいました。今にして思えば、川西の二式大艇だったかもしれません。

     そこがいつ、根岸中学校の敷地になるために埋め立てられたか、定かではありません。その後は、やや整然とした岸壁ができ、その高さは、引き潮の時には、砂から3メートル近くはありました。でも、石垣を積み重ねて作ったようで、岸壁を上り下りするのは、子供の私にとっても簡単でした。10メートルおきに、当時われわれが「とうふいし」(たぶん、豆腐石 だと思います。形が長方形で、お豆腐みたいだったからでしょう。)

     夏はかなりの頻度で、歩いて泳ぎに行きましたが、潮が泳ぐのに適当か否かは、そのとうふいしの上まで、潮が満ちているかどうか、すぐ情報が入りました。そこで、私は、誰に教えてもらうまでもなく、自然に泳ぎを覚えました。そんな状態が、私が中学1,2年になるくらいまで続いたのです。
     長くなりましたので、今回は、このあたりまでといたします。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      またまたコメントを頂戴し、ありがとうございました。
      八幡橋神社の山車のことは、写真でも見た記憶があるのですが、私が勘違いしているのかも知れません。父親に確認すれば分かると思うのですが、ついつい聞きそびれてしまっています。
      横浜大空襲で大火傷を負われたとのお話ですが、本牧の辺りは5月29日だけではなく、その後の6月10日の空襲でも大きな被害が出たとお聞きしました。あの時代を生き抜いた人達のご苦労は、私には想像することができません。私は戦後の生まれで、それも平和ボケが広がり始めた頃に育ちましたので、ほんの十数年前は戦時中だったなどと、当時は考えたこともありませんでした。
      しかし時は、その頃から現在にまで連綿と続いているわけで、身近な歴史の資料を残す重要性を改めて感じています。今回、ZEPHER様からいただいたコメントは、正にそのことを再認識させていただくに充分でした。大空襲のこと、そしてその後の生活など、いただいたコメントそのものが重要な史実であり、それはZEPHER様以外の方からはお聞きすることができないお話です。本にあるような総論的な話ではなく、このような身近な史実を沢山記録できたらと思っています。
      横浜大空襲のことは、私も父から聞いたことがあります。父は昭和3年の生まれですから、空襲があった時は17歳だったと思います。戦前・戦中と、私の祖父は西区の浜松町で鉄工所をやっていました。しかし空襲で焼き出され、祖母の実家のある磯子に越すことになりました。その時、藤棚から黄金町に掛けて霞ヶ丘を越えたのですが、関東学院の三春台校がある辺りは焼死した人が折り重なり、殺伐とした光景だったそうです。また、焼けた電柱に乗っていたトランスが、歩いていた父の直ぐ後ろに落下したそうで、一歩間違えば命を落としていたと言っていました。父は、この関東学院三春台校の出身ですが、この空襲で校舎にも多大な被害が出て、その後、学校は六浦に移転したそうです。関東学院に三春台校と六浦校があるのは、これが理由なのですね。
      空襲に遭われた後、坂下公園のそばに越されたとの由ですが、どの辺りにお住まいだったのでしょうか。小学校高学年の頃、坂下公園の辺りには、雨が降っていなければ毎日のように遊びに行っていました。公園の前にあった駄菓子屋さんとか、百段階段とか、懐かしく思い出します。友達数人で百段階段を上り、旭日台から根岸小学校の裏山を降りて、家に帰るなんてこともよくしていました。ただ、小学校の規則では、米軍住宅周辺に行ってはいけないことになっていたと思います。その関連か分かりませんが、米軍住宅の住人に追いかけられたことも何度かあり、あの辺りはかなりスリリングな遊び場でした。坂下町には仲の良かった友人も沢山いて、毎日毎日遊び呆けていたように思います。坂下橋に続く道沿いにあったパン屋さんや新聞屋さんの息子も、私と同級生でした。
      それと、旧根岸中学が建つ前にあった入り江のことですが、大変貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。ZEPHER様が子供の頃は、そのような情景だったのですね。根岸の海で遊んだ体験をお持ちなのですから、実に羨ましく思います。私が物心付いた頃は、その入り江は既に埋め立てられていたのかも知れません。その場所の記憶は、隣の家の中学生のお兄さんに、旧根岸中学に連れて行ってもらったこと、そして中学は岸壁のそばに建っていて本牧岬を見渡せた程度のことしかありません。記憶は、旧根岸中学が既に建っていたところから始まっているようです。その頃、私は小学校2年生くらいでしたから、根岸の埋め立てが始まる直前の、1959年頃の話だと思います。
      あの場所の傍には、根岸水上飛行場に続く橋が掛っていました。橋は2本あったのですが、海から見て右側の展望橋と言う名前の橋に、懐かしい記憶があります。その橋の上から祖父が釣りをして、大きなボラを釣りあげたことがありました。私は祖父に連れられて行ったのですが、それは本当に大きなボラで、周りの釣り人から拍手喝さいを浴びたのを覚えています。その頃、その橋の周りはどうだったのかと言うと、残念なことに全く記憶がありません。小学校低学年の頃の話ですから、あの辺りにはあまり行かなかったのではないかと思います。そのために、記憶に残っていないのでしょう。そんなことも含めて、実に惜しいなと思うのです。あと5年くらい早く生まれていたら、見たことの無い情景を見れた筈ですから。
      根岸水上飛行場と言えば、「飛行場の沖合に沈んでいた二式大艇を吊りあげていた」と言うコメントを、「自己紹介」の記事に「森島 勝 様」からいただいたことがございます。私が知り得ない情報を細かにご紹介いただき、コメントをいただいた皆様には本当に感謝申し上げます。今は、何を目的としたブログだか分からない、ごった煮の状態ですが、何れ、史実だけを抜き出したブログとして再編したいと考えています。今回も、ありがとうございました。

  9. ZEPHER says:

    いつもご丁寧なコメントをいただき、恐縮しています。このようなコメントをいただくと、多少は、みなさんの興味にお応えしているのかと思い、書く動機づけになります。
     横浜空襲は、私は、いつも5月29日のことばかりを聞かされていて、ほかの横浜空襲は、ほとんど聞かされていませんでした。6月10日にもかなりのB29の機数が襲来して、本牧や磯子方面を攻撃したようです。また、それより以前にも、4月2日、同4日、15日また7月13日、25日にも、空襲があったようです。とくに、4月15日は、B29、200機とありますから、これも相当な被害があったはずですが、私の家には被害がなかったせいか、父母から聞いてはいないのです。
     なお、わたしは、現在静岡県に住んでいますが、「静岡の女たち」という女の苦労を書いた本があって、まさに5月29日朝はやく、B29の大編隊が、井川(静岡市のかなり北の山地)の上空を急に東に転じて、富士山の方に去ったのを目撃した人の文章があります。それには、単機日本の飛行機がB29に体当たりをして、1機だけですが、撃墜。3人のパイロットが、飛行機から脱出。一人はパラシュートが開かず死亡、2人は、とらえられて処刑されたそうです。昭和19年までは、高高度から、通常の爆弾で、主に工場などの軍事施設を爆撃していましたが、命中精度が悪く、効果がないとのことで、爆撃隊の総司令官が「ル・メイ」に代わってから、民家を焼夷弾で焼き払う作戦に変更し、国民の戦意を喪失させる作戦にでたわけです。これは(広島、長崎の原爆も含め)、明らかに、戦時国際法に違反する暴挙ですが、現実には、かなりの効果を生んだことになります。(ちなみに、1960年10月のキューバ危機の折にも、このル・メイが出てきて、キューバの爆撃を主張しています。)
     なお、先の寺田透氏の本人にも、日出町あたりの空襲後の情景がでてきます。

     さて、坂下公園には、私もずいぶん遊びにゆきました。また、あの106段階段にも、よくのぼりました。私の子供のころには、階段の上に警備員がいて(いまでも、まだ、中村橋の坂の上から、106階段の手前くらい前までは、日本人立ち入り禁止になっています。UNORTHRIZED )さらに大きな軍用犬のいかにも獰猛そうなシェパードが、3、4頭いました。八幡橋幼稚園に、そのアメリカ軍の占領していた土地に住んでいたたぶん2世と思しき子がいて、一度遊びにゆきました。しかし、106段の上の警備の猛犬に猛烈に吠えられて、私は、もう、恐怖でパニック状態でした。その子のお母さんに抱かれて、その子の家まで連れて行ってくれましたが、もう恐怖感で、一刻も早く家に帰りたい一心で、それ以外何も記憶に残っていません。子どものころは、よく大きな犬に追いかけれる悪夢をみましたね。
     あのあたりに、駄菓子屋さんは、「さかもと」といいました。そこでも、たまに5円をもらって、ちょっとした、お菓子をかったものです。また、その道を根岸小学校の方に行くと、左手に石の階段のある「たかはし」さんのお大きな家がありました。当時、アメリカ軍人の愛人のような女性が、あのあたりにも、あちこちに住んでいて、たまには、豪華なみたこともないようなアイスクリームを食べさせてもらったことも、鮮烈な記憶に残っています。私の家は、かなり下町よりにありました。
     では、また、海のことは、後日詳しく書きたいと重います。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
       空襲に関する詳細なお話を記していただき、ありがとうございました。
      この時代を生きた方たちは、自国の上空を飛び回るB29を見て、とても悔しい思いをされたことでしょう。
      4年間に渡った連合国との戦いは、日本の敗戦と言う形で終りましたが、いまだに占領されたままの土地があると言うことは、実質的にあの戦争に対する総括が、未だ終っていないと言えるのかもしれません。

       戦後、日本は短期間で経済的に大発展を遂げ、一時 Japan as No.1 とまで言われるほどになりましたが、その陰で戦争の爪跡は忘れられようとしています。
      私は戦争を知らない世代ですから戦時中のことは分かりませんが、子供の頃にあちこちにあった占領地を見て育ちました。
      当然、その時には大いに理不尽な思いを抱いたわけで、その気持ちは今でも忘れられません。
       百段階段を上り、米軍宿舎の人間に追い掛けられてもそこに行くのを止めなかったのは、ある意味、そんな状況に対するアンチテーゼだったのかも知れません。
      その頃は小学生ですから、難しいことを考えていたわけではありませんが、当時の仲間は同じような気持ちだったと思います。

       現在、集団的自衛権・安保法制と毎日のようにニュースが流れています。
      人それぞれで感じ方も考えも違いますが、唯一の真実は「戦争になるなら、絶対に負けてはいけない」ことだと思っています。
      日本が戦争に巻き込まれる時には、日本の土地を占領し、経済的にも充分な恩恵を受け続けて来た米軍に、日本の防衛のために是非とも頑張ってもらいたいものです。
      そう思えば、占領されたままの悔しさみじめさは、多少とも和らぎます。
      ただそのためには、日本においても法制度の改革や軍備の増強が不可欠になるのでしょうね。
       まあ、なかなか難しい時代になって来たように思います。
      バブルの崩壊でも、内戦の勃発でも何でも良いので、あの厄介な国が崩壊してくれないかと切に願う次第です(笑)。

       坂下公園の傍の駄菓子屋さんは「さかもと」でしたね。名前をお書きいただくまで思い出せずにいました。
      公園の脇の大きなお屋敷のことは覚えています。また、特に関係があったわけではありませんが、あの辺りから馬場町の山側に掛けて、大きなお屋敷が何軒かありましたよね。
       今思い返すと、自分の子供時代は豊かでも華やかでもありませんでしたが、実に印象的だったなと思います。
      私が物心付いた頃、日本はまだまだ貧しい国でしたが、その後の激動とも言える変遷は、実に見事であったと思います。
      勿論、その変遷が目に見えたわけではありませんが、いつの間にか自分の周りで電化製品が増え、人が増え、自動車が増え、そして建物が増えて行ったのは、不思議な光景でもありました。
       今に比べれば遥かに貧しかったですが、それなりに痛快な日々を送れたことを誇りに思っています。
      そのような環境を築いてくれた先人に、心より感謝したいと思います。

       何か、自分の心の声みたいな内容になってしまいましたが、ZEPHER様からいただいたコメントに触発されてしまいました。
      お気に障るような内容がございましたら、どうかご容赦ください。
      また、素晴らしいコメントをいただけることを、楽しみにしております。

  10. ZEPHER says:

     今でもでている看板には「UNAUTHRIZED ENTRY IS
    PUNISHABLE」とかかれています。なんとも、憎たらしい限りです。沖縄の人の気持ちが少しは分かりますね。

  11. ZEPHER says:

    cube-kojima 様へ
      いつも、ご丁重な、コメントをいただき、恐縮しています。根岸水上飛行場には、2本の橋がありました。旧飛行場のおもなる橋は、旧飛行場にまっすぐにつながった大きなもので、私が子供のころには、旧飛行場はアメリカ軍の補給廠になっていたようです。そこで多くの日本人が働いていて、朝は、多くの日本人がその大きな橋を渡って、入ってゆきました。そこで、働いていた、人を数人知っています。その中のある女性の方は、戦争未亡人で米軍の軍服の縫製をしていたようです。

     私の友人の中には、父親を戦争で亡くした人たちがけっこういました。ある方は、ニューギニアで戦死しました(といっても、正確な戦死場所や状況は全く不明です。当然、遺骨も帰ってきませんでした。いまだに、南方の島々、とくにニューギニア、ビルマあたりには、回収されていない遺骨が実にたくさんあります。)戦死したという方の母親は、息子の死を決して認めようとしませんでしたが、お嫁さんは、遺族年金のこともあるのでしょうか、認めていました。その友人のおばあさんの腰のまがった姿を今でもありありと思い出します。)
     
     私の叔父も徴用されて、油送船に載っていましたが、ラバウルで停泊中に爆撃で沈没。航海中だったならば、油送船ですから、確実に死んでいたことでしょう。ラバウルは、司令官が、サツマイモなどを十分用意して、補給の切れることを考慮して、事前の準備をしていたためと、アメリカ軍が上陸しなかったため、飢えはひどかったそうですが、餓死はまぬかれました。(日本軍の戦没者は、8割以上は餓死か、病死です。「餓死した英霊たち」(2,3年前に出た本です。)に、詳細に書かれています)

      だいぶ話題が飛んでしまって申し訳ありません。その展望橋は、名前は初めてしりました。大きな橋の根岸中学校よりによりあって、たしか、行きどまりになっていましたね。私もあのあたりで、ハゼ釣りはよくしました。もっと小さいころは、大きな橋の八幡橋幼稚園よりの水路にある船着き場(木の柱を立てて、板を渡した粗末なもの)で、ハゼ釣りをしていました。そのそばに、小さな釣り具屋さんがあってオチョコに「ゴカイ」一杯5円でした。釣竿も自分で切ってきた竹ざおで、針だけは皆で買って分けて使っていました。

     展望橋で、ボラを釣ったとは、驚きですね。ボラは大きいと猛烈にひきますから、普通ののべ竿では、簡単に糸を切られてしまいます。もう既におじいさんは、リール竿をお持ちだったのでしょうか?
     私たちが釣ったのは、ほとんどハゼばかりでした。でも秋口になるとそれなりに大きくなって、テンプラにして十分食べられました。沖の方で、ボラがはねているのをよくみかけましたが、ボラがかかったことは一度もありません。
     こどものころから、釣りにした親しんだため今でも釣りには、よく行っています。す。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
       コメントをいただき、ありがとうございました。
      そして、またまた貴重なお話を記していただき、感謝致します。

       先の戦争には、私の大伯父に当る方も何人か出征していて、中には戦死された方もいました。親戚の家の居間に、立派な額縁に入った遺影が飾られていたことを覚えています。
      今年も、もうすぐ夏がやって来ます。
      戦争を知らない私でも、夏と言うと「戦争」があったことを思い出します。
      私と同世代の多くの人が、そんな気持ちになるのではないかと思います。
      また暫くのあいだ、心の中で合掌する日々が続きそうです。

       旧根岸飛行場のこと、詳しいお話をお聞き出来て大変嬉しく思います。
      私がもの心ついて、あの辺りで遊び始めた頃は、進駐軍は既に去った後でした。
      今の日石の門がある場所あたりから、旧飛行場は金網のフェンスで囲われていて、中の様子を窺うことはできませんでした。
       今でも鮮明に思い出しますが、電車道から真っ直ぐに伸びた道の右側の空き地には、錆び付いたかまぼこ型兵舎だけが残されていました。
      左側にあった筈の空き地がどうなっていたのかは覚えていません。
      多分、立ち入りできないようになっていたのではないかと思います。

       戦後、旧飛行場は進駐軍の補給廠になっていたのですね。
      格納庫跡に膨大な量の物資が貯蔵されていたのでしょう。
      そこで多くの日本人が働いていたそうですが、毎朝、橋を渡って行く人たちの光景を何故か懐かしく感じています。
      接収は1958年まで続いたそうですから、ひょっとしたら、その光景を見ていたのかもしれません。

       展望橋の名前は、昔の地図に載っていたので、私もそれを見た時に知った次第です。
      橋を渡った辺りは行き止まりになっていたとのことですので、やはり、あの一帯は立ち入りができないようになっていたのだと思います。
       祖父がボラを釣った時の釣り竿は、太い竹竿でした。
      その頃は、リールなんて見たことも無かったと思います。
      テグスには何を使ったのか分かりませんが、ボラを釣りあげる時に、その竹竿が途中で折れてしまいました。
      ポキッとではなくグニャッとです。
      竹竿は、古くなると中がぼろぼろになっていたりしますが、正にそんな状態だったのだろうと思います。
       祖父の釣りに連れて行ってもらったのは、後にも先にも、この時だけでした。
      あの時、あの水路ではボラが数匹跳ねていました。
      多分、潮の流れか何かで、水路に入り込んで来たのではないかと思います。

       私も小学生の時、まだあの水路があった頃は、例の空き地の動物検疫所が見える辺りで釣りをしていました。
      釣れるのは、勿論ハゼだけでした。
       その時は、電車道の向こう側の釣り具屋さんでゴカイを買うのですが、ZEPHER様のコメントに出てくる釣り具屋さんと同じお店だと思います。
      ゴカイに噛まれて、痛い思いをしたことを覚えています。
      あの釣り具屋さんの並びには、衣料品店と床屋さんなど、小学生の時に同級生だった子の家がありました。
      あの釣り具屋さんは、今もあるみたいです。
       嫌々通った歯医者さんも、釣り具屋さんを過ぎた角にありました。
      歯医者さんの前の路地を入ると突き当りが例の水路で、今にして思うと中々風情があったなと思います。
      水路の途中にあったと仰られた船着場ですが、その頃は有ったような無かったような、曖昧模糊としております。

       何れにしましても、50年から60年前にあったことをこのようにお聞き出来るのですから、もう素晴らしいとしか言いようがありません。
      いろいろなお話をお聞きするたびに、何となく自分の記憶が掘り起こされて行くような気がします。
       しかしZEPHER様のご記憶の確かさには、舌を巻く思いがします。
      ご記憶に刻まれている数々のお話を、これからもご紹介いただければ嬉しく思います。

  12. ZEPHER says:

     先日、根岸中学校のあった場所に小さな入り江があったことを書きましたが、
    あれは、昭和22年の撮影とありました。ところで、根岸中学校、かっての海岸のところに、2棟(最初は1棟?)建ったのはいつなんでしょうか。ネットのある記載載によれば、昭和22年、浜中学校と一緒の年にできたようです。そうすると、22年後のすぐ後、あの入り江は埋め立てられ、しっかりした護岸がつくられ、校舎も一部同時につくられたのでしょうか。

     昭和29年(1954年)2月発行の岩波写真文庫「東京湾・空から見た自然と人」54ページ写真(2)には、堀割川を中心に旧根岸飛行場、日本発条、バブコック日立、根岸、磯子、それの競馬上も遠景ですが、写っています。その写真では、根岸中学校のあたりは、くっきりと埋め立てられ、道路寄りに縦長の建物1棟が見られます。たぶん、こらは根岸中学校ではないでしょうか。その場所の、間門寄りの方は、白い瀟洒な建物が、5棟ゆうゆうと建っているので、、アメリカ軍関係の建物でしょう。アメリカ軍がさらにそこから間門寄りに作った連絡機用飛行機(小さなセスナ型、ややがっしりした大きめの軽飛行機、それにトンボといわれた操縦席が透明で、胴体が骨だけのヘリコプターがありました)の飛行場は端っこだけ見えます。

     このころには、まず、冬には根岸中学校に凧揚げに出かけました。例の「さかもと」で買ったやっこだこを揚げにいったのです。海向きに強い風が吹くときは絶好の凧揚げ日よりで、づいぶんん、高く遠くまで上げられました。小さな紙切れの中心に穴をあけ、それをタコ糸にとおすと、凧まで、上がってゆくのが面白くて、たくさん凧糸に通しました。冬で相当に寒かったはずですが、あまり寒さを感じた記憶がありません。今に子供だったら、到底たえられないのでしょう。

     4月ころになると、大潮で海は大きく引いて、旧根岸飛場より先まで、歩いて行かれました。さすが、根岸中学校や護岸が小さく遠くに見えてちょっと心細いくらいでした。小さなハゼがたくさん泳いでいましたし、アマモという海藻が、ところどころにあり、いろいろな魚の稚魚がいました。アマモは、現在金沢八景あたりで、人工的に植えつけえて、魚の産卵場所にしているそうです。
     いちばん、楽しかったのは、そのころ、安っぽい虫取りアミで、浅い海を引き回すと、なんと、カレイの稚魚(3~6センチくらい)が、いともかんたんにいっぱいとれたのです。バケツを持っていって、一部もってかえりましたが、皆、途中で死んでしましたが、あれはおもしろかった。アサリもたくさんいましたが、こわいおじさんが見張っていて)いつもではないのですが)、見つかるとおそろしいので、とることはできませんでした。
     そのころ、海苔の養殖も盛んで、秋から冬にかけて、太い竹を5メートル幅で2列にたくさん立て、その間に網を張って、そうするとその網に海苔が付着し、春早く刈り取っていました。それを、随所で細かくして、すだれのようなものの上に海苔の大きさの升に流し込み、それをすだれに張り付けて、太陽に当たるように縦にして並べて乾燥させていました。そんな風景をあかず眺めていたものです。
     
     

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      コメント頂戴し、ありがとうございます。
      根岸中学のことですが、根岸中学HPの「学校沿革」のページには、以下のように記されています。
      ・22年4月5日 横浜市立根岸中学校(磯子区根岸町)として創立
      ・22年5月5日 根岸小学校を借用し開校
      ・26年10月12日 校舎を新築移転(国有地の海岸を埋め立てる)
      ・29年7月8日 校舎増築(1棟)
      ・31年8月20日 校舎増築(5教室)
      ・38年4月1日 国鉄根岸線問題にともない鉄筋4階建て校舎を新築(教室28)
      昭和22年に創立されたのですが、それは根岸小学校に間借りして開校したと言うことのようです。昭和24年に撮影された根岸の航空写真を見ますと、例の入り江は既に埋め立てられているように思います。この写真はこのブログの「昔の根岸中学校」の記事に掲載しています。
      それから護岸工事などをして校舎を建て、昭和26年に移転したと言うことだと思います。入り江の埋め立てがいつから始まったのかは、いろいろ調べてみましたが分かりませんでした。
      昭和31年の航空写真には、2棟の校舎と工事中と思わしき小さな建物が写っています。今の根岸中学は、旧根岸中学のすぐ隣に建てられたのですね。歴史考査における写真の威力は、本当に絶大ですね。

      根岸の海岸のこと、詳しい様子をお教えいただき、ありがとうございます。
      そうですか、潮が引いた時は、そんな様子だったんですね。
      埋め立てが始まる直前まで私が見ていた根岸の海は、旧根岸中学の校庭から見た海と、例の水路だけでした。
      それも、自分一人で行ったのではなく、必ず誰かと一緒だったように思います。
      そんなわけで、私は、実際の根岸の海は知らないと言った方が良いのです。
      当時は楽しかったんでしょうね、実に羨ましい限りです。

      海苔の養殖で思い出しましたが、私が小学生の頃は町内の至るところに空き地があり、その一部では海苔をすだれのようなもので干していました。
      その頃は、埋め立ても最終期になっていた筈ですから、何処で採れた海苔を干していたのでしょうかね?
      昭和39年には、根岸から杉田に至る全ての海が埋め立てられたので、近くで海苔の養殖ができたとは考え難いのですが、不思議です。
      ただ、自分の感覚と、実際の年代がかみ合わないことが間々あるので、海苔の天日干しを見ていたのは、小学校低学年の頃だったのかもしれません。
      その頃であれば、屏風ヶ浦とか杉田辺りでは、まだ海苔の養殖をやっていたと思われます。

      アサリ掘りは、三景園の下の海岸で、何回かやった記憶があります。
      その当時埋め立ては始まっていたのか、どうやって海まで行ったのかなど、いろいろ知りたいことが、実にスッキリ?と抜け落ちいてます。
      子供の頃、三景園には飽きるほど連れて行ってもらったのですが、周りの様子には興味が無かったのか、一つ一つの場面単位でしか記憶がありません。
      入園してすぐにある大きな池、池の周りに咲いていたスイセン?、池の中のハスの葉、大きな太鼓橋、三重の塔などなど、その物の単位でしか記憶が無いので、年代的な繋がりは考えようがありません。
      そしていつしか、三重の塔の右側には工場地帯の赤白の煙突が見えるようになりました。

      私の両親は、三景園に行った帰りには、いつも本牧の親戚の家に立ち寄ることにしていたみたいです。この家は、私の祖母の妹さんが嫁いだ家で、東福寺入口の近くでクリーニング屋さんをしていました。お店は今でもありますが、私の家が戸塚に越した後は、付き合いも無くなってしまいました。
      あの頃、根岸から本牧に抜ける道沿いには、いろいろな建物がありました。
      根岸小学校のそばにあった立正佼成会、根岸赤十字病院、根岸園、間門園など、根岸園を除いて今はどの建物も有りませんが、その佇まいは良く覚えています。

      本牧の親戚の家を過ぎて三景園入口に近づくと、道の左側は米軍に接収されていた本牧米軍基地でした。頑丈な金網で仕切られたその中は、緑の芝生が茂る広々とした場所でした。1970年頃から、私の父親はある市会議員の方の秘書をしていました。その方の妹さんが米軍人と結婚していたため、本牧PXにはよく買い物のお伴をさせられたようです。その時々に父親が持って帰るアメリカの生活用品は、明らかに日本のものとは異なっていました。トイレットペーパーなどはその厚みとしなやかさが、当時の日本のものとは雲泥の差でした。日本は豊かになったとは言え、まだまだ敵わないなと思ったものです。

      1982年に接収が解除された時には、私は既に根岸に居ませんでしたから、それからの変遷については良く知りません。
      私が返還後の本牧に接したのは、本牧パークシティ等の高級マンション群の家電機器検査の時でした。この時は、住人が入居する前でしたが、二の谷から小港に掛けての変貌ぶりには、驚くばかりでした。マンション以外の商業施設は工事中のところが多かったと思いますが、近代的な新しい街が登場したような感じがしたものです。それは、1987年頃のことだと思います。

      取り留めの無い話になってしまいましたが、思い出すままを記してみました。

  13. ZEPHER says:

    cube-kojimaさん
      いつも、ご丁寧なコメントをいただき、感謝にたえません。根岸中学校のことはとくに、大変参考になりました。
     例の小さな入り江を私が覚えているということは、昭和22年にその入り江の埋め立てがなされたことではないのですね。22年に根岸中学校創立とあるので、そのころに埋め立てられていたら、私は、まだ、3歳前後ですから、記憶には残らないはずですので、腑に落ちなかったのです。そうですか、26年10月に移転なら、埋め立ても、25年ころでしょうか。それなら、私は5歳にはなっていましたから、記憶に残っているのも、不思議ではありません。
     根岸中学校ができてから、しばらくは夏はそのあたりで、泳いだり(家から海パンをはいて、はだしで出かけていました)、ハゼ釣りをしていました。しかし、根岸中学校あたりは次第に海がきたなくなって、次第に間門寄りの方に出かけることが多くなってきました。根岸中学校んの間門側には、例のアメリカ軍の飛行場がありましたが、旧日赤あたりで分断されて、その切れ目の細い道をとおって、海に出ることができました。そこは、岸壁が20メートルくらい切れて、コンクリートの船着き場のようなものが海に斜めに向かって砂浜延びていて、そこから海に入ることができました。小学校の3,4年生ころからは、もっぱらそこで泳いでいました。ノリヒビの大きな竹が3,40メートル間隔で、沖に向かってたっていて、その竹を目指して泳いで、自然に次第に泳げるようになりました。当時は、学校にプールもなく、水泳教室なんてありませんでしたから、まさに自己流な泳ぎでしたが、けっこう長く泳げたものです。水中眼鏡もありませんでしたから、そのまま目を開けて泳いでいると、ちいさな、イワシ?の群れが泳いでいたり、あるときは、なんとカゴカキダイを見たことがあります。あれは黄色い縦じま模様が美しく、とても印象的でした。
     ハゼ釣りのさらの間門方面でするようになり、少し先に岩や小石のがらくたのような集積場所が海に突き出ていて、そこがいい釣り場所になっていました。秋口には、コトヒキが岸すれすれにたくさんおよいでいたので、石をうまく並べて、いったん迷い込むと出られないように工夫して、たくさん捕まえましたす。いわば石の定置網のようなものです。なお、尾籠な話ですが、当時便所は汲み取りやさんが来て、それは汚わい船に乗せて、東京湾を出て廃棄することになっていましたが、湾外まで行くのが面倒で、湾の中で廃棄し、それが逆流してきたことがよくありました。そんなときは、さすがに泳ぐのをあきらめて帰ったのです。

     根岸の海で思い出すのは、地域の漁船がたぶん「うたせ船・打瀬船・ただし、九州のそれとは違って、一枚の大きな四角い黒い大きな帆」を張って、何艘も浮いていました。とても、のどかで、印象に残る風景でしたね。たぶん、小さな底引き網で、カレイ、コチ、貝などをとっていたのでしょう。

     三渓園のことですが、私は昭和26年小学校1年の春に、遠足に行きました。当時の三渓園は、なんだか、きたないところで、かなり荒れていなした。桜の木の下で大人たちが盛大に宴会をしていましたが、酔余喧嘩が始まり血だらけの姿をよく見かけました。昭和28年三渓園保勝会に管理が移管されて、整備がはじまって、ようやくきれいになりました。三渓園の先の海の埋め立ては、昭和45年ころとのことですが、そんなに遅かったのでしょうか。

     それから、旅館の「間門園」と「根岸園」の区別があいまいになっています。根岸の方から間門に向けて緩やかに登って、左に切り通しになりますが、その手前の道端に建っていたのが、「根岸園」だったでしょうか。「間門園」は、「丘の上に立って・・」?との記載がって、あの有名な山本周五郎が、仕事部屋のように使っていたようです。周五郎は本牧大里あたりに居を構えて、仕事は、いつも間門園でしていました。「間門園」って、どこにあったのでしょうか?ついでに言うと、周五郎の本はほとんど読んでいますが、一番好きなのは、「青べか物語」です。(たぶん、千葉市の昭和初めの浦安を舞台とした一般庶民の哀歓と逞しさ、あけっぴろ気な色気が書かれていて、おもしろい。)
     cubeさんの懇切なコメントにつられて、書きたい放題になりました。お許しください。まだまだ、ブドウ園のこと、競馬場のことなどなど、書きたいことはたくさんあるのですが、続けてよろしいでしょうか。こうして書いていると、ほんとに懐かしい気持ちになります。こんな細かい個人の思いでなんか、どうでもいいという方もおられるでしょうが、あの「寺田さん」もこういう些事にこだわることには、相応の意味があるといっています。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      またまた貴重なコメントをいただき、ありがとうございました。
      旧根岸中学が建つ前の入り江ですが、結構狭い範囲ですから、校舎が建つ少し前くらいに埋め立てられたのかもしれませんね。
      そう考えると、埋め立ては昭和25年後半から昭和26年に掛けてくらいのことだったのかもしれません。

      米軍の飛行場を横切って、海岸に出ることができたそうですね。旧日赤前と言うと、ちょうど今の根岸駅の辺りになります。
      今の根岸中学が建っている場所は、昔の水上飛行場だったところですから、そこ以外はすべて海!だったわけですよね。当時、幼少の私はそんな遠く(笑)に行ったことはありませんでしたから、その光景は想像するしかありません。

      小学校の3、4年生くらいの時、八幡橋で漁師をしていた大伯父さんの船で、掘割川の河口沖に何回か連れて行ってもらったことがありました。
      その時は既に埋め立てが始まっていましたが、旧水上飛行場だった辺りの岸壁を、何となく覚えています。その反対側の、火力発電所になる場所の埋め立ても始まっていたと思います。船で海に出ると、もう全く違う感じで、根岸の海は岸壁ばかりだと思ったものです。あと5年ほど早く生まれていれば、本当の根岸の海を見ることができたんですね。

      それと本牧の埋め立ては、仰られるとおり結構遅かったようです。このブログにも1964年の埋め立て後の根岸の写真を掲載していますが、本牧岬の周りは未だ海のままです。下記の資料によれば、本牧の埋め立ては1968年(昭和43年)に開始されたとあります。
      http://www.nichidaigeog.jp/GANU/chirishiso%20back%20no/49-1.pdf
      1970年には産業道路も出来上がり、1972年頃にはB突堤の工事も終り、これで現在の本牧から山下に掛けての埋め立ての基礎が出来上がりました。
      もうこの頃には、海を見るには本牧の埋立地の先端まで行くか、磯子の火力発電所近辺まで行く必要がありました。

      私は1968年に金沢八景の高校に進学したのですが、嬉しいことに、そこには海が昔のままの姿で残されていました。
      そんなこともあり、学校の帰りには小柴の海岸によく行きました。校門を出て国道16号線を渡り、洲崎の細い道を通り若草病院の前を過ぎて少し行くと、砂浜に突き当りました。その砂浜では、昔の様子そのままのように、あちこちで海苔を干していました。冬は、海が荒れることもあり、その時の荒涼とした様子は、私の記憶にしっかりと残っています。
      また、この辺りは乙艫海岸と呼ばれ、夏には海の家が建ち海水浴客でごった返したそうです。私自身は、海水浴と言うと鎌倉・逗子に行くことが殆どで、残念なことにここで泳いだことはありませんでした。
      私の嫁さんは高校の同級生ですが、小学生の頃から金沢に住んでいましたので、この海水浴場や野島でよく泳いだそうです。
      高校を卒業した1971年もこの景色はそのままで、次の年の1972年に「金沢園」でクラス会を開いた時も、潮騒が聞こえていました。
      富岡、金沢の海が全面的に埋め立てられたのは、それから間もなくのことだったと思います。

      間門園は、下記の画像に見えている丘の上の大きな三角屋根の建物がそうです。
      http://www.mooneyes.co.jp/honmoku-style/wp-content/uploads/2010/03/MAKADO-001.jpg
      この写真のように、私も市電の車中から見た光景を、そのまま記憶しているのだと思います。根岸園は、仰るとおり、根岸から間門に向かって左側の道路沿いに建っています。昔は「根岸園」と大きく書かれた看板が道路脇に出ていて、建物も大変綺麗なものだったと思います。

      私は、昔の記憶を何処かに残しておきたいと思い、このブログを始めました。最近はネタ切れで、自分から新しい記事を書くことはなくなりましたが、皆様からの温かいコメントをいただき、心より感謝申し上げております。ここに記されているコメントは、皆様の貴重な体験談です。何か機会でもなければ、普段は人に話すことも無い話題を、時間を割いて書いてくださるのですから、感謝以外の言葉は見つかりません。どれほどの方々に、このブログを見ていただいているか分かりませんが、皆様からのコメントを見て新たな事実を知ったり、昔の様子に共感していただいたりすれば、それだけでも大きな意味があると考えています。ですから、もう本当に仔細なことでも何でも、ZEPHER様の体験を綴っていただくことが、何よりも価値のあることと思っています。これからも、どうぞよろしくお願い致します。

  14. ZEPHER says:

    cube-kojima様へ

     いつも、いつも心温まる懐かしいコメントをいただき、痛み入ります。
    私は、横浜を離れて35,6年になります。まだ、ベイブリッジや みなとみらい
    もありませんでした。たまに親のお墓参りには帰るのですが、その変貌ぶりには、もう、あの懐かしい横浜はどこに行ったのだろうと思ってしまいますが、それでも、やはり昔の痕跡はたくさん残っていて、横浜にゆくと、兄弟や知人もいて、なんとも心が癒されます。静岡には、もう30数年も住んでいますが、「静岡の歴史」なんていう写真入りの豪華な本を見ても、どうも、心にしみいりません。

     kojimaさんが、高等学校に進学したのは、1968年とありましたから、私とは8歳違いですね。何も得意がるわけではありませんが、あのころの横浜の根岸・磯子の8年の変貌はかなりのものです。なお、私は、横須賀にあった、私立の中・高等学校に通いました。根岸3丁目から、11系統の市電に乗り、葦名橋で、16系統か18系統の市電に乗り換えて、屏風ヶ浦で降りて、京浜急行に乗りました。かわいい清泉の女の子もいましたが、ただ、眺めているだけで、何もできませんでした。もっと、付文でもしていれば、もっと楽しい青春だったのになんて思ったりもしますが、もはや後の祭りですね。

     そのころは、昭和32年ですが、浜小学生から少し行った国道16号線は、市電と並行して、まさに海の隣を走っていました。海が荒れた翌日には、市電の線路まで、波が来たり、海藻が打ち上げられていました。屏風ヶ浦の市電の停留所のところに海の家があり、夏はけっこうにぎわっていました。話が戻りますが、浜小学生の葦名橋よりのところから、海水浴場に通じる道があり、この海水浴場は、設備もしっかりあって、むかしから、有名なところだったそうです。わたしは、やや遠いので、2,3度しか行ったことがありません。

     また話が前後しますが、市電の八幡橋と間門が通じたのは、昭和30年4月でした。開通式があり、その日は、誰でも無料で乗れるとのことでしたので、子ども達がそれこそ大勢詰めかけ大変な騒ぎでした。私は、かろうじて乗り込みましたが、」それはもう、大騒ぎでした。

     例の寺田さんの本は入手されましたか。その本の112ページにそのころの田谷田橋間門間の市電の山側のいかにも鄙びた
    風景が簡単に描かれていまし。このころ、寺田さんは、磯子区磯子町浜362に戸部から転居(昭和24年ですが)しています。この本の117~118にかけて、隧道(トンネル)のことが書かれてあります。浜から16号線の右側の旧道にかなり入りしばらく行くと、大きく右に曲がって急な坂になりまし。昭和30ねんころの記憶ですが、その急坂の左側に美空ひばりの御殿があって、その登り口の右側の草むら崖に大きなトンネルがありました。なんとも、不気味で、中に入ったことはありませんが、ずいぶん昔のことですが、まだ、その真下は海で、海を避けるためにトンネルを掘って森町にぬけたそうです。しかも、そこを乗合馬車がそのトンネルの中を走って森町に抜けていたようです。これは、たしか、「磯子史誌」にもあったような気がします。

     その急坂を登りきると、元伏見宮邸がありました。ここは、その後プリンスホテルになりましたが(西部グループは戦後、このような旧華族の家屋敷を猛烈に買い占めたことで有名です。こんない、地価が暴騰するとはだれも思っていなかったころとしては先見の明があったというべきでしょう。)、当時は全く手が付けられていず、鉄の門ががっしりしまっていました。そこから先は、緩やかに下った舗装もしていない道が続き、岡村のブドウ園が右側の丘の上にあったのです。
     元伏見邸のすぐの左側の細い道を行くと、田畑があり、いわばまさに典型的な里山がありました(赤穂原といいました。)。今は、宅地が造成され見る影もありませんが、年上の人たちに連れられて、よくカブトムシ、クワガタ、コクワガタ、ミヤマクワガタを取りにに行きました。
     ほんんとうに、クワガタなどが、真昼から、たくさん取れてそれはそれは、ご満悦でしたね。そこまで行くには、かなりに時間がかかりましたが、行く価値はまさにあったのです。水筒も持たずによくいったもんだと思います。いまなら、熱中症で死んでいたかもしれません。森町に降りて、どこかの家で水を飲ませてもらい、またえんえんと歩いて帰りました。まあ、よく遊んだものです。でもまたあんな時代にもどりたいなあとよく思うのですが。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      貴重なコメントをいただき、ありがとうございました。
      私も、現在の地に越してきてから約37年経ち、今年の12月で38年目に突入します。
      ZEPHER様の仰った「静岡には、もう30数年も住んでいますが、『静岡の歴史』なんていう写真入りの豪華な本を見ても、どうも、心にしみいりません」は、正に「至言」です。
      私も、こちらの生活の方が余程長いくせに、心に染み込んでいる事柄は少ないのです。こちらに越して来た当時のことは、充分以上に懐かしい筈なのですが、どうも自分の歴史として馴染んでくれません。越してきてから、いろいろとありましたし、家族との生活も充分に幸せで、子供の成長もずっと見て来たのですが、未だ、自分の歴史にはなっていないような気がしています。多分それは、その時はもう充分に成長した大人だったからかも知れません。私の子供たちは、きっと現在の地で育ったことを、自分の歴史として大事に胸にしまっておいてくれるのではないかと思います。今まで暮らして来た歴史は、膨大な量の写真やビデオになって残っています。あの頃はどうだったのかな?と思ったら、いつでもどこでも目で見ることができます。

      私は子供の頃は根岸・磯子で育ちましたが、その頃の光景は殆ど形を変えてしまい、現在では見つけることができません。また当時の様子を伝える写真も多く残っているわけではありませんから、子供時代のことを思い出すには、自分が見て来た記憶が頼りです。また同じ頃に、どのようなことがあったのかは、それをご存じの人に教えていただくしかありません。両親から話を聞くこともありますが、当然ながら子供目線での話ではないので、ZEPHER様からお聞きするような詳しい話ではありません。そして、両親はいつまでも健在なわけではなく、母は昨年の11月に他界してしまいました。小さな頃の私や弟と共に写真に写っている母の笑顔を見ると、この時何を感じていたのかなと思うのですが、それを知る唯一の人はもうこの世におりません。そんなこともあり、自分の子供時代がどうだったのか、何を考えていたのか、当時の根岸・磯子はどうだったのかを、できるだけ詳しく残しておきたいと思っています。

      残してどうする?と言う問いもありますが、誰かが見てくれればそれで良いと思っています。ですから、今のようにブログとして残して行くのか、それとも形を変えて残して行くのか、今のところは分かりません。でも、後の人に「へぇ~」と言っていただければ、充分かなと思っています。ZEPHER様からご紹介いただいた「わが井伏鱒二・わが横浜」を見て、私が「へぇ~」と言っているような感じですね(笑)。そんなわけで、ご紹介いただいた本は既に入手して、自分が理解できる範囲の話を拾い読みしています。この本、難解な言い回しも所々ありますが、本当に面白いです。勿論、その「へぇ~」は、私の記憶だけではどうにもなりません。ZEPHER様を始めとして、このブログにコメントをいただいた方々の記事があって、初めて成り立つことです。

      ZEPHER様は横須賀の中学・高校に通われていたそうで、私とは8歳違いとの由ですが、本当にあの頃の8年にはとてつもない大きな隔たりがあります。埋め立て前の状況を見て記憶しているためには、私は小さ過ぎました。私が高校に行く前年に、市電は芦名橋止まりになりました。このため止むなくバスで杉田、少し後には屏風ヶ浦まで行くことになりました。それは1968年のことですから、埋め立てが終って数年経っていました。当然ながら、海が見えることも無く、バスに乗っている最中は味気ないものでした。でも、当時はまだ富岡・金沢と海が残っていました。京浜急行は、富岡駅の辺りで最も海に近い、そして国道より少し高いところを走っているのですが、ZEPHER様は車中から遠くに海が見えたことを覚えていらっしゃいますか。

      浜小学校の辺りの海は、これも私は良く知りません。ただ、祖母が町内の婦人会で偕楽園に行くことがあり、その時に連れて行ってもらったことがありました。多分、1960年前後のことだったと思います。大きなホールのようなところから、海が眼下に見えたことを覚えています。このようにその頃の記憶は、単に海が見えたことを覚えているだけで、より詳しい情景などはハッキリとした記憶がありません。
      同じような頃、私と弟は両親に連れられて、磯子の山を何回か歩いています。コースはいつも決まっていて、芦名橋の奥の山田谷戸から山に入り、山中を歩き回って岡村のブドウ園で一休みします。そしてまた山を歩いて、現在の磯子小学校辺りから下の道に出たのではないかと思います。いっとき、ブドウ園から直接下の道に出たのではないかと思っていたのですが、いろいろと思い返してみると、山を降りてからプリンスホテルの辺りまでが比較的近かった覚えがありますので、そのようなコースだったのではないかと思います。

      笹掘から浜に通じる旧道は、その頃もまだ舗装されていませんでした。風が吹くとやたら砂埃りが舞い、車は殆ど走っていませんでした。またその頃は、間坂の急坂の途中に「ひばり御殿」があった筈ですが、それも記憶にありません。そもそも間坂の急坂を下ってから、どのようにして原町の自宅まで帰ったのかも、ハッキリとは覚えていないのです。そんな具合に、疲れ果てて早く帰りたい一心でしたから、プリンスホテルの方に行くこともなく、山の上から海を見ることもありませんでした。もしその頃、プリンスホテルの方に行っていたら、例のトンネルの入り口は見ることができたのでしょうか。あと5年早く生まれていたら、その頃私は小学校6年生にはなっていた筈ですから、周りの情景ももっと良く覚えていたことと思います。ですから残念なことに、プリンスホテル側の山に入ったことはありませんでした。そうこうしている内に汐見台団地の造成が盛んになり、プリンスホテル側の山は姿を変えることになります。それから暫くしてから、磯子台全般の開発が行われ、山歩きをした山は住宅地に変貌しました。あの頃、埋め立てだけではなく、根岸・磯子のあらゆる場所がこのように変化したのですから、もうそこに戻れないと言う気持ちが、強い郷愁となって私たちの心に残っているのではないかと思います。

      現在、私が暮らしている地域は、どちらかと言えば新興住宅地で、周りの様子に大きな変化はありません。勿論、空き地だったところに家が建ったとか、大きなスーパーが無くなったとか、小学校が統合されたり、住宅街の人口が減ったり、古い家ばかりになったとかの変化はあります。でも、山が1つ無くなったとか、大きなトンネルができて、とんでもないところに繋がったとか、そんな大きな変化はここ37年間ありません。今までは、センセーショナルなことが何も無かったので、気持ちの中にしみ込むようなことが少なかったのだろうと思います。
      私が高校生でオートバイに乗っていた頃、洋光台も港南台も何もかも山の中だった頃ですが、私が現在住んでいるところの主要道(昔は原宿六浦線、現在は環状4号線と呼ばれている)の片側は深い山で、その反対側は殆どが田圃でした。これが、現在私が済んでいるような住宅地に変貌したのですから、それはもう大騒ぎだった筈です。その当時、この辺りに住んでいた少年たちは、きっと私たちと同じような郷愁を抱いているのではないかと思います。
      私も、まさか自分がこの辺りに住むことになるとは、思ってもいませんでした。
      今回も取り留めの無い長い話になってしまい、恐縮しております。これに懲りず、よろしくお願い致します。

  15. ZEPHER says:

    暑さ厳しき折り、くれぐれも、熱中症には、お気を付けください。私のような
    年齢になると、室内にいても熱中症になるようですから、渇きを覚える前に定期的に
    水を飲むようにしています。

     まず、葦名橋から先に、市電がいかなくなったのはいつごろでしょうか。私が高等学校を卒業したのは、昭和38年2月ですが、まだその頃は、杉田まで、市電は通っていました。そう、思い出しました、「偕楽園」という料亭?が埋め立て地の杉田寄りにあって、そこからは、16号線のすぐそばまでが、まさに直接海でした。私は残念ながら、金沢の昔の様子はぜんぜんわかりません。たしか、伊藤博文が明治憲法を起草した、旅館には遊びに行ったことがあるだけで、それがどこにあったのか、まったく、わかりません。

     岡村のブドウ園ですが、私も何回も行きました。普通の通路は、滝頭の橋をとおって、岡村中学あたりを右に曲がって、横浜学園女学校の脇を通り、またしばらく歩いて、左手の丘の上にありました。当時は、親兄弟で、ブドウ園にゆくなんて、かなりのイベントでしたから、ずいぶんうれしかったものです。ただし又は「当時のぶどうは、今のブドウとくらべて、かなりすっぱいものでしたが、それでもおいしかった。
    帰りは、プリンスホテルの方へ(当時はまだホテルはたっていませんでした)、舗装のしていない乾いた暑い緩やかな坂を上って、間下くる急な道路を下って、またまた歩いてかえりました。小学生のころの子供にとっては、かなりの距離だったとおもうのですが。たしか写真にブドウ園の前にバス停の写真がありましたが、私の記憶では、あのプリンスホテルにむかう道路にはバスはとおってはいませんでした。

     なお、岡村ブドウ園ののぼり口で私は、初めて捩花(ねじばな、もじずる)をみたのです。小さな花がらせん状についていて、何とも規定なはなでした。今では、どうしてだか、どこにもいやというほどありますが。

     それに、あの辺りの田んぼには、7月末頃ですが、平家ボタルがたくさんいました。磯子に住んでいた優位人と一緒による取りにいったものです。蚊帳の中に放って眺めるのは、風情がありました。また、あの道沿いには、小さな小川があって、そこらの田んぼには、ゲンゴロウ(これは、当時いやというほど、いましたが、する時期から全くと言っていいほど、見られなくなりました)、コオイムシ、フウセンムシ(コップの中に神をちぎって入れる山林、下にもぐって紙につかまるのですが、浮力で浮いてくるのです)、マツモムシ等の水生昆虫がたくさんいました。

     岡村中学校の向かいに金魚池がありましたね。あまり大きな金魚池ではありませんでしたが、お祭りの金魚すくいの金魚はすぐに死んでしまうので、時折買いに行きました(なお、本牧のほうにもありました。これはかなり大きな金魚池で、売っている金魚の種類も実に豊富でした。たぶん、小売りが目的でなく、卸しか、輸出用だったかもしれません。)台風で流れてきた金魚というのは、岡村の私のいう金魚池からだったのでしょうか。

     話題が全く変わりますが、「ホンチ」というクモをご存じですか?正式には「ネコハエトリクモ」というのだそうです。5月ころ、マサキの若葉の上にいるやや小さなクモですが、これを捕まえて、により引き渡さなければならない。を小さな箱に入れ、上にガラスをかぶせて、見事なほどの格好良い闘争ぶりを眺めるのです。九州あたるでは、コガネグモの合戦が有名ですが、「ホンチ」は、横浜の磯子、根岸あたりだけで知られた遊びだったような気がします。どうも、対岸の千葉市ほうから由来したものということです。もう、「ホンチ」なんて言葉さえしっている人もほとんでいないのではないでしょうか。

     それから、根岸の競馬場のことですが、朝鮮戦争の始まる前のころは、アメリカ軍に接収されてはいましたが、とくに、これといって利用されていませんでした。囲いも緩やかで、あの根岸小学校の階段を上って、競馬場には自由に入れました。沼や小さな池などがあり、春にはおたまじゃくしをよく取りに行きました。朝鮮戦争がはじまって(昭和25年6月)急に、囲いが整備され、定量の軍用タラックの置き場にかわり、それ以降侵入できなくなりました。朝鮮戦争当時は、横浜は、大補給基地みたいでしたから、なんだか子どもこころにも、喧噪とした雰囲気が漂っていました。上空を、小型戦闘機(たぶん、グラマンF6F、あるいは、スカイレーダー?)、さらに、主翼の曲がったF4Uコルセア、双胴の戦闘機のP38、もちろんB29など、空を覆うようなかんじでした。戦車も16号線をよく走っていました。ごうごうと大きな音をたてて、不気味でした。その後、飛行機は、T33やF86などジェット機
    が、でてきました。

     ラジオのニュースもなんだか物騒な事件や事故もおおく、厭なかんじでした。特に桜木町事件(桜木町近くで、架線が切れて垂れ下がり、それが、電車の屋根の塗料に着火し、電車が丸焼けになって150人くらいの方がなくなりました。以来窓の狭いいわゆる63型車両は廃止されました。))は、あの電車(当時省線と言っていましたが)には、とく乗って、東京に連れて行ってもらっていたものですから、他人事には思えませんでした。

     あまり磯子、根岸のこととと関係がなくなって、申し訳ありません。

     

     

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      こんにちは。
      この度も素晴らしいコメントをいただき、ありがとうございました。

      今年はエルニーニョが発生しているので「冷夏」になると言っていたのですが、どうなんでしょうね。
      昨年と比べれば、朝晩は確かに涼しいように思いますが。
      梅雨も例年のように序々に明けるのではなく、いきなり明けてしまいました。
      年々異常気象の兆候が色濃くなって行くような気がします。怖いですね。

      葦名橋から先の市電が廃止されたのは、1967年7月31日(昭和42年)です。今からちょうど48年前のことです。
      私が高校に入学した1968年(昭和43年)には、市電は既に葦名橋止まりでしたから、京急の最寄り駅近くまでは、市バスで行く以外に方法がありませんでした。
      市電が杉田まで行っていた頃、私がそれに乗り屏風ヶ浦近くまで行ったのは、「白旗プール」まで行った時だけでした。
      当時は「白旗プール」と呼んでいましたが、現在は「森町公園プール」と呼ばれています。
      ただ残念なことに、その頃は埋め立てが終ってから何年も経っていましたので、市電から間近に迫る海を見ることはできませんでした。ZEPHER様は、市電から間近に迫る海を見ることができたのですね。その記憶をお持ちになられているのですから、本当に羨ましく思います。
      ちなみに、八幡橋から本牧三景園前の間門線が廃止されたのは、1968年8月31日です。

      岡村のブドウ園へは岡村中学方面から歩いて行かれたとの由ですが、結構な距離があるのではないかと思います。
      ご自宅からは、坂下橋を渡り、四間道路で岡村中学前まで行き、横浜学園の前を通り、岡村の天神様入口を過ぎて、笹掘りの先からブドウ園へ、と言うコースでしょうか。
      そこから、プリンスホテル方面に歩いて、間坂の急坂を下り旧道で浜まで出て、そこから八幡橋を渡りご自宅へ帰られたと言うことかと思います。
      今だったら、考えるのも嫌になる程の距離ですよね。ただ、私が子供だった頃も移動の基本は「歩き」でしたから、当時はその程度の距離は普通に歩いていたのかもしれませんね。
      しかし、小学生の身にとっては大した距離だった筈です。私も、磯子の山歩きの帰り道は、いつも音を上げていました(笑)。

      当時は、磯子の山でもホタルを見れたのですね。私は子供の頃に、ホタルを見たことはありませんでした。
      夏場に磯子の山歩きをしていたなら、ひょっとしたら見ることができたのかも知れませんが、夏の暑さの中で山歩きをする根性は、親にも私にも無かったと思います。
      そんなわけで、私が生まれて初めてホタルを見たのは、現在の所在地に越して来てからでした。
      越して来た場所は、市民の森と呼ばれている所の近くで、その中に入るとあらゆる種類の生き物を見ることができました。
      そこでナナフシを見た時は、本当にびっくりしたものです。磯子ではとうていお目にかかれない生き物も多く、子供の頃にこの場所に来たなら、狂喜乱舞していたに違いないと思ったものでした。こちらに越してきてから40年近くになりますが、自然はその頃のまま大切に守られています。

      ZEPHER様は、現在静岡にお住まいとの由ですが、どのようなところですか?きっと良いところなのでしょうね。
      私は昔から静岡と言う場所が好きで、オートバイに乗っている頃から、ちょくちょく静岡方面に行っていました。
      ただ、静岡は広いですよね。海岸線をたどるだけでも、容易なことではありません。何れにしても遊びで出掛けるのですから、行く先は定番のような場所です。
      高校の時の友人が沼津に居ますが、こちらには一向に戻って来ません。十年ほど前まではサラリーマンをしていたのですが、それを辞めて漁師になったと聞き、よほど静岡が気に入ったんだなと思いました。その友人の家に遊びに行く度に、住むのになかなか良いところだなと思ったものです。

      若い頃は、何かと言えば静岡方面に出掛けていました。横浜から出掛けるのに、静岡は本当に最適な場所でした。
      道路は千差万別、いろいろな種類の道路があり、山の中でも海岸線沿いでも、どこに行っても楽しめました。
      春先は、横浜から海岸線に沿って石廊崎までがお決まりのコースで、夏場は、天城峠を超えて西伊豆に出て、海の家のお手伝いもしていました。
      富士宮の朝霧高原にも、季節に関係無く良く出掛けて行きましたし、浜松の動物園にも、何回も行ったことがあります。
      ただ最近は出掛ける元気も無く、家に籠ることが多くなっていますが、このままではいかんと思い始めています。近いうちに、復活できると良いのですが。

      岡村の金魚池へは、私も子供の頃に両親に何回も連れて行ってもらいました。
      1960年頃、母の実家が禅馬川近くにあったので良く遊びに行きましたが、台風の後などは、決まって禅馬川に金魚やコイが泳いでいて、近所の人達は金魚池から流れて来たと言っていました。禅馬川は、確かに金魚池の近くを流れていましたので、あながち間違いとも言えないと思います。
      本牧にも金魚池があったのだそうですね。私は聞いたことがありませんでした。子供の目には、岡村の金魚池も随分広いと感じたものですが、本牧の金魚池も見てみたかったですね。本牧の金魚池は、どの辺りにあったのでしょうか。

      「ホンチ」とはまた懐かしい名前ですね。根岸の家は、門から玄関までの短い距離に、まさきが沢山植わっていました。
      その根元辺りに、ひも状のクモの巣があって、それを切れないように上手く引き抜くと、その中にプクッとした形のクモが住んで居ました。
      そのクモを捕まえてどうしたのかは、ハッキリした記憶がありません。当時、生き物を捕まえるのが楽しかったのですが、夏休みの宿題に「昆虫採集」でもしない限りは、捕まえた生き物は全て逃がしていたように思います。逃がす前に死んじゃったのも、結構いましたが・・・。
      ただ、先にも書きましたが、根岸には珍しい生き物は少なかったように思います。昆虫もセミが捕れるのがせいぜいで、それも良くてニイニイゼミ、大体はアブラゼミで、クマゼミなんてのは見たこともありませんでした。トンボもシオカラトンボが殆どで、たまに赤トンボみたいな感じでした。
      根岸の山に行っても、カミキリや小型のクワガタが捕れるのがせいぜいで、下手をするとハチに追いかけられりしたものです。
      自慢にはなりませんが、足長バチからミツバチまで、ハチには6、7回刺されています。ハチに刺された時のアレルギーショックは、私には起こりそうもありません。

      根岸の競馬場の記憶は、私の中にはほとんどありません。私が小学生の頃は、全てフェンスで囲まれていて、安易に近づける雰囲気ではありませんでした。
      あの辺りは、黄色く塗られた消防署を見掛けるのがせいぜいで、あまりウロウロしていると外人に追いかけられましたので、子供にとってはちょっとした危険地帯でした。
      フェンスで囲われる前は、そんな和やかな感じだったんですね。朝鮮戦争が勃発するまでは、平和な雰囲気だったんでしょうね。
      空にはグラマンやコルセア、国道16号線には戦車とかスゴイですね。見たいようでもあり、見たくないようでもあり、何となく複雑な心境になります。
      今も考えてみれば、根本的には同じようなもんですね。ここは日本なんですよねぇ。

      私が中学生の頃は、毎朝のニュースの中心は「ベトナム戦争」でした。
      グエン・カオ・キとかジョンソン大統領、ベトコン、トンキン湾などなど、今もそれらの名前が映像と共に頭にこびり付いています。NHKの朝のニュースを見てから、慌てて学校に行くのですが、不思議と学校では「ベトナム戦争」が話題に上ることはありませんでした。同じアジアの国で起こっていることであっても、沖縄を除いては身近な問題ではありませんでしたから、余り関心が無かったのだと思います。
      日本の平和ボケは、もう既にその頃、太い根を張っていたのでしょう。外交的にも政治的にも、日本は上手く立ち回っていたのだと思います。日本の政治を主導していた自民党、それに何でも反対するだけの社会党と言う、何故か懐かしい光景を思い出します。まぁ何のことはありません、50年後の今もやっていることは同じですね・・・。

      桜木町事件のお話などは、その時、その時代を経験した人でないと分からないことだと思います。
      世相を考えると、気持ちのどこかに漠然とした不安を覚えると言うのは、本当に嫌なものです。
      幸いなことに今の日本は平和で、テクノロジーも発達し、経済規模も世界有数の国になりました。古代からの美しい風景も沢山残っていて、国民が自慢できる国になったと思います。
      ただ子供の頃は、日本を誇れる国だと思ったことはありませんでした。やはり国が貧しかったですからね。
      そんな思いは、つい最近まで残っていたのですが、今は忘れてしまったようです。忘れたことが良いことなのかどうかは、分かりません。ただ、心のどこかに緊張感は必要なんじゃないかと思います。いつまでも平和な状況に胡坐をかいていると、後悔する時が来るかもしれません。油断大敵ですね。

      本来の話から、全く外れてしまいました。申し訳ございません。
      また素晴らしいコメントをいただけることを、心よりお待ち致します。

  16. ZEPHER says:

    なんだかcubeーkojimaさんとは、多少の年齢差はあっても、当時の横浜の磯子、根岸に、異常というか、意味もなく、ひたすら懐かしい思いを抱いている点では、かなり波長があいますね。おどろいています。こんな私の書き込みに、まともに相手にしてくださる方がおられようとは。
     
     さて、「ホンチ」をご存じとは。私のころは、5月のまさきの新緑が生えそろう頃には、これは極めて盛んにおこなわれていました。今のような、コンクリートブロック塀ではなく、ほとんどが、まさきなどの植木の生垣でした。うろうろとよく探しては、キンケツなど大きめで尻の金色のものなんか捕まえると、それはうれしかった。
    バラボン、シバボンとか、捕まえた木によって強さがちがうとか言っていました。
     なんと、ネットで検索したら、「横浜ホンチ保存会」なる組織が今も存在するのです!!驚きました。5月3日瀬上市民の森で、大会を開いているそうです。外に出して、組討させて戦わせていますね。その動画もみられます。
     以前(もう20数年前?)、ホンチに関する本が出て読んだのですが、その本はどこかに行ってしまい、ネットでその本が見つかるかと思ったのですが、忘れ去られて、私も題名も忘れて発見できませんでした。ネットによると、1924年ころ、(大正年時代ですね)から始まり、昭和39年ころには、消滅消滅したとあります。横浜市、川崎市、それに千葉県の富津市の一部でのことだそうです。磯子や根岸もその一部だったわけです。
     ネットにも乗っていましたが、駄菓子屋には、ホンチを収める森永キャラメルのような大きさ形の硬い箱が売っていました。2本の上のあいた3つの仕切られた直方体の細い箱が2本入っていました。つまり6疋入れられるわけです。

     その本を読んだ記憶によれば、先日かいたように、横浜の対岸の千葉の木更津か富津などが、ホンチ喧嘩遊びの発祥地らしいです。昭和39年ころには、子供たちは、ホンチには見向きもしなくなったのは、高度成長で、テレビなどのほうがおもしろかったのでしょう。「内山 節」(うちやま たかし)さん(明治大学の哲学の先生、群馬県の藤野村に半分住んで、山村研究もなさっている人ですが、その方が、タヌキやキツネに騙された話が聞けなくなったのもほぼ、そのころだといっていました。やはりテレビの影響と、電気の発達で、暗闇がなくなってしまったのが原因だろうといっています)。でも、まだほホンチ保存会があるのはいいことですね。

     話は全く違いますが、よくゴロベースや野球をやりました。野球では、ゴムマリでしたが、球にあたらずバットが空を切る「空振り」(からぶり)を、我々は、ずっと「か{な}ぶり」と言っていました。CUBEさんのころは、もう時代がちがうので、そんなことをいう子供はいなくなったでのしょうが。私は、地域の根岸小学校にいかなかったので、横浜市全体から子供が来ていた小学校に言っていました。そこでは、「かなぶり」なんていうやつはいませんでした。私は、最初「からぶり」と聞いて「へんだんあ、かなぶりじゃんか」と思っていましたが、全員「からぶり」と発音するのです。私は考えました。これは、たぶん、いちおうみんなにあわせて「からぶり」と言っておこうと。正解でしたね。よく考えてみると、まさに空を切る、「から」なのです。

     さて、実にゆかいなことに磯子小学校から私の横須賀の中学校に来た今も仲よい友人いました。彼は「かなぶり」派でしたから、ソフトボール大会で、「かなぶり」と大声でいったところ、周りの連中から、大いに笑われましたが、彼は「かなぶり」を改めようとしませんでした。最近会って話をしたら、いまだ頑強に「かなぶり」説を維持しているのには、敬服いたしました。そのことから、「かなぶり」磯子、根岸方言だったということがわかったのです。でも、ネットによれば、あり野球解説者にも、思わず「かなぶり」と言ってしまった方がいたそうですから、もっと広く使われていたのかもしれません。「かなぶり」のほうがいいやすいのでしょう。

     あと遊びでは、メンコ。私のころは、野球の 青田、川上、水泳の古橋、橋爪において絵柄が多かったです。なんまいか、だしあって、それを積み上げ、じゃんけんで、順番にその積んだメンコの横浜市若しくはに一枚のメンコをたたきつけるのでう。その風で、上のメンコが落ちれば、それを獲得できるというわけです。
     それから、ボー玉遊び。いつも、男の子たちは、ポケットにビー玉をジャラジャラいわせながら、もっていました。道の真ん中に葉っぱみたいに囲んだ線を描き、その中に5、6つ均等にビー玉を出し合い、2,3メートル離れた線から、中のビー玉にあてて外に出すとそれ獲得できるのです。自分のビー玉が囲いの中に入ってしまうと、その人はそれでおしまいでした。

     それに階段のところで、じゃんけんをして、例えば、「ぱあ」で勝つと「のぎさんは、えらいひと」なんて、階段を上り下りしていましたね。昭和20年にもなって「のぎさん」もないもんだと、今にして遺言もいますが、まだ、のぎさんは、えらかったんですね。

     そうです、コマ回しもやりました。これはお正月頃がいちばん盛んでした。私は、硬い木でできたコマの周りの鉄の輪を付け、芯も鉄にを使いました。値段がたかいので、もっている子供は少なく、とても頑丈で長く回りましたので、いつも勝っていました。最後まで回っていたものが、次のときに、最後にまわすので、その時は先に回っているコマをねらってぶつけてもいいのです。木の大きなコマは狙いやすく、ぶつけると、可哀そうに割れてしまったりしました。

     夏は当然、蝉取り。根岸のあの山に登るとたくさんとれました。その変わり蚊に真っ黒になるくらいたかられて、手足なんか、全体に膨れていました。また、夕方はゼミの幼虫が穴から出てくるので、毎日に夕方一定の順路を探索。捕まえて。カーテンに捕まらせて羽化の様子を眺めたものです。いまでも、この歳で、ゆうがたになるとそれとおぼしき場所に出かけてよく幼虫をとってきます。孫にみせると喜ぶものですから。
     では、暑さ厳しきくれぐれもお体大切に。
     

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
      今回も懐かしさ溢れるコメントをいただき、ありがとうございます。

      「当時の横浜の磯子、根岸に、異常というか、意味もなく、ひたすら懐かしい思いを抱いている」とお書きになられているのを拝見して、思わず吹き出してしまいました。そう、気持ちは正にそのとおりなんですね。それは多分、今はもうそこに住んでいないからなんだろうと思います。昔を懐かしむにしても、もし今根岸に住んでいたら、ブログの内容はもう少し違った感じになっていた気がします。「今はもう、そこには住んでいない」と言った気持ちが、何となく影響しているように思います。子供の頃の友人に、出会う機会もありませんしね。

      「ホンチ」の同好会があるとお聞きして、早速調べてみました。今私が住んでいる地元で行われているのですね、びっくりしました。そのようなものがあるなんて、今まで聞いたこともありませんでしたから尚更でした。同好会のブログにはビデオなども載っていて、かなり気合が入っているなと思いました。やはり、どこでも誰でも、子供時代は懐かしいものなんですね。自分の記憶の中では、クモを戦わせた覚えが無いので、ただ捕まえていじくり回していただけなのかもしれません。何となく丸っこくてプクッとした感じのクモだったと思うのですが、その内に、いつの間にか捕まえることもなくなりました。ZEPHER様がお書きになられているとおり、他にいろいろな遊びが出て来て、興味が薄れたからだと思います。

      子供の頃、何をして遊んでいたのかなと思い返すと、いろいろとありました。学校での遊びとしては、「馬乗り・おしくらまんじゅう・鬼ごっこ」などがありました。「乃木さんはえらい人」は、鬼ごっこの鬼が唱える言葉でした。私たちの頃も、その言葉は現役?でした。「乃木さん」がどなたなのか知ったのは、小学校中学年になってからでしたけれど。「おしくらまんじゅう」は冬季限定で、寒い日はそれを行うことで、暫くポカポカと暖かったものです。家に帰ってからの遊びは「メンコ・ビー玉・ベーゴマ・野球・自転車・プラモデル・卓球」と、年齢が上がるに連れて高尚???になって行きました。ベーゴマは、小学校高学年の頃、学校の規則で禁止になったと思います。それは、1963年頃だったと思いますが、ベーゴマは高価なのに負けると取られてしまうので、それが原因だったのではないかと思います。子供はそうやって悔しい思いをして鍛えられて行くのですが、この頃から子供に対する過保護が始まっていたのでしょう。もっとも、禁止されて怯むような子供はいませんでした。私たちの頃の子供は、まだまだ逞しさいっぱいでした。

      野球で使うボールは、ゴムボールでした。町内の空き地で、日が暮れるまで遊んでいました。そんなある日、一度だけ軟球を使って空き地で野球をしたことがありました。キャッチャーマスクとミットは、仲間の子供が、そのお兄さんが中学校の野球クラブで使っているものを借りて来て、夫々のグラブは自前のものを持ち寄りました。ただ、ゴムボールより軟球の方が飛ぶことを認識していませんでしたから、いとも簡単にホームランを打って近所の家の植木鉢を割ってしまい、大目玉を喰らったことがありました。飛ぶ飛ばないは別にして、それが当たればどんなことになるか、ちょっと考えれば分かりそうなものですが、それをやってしまうのも、当時の子供ならではだったのでしょう。今の子供であれば、そんなことをする前に考えて止めますよね。それ以来、軟球はご法度になり、空地での野球と言えば、ゴムボールを使うと言う不文律が出来上がりました。しかしその空き地は、海苔の季節になるとそこで海苔を乾かすために使えなくなります。そのため、その時期だけは野球をすることはできませんでした。「かなぶり」の件は、どうだったのか良く覚えていません。野球ができるようになった頃、テレビでプロ野球を時々見たり、少年サンデー・マガジンには野球漫画も載っていたりしましたので、たぶん「からぶり」と普通に言っていたように思います。

      しかし、野球をするのではなく、見ると言うのは大変退屈なことでした。野球独特の間合いが退屈で、テレビでの観戦はいつも10分程度で飽きてしまいました。一度父親に、平和球場で行われている高校野球の観戦に連れて行ってもらったことがあります。その時父親から「川上の息子が出ている」と聞いたような記憶があります。しかし川上哲治氏の息子さんが、高校野球をやっていたのかどうか、調べてみたのですが分かりませんでした。私の記憶違いかもしれません。最初は本物?の野球が見れるとワクワクしていたのですが、いざ試合が始まると退屈で退屈で、早く帰ろうと父親を急かして、早々に球場を後にしたように思います。その時の行き帰りは市電で、「八幡橋-花園橋」の往復だったと思います。市電が走っていた頃は、何処に行くにも市電でした。後楽園のボリショイサーカスとか、上野公園など、東京方面にも時々連れて行ってもらいましたが、その時は横浜駅東口まで市電で行ったのだと思います。その頃、父親の勤めている会社が横浜駅の東口近くにあり、父親は市電に乗って通勤していたのだと思います。当時の横浜駅東口の線路沿いの道を、今でも朧気に覚えています。お爺さんも、私が小学生の頃は現役で、やはり市電に乗って通勤していました。お爺さんが帰宅する時刻に、近くまで迎えに出たことも時々ありました。当然、時刻は夕刻で、狭い路地の角に建っていた裸電球の街灯の光をよく覚えています。つい最近まで、その街灯を思い出す度、うら寂しい感じに襲われることがありました。お爺さん、お婆さんの懐かしい姿を思い出したからかも知れません。自分が、その時の祖父・祖母の年齢になった頃から、そんな思いも無くなりました。人間って何とも不思議な生き物ですね。

      話は変わりますが、ZEPHER様は「峰」に行ったことはございますか?あの「峰の灸」で有名な「峰」です。私の一番親しかった友人の親戚に、当時中学生だったお兄さんがいました。その人は、芦名橋の停留所から16号線を渡り、旧道に向い突き当たりにあった自転車屋の息子さんでした。その自転車屋のお宅に集合して、友人数人とそのお兄さんとで、峰の山歩きをしたことがありました。季節としては「秋口」だったように思います。例によって、どのように行ったのか記憶が全く無いのですが、まさかあそこまで歩いていくワケは無いので、多分バスに乗って行ったのだと思います。峰の灸の登り口から登り始め、NHKの電波塔の辺りまで行って、適当に遊んで引き返して来たように思います。何故「秋口」だったかと言うと、あぜ道の脇に柿の木があり、そこに沢山実が成っていたのです。それを採ろうとして友人の一人が木に登りました。しかし柿の木は、古い枝はいとも簡単にポキッと折れます。見事に友人もポキッと折れた枝のせいで、地面に落ちたのですが、その直ぐ脇には笹の葉に隠れた肥溜があったのです。もしそこに落ちていたらどんなことになったのか、今でも時々思い出しては複雑な気持ちになります。その頃は、洋光台も港南台も全て山の中でした。後年、オートバイで山道を走った時には洋光台の開発が始まっていて、見事に山が削られていて何とも複雑な思いがしたものです。その光景が埋め立てと重なったのかも知れません。その時の帰り道の記憶も無いので、行きと同じように、バスに乗って帰ったのだと思います。二度目の峰歩きは少し肌寒かったので、翌年の春だったと思います。その時も前回と同様にバスで行ったのだと思います。二度目ですから比較的スムーズに山歩きも終了して、時間を持て余すことになりました。そこで、栗木の辺りまで歩こうと言う話になったのだと思います。その頃、バスが走っている道の両側は深い山で、所々に洞穴がありました。特に意味は無かったのだと思いますが、その中の1つに入ったところ、その天井にビッシリと百足が張り付いていました。思い出すのも恐ろしい光景でしたが、他の人が刺されるといけないので百足退治をしようと誰かが言い出し、洞穴の中でたき火をすることにしました。馬鹿ですね・・・やることがいちいち。その結果どうなったかと言うと、天井や壁に張り付いていた百足が大挙して外に出て来て、慌てて逃げ帰ったのです。結構大きな百足もいたので、ビビってしまったんでしょうね。暫くの間、夢でうなされたように思います。まぁ、そんなしょうも無いことばかりして居たのですが、楽しかったですね、あの頃は。

      それではまた、よろしくお願い致します。

  17. kath says:

    はじめまして。
    小さい時に行った駄菓子屋さんの検索がしたくて
    キーワードを試しましたら、ここが見つかりました。
    坂下公園から根岸橋に抜ける住宅街の道に「はんじさん」という駄菓子屋さんが
    あったのをご存じないですか?
    手首に輪ゴムをした着物のおばあちゃんが一人でしているお店です。
    煙草とはがきの他に、駄菓子もきれいに陳列されていた小さな小さなお店で
    坂下公園の横にあったお店と比べると4分の1もあったかどうか・・・
    大人買いしようとして「自分の稼ぎで買えるようになったら来い」と言われましたが
    大人になる前に店はなくなってしまいました・・・
    懐かしい思い出です。

    • cube-kojima says:

      kath様
      初めまして。コメントをいただき、ありがとうございます。
      駄菓子屋さんの検索をされていたとの由ですが、子供の頃が懐かしいです。
      私が駄菓子屋さんに足繁く通っていたのは、1961年から1964年頃のことだったと思います。
      その頃の事を思い出しても、「はんじさん」のことは記憶にありません。
      坂下公園から根岸橋に抜ける住宅街の中にあったとのお話ですが、私は根岸橋に行く時は疎開道路を通ることが多かったため、気がつかなかったのだと思います。
      坂下公園のそばと、住宅街に入って直ぐの道沿いに友達が居ましたが、「はんじさん」と言うお名前は聞いたことが無かったと思います。
      コメントをいただいたのに、ご期待に添えなくて申し訳ございません。
      kath様の投稿をご覧になって、「はんじさん」をご存知の方からコメントをいただければ良いのですが・・・。
      私は根岸を離れてから36年近く経ちますので、当時の友達とも疎遠になっています。
      そのような訳で、昔の情報を集めることは難しい状況です。
      小学校・中学校の同窓会でも開かれれば、確かめられると思います。
      もし何らかの情報が得られれば、記事を掲載させていただきます。
      またお気づきの点などございましたら、コメントをいただければ幸いです。
      よろしくお願い致します。

  18. kath says:

    お返事ありがとうございます。
    わたしは小さかったので記憶も曖昧なのですが
    「はんじさん」と祖母が呼んでいただけなので本当かわかりません。
    cube-kojimaさんが駄菓子屋さんにいらしていたころはわたしは生まれていないので
    わからなくて当然ですね。

    米軍住宅から下へおりる山道がありました。
    そこをおりてすこし駅に向かったところでした。
    看板はなくて木製の茶色い小さな建物でガラスがはめられた木の扉というか
    日本の昔の庭に面した廊下のようなところの扉です。
    ちょっと難しいですね。すみません。

    多分、この辺です・・・↓
    https://www.google.co.jp/maps/dir//〒235-0002+神奈川県横浜市磯子区馬場町6−11/@35.4222108,139.6268905,209m/data=!3m1!1e3!4m8!4m7!1m0!1m5!1m1!1s0x60185cb8e1eb580f:0xd173ca95f286555c!2m2!1d139.6274377!2d35.4222108

    • snoopy says:

      Snoopyです。kath さんのコメントを拝見し「はんじさん」についてお話しします。とはいってもcube-kojima さんが以前お住みになっていたところよりだいぶ離れていてご存じないのも当然と思い、私は歩いて数分の所におりましたので横入りしてしまいました。cube-kojima さんにはあつかましく失礼かと存じますがお許しくださいね。「はんじさん」は、私もお名前は確かではありませんが(お名前を知っているkath さんには何もお役に立てないと思いますが)、一段上がったガラス戸のお宅で駄菓子屋というより、小奇麗でkath さんのおしゃるとおりタバコ屋のような気がします。私は訪れたのも家人の使いだったような気がします。何度か行きましたが、子供には敷居が高かったような気がします。ご本人も駄菓子屋のおばさんのような印象ではなく、きりっとした感じだったような…定かではないですね。ただ、怖い方ではなかったのですが、子供の扱いに慣れていないような気がしています。
      kath さんは私たちより一回り以上お若いのではと察しております。kath さんが、おばあさまのお宅に遊びに行ったとき「はんじさん」に行かれたのか、長くご近所に住まわれていたのか、わかりませんが、近くから米軍住宅に行かれる山道は「アケビの実」目当てにたまに行き、その後散歩に訪れた懐かしい場所でしたので、ついこのような形でコメントさせていただきました。従いまして「はんじさん」のおばさんのその後などについては残念ながらお答えできません。ご了承ください。kath さんがお知りになりたいのは「はんじさん」のことだけなのでしょうか。読み直すと投稿に躊躇しそうで、また一時このブログから退席したばかりなのにと思いながらcube-kojima さんのお人柄に甘えてコメントしてしまいました。悪しからず。

      • kath says:

        とても懐かしいです。
        一段あがったガラス戸です!
        はんじさんのおばあちゃんはとても厳しい人なのです。
        たくさん買おうとすると「今日はもう終わり」と叱られ
        奢る奢られると言うのは子供の言うことではないので気分が悪いと叱られ
        お金はあると言えば、自分で稼いでから言ってちょうだいと叱られます。
        うちの犬は「だちんをせびるわけでもなく必要なものだけ買って帰る」から
        大好きらしく、でもほかの犬は嫌いで、躾の出来ていない子供も嫌いです。
        それから、駄菓子はすべてガラスケースか手の届かない高いところにあります。
        それらはお願いしておばあちゃんにとってもらうのでした。
        わたしは祖母に厳しくされていたので、はんじのおばあちゃんにも可愛がってもらえました。
        でも、お行儀の悪い子には厳しいのです。

        あけび、なっていましたね。
        お水も湧いていたので、犬は飲んでいました。
        米軍住宅のブランコはゴムでしたが、坂下公園のブランコは板でしたので
        それに乗りに行きました。
        その時、公園の横の駄菓子屋さんも行きましたが、わたしははんじさん派でした。
        お店もきれいでお掃除が行き届き、とても気持ちがいいからです。
        高いところにあるポッキーを買おうとしたら「ふじスーパーで買いなさい」
        と、言われてなぜかと聞くと
        「これは大人が両替するのに買うものだから」と言われました。
        お小遣いを持っているというと「自分で稼いだお金で買いに来なさい」と言うのでしたが、稼げるようになる前になくなってしまいました。
        残念でした。
        でも、ここでsnoopyさんのコメントで懐かしくて嬉しく思いました。
        googleで見ると、まだ木造のお家が何軒か建っていて懐かしいですね。
        ざくろや渋柿もありましたね。
        ほんとうに懐かしくて嬉しいです。
        ありがとうございました。

    • cube-kojima says:

      kath様、snoopy様
      こんにちは。
      さっそくsnoopy様から情報をいただきました。ありがとうございます。
      このブログは、昔の根岸・磯子のような大層なタイトルを付けていますが、私が知っていることなどはたかが知れています。
      ですから、皆様のこのような情報交換にご利用いただけるのであれば、大変嬉しく思います。
      ちなみに私が通っていた英語の塾は、そのちょっと先を右に入ったところにありました。
      kath様がお書きになられた、山への階段に続く道の途中でした。
      kath様とは育った年代が違うことが分かりましたが、一般的に駄菓子屋さんはいつ頃まであったのでしょうね?
      西町にあった駄菓子屋さんは、確か私が高校生の頃もあったように思います。
      その駄菓子屋さんの2~3軒隣に歯医者さんがあり、高校生の頃(1969年頃)にその歯医者さんに通っていました。
      虚覚えですが、チビッ子達がよく出入りしていたように記憶しています。
      記憶が定かではない昔のことを掘り起こすのは、大変労力が要りますよね。
      しかし、どこかに疑問をぶつければ、何かしらの情報は得られると思います。
      昔の情報を掘り起こすには、野毛にある横浜市中央図書館などは最適かもしれません。
      まだお出掛けになっていらっしゃらなければ、一度覗いてみるのも面白いかと思います。

      • kath says:

        懐かしい出会いがありました。
        ありがとうございました。

        わたしが知っている駄菓子屋さんは
        坂下公園のそば。おじいさんとおばあさんがいておじいさんはなくなりました。
        十数年前までやっていました。

        朝から開いている駄菓子屋さんで中学のそば?駅に行く途中?
        近所の学校のものを売っているようでした。
        駄菓子屋と言うより菓子パンとか文具とか?
        実は目に留まっただけで、一度も行った事はありません。

        根岸橋のそば。
        大柄のおばさんでしたが、お金を持っているとこれもあれも買えるよとすすめる
        はんじさんとは対照的な人で、子供心にいやな感じでした。
        近所にコロッケを売ってるお店もありました。
        たぶん、ボーリング場に帰りに寄りました。

        わたしはcube-kojimaさんよりずっと年下だということがわかりましたけれど
        きっと町並みはあまり変わっていないと思います。
        馬事公苑(?あってますか?)で、よく犬の散歩をしたり遊んでいました。

        • cube-kojima says:

          kath様
          ご返事ありがとうございました。
          坂下公園近くの駄菓子屋さんは、今から十数年前までやっていたとの由、大変懐かしく感じました。自分が小学生の頃からあったのですから、何か特別な感じがします。kath様のお話をお聞きする限りでは、少し前までかなりの数の駄菓子屋さんが残っていたのですね。私は1977年の暮れに現在の所在地に越して来ましたが、この辺りは新興住宅地と言うこともあり、昔ながらの店舗と言うのは殆どありませんでした。当然、駄菓子屋さんなども無く、家の近くには生協とイリクストアと言うスーパーがあっただけでした。そのような感じでしたから、駄菓子屋さんがいつ頃まであったのか、皆目見当がつきませんでした。
          それと、米軍住宅近辺の感じですが、私が子供の頃とは随分と様変りしていたのですね。私が子供の頃は、あの辺りをうろついていると外人に追いかけられたことが何回かあり、一種の危険地帯でした(笑)。その頃、現在の旧競馬場の辺りはフェンスで囲われていて、中には入れませんでした。現在の公園のように整備された時、私はもう根岸に居なかったので、あそこに遊びに行ったのは随分後年になってからでした。
          私が現在住んでいるところは、昔は田圃と畑、そして山だけの地域でした。そこを開墾して住宅地にしたので、根岸や磯子のように歴史を感じるような場所・建物がありません。それだけに、根岸・磯子を思い出すと、懐かしさが増すように思います。

  19. kath says:

    こんにちは。
    実はいままでこちら記事以外をきちんと読んでいなかったので
    いろいろコメントなども拝見しました。
    根岸小学校は見下ろすと屋上にプールがあるのが見え、屋上で泳げるなんて
    すごいなあと思っていました。
    マンモスプールにも行った事があります。
    父はあのプールをなぜか不衛生だと決めつけ、連れて行ってくれるのは
    磯子プリンスホテルのプールでしたが、わたしはマンモスプールが好きでした。
    プリンスホテルはなくなりましたよね?
    大昔は、「はんじさん」の通りより外側(?)にある大きな通りに面して
    牛を飼っている農家があって、その後にバスの車庫になり、マンションになったそうです。
    「外人に追いかけられた」とおっしゃっていた辺りに、ろうあの子供がたくさんいて
    祖母の話ではみんな親戚だそうですが、小さなわたしには異世界に迷い込んだような
    不思議な気持ちで彼らの会話を聞いたり遊んだりしていました。
    野良猫もたくさんいて、うちで飼えないものかと何度も母に交渉したのを覚えています。
    わたしが行っていいのははんじさんの通りまでだったので、あの通りはよく探検しました。
    お墓やお蔵や焦げ茶色の木で出来たガラスだらけの家など物珍しく
    また細い迷路のような通りが家々の間に張り巡らされて車も通れず安全だと思い
    あちこち行きましたが、いま考えれば人目がないのは危険だったことでしょう。
    昔の日本ならではの安全さがいまはないので、いまなら出来ませんでしたでしょう。
    小さなわたしにとっては、あの頃のあの辺りはまるで夢の中のように幸せな思い出でいっぱいなのです。
    これからもこのブログをぜひ更新して、根岸のお話を読ませてください。

    • cube-kojima says:

      kath様
      ご返事ありがとうございます。
      マンモスプールが開園したのは、私が丁度中学1年の時の7月でした。
      勿論、我先にと通いました。家から歩いて5分程度の距離でしたから。
      マンモスプールは深さが1.5mあり、プールの水がぐるぐる回るのが売りでした。
      当時、近所にはそんなプールはありませんでしたから、話題性は結構あったと思います。
      衛生面でも、子供用のプールは別になっていましたから、危惧する程ではなかったと思います。
      kath様は、磯子プリンスホテルのプールに連れて行ってもらっていたとの由、実に羨ましい限りです。
      磯子プリンスホテルと横浜スカイビルのプールが、当時の高級プールの双璧だったのではないかと思います。
      設備も雰囲気も、抜群に良かったと記憶しています。
      ただ、非常に高かったので、おいそれとは行けませんでした。
      「はんじさん」の外側の道と言うのは、疎開道路のことでしょうか。
      あの道沿いには小・中学校の友人も多く住んでいて、懐かしい思いがこみ上げてきます。
      私も小さかった頃は、あっちに行くな、こっちに行くなと良く言われていました。
      当時、八幡橋から間門へ向かう道には市電が走っていましたので、「電車道」と呼んでいました。
      小さな頃は、「電車道を渡って向こうに行くな」と言われていたような記憶があります。
      向こう側には岸壁がありましたので、小さな子供には危ないと考えていたのだと思います。
      私の住んでいた原町も細い道が多く、自宅の周りで遊んでいる分には、親も安心していたのではないかと思います。
      今思えば、自分の子供時代は、確かに夢の中にいたような感じがします。
      当時はお爺さん、お婆さんが健在で、若い両親が居て、小さな弟との6人家族でした。
      今に比べれば遥かに貧しく、何も無い時代だったのですが、あの頃に戻りたいとよく思います。
      最近はネタ切れで、根岸・磯子のことを記事にできません。
      しかし、皆様からいただくコメントのお陰もあり、断片的な記憶が整理されつつあります。
      それら断片的な記憶が、1つの文章に纏められるようになったら、また記事を掲載するつもりです。
      小さかった頃の根岸での思い出を、kath様から、またコメントいただければ嬉しいです。

  20. アッキ says:

    ご無沙汰しております。(2013年以来でしょうか)
    久々に拝見させて、根岸を懐かしむ人たちに共感しております。
    夢の世界・・まさにそうかもしれません。根岸駅から3分ぐらいのマンションで、当時は人との交流も盛んでした。友達もそこにはいましたし、夕食のおすそ分けや、時には下の階の人がバスクリンを紙に包んで持ってきてくれたり、そこには今は失われてしまった人情の世界がありました。私はかろうじてそれを味わうことができたと思います。
    マンモスプールは歩いて5分ぐらいのマンションでした。特に洞窟みたいなところが
    好きでした。

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      お久しぶりです。コメントいただきありがとうございます。
      ご返事を差し上げるのに時間が掛ってしまい、申し訳ございませんでした。
      アッキ様がお書きになられているように、昔を思い出すと、正に夢の世界に居るような気がします。
      実家から借りて来ている昔のアルバムを見ると、そこには隣近所の方達と一緒に写っている自分が居ます。
      それは主に小学生の頃の写真なのですが、近所の家との交流はとても多かったです。
      近所のおばさんやお兄さん、そして友達と一緒に写っている写真が沢山あります。
      それらの一つ一つは、どのような時に撮られたものなのか思い出すことはできませんが、懐かしさでいっぱいになります。
      一緒に写っている方の多くが既にお亡くなりになっていますので、その思いはより強くなるようです。
      前回コメントを頂戴した時には母は健在でしたが、一昨年の11月に亡くなりました。
      昔のアルバムには、若い頃の母の姿が沢山写っていますが、そのアルバムはもう何年も借りたままになっています。
      父も、若い頃の母と会いたいだろうと思うと、そろそろ返さないといけないなと思っています。
      前回のコメントにお書きになられていた「根岸中学校近くのブラジル領事館?」ですが、あれは「海外移住センター」と言う建物でした。
      海外に移住する日本人のために研修等を行う施設でしたが、ブラジルへの移住が大きな比重を占めていたようです。
      幼いアッキ様に涙ながらに手を振ってくれたのは、もう日本ともお別れと言う気持ちが強かったからだと思います。
      海外への移住推進は昭和27年から始まったそうですが、平成6年頃には需要が無くなり、お役御免になったようです。
      その結果、根岸中学の隣にあった海外移住センターは閉鎖され、今では跡地に大きなマンションが建っています。
      世の中の移り変わりにより道路も建物も大きく変貌しますので、昔はどうだったかは写真で確認するしかありません。
      自分が記憶している情景と当時の写真を比べてみると、何か食い違うところも多々あります。
      写真に写っているのが真実なのですが、歳のせいなのか、それはそれで良いかなと最近は思うようになりました。
      小さかった頃の思い出は歳と共に薄れて行きますが、何かに記録するなどして、ご自分の思い出・記憶を大切になさってください。

  21. ZEPHER says:

    KOJIMA様 実にお久しぶりです。最後の投稿が、昨年の8月5日ですから、ほぼ1年弱で申し訳ありません。個人的な理由で、書いている余裕がありませんでした。こんな年になっても、人生いろいろなことが起きるものです。まあ、歳相応に元気に過ごしています。

     その間、いろいろな話題が出ていますね。比較的私よりもずっと若い方々が多いようで、プリンスホテル、マンモスプール、根岸駅等 私が20歳を超えたころのことです。駄菓子屋さんの「はんじさん」は、みなさん、大いにいかれたようですが、私は、まったく知りません。場所も見当がつきかねます。いつぞや書いたように、坂下公園から、山沿いに根岸小学校に向かってすぐのところにあった駄菓子屋さんは、「さかもと」でした。そこには、学校に上がる前から、昭和24,5年ころでしょうか、親からたまに5円をもらって、よく通っていました。一時期、貸し自転車もあって、AからE(Aが一番小さい)があって、30分単位で借りていました。その値段がいくらだったかは、もう忘却の彼方。

     KOJIMA様の「峰」のこと、ずいぶん遅ればせながら、覚えていることを書いています。小さいころは、さすが、根岸からは、余りにも遠いので、峰にはいったことはありません。既に書いたことで恐縮ですが、岡村のプリンスホテルのあったところの裏辺りの田畑や雑木林にはよくゆきました(その以前は、プリンスホテルは、西部が戦後買い占めた旧伏見宮邸が存在していました。大きな鉄門があって、森閑としていました。そのあたりまでは、兄たちや、近所のお兄さんたちといっしょに、よくゆきました。どういうわけか、そのところに田畑を所有していた下町の「高橋」さんという方がいて、そこのお兄さんに連れて行ってもらったのが最初です。今から思えば不思議なくらい、カブトムシ、ノコギリクワガタ、コクワガタ、チョウでは、ゴマダラチョウ、アカシジミ、ウスイロオナガシジミ、カラスアゲハ、モンキアゲハなど、根岸にはいない虫、チョウがたくさんいました。みごとなほど典型的な里山だったのです。)。

     峰は、最初にいったのは、もう高校生になってから(昭和35年、1960年ころ)です。軽い自転車を買ってもらい(それまでは、業務用の重い大きな自転車で、到底遠出する気はおきません。)根岸から屏風が裏から京浜急行の下をくぐって、左に折れて、ずっと行くと「栗木」(今は根岸線が通っています)につきあたり、そこを右に折れて行くと峰に達するわけです。もちろん、峰まで、舗装なんかありませんでした。そこを右の折れないでまっすぐに行くと、氷取沢に行くのですが、とても細い道で、自転車でも行く気は気は起きませんでした。今の氷取沢への道路の両側の商店や家々を見ると、まさに隔世の感があります。)

     峰はご存知の通り江戸時代から有名なお灸で有名でしたから、自転車が通れる道はありましたが、誰にも会わず、男の子の私でさえ、走りながらちょっとおそろしい気がしたくらいです。5月ころには、途中のコナラ林にハルゼミがたくさん鳴いていましたが、とっくに宅地になって、絶滅したのでしょう。峰には、さすがお灸をすえにもらいに行ったわけではありませんから、お寺の中には入ったことはありません。円海山の頂上にあるNHKの電波中継所まで行って、時にはそこから西に降りて鎌倉街道を朝比奈峠まで行き、金沢八景から引き返していたりしました。円海山の南側に、「田代池?」という小さな沼のような池がありました。もう、うっそうとしたところで、まるで、ジャングルの中にいるようで、不気味でした。今でも、横浜のチベット?と言われるくらいの自然の唯一残ったところで、環境は厳しく保護されているようです。自然観察のグループが、鳥、昆虫、植物など生物相の調査、研究を詳細にしているようです。ネットで、読んでいると飽きません。なお、4,5年前に車で、峰に行ったのですが、円海山には、鉄のゲートがあって、立ち入り禁止。歩いて、飢えまで行ったのですが、またバリアーがあって、上まで行かれませんでした。

     お灸といえば、銭湯に行くと、背中にお灸の後をつけた年寄りがたくさんいましたね。果たしてお灸って、健康に効果があるんでしょうか。

     たしか、今は、横浜横須賀高速が、あの辺りをぶった切って、通っていますが、まだまだ横浜としては、自然が守られているようです。昔々もいいところですが、円海山の手前(杉田まで、市電で行って、そこから山道に入って、登りはじめました)からは、父に連れられて、鎌倉アルプスを歩いて、鎌倉まで行ったことがありました。とても、忙しい父が経路を考えて、連れて行ってくれたわけで、とても楽しかった思い出があります。

     峰に関する昔の記憶はこんなところですが、昭和40年代の半ば、一時家を離れて半年ばかり栗木のあたりに住んでいたことがありました。その頃は、もう、氷取沢あたり宅地開発は、ものすごいもので、あっという間に、宅地と家だらけになってしまったのは、私としては、誠に遺憾な気がしますが、しょせんゴマメに歯ぎしりでしょう。

     

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      お久しぶりです。お忙しい中コメントをいただき、ありがとうございました。
      私は、4月末から5月初旬に掛けて、またまた入院していました。元々肺疾患を抱えていたのですが、風邪をひいた際に菌が肺に入り込み、呼吸困難になりました。人生2回目の救急車と入院でした。2回目となると手順?が分かっているためか、不思議と落ち着いた気分でした。救急の検査を受けた後に集中治療室に入れられたのですが、4日間も集中治療室から出られなかったので、病状はかなり悪かったようです。11日間の医療費合計が120万円強でしたから、如何にいろいろな種類の検査と治療が行われたかが分かります。勿論、支払いは3割負担ですし高額医療費補助制度もありますので、実際の支払いはずっと少額で済みました。本当に、社会保障制度には感謝しなければいけませんね。そのようにいろいろな検査と投薬を受けた後、11日目に退院したのですが、体力がガタ落ちしていて、家に帰って来てからもかなり不自由な思いをしました。10日ばかり前からやっと以前のような状態に戻り、今は普通に過ごせています。

      駄菓子屋のサカモトで、貸し自転車をやっていたとの由。私も坂下公園には良く遊びに行きましたし、サカモトにも出入りしていたのですが、貸し自転車の件は憶えていません。その頃には、もうやっていなかったのかもしれませんね。当時私は小学校5~6年生でしたから、1963~1964年頃のことです。
      貸し自転車と言えば、私の家の近くに自転車屋さんがあって、そこで自転車を借りることができました。自転車に乗れるようになってからは度々自転車を借りていたのですが、その度にお小遣いをせびるのを見かねて、祖母が自転車を買ってくれました。その時は嬉しくて、ほぼ毎日のように暗くなるまで自転車に乗っていた事を憶えています。その自転車屋さんは今もあって、今はオートバイ屋さんになっています。
      その自転車屋さんのはす向かいにお菓子屋さんがあり、そこではアイスやチョコレートなどをよく買ったのですが、「池田屋」さんと言うお店だったか、確かな名前は忘れてしまいました。また、電車道沿いのお肉屋の「不二屋」さんには、家のお使いでよく買い物に行かされました。「ポテトとコロッケ」が美味しかったのを憶えています。私が子供の頃からあったお店が、今も健在だと思うと嬉しくなります。
      根岸市場にも、度々買い物のお伴をさせられました。私の家(原町)からだと、下町の路地を抜けて根岸市場に行ったのですが、懐かしいです。市場が下町から坂下町に移転して、その後火事になり、再開されなかったのは残念でした。母親の実家が近くにありましたので、「ハマ市場」にも良く連れて行かれました。市場の真ん中辺りに「旭屋」さんと言う靴屋さんがあり、そこで運動靴を買ってもらったことを思い出します。あの頃の運動靴と言えば、ビニールの靴でしたよね。

      私が初めて氷取沢に行った時は、バスが通っていました。このブログにも書きましたが、金沢との境界の山で行き止まりになっていました。それは私が高校1年生の時でしたから、1968年になります。1963年当時の地図を見ますと、栗木の交差点は峰・杉田・笹下方面への道は太いのに、氷取沢に行く道は農道さながらの細さです。ZEPHER様が峰に行かれたのは、この頃だったのではないでしょうか。1968年には、その細い道が拡張されバスまで通っていたのですから、かなり急ピッチで土地の開発がされて行ったのでしょうね。その後、1975年に二本松トンネルが開通して、金沢文庫まで直通で行けるようになったのですが、現在の様子は、1968年頃と比較しても隔世の感があります。私は大学生の頃に、この通り沿いのガソリンスタンドでアルバイトをしていたことがあります。1971年の事でしたが、それは「富士油料」と言う会社の「共同石油」ブランドのスタンドでした。今は「エネオス」ブランドになり、規模も当時よりもかなり大きくなっていますが、ほぼ同じ位置にあるようです。その頃は周りにお店は殆ど無くトンネルも開通していませんでしたから、交通量も今より遥かに少なかったように思います。今でこそ栗木から16号線の杉田まで広い道が開通していますが、この頃は工事中で通行禁止になっていました。ですから、栗木から杉田方面に出るには浜中学校前を抜けて杉田商店街に出るしかありませんでした。また、国道16号線からこの道に入るには、富岡または谷津坂の山を越えて来るしか方法がありませんでした。これは、二本松トンネルが開通するまでのほんの数年間のことでしたが、懐かしい思い出です。

      栗木と言えば、打越から栗木に通じる道沿いには、何人かの知人が住んでおられました。この方達はもっぱらアマチュア無線の知り合いだったのですが、大きな竹やぶを過ぎると広い庭の家があり、とてつもなく大きなアンテナを立てていた方が居ました。今でもその方のコールサインを憶えていますが、果たしてお住まいはどの辺りにあったのか、今となっては見当が付きません。それは高校3年生の頃ですから、1970年頃だったと思いますが、当時と比べても現在の道沿いの景色は大いに異なっています。正に「今は昔」と言いたい気分になりますね。年寄りの良い点は、昔の風景や生活に思い出を持っていると言うことでしょうか。今とは比較できないくらいに侘しく、貧しい思い出も多いですが、だからこそ貴重な思い出なんでしょうね。
      長くなってしまいました。それではまたよろしくお願い致します。

  22. ZEPHER says:

     集中治療室にお入りになったとのこと、普通に暮らしておられるとのことですが、
    呼吸器のご病気があるそうですので、今後もくれぐれも、健康にはお気を付けください。でも、当面安心しました。よかったですね。

     kojimaさんの書き込みで、氷取沢への道が、以前は、細かったとのこと、私の記憶は、間違っては、いませんでしたね。そもそも、「氷取沢」という場所があることも、その読み方は、ずいぶん、大きくなるまで知りませんでした。実は、昭和46年9月から翌年6月ころまで、結婚して、上中里に住んでいました。それで、当時は、もう、氷取沢への舗装道路はできていましたが、道のわきはお店や建物はほとんどありませんでした。ガソリンスタンドの存在も覚えていませんが、まさにそのころ、kojimaさんが、その道路沿いのスタンドで、アルバオトをしていたとは。もしかしたら、その前を通ったかもしれませんね。

     氷取沢の手前への左側の斜面では、大規模な宅地開発の真っ最中で、ブルドーザーが轟音をたてて、雑木林を宅地にしていました。私はその後中区に転居し、子供を連れて、円海山、氷取沢あたりにハイキングに行きました。あのあたりは、まだまだ、自然が残っていて、5月ころの新緑は美しかった。なお、つい3,4年前に当時住んでいたアパートを身に言ってきたのですが、すでに取り壊されていました。氷取沢への道路も、二本松トンネルができたのでしょうか、道の両側には、店舗や家がぎっしり建っていました。なお、円海山のそばの池は、「瀬上池」でした。
     
     WINNDOWS10にしたので、取扱いに、慣れず、何回か返事を書いたのですが、うまくこれにのりませんでした。これも果たしてどうなるか、いったん、茲で、やめて、うまくいったら、続きを書きます。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      こんにちは。
      お気遣いいただき、ありがとうございます。
      今は体力も元に戻り、普通に生活しています。

      私が最初に氷取沢に行ったのは、高校1年生だった1968年のことです。
      学校の教科に地学と言うのがあって、その課題整理のために地層を眺めに行きました。
      上大岡駅から出ているバスに乗って氷取沢まで行ったと思うのですが、詳細は忘れてしまいました。
      氷取沢で行き止まりだったせいかバスの本数は少なく、帰りは歩いた記憶があります。
      道路の左側は一面の畑で、風が吹くと砂埃が舞うような感じで、何も無かったように思います。
      その時は、道路の広さも今ほど広くなかったような気がします。
      途中でバスに乗った記憶がありませんから、たぶん、杉田駅まで歩いたのだと思います。
      さすがに50年近く前のことですから、殆ど忘れてしまっていますね。

      ZEPHER様がお書きになられた氷取沢の手前の斜面と言うと、谷津坂駅に続く宅地開発だったと思いますが、開発前はあそこが全部「山」だったわけですから驚愕します。
      今、谷津坂の辺りは能見台と言う名前になっていますが、あそこの住宅地は奥が深いです。
      富岡の奥の山も宅地開発され、丁度上中里の交差点に繋がっています。
      磯子もそうですが、今まで山だった所が切り崩され宅地になると、元の場所がどこだったのか戸惑うことがあります。
      高校の時の友人が日野の奥に住んでいたのですが、その辺りは港南台と言う住宅地になり、友人に教えてもらうまで、元の家との位置関係が全く分かりませんでした。

      中学生の頃、円海山には何回か行きましたが、高校生の時に行った際は、既に洋光台の開発が始まっていました。
      円海山からずっと続いていた深い山が切り崩され、一面茶色の平坦地に変っていました。
      されを見て、何か複雑な心境になったことを憶えています。

      Windows 10 に変えられたそうですが、最初は戸惑いますよね。
      私は仕事の都合がありますので、当分の間 Windows 7 を使い続けることになると思います。
      OSを変えると、以前のOSにあった機能が何処にあるのか探さなければならず、かなり面倒なことになりますよね。

      まだ梅雨は空けていませんが、毎日暑い日が続きますね。
      どうぞお体をご自愛ください。

      • ZEPHER says:

         いよいよ本格的な夏になりました。静岡は、やはりかなり蒸し暑く、とくに、夕方の凪には、風が止まって、いよいよ暑いのです。エネルギーを使って申し訳ないのですが、さいきんクーラーを使いはじめました(もったいないという気持ちが抜けきれません。)、子どものころのわたし家では、扇風機もお客様がきたときだけしか使えませんでした。今でも、なるべく、クーラーもぎりぎりまで入れず、温度設定も、28度にしてありますが、もう余命もいくばくもないので、少しは贅沢をしてもいいかなと思って使っています。ラジオやテレビでも、お年寄りは、家の中でも熱中症になるとのことで、クーラーを使いましょうって、言ってくれているので、使わせていただいています。kojimaさんも、健康上の理由があるのですから、適度にクーラーをお使いください。われわれの世代は、エネルギーは、あまり浪費してはいないのですから。

         氷取沢のこと、詳しくお知らせいただきありがとうございました。私が、氷取沢を知ったのは、新居を探して磯子駅あたりの不動産屋でした。それに、氷取沢行きもバスもあって、この行く先の「氷取沢」って、なんて読む?思ったりしました。磯子区内で、読めない地名があるなんてびっくりしましたね。いったい、あの名前の由来は何なんでしょう。氷室用の「氷」でもほんとに取ったのでしょうか。

         原町は、確かに道が直角に入り組んでいましたね。下町から、八幡橋幼稚園に行くときは、いろいろな経路があって今日はどうやって行こうかと楽しんでいました。
        当時まだ、一部ですが畑がありました。子どもの私でさえ、狭い道と思ったくらいですから、今行ったら、本当に狭い道なんでしょう。また、家の周りはすべてマサキの生垣で、ブロック塀は、何とも興覚めですね。

         kojimaさんのおっしゃる「池田屋」というお菓子屋さんは私は記憶にありません。自転車屋さんのことですが、西町と原町を分ける?太い道路が八幡橋と間門に通じる道に突き当たるところの左側に大きな自転車屋さんがありました。名前は忘れましたが、かなり大きな自転車屋さんで、パンクをした時には、いつもそこで直してもらいました。親切なお兄さんがいて、修理の過程を説明してくれたりして。
         また、パンクではなく、タイヤの空気入れのバルブのゴムが劣化して、それだけを取り換えてもらった後に、バルブの口に唾をつけて、完全に空気が、止まっているかを確かめるのです。静岡で、車の空気圧をよく見てもらうガソリンスタンドあるのですが、一番年配の方(たぶん、80歳くらい?)は、今でも必ず自動車なのですがタイヤのバルブに唾をつけて、空気漏れがないか、確かめるのです。それを見て、昔、自転車を親切に修理してくれた、その自転車屋さんのお兄さんを思い出します。(グーグル地図で調べてみましょう。まだ、自転車、バイクなどの商売をやっているかもしれません。)

          それから、坂下公園の近くにできた新しい根岸市場が、焼けて、再建されなかったとは、初めて知りました。以前の根岸市場には、ずいぶん母に連れられてゆきました。根岸市場の表側の入り口の右側に八百屋さんがあり、当時は、配達をしてくれました。左側は、たしかお菓子屋さん?でしたか。後、奥の方の店のことは覚えていません。遠足の前も日に、滅多にないことですが、100円をもらって、根岸市場に、自由に買い物に行きました。まず、バナナを買い(当時は、1本30円でした。この出費は痛い、でも、一人で1本食べられることなんか、ありませんでしたからうれしかったですね)、後は、キャラメル、ガム程度。ふだん、小遣いなんてもらえませんでした。
         それから、市場の表側の道のわきで、あさりを剥いて売っているおばさんたちがいました。根岸の海が埋め立てられていなかったので、アサリがたくさんとれたのです。そのあさりは、大きく太っていて、安いかったのでしょうか、母がよく買ってきて、生姜しょうゆで、さと湯がいて食べるとそのうまいこと。今のスーパーのアサリには、もうそんな味わいはありません。

         ハママーケットにも、よくゆきました。ちょっと遠いのですが、店がゴチャゴチャたくさんありましたね。鼈甲飴屋さんがあって、買ってもらいたかったのですが、そんなこと、いいだせる家庭状況ではないことはよくわかっていたので、とても、買ってくれなどとは、いうべくもなく、ただ眺めているだけでした。それだけに余計記憶残っているのでしょう。小島屋さんという鰻屋さんに、一度だけ連れて行ってもらいました。まさに、一生に一度の思いでです。

         手前の浜書房には、有隣堂にもよく行きましたが、一番身近で、割合本の寮も多かったので、よくいったものです。高校生のころには岩波新書なんか、得意げに注文したました。特によく、覚えているのは、E.H ノーマンの名著の「近代日本の成立」(岩波現代叢書)も浜書房で、注文し、今でも本棚に残っています。あと岩波新書では「零の発見」も面白かった。これは、ロングセラー本です。

         また、とりとめのない話で失礼いたしました。でも、こんなことを書いても、まともに、付き合ってくださるkojimaさんは、貴重な存在です。ぐうぜんとは、いえ、あの根岸で育ち、八幡橋幼稚園に居って通っていて、こういう風にめぐり逢えるなんて、実に不思議で、実に楽しいものです。kojimaさんがこういうブログを作ってくださったおかげです。感謝に耐えません、ありがとうございます。では、くれぐれもお元気でこの特に今年の暑い夏をしのいでください。

        • cube-kojima says:

          ZEPHER様
          こんにちは。
          このところ、毎日暑いですね。昨夜はあまりの暑さに、窓を開け網戸にしたまま眠りました。こなことをすると、いつもなら大抵体が冷えて調子悪くなるのですが、今朝は快調でした(笑)。私は堪え性が皆無なので、一ヶ月以上前からエアコンを使っています。体が冷え過ぎないように注意していますが、せっかく取り付けたエアコンですから、どんどん使っています。我慢なさることは無いと思いますよ。近頃の夏の暑さは尋常ではありませんから、体調を崩さないためにも、どんどん使いましょうよ。
          私たちが子供のころは、暑い暑いと言っても32℃程度でしたよね。それが最近は毎日のように35℃とか38℃とか言われているわけですから、エアコンの無い生活は考えられません。例え使わなくても、いざとなればコイツがあると思えば、幾分涼しく感じるのかも知れませんね。

          氷取沢のことは、私も余り知りませんでした。
          学校で聞いた話では、鎌倉時代のことだそうですが、氷取沢の山中に氷穴のようなものがあり、そこの氷を切り出して鎌倉に運んでいたそうです。だから「氷を取る」と言う地名になったそうですが、本当かなぁ~と何か納得が行きませんが、何となく辻褄は合っていそうです(笑)。

          原町はそうですね、道が随分と入り組んでいましたね。メインになる太めの道路が無く細い道が何本もあったので、なかなか分かり難い町内でしたね。畑だか人の家の庭だか分からない道を通って、電車道に抜けたりしていました。私が引っ越すまでは空き地も所々あったのですが、今ではそれら全てにマンションが建っているみたいです。マサキと言う木は、あの当時どの家にもありましたよね。私の家も、門から玄関までマサキの垣根がありました。古いアルバムを見ると、祖父と祖母、そして父と母と弟と私、家族全員で写っている写真が何枚も貼ってあります。今、そこに写っている家族は半分の人数になってしまいましたが、写真を見るとあの頃に戻ったような気になります。50年、60年なんてあっと言う間ですね。

          西町と原町を分ける太い通りの角にあった自転車さんは「内田自転車店」と言う名前でした。私も子供の頃はよくお世話になっていました。今はホンダのオートバイ屋さんになっていて、名前は「モーターサイクルショップウチダ」に変っています。ここで貸し自転車を借りていたのは、今でもハッキリと憶えている良き思い出です。自分の自転車も、このお店で祖母に買ってもらいました。お菓子屋さんは、この太い道を電車道から入って直ぐ左側にありました。駄菓子屋さんではなく、少し大きめの普通のお菓子屋さんでした。

          坂下町の根岸市場が焼けたのは、1993年のことだったようです。下町にあった根岸市場が坂下町に移転した時は、私はもう根岸に住んでいませんでしたから、詳細は分かりません。そのようなわけで、坂下町の市場に行ったことは一度も無かったのですが、子供の頃からあった市場が突然姿を消すと言うのは、何とも寂しい感じがしたものです。下町にあった根岸市場のことで憶えているのは、入口付近にあったお菓子屋さんと乾物屋さんです。朧気な記憶なのですが、その頃お菓子は秤り売りでしたが、お菓子が丸いガラスの入れ物に入れられていたり、ガラスケースの中に入れられていた光景を憶えています。乾物屋さんには、ザルをゴム紐で吊った小銭入れがあって、そこから釣銭の出し入れをしていたような記憶があります。市場に行くのは大抵母親のお供で、自分で買い物をしたことは無かったので、曖昧な記憶しか残っていません。市場の奥まで行って外に抜けると、そこはどんな光景だったか、それも全く記憶にありません。
          浜マーケットも2007年に大部分が焼失して、今は建て直された後のものですから、私たちの子供時代とは様子が違っていると思います。現在の住居に越してから、特別の用事が無ければ磯子・根岸方面には出掛けていませんので、建て直された後の浜マーケットには行っていません。時間があれば、ゆっくりとあの辺りを歩いてみたいです。小島屋さんと言う鰻屋さんは、今も健在です。今では結構有名なお店になっているようです。
          あと浜書房には、私も良く行きました。当時、あの大きさの本屋さんは家の近くに無かったので、何かと言えば浜書房まで出掛けて行きました。中学生の頃はアマチュア無線に夢中になっていましたから、無線関係の本や雑誌は、殆ど浜書房で買っていました。高校に行くようになってからは、通学途中に何軒も本屋さんがありましたから、浜書房に立ち寄る機会は殆どありませんでした。浜書房は今では横浜のあちこちにお店があります。磯子の浜書房が始まりだったと思うのですが、その辺りのこと、ZEPHER様はご存じでしょうか。

          私は何回か引っ越しを経験していて、その都度、本が少なくなって行きました。引越しの時は、不要になった本を捨てることで少し楽になりましたが、今考えると残念なことをしたと後悔しています。中学生・高校生の頃に夢中になって読んでいた本は、その殆どが手元に残っていません。それらが残っていれば、あの頃は何を考えていたのか、どのような気持ちで過ごしていたのか、もう少し鮮明に思い出せるのではないかと思います。
          今までの人生より、これから先の人生の方が遥かに短い身ではありますが、これからも大切な思い出を残して行きたいと思っています。近いうちに、また記事を載せたいと思います。

          7月も下旬に近付いて来ました。本格的な夏はこれからですが、どうぞお体を大切になさってください。
          それではまた、よろしくお願い致します。

          • ZEPHER says:

             これで、返信が乗るのでしょうか。2回も、大部の文章が、うまくのりません。気を取り直して、7また書いてみます。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            今回のコメントは届いています。
            何か原因があるのでしょうかね?
            こちらにWindows10の環境が無いので、的確なお答えができなくて申し訳ございません。
            「返信」ではなく新しい「コメント」を投稿していただいた方が良いかも知れません。
            もう一度、投稿してみてください。
            お待ちしております。

          • ZEPHER says:

             だいぶたくさん書いたので、二度も消えてしまって、その徒労感たるや、すごいものでしたが、たぶん、今回は届くと思います。小分けにして書いてみます。

             原町の道、やはり住んでいた方にとってもずいぶん、複雑だったんですね。それに生垣のこと。当時は、生垣は、どこの家にもありました。まさきの生垣は、必ずどこかに入れるようになってしまっていて(ここがブロック塀の風情の無さと違って、決定的にちがうところ)、セミ取引履歴なっかするときには、どこの家にでも入れました。文句を言われたことはまずありませんでしたね。おおらかな世の中でした。

             セミをとるのは、夏休みの日課でしたから、いろんな家の中まで入って徘徊していました。たくさんとれたもので、そうすると、暇な年寄りがきて、「そんなにセミをとってどうすんかいな。佃煮にでもするのかね。」とよく言われたものです。この話、北杜夫の「ドクトルマンボウ昆虫記」に出てきて思わず爆笑。

             セミだけではなく、コウロギも取引履歴にゆきました。鉢木鉢をヒックり返して探すのですが、鉢を壊さない限り、これも文句もいわれませんでした。コウロウギ(ツヅレサセコウロギ)は、鳴くのを聞くのも、いいのですが、喧嘩をさせるのもおもしろかった。コウロギの喧嘩は、今で中国の大人の立派な娯楽で、大きな大会もあるそうです。

          • ZEPHER says:

             どうも、変な変換ミスばかりで、申し訳ありません。「セミ取り」です。
             さて、自転車屋さんのことですが、「内田」という名前は、初めてしりました。それに今も、バイクもやっているとは。あれから、もう65年以上はたっていますから、いったい何代目になるんでしょう。でも、あの親切なお兄さんのことですから、きっと、信用があったので、お店も繁盛しているのでしょう。

             ハママーケットも焼けたとは全くしりませんでした。もう横浜を離れて30年以上はたっていますから。でも、再建されたとは、結構でした。ウ鰻の小島屋さんも現存していおるのですか。でも、たぶん、あのゴチャゴチャした雰囲気はもうないでしょうね。通路の、たしか、当時は、舗装はされていなかったような気がしますが、いまは、きっと、きっちりと、きれいに並んでいるのでしょうね。お菓子屋さんのガラスのお菓子入れもなく、みんな、袋に入って。

             そういえば、ふくろもビニールなどなかったときでしたから、肉でも、魚でも、新聞紙か、経木(ご存じでしょうが、スギの板を薄く削ったもの)で、三角にして渡してくれました。納豆もそうして売っていました。重さも、キロ、グラムではなく、「匁」でしたね。お酒、醤油、お酢なども、大きな樽に入っていて、下の栓があって、栓を抜いて、漏斗で受けて、持参した瓶に入れてもらっていました。

             坂下公園から、根岸小学校に行く途中に道が分かれるところに、大きなお店の「かどみせ」がありました。パン、タマゴなども、そこで買っていました。卵は、貴重品で、リンゴ箱のもみ殻を詰めたところに並べて、売っていました。大、中、小に分かれて、8、9円から13,4円でしたね。そのお店には店の中のツバメがたく巣を作って、夕方店が閉まる前にかえってきて、朝は、戸を開けると飛び出してゆきました。いまなら、フンが不潔だと、言って文句を言う客がいるでしょうが。
             夕方、よくコウモリが飛んでいました。小石を両端につけた糸を投げると絡まって、落ちてくるのですが、私は一回も成功したことがありませんでした。

          • ZEPHER says:

             うまく届いているので、もう一つ。
            氷取沢のことですが、ネットで検索して調べてみましたが、やはり、kojimaさんのおっしゃる通りでした。
             やや、詳しく書くと、あの辺りは、昔昔は、長澤村といったそうです。後醍醐天皇(1318-1339)のころ、高倉神社(これは存在していないようです)の深山?から、氷を切り出した、当時の執権の北条高時に献上下ところ、たいへん喜ばれて、長澤から氷取沢になったとのことです。この説は、宝勝寺(これは現存しています)の僧も言っているとか。この事実(かどうかは、もちろん疑問の余地はありますが)は、「新編武蔵の国風土記」に記載があって、角川日本地名大辞典にも、引用しているとのことです。たぶん、平安末期から、日本は寒冷化し、北条泰時の時代に大飢饉があって〈1231から1239年まで続いた)、気候が不順(寒冷化)だったことがわかります。また、方丈記(1212年成立)にも、飢饉(1181-1182)の話がでてきます。だから、氷取沢で氷が洞窟の中では夏でも、存在したのかもしれません。ある程度の信ぴょう性はあるのかもしれません。なお、1322年の歴史資料?に、初めて「氷取沢」なる名前が出てくるんだそうです。 

          • ZEPHER says:

             新編武蔵国風土記も、ネットで、検索したら、以下のようでした。

             江戸幕府の学問所の昌平校学問所(東京大学の前身)において、各地の地理、産物の資料をまとめることとし、武蔵国は、1810年にとりかかり、1830年に完成。これを、「歴史図書出版社」が、まとめて、1969年(昭和44年、なお私は、西暦では、ピンときませんので、頭の中で、いつも、昭和、平成となおします。)に出版しているので、図書館に行けば見られるでしょう。また、次いで、「相模国風土記」も1830年から編纂され、1842年に完成しているようです。

             しかし、江戸時代でも、ほぼ500年前のことですから、事の真偽は?となると
            という気はしますが。でも、私も、最初、直感的には、そんな風に思いました。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            毎日、暑い日が続きますね。いかがお過ごしですか。
            子供の頃のセミ取りは、主に八幡橋神社に行っていました。あとは、根岸小学校の裏山ですね。
            でも捕まえられるのは大体がアブラゼミで、たまにツクツクボウシでした。捕まえに行った場所が悪いのか、それほど沢山は捕まえられなかったです。
            私は小さな頃から面倒くさがり屋でしたから、セミを捕まえるためにあちこち行くようなことはしませんでした。
            コオロギも捕まえましたね。便所コオロギ・カマドウマ等々、様々な呼び名があるようですが、私達の小さかった頃は、単に「コオロギ」と呼んでいましたよね。
            最近の若い人は、虫がダメな人が多いみたいですね。家の一番下の娘は、セミが飛んでくる音が嫌だと言っています。セミが網戸に止まっていようものなら、大騒ぎになります(笑)。
            カマキリ・ゴキブリ・ゲジゲジ・ムカデ・ハチ等は私も苦手ですが、セミやカブトムシを指に止まらせると、しっかりと指にしがみついて来ますので、何か可愛くなります。
            小さな頃から虫に親しんでいれば、自然とそんな風になると思うのですが、最近は母親が虫がダメと言う人が多いせいか、虫嫌いな子が多いような気がします。

            ツバメと言えば、つい2~3日前に、家のそばの駐車場を飛び回っていました。2羽飛んでいたので、ツガイのオスとメスだったのでしょうね。どこか近くに巣があるみたいです。
            ツバメは人と暮らしている鳥ですから、人間が環境を守ってやらないといけないのでしょうね。人家の軒下に巣を作る鳥はツバメしか居ませんから、大切ににしてあげたいです。
            コウモリも、子供の頃はよく見ました。夕方になると根岸の山の方に飛んで行くのですが、どこに巣があったのでしょうねぇ。
            見た目がグロテスクでしたから、余り好きではありませんでした。

            氷取沢のことを、いろいろとお調べになったのですね。私が氷取沢の名前を知ったのは、高校生になってからでした。
            私が通っていた高校は、全国的にも珍しい「地学」と言う教科がありました。その授業の中で、中世の地層を調べると言う課題が出されました。
            そうは言っても、地層を見られる場所は、そうそう多くはありません。その貴重な場所の1つとして、先生が氷取沢を紹介してくれました。
            その時に、鎌倉時代はこの地で取れる氷(当時、氷は凄く貴重なものだったそうです)を、鎌倉まで運んだと教えてもらったと思います。
            氷取沢の地層の様子はこのブログの「金沢道」と言う記事の中に載せてありますが、山を切り崩さない限り、地層を見ることはできません。
            氷取沢では山が削られていて綺麗な地層を見ることができましたが、何のために山を切り崩したのか、そこには思い至りませんでした。
            そんなことを調べようとする探究心があれば、学校の成績はもう少し良くなっていた筈です(笑)。

            屏風ヶ浦近辺の埋め立てでは、白旗にあった丘を削って、その土砂を利用したと言われています。
            そう考えると、氷取沢の山を削って出た土砂は、根岸・磯子の埋め立てに使われたのかな、なんて思ってしまいます。
            本当のところはどうなんでしょうね?
            昔の事をいろいろ考えると、結論が出るまで相当悩みますよね。まぁ、それが楽しいのですけれど。

          • ZEPHER says:

             ようやく、順調にとどくようになって、よかったです。これを書いていて、また、皆さんの書き込みを読んでいるうちに、おぼろげながらではありますが、いろいろなことが思い出されてきました。

             蝉取りは、おもに、下町から根岸小学校あたりの家々の樹木でした。あの裏の山にもしばしば浮きました。あそこにはセミはとにかくごまんといましたから。ただし、蚊が充満しているくらいいて、手足にびっしりとすいつかれるのです。だから、じっとしていられません。いつも足踏みをし、足を手で、払って、蚊を追い払っていましたが、それでも、もう、足は赤くはれ上がっていました。それでも、行きましたね。台風など、風の強い日は、絶好のチャンスで、手掴みでも、敏感なミンミンゼミが、とれました。それに、交尾中のセミ、これは、全く普段の警戒感がなく、いっそう簡単に二匹も採れてしまうので、子ども心にもあれは、なにか特別な陶酔状態にお陥っているんではないかとわかりました。

              根岸の階段のところにもよく遠征しました。夏の終わりころになると、「クサギ」の木の花が咲き、特別な甘い香りを一面に漂わせます。ツクツクホウシの鳴き声と一緒に、宿題が頭から離れない状態でした’でも最後の最後まで、やりませんでした。人間、切羽詰まれば何とか、成るもんだ、という安易な人生観が身についてしまったようです。)
             話は変わりますが、根岸小学校は、向こう側の広い通りには通じていませんでしたね。天理教の大きな、施設があって。いつ、あの天理教の敷地を手にいれたのでしょうか。ずいぶんと校庭が広くなって、子供たちは良かったですね。私も子供のころには、あの階段の真下の体育館?が建っているところは、畑になっていました。

             虫が嫌いな子供が増えているのは、情けないというか、ゆゆしき問題だと私は思います。夏休みの昆虫採集の宿題が廃止されたのは、いつごろからでしょうか。とくに、若い女性の先生が多くなって、虫を殺して標本にするのは残酷だとか、自然保護に反するとか、全く愚にもつかぬことを言って、こどもたちから、貴重な自然と触れる機会を奪った罪はおおきいと私は、常ひごろから、憤慨しています。虫も取ったことの経験がない子がどうして、大人になって、まじめに自然保護なんていえるのでしょうか。そんな連中が、ゴルフ場やいらない道路を平気で作って、自然を破壊しているのです。ゴルフ場に行って自然に浸ってきたと思ったり、杉の人工林に自然を感じるという人が増えています。とんでもない話で、杉林には、チョウも小鳥もいません。雑木林がいいのです。ゴルフ場一つつくることで、いったい何匹の昆虫や、小鳥、土壌微生物を殺戮しているか!さらに、芝をきれいにたもつために殺虫剤をまくことによって、水生昆虫さえ絶滅させているのです。自然に触れていない人たちは実に「いのち」に無神経です。
             それに、子供が、虫を取ったところで、「絶対虫の数が減ることはありません」、断言できます。虫好きの 養老猛など有名な方々が、言っておられます。私は日本鱗翅学会のメンバーですが、子どもに、「夏休みの昆虫採集を復活させよう」というのが、一つの目標です。
             虫には、可哀そうですが、虫を飼ったり、時には殺してしまって、死ぬ様を眺めていると、そのうちに、もののあわれを感じるようになるのです。一匹も虫を殺したりしない子供は、かえって、大人になったときに、恐ろしいような気がします。若い女の先生だって、鶏肉、獣肉を食べるでしょう、魚も食べるでしょう。牛の屠殺場に連れて行ってやればいいと思うのですが。牛や豚を殺して、食べることは残酷ではないのでしょうかね。

             なんだか、話題がずれてしまいました。今日は、このあたりで、やめておきます。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            毎日暑い日が続きますね。
            そうですね、ミンミンゼミも捕りましたね。ツクツクホウシは、夏の終わり頃でしたね。何かいろいろと忘れてしまっています。
            根岸山には私もよく行きましたが、夏場は確かに蚊が多かったですね。私もよく喰われました。

            根岸小学校のことですが、私が通っていた頃は隣に立正佼成会がありました。立正佼成会の建物は昭和27年に建てられたそうです。その後、根岸駅前にマンションが建ち並び、多数の小学生を迎え入れるため、昭和61年に立正佼成会の土地を譲り受け、校庭・校舎の拡張工事が行われたようです。根岸にあった立正佼成会は、横浜市西区に横浜普門館と言う建物を立て、そこに移転したようです。小学生の頃、日中から団扇太鼓をたたく音がしていたことを思い出します。ちなみに立正佼成会は法華経の流れを汲む宗教団体のようです。根岸小学校の講堂ですが、私が通っていた頃は既に相当な年代物でしたから、もし畑が作られていたとすれば、講堂の隣の第二校庭と呼ばれていた場所だったのではないかと思います。私が5年生の時(昭和38年)に創立90周年の式典があったくらいですから、その歴史は、私の想像の域を超えています。今年は創立142年と言うことになるようです。Google Earthで見ると、もう昔の面影はどこにも無いですね。手元に残っている木造校舎の頃の写真は、貴重な思い出です。

            虫が嫌いな子供の母親は、虫が嫌いな人が多いようです。このため、自分の子供に虫を触らせないので、子供が虫に親しみを感じないのだと思います。最近は気候のせいか、毒をもった虫が増えていますし、敢えて虫を好きになる必要も無いかなと思います。ただ、虫が嫌いな子は、身近にある大きな楽しみを味わえないのですよね。カマキリを好きになれとは言いませんが、せめてセミやカブトムシ、カナブン程度はさわれるようになって欲しいと思いますね。そう言えば最近、カナブンが飛んで来ません。今の家に越して来て7年になりますが(実家を出てから15年になります)、夏の夜はよくカナブンが飛んできて網戸にへばり付いていたのですが、ここ2年ほど見ていません。近くにちょっとした山はあるのですが、何でしょうかねぇ。今、私の住んでいる所ですが、昔は道の両側に山があり、山の麓には畑や水田が一面に広がっていました。私が高校生の頃は、概ねこんな感じの場所でした。夜な夜なオートバイに乗って、根岸の自宅から鎌倉によく行きました。その時のコースは、根岸から中村橋商店街を通って蒔田に抜け、鎌倉街道の公田で突き当り、そこを左折して、朝比奈峠を経由して鎌倉の八幡様の脇に出ると言うものでした。その時に、今私が住んでいる所の傍を走っていたのですが、街灯もまばらで夜は本当に寂しい場所でした。今では、その山は両側とも住宅地に姿を変え、道路脇の田畑は姿を消して建物が立ち並び、夜でも寂しさを感じない場所に変っています。ここは横浜の中心街からはかなり離れていて、金沢区と鎌倉の境に近いところです。今でも田舎みたいな所で、近くには市民の森が何箇所もあり、かなり自然に親しめるところです。そんな所に住んでいるのにカナブンに出会えないなんて、何かオカシイですよね。最近の余りの暑さに、さすがの虫も参っているのでしょうかねぇ(笑)。

            ZEPHER様が仰る自然破壊は、良く分かります。難しいことではありますが、一人一人が如何に自然保護を意識するかに掛っているように思います。昔、根岸・磯子・富岡・金沢の海が埋め立てられ、その代りに申し訳程度のプールと、人工の砂浜が作られました。昔を知らない人にとっては、人工の砂浜が現実の海なんですよね。地元の経済発展と、自然保護を天秤に掛けたら、どちらがどれだけの賛同を得られるかは、なかなか難しい問題です。現在まで磯子近辺の海が昔の姿のまま残っていて、そこに埋め立ての話が持ち上がったのでしたら、多分大多数の人が「埋立反対」となる筈です。しかし、1960年代初期はどうだったろうと考えると、必ずしも自然保護一辺倒ではなかったように思います。自然保護と言う言葉が無かったような時代ですから、経済発展を望む人もかなり多かったのではないかと思います。以前、私の親戚は根岸の漁師だったと書きましたが、埋め立てに反対していたのは主に漁師達でした。ところが、漁師達には莫大な補償金が支払われることになり、埋立反対の人達の説得工作が行われました。私の親戚に金持ちが多かったのは、そんな理由があった訳です。どこか一ヶ所でも工事が始まると、後はもうなし崩し的に工事が拡張してしまいます。自然保護を考えるなら充分な保全処置が取られるまで、何としても工事に着手させないことが肝要と思われます。と言っても、人と人は利害が対立する場合がありますので、外部の人間が善し悪しを判断するのは難しいだろうなと思います。何れにしても日本の国土保全のためには、森林や川、海の保護が大切になります。全ての人の意識が変わるには膨大な時間が掛ると思いますが、先ずは教育の現場から、そのような指導をして行ってもらいたいものですね。

  23. アッキ says:

    cube-kojima 様
    お体その後如何でしょうか。ご自愛ください。
    先日 テレビで コクリコ坂 という宮崎アニメ放映していました。
    舞台が1964年オリンピック前の横浜。主人公が高校生
    私の生まれる前ですが、この主人公の年代とcube-kojima様は
    まさに同じくらいではないでしょうか。とても透明度ある横浜の光景
    はこんな私でも懐かしく思えました。

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      お久しぶりです。
      体のこと、お気遣いいただきありがとうございます。
      「コクリコ坂」、テレビでやっていましたね。家でも、子供と嫁さんがテレビに見入っていました(笑)。もう随分前にDVDを買って、私は何回も見ていましたので、ストーリーはすっかり頭の中に入っています。1964年と言うと私は小学校6年生だったので、当時の山下町界隈にはあまり出掛けて行った記憶はありません。山下公園、マリンタワーそれに港の見える丘公園に、両親に連れて行ってもらった程度でした。しかし「コクリコ坂」に出て来る情景は、遠い昔にどこかで見たような気がします。いろいろな場所を想定してみても、実際にあの情景に当てはまる場所は存在しませんが、1964年頃の雰囲気は良く出ているように思います。ですから、どこかで見た場所、そして懐かしい感じがする、のだと思います。最近、何かいろいろと忘れてしまっているなと思うことがあります。思い出したことがあると手帳に書き留めたりしていますが、歳を感じますね。ここ数日、こちらでは、夜は意外と涼しい日が続いています。いつの間にか立秋も過ぎていますので、これからは日一日と秋の気配が感じられるようになっていくのかも知れませんね。とは言え、日中はまだまだだ暑い日が続くと思います。どうぞお体を大切になさってください。

      • ZEPHER says:

         コクリコ坂は、たしかに、なにか懐かしい雰囲気がありますが、もうすこし、横浜の景色があってもよかったのではと、横浜生まれ育ちの人間としては、勝手に思ってしまいます。「おもひでポロポロ」では、山形の山々やベニバナ畑の景観は、写真のように細密にそっくりでした(と、山形出身の人が言っていました)。

         根岸小学校のこと、詳しくご教示いただきありがとうございました。そうでした、「天理教」ではなく、「立正佼成会」でした。よく、あの部分を買いとれたものです。小学校としては、校庭が
        広くなって、子供達には、とてもよかったですね。今、根岸小学校の小学生の人数は、どのくらいなんでしょうか。みなさんが、通っていたころよりは、人数はかなり、減っていますか。

         台風も過ぎて、暑さはまだまだですが、秋の雰囲気は、はっきりと表れてきました。皆様 夏の疲れは、秋になってでてくるようですから、お互いに、健康には、注意してゆきましょう。

        • cube-kojima says:

          ZEPHER様

          朝晩と多少秋の気配が感じられるようになって来ましたね。こちらは台風9号の影響か、日中は蒸し暑い日が続いています。
          根岸小学校ですが、現在は600名程度の生徒数らしいです。私達の頃は、ひとクラス40名くらい居て、1学年4クラスづつありましたから、950名程度の生徒数だったと思います。職員を含めると、1000名近く居たのではないかなと思いますが、正確なところは分かりません。
          今、1963年頃の根岸駅周辺の記事を書こうかなと思っていますが、中根岸町(現在の東町)にあった横浜日赤病院の変遷がどうであったか、記憶が曖昧になっています。昔は、確かに記憶していたのですが、最近、どうもいけません(笑)。
          病院が、中区根岸町に建てられた鉄筋の建物に越した後、木造の建物は解体され、その後に看護学校が建てられたと思うのですが、それがいつ頃のことだったのか不明確です。その看護学校も、中区根岸町にあった陸運事務所の跡地に新しい建物を建てて引っ越し、その後、東町にあった看護学校は解体され、今ではその跡地は更地になっています。このような変遷を辿ったと記憶していますが、看護学校のHPを見ても、移設などの項目は見当たりません。自分が実際に見て来たことですから、間違いは無いと思う反面、思い違いと言うこともありますので、もっといろいろと調べる必要がありそうです。
          50年近く前のこととなると、もう殆ど闇の中を探るようなものですが、それがまた楽しいひと時でもあります。もうちょっと調べてみようと思います。
          今年の夏は、また一段と暑かったので、その反動もきついものがあると思います。急に涼しくなったりすると体調を崩し易いので、ZEPHER様もお体をご自愛ください。

          • ZEPHER says:

             いつも懇切なご対応、頭が下がります。今後とも、少しずつ、私も追加してゆきますので、よろしくお願いいたします。
             根岸小学校は、でも、まだ、ある程度の生徒数はあるんですね。600人なら、昔の団塊の世代とは、くらぶべくもありませんが、小学校としての充分、体をなしているといえるでしょう。よく、現在の生徒数がわかりましたね。

             日赤のことですが、たしかに、今の根岸駅の前の山側にありました。それが、根岸線ができて、間門近くに移ったのは、いつだったか、わかりません。その跡地に、看護学校ができたことも記憶にあります。その看護学校も、今は、あの敷地には、ないのですね。日赤が、間門近くの根岸線の線路のそばにあった時に、私の母は、その日赤で亡くなりました。今の日赤は、以前の市立港湾病院と一緒になって、珍しいことだそうです。私は、一時、中区に住んでいたこともあって、港湾病院にはお世話になりました。私も、昔のことを掘り返してみましょう。

             さて、今日は、お風呂屋さんのことです。あの辺りには、私の記憶では、二つありました。一つは、中根岸3丁目のバス停から、下町方面に通じる道の左手に(名前は憶えていません。)。もひとつは、根岸市場の裏から坂下町にでる道路がT字にあたる滝頭に通じる道路の右側にありました。ここには、ごく小さいときに何回かゆきました。背中に、お灸の後のある年寄りがたくさんいたのが、印象的でしたね。

             中根岸の方のお風呂屋さんの隣付近に魚屋さんがありました。そこで、大きなマグロなどをさばいているのは面白くて、よく立ち止まって眺めていました。その魚屋さんでよく買い物をしました。その頃のアジなんか、安くて、小ぶりですが、大量に買ってきて、母が煮つけにしてくれたのを、4,5日続けて食べていました。また、サバも当時は、魚体が大きく、みそ煮にすると、とてもおいしかった記憶があります。今のサバは、小さくて、みそ煮しても、あのような脂がのっていません。

             その魚屋さんの向かいに、美容室があって、そこの旦那は、いつも、あの辺りをうろついていました。母に、「ああいうのを、髪結いの亭主というんだ。」と教えてもらったのが、なにかとても印象的でした。もう、こんなこと書いても、いいですよね。
             あと、中根岸3丁目のバス亭のその道の角に小さな本屋さんがあって、菩提樹の木がブリキの屋根を貫いて立っていましたね。その本屋さんの八幡橋方面の横に、「はやし薬局」がありました。またその隣に、一時期、宝石やさんがあって、陳列してあった、黄色や紫色の宝石が美しかったのも覚えています。さらに同じ方向に行くと、先に教えていただいた「内田自転車」がありました。
            その道をバスが通っていいた道に沿って、さらに八幡橋方面に行くと、「櫻井歯科」がありました。私はここで虫歯を治療してもらいましたが、その歯医者さん、当時でもかなり高齢で、今から思うと、ずいぶん、妙な治療でした。そのおかげで、奥歯をだいぶ失ってしまいました。でも当時の水準としては、しかたがなかったのでしょう。

          • cube-kojima says:

            返信欄がだいぶ狭くなりましたので、コメントとしてご返事を書かせていただきました。

  24. cube-kojima says:

    ZEPHER様
    返信欄がだいぶ狭くなりましたので、コメントとしてご返事を書かせていただきます。
    根岸小学校の生徒数ですが、何のことはありません、根岸小学校のHPを見ました(笑)。わたしが居た頃よりだいぶ少なくなりましたが、それでも600人からの生徒を抱えているのですから、凄いですよね。根岸駅周辺や、各町内にマンションが林立したお陰ではないでしょうか。私の頃と比べれば、校庭は2倍程度に広くなり、体育館も校舎も頑強で綺麗でプールも完備されていて、別な学校かと言った感じです。私が5年生の時に創立90周年の行事があったくらいですから、由緒ある?学校には違いないのですが、同校の卒業生とは言え遠~い昔の話ですから、ピンと来ません。

    あと、日赤の情報をいただきありがとうございました。あれからいろいろと調べまして、何とか結論に辿りつけました。ただ、細かいところまではやはり分からず、当時の写真も見つからないのが残念です。近いうちに記事として載せたいと思います。
    中区根岸町の日赤病院で、お母様がお亡くなりになったとの由ですが、私の祖父も胃潰瘍で入院していたことがあります。手術をした時に、古いガンが見つかったと言う話を聞きました。病院が凄く綺麗に感じたので、建って間もない頃、多分私が中学生の頃だったと思います。これもはっきりした記憶はありません。

    銭湯のことですが、坂下町の銭湯のことは何とな~く憶えています。当時我が家の風呂は木の湯船で、石油で焚く窯を備えていました。自転車の空気入れでタンクに空気を充満させ、その圧力で石油を霧状にしてバーナーに着火させる方式のものでしたが、単純なくせによく壊れ、その度に銭湯に行きました。私が小学生の頃の話です。夏場は、坂下町の銭湯に行った帰りに、川沿いにあった氷屋さんでかき氷を食べさせてもらったのを憶えています。その他の銭湯と言えば、川向うにあった飛鳥田医院の裏手にあった銭湯と、浜マーケットの手前の磯子小学校に通じる道沿いにあった銭湯を憶えています。浜マーケットの近くの銭湯は、母の実家が近くでしたので、そこに泊まりにいった時に行った憶えがあります。どこも高い煙突が立っていましたので、直ぐに銭湯だと分かりましたよね。いつ頃のことか分かりませんが、飛鳥田医院の裏の銭湯の塀の外には、燃料?となる木材が山積みになっていたことを憶えています。何にしても50年以上前のことですから、鮮明には憶えていませんが、懐かしいですね。

    中根岸3丁目バス停そばの魚屋さんは、その後も暫くの間ありました。私が42歳の時に中学校の同級会が、この魚屋さんの2階で開かれました。その2年前には、中学校の同窓会が山下町で開かれたのですが、その余勢をかって、2年後に開かれたものでした。今では、魚屋さんは無くなって、コンビニになっているみたいです。
    「髪結いの亭主」には、思わず爆笑してしまいました。今、その辺りには美容室があるようですが、そこが昔からあったお店なのかは分かりません。「はやし薬局」の名前には記憶があります。当時薬局なんてあまりありませんでしたから、そこで買い物をしていたのかも知れません。「櫻井歯科」は、私の家の前から電車道に出る路地の脇にありました。白い柵の塀があり、その前で祖母と一緒に撮った写真が残っています。私もあの頃の子供の例に洩れず、虫歯で歯医者さんには随分とお世話になりました。私が通っていた歯医者さんは、電車道を向こうに渡った「伊織歯科」でした。
    「いおり」と言えずに「いより」と言っていたのを思い出します。そこの先生もかなりな高齢で仕事はもの凄く丁寧でしたが、その分なかなか治療が進まず、かなり長期間通っていたように思います。当時は麻酔注射なんてありませんでしたから、シビレ薬(笑)を脱脂綿にしみ込ませたものを患部に当て、少し時間が経ったところでシャーと削るのですが、「痛い!」と言うとその日の治療はそこでお終いになりました。いつまで通うんだよ~と、いつもいつも母親に文句を言っていた憶えがあります。
    その歯医者さんの路地を奥に進むと、水上飛行場との間にあった水路に突き当りました。今思うと、なかなか風情のある場所だったのですよね。ただ、水上飛行場が運用されていた頃は、さぞ煩かったことでしょうね。昔の歴史を紐解くと、根岸はなかなか面白い地域だったのですね。

    先ほどフッと思い出したのですが、私が引っ越す頃(1977年)のトイレは、浄化槽でした。水洗には違いないのですが、その流れる先は下水ではなくて浄化槽だったのですが、引越しの際に撤去するのしないのと言った話があったように思います。水洗にはなりましたが、相変わらずの和式で、汲取式からどのように変ったのか、トイレの中の様子をサッパリ思い出せません。妙なものを思い出したものですが、一度気になるとどうもいけません。あの頃は、トイレなんて気にもしていませんでしたから、憶えている筈はないのです。残念!

    • ZEPHER says:

       早速のお返事ありがとうございました。なるほど、根岸小学校のHPをみたら、平成27年6月現在616人とでていました。一年生がなんと124人で、2年生を大幅に上回っているのは、喜ばしい限りです。私は、残念ながら、根岸小学校には、行かせてもらえませんでした。昭和26年4月のことです。近所の友達と一緒に行けないのは、無念でしたが。

       当時、兄は、磯子小学校に通っていました。まだ、複式授業があって、午後から通っていたこともありました。

       日赤のことですが、横浜市市立みなと赤十字病院のWIKIPEDIAをみたら、東町の(根岸駅前のこと)日赤の、前身は、関東大震災の臨時救急病院として発足したようです。これが、「根岸病院」になり、昭和21年に「横浜日赤病院」となり(ここから、運営が日赤になったのですかね?)、昭和39年、中区根岸町に移転(この病院、たしか、根岸線から丸見えでしたね。でも、入院していた方々には、電車を眺めて気晴らしになった?)、
      みなと赤十字病院が、中区の新山下の港湾病院と一緒になったのを契機に
      平成17年(2005年)に閉院になったようです。跡地は(中区根岸町)
      大規模マンションになったとあります。元の東町の後のことは、看護学校のことも含め何も書かれていません。
       看護学校の全国一覧をみたのですが、神奈川県には、日赤の看護学校はみあたりませんでした。あっても、いいので、私の見落としかもしれません。

       ついでに、ネットを見ればわかることですが、まずはじめに磯子区西根岸町があって、それが昭和3年に、芝生町、西根岸下町(この「西根岸」は懐かしい響きがします。西根岸がなくなって、とつぜん、下町、坂下町、馬場町、上町となって、なんだか物寂しい感じがしました。)等の分かれたようです。
       その後昭和15年、芝生町が、中根岸と鳳町に分かれ、昭和40年に、中根岸が、東町と西町になったようです。

       Kojimaさんのおっしゃるように、当時のあの辺りは、なかなか風情があったというのは、私も全く同感です。今現在も、道路自体
      は、あまり変わっていないようです。下町(これは、しもちょう と読むので、 したまち ではないのです。上町も、 かみちょう ですね。)細い道が、たくさんあって、どこにも子供たちがうようよしていました。それに、道路は、ほとんど車なんてとおりませんでしたから、格好の子供たちの遊び場でした。こんあ風情が、「古き良き時代」になってしまって、残念です。
       それに、元の根岸いつ場合には、は、「磯子根岸下町公園」になっているんですか。また、根岸小学校の裏の階段を上って、上がったところの右に折れる細い道(右側は、金網がありました)も、ひろくなって、その横は、根岸台旭公園になっていますね。あのあたりは、ほとんど建物もなく、大きなミズナラの木が道沿いに茂っていて、日と通りもほとんどありませんでした。いまや、大きな、マンションが所狭しと並んでいますが、確かに眺望はいいでしょうね。今日はこのへんでおしまいにします。

      • cube-kojima says:

        ZEPHER様
        横浜赤十字病院(日赤病院)が1964年に中区根岸町に移転した跡地に、神奈川県医師会准看護婦学校が建設されました。1965年のことだったようです。名前から分かるように、幾つかの病院が共同で運営する学校のようでしたが、その後3回程名称が変り、今は神奈川県立衛生看護専門学校となっています。横浜赤十字病院が根岸町に移転した当時、その隣には神奈川県陸運事務所の建物がありました。陸運事務所が1970年に港北区に移転した跡地に、神奈川県立衛生看護専門学校の新校舎が建設されました。東町から移転したのはいつなのか良く分かりませんが、建設には1年程度掛ったと思いますから、多分、1971年頃に移転したのだと思います。今は東町にあった校舎は解体されて、更地になっています。根岸駅の目の前と言う一等地ですから、今後、どのように利用されるのでしょうね。

        前回のZEFER様のコメントに港湾病院のことが記されていました。そこで山下町にあった警友病院のことが、フト気になりました。山下町に警友病院があった当時、旧露亜銀行横浜支店の建物が、警友病院別館として利用されていました。私は一時、この別館の横にある会社で、数年間仕事をしていました。休憩時には、この会社のビルの非常階段に出てリラックスしていたのですが、その非常階段と警友病院別館とは隣り合わせでしたから、全体の様子が良く見えました。この頃既に警友病院はありませんでしたし、警友病院別館も閉鎖されたままになっていました。夕暮れ時などに非常階段に出ると、警友病院別館が廃墟のように見えて、なかなか怖い感じがしたものです。そこで、警友病院は一体どこにあったのか気になって調べてみたら、何のことはありません、仕事をしていた会社の隣に建っていたのでした。今、警友病院の跡地は有料駐車場になっています。建物の建て替えが激しい山下町のことですから、数年後、警友病院の跡地がどのようになっているか見当もつきません。山下町と言う場所は、横浜開港以来の歴史を担って来たところですから、昔の建物が沢山残っています。できれば、このままの姿で保存して行って欲しいものです。

        根岸の町名変更は、1965年でしたね。私が中学生になった年の7月でした。ですから、私の小学校の卒業アルバムには、生徒の住所が旧町名で記されています。その時に原町も○○番地から、○番○号と言う表示に変りました。1960年代は埋め立ても含めて、根岸・磯子がダイナミックに変化して行った時代ですよね。ZEPHER様は私より7歳ほど年上ですから、あの頃の様子を鮮明にご記憶されているのでしょうね。何と言っても、子供の頃は根岸の海で泳がれたのですから、羨ましい限りです。

        根岸市場の跡地は公園になっているようですね。私が引っ越した頃は下町に根岸市場がまだあった筈ですから、今あの辺りに行ったら、完全に浦島太郎状態でしょうね。昨年の11月に母の一周忌で、磯子の密蔵院に行きました。密蔵院は磯子橋を渡った先にあるのですが、その時は根岸駅からタクシーに乗って行きました。途中、原町・下町の辺りを通ったのですが、随分変ってしまっていましたね。私が住んでいた所は今はアパートに変っているようで、行ってみたとしても、昔はどんなだったか思い出すのに苦労するかもしれません。人の出入りが多い市街地のことですから、いつまでも昔のままの姿を保つのは不可能です。ZEPHER様も私も、根岸から引っ越したことで当時の姿をそのまま記憶しているのですから、逆に素晴らしいことなのかも知れませんね。子供の頃に見ていた景色を、もう一度、生で見てみたいですね。

        それと根岸小学校の裏山ですが、登りきった所に金網のフェンスで囲われた、大きな家がありましたよね。確か緑色っぽい色の家だったと思います。その脇を真っ直ぐ通り過ぎると米軍住宅のある辺りに出ますが、何故か分からないのですが、アメリカ人に時々追いかけられました。きっと、悪さばかりしている悪ガキでも居たのでしょう。自分も友達も決して品行方正だったわけではありませんでしたから、目を付けられていたのかもしれませんね。逃げる時は散り散りになって来た方向に戻ったり、不動坂の方まで逃げたりで、スリルがありましたが結構面白かったですね。懐かしいことばかりです。

        • ZEPHER says:

           いろいろと、ご丁寧な記載、警友病院(いまは、みなとみらいにあって「けいゆう病院」なんですね。)のことや看護学校のことなどありがとうございました。

           お風呂屋さんのことは、私は、川向うのことはわかりません。やはり、浜に近い原町と山の下の下町との違いでしょうか。kjimaさんのお宅は、櫻井歯科のそばなんですね。櫻井歯科の八幡橋寄りに、細い道路があって、両脇は、マサキノ生垣だったような気がします。あのあたりは、八幡橋幼稚園の帰り道で、毎回、いろん経路をたのしんだものですから、よく覚えています。

           お風呂のことですが、いつからか、私の家では木製の風呂ができて、当時は、マキを買って、必要をつけて風呂を沸かしていました。よく、風呂を沸かす役割をやらされました。必要が燃えるのは、楽しいものですね(しかし、変に昂じると、放火犯になってしまいますから注意しないと)。裏の、あの根岸の山に行って、薪を調達したりしていました。お風呂屋さんも、薪の山が、側面にありましたね。いまは、たぶん、ボイラーで、重油かなんか、使っているのでしょう。そういえば、バブコック日立なんて会社の工場が八幡橋の側の向こう側にありましたね。近所の人でそこに勤めいました。それに、日本発条、にっぱつなんて、言っていました。まだ、どっちかが残っていましたね?

           まだ、冷蔵庫がなくて、木製の大きな扉のある箱に毎日氷を運んでもらっていました。たしか、滝頭の橋の手前の橋に向かって左側にあった氷屋さんでした。そこでは、かき氷やアイスキャンデーを売っていて、たまーにですが、買ってもらいました。うれしかったなあ。その、向かいに酒屋の「えびすや」がありました。陽気な騒がしい、おじさんがいました。うちでは、酒類はここで、配達してもらっていました。

           看護学校のこと、私は、てっきり日赤の看護学校かと思っていたので、「日赤」と頭についてない看護学校ばかりだったので、見落としていました。まだ、根岸の以前の日赤の隣に存在してるんでしょうか。
           警友病院も、現在の大きな新しい病院は行ったことがありません。ずいぶん立派な病院になったようですね。わたしの知っているのは、山下町の警友総合病院のようです。別館や露亜は知りませんでした。元の警友病院は、いろいろとお世話になったことがあります。長男が、かぜをこじらせて、入院したこともありました。そうですか、あの辺りの会社にお勤めになったことがあるんですね。わたしは、公務員で、あちこち転勤があって、横浜を離れてもう、30年以上、根岸の生家を離れて、40数年になります。親もなくなって、墓参りに1年に一回行く程度で、なかなか横浜には、いかれません。横浜に行って、坂下町、下町、原町あたりをじっくりと見て回りたいものです。昔の面影はほとんどないでしょう。グーグルマップでかなり現状は、わかりますが、やはり、あの地を歩いてみたいものです。こんなことを書いていると、タイムマシーンなんてあったら、おもしろいんですが。

           トイレのことは、私が、生家にいるときは、ずっと、和式の汲み取り式でした。かなり以前は、実際、汲み取りの方が来て、肥桶を二つ担いできて、まさに汲み取って、担いでいったものです。そのうち、市のバキュームカーが来て、かなり迅速に終わるようになりました。いつ、水洗になったのか、定かではありません。いまは、和式のトイレさえもうないのではないでしょうか(公衆トイレにはまだ、少しありますね。)。最初、洋式のトイレに入ったときに、どうやって使うのか分からず、しばし困惑したことがあります。ついでですが、生ごみは、庭に大きな穴を掘って、すてていました。夏ははえやらなにやら大変なさわぎでしたが、いろん虫が来て私にはおもしろかったです。その穴を掘るのに、そういうことをやってくれる方に頼んで、毎年春ころに掘ってもらっていました。いまは、そんなことはできませんから、行政コストがかかるんんでしょうね。

           根岸小学校の階段を上ってすぐに右に曲がる細い道、ご存じでしたか。あの金網の向こうの斜面には、そこだけに、立派な邸宅がありました。当時われわれは、あれは、朝鮮戦争で有名な将軍の私邸だと聞かされていました。たしか、「リッジウェイ」とかいいましたが、定かではありません。
           不動坂上から、こっちに来ると、車は行きどまりですから、看板がたっていて、「NO THOROUGHFARE」と書いてありました。なんのことか、高校生くらいになって辞書で調べてみたら、通り抜け不可 の意味でした。なんか、難しい英語の単語をゲットしたような気分でした。あの根岸の階段には、今頃になると、夜には、野生の鈴虫がない手続きいました。飼うと鈴虫の鳴き方が違ってくので、さいしょは、それが鈴虫とはきづきませんでしたね。今日はこの辺で。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            私の住んでいた原町の家は、櫻井医院の脇の路地を入り、突き当たって右側に曲がった奥の方にありました。あの路地の両側は、背の高いマサキの垣根が続いていましたね。路地が付き当るところの両側には畑がありました。高校に通学している頃は、櫻井医院の脇から電車道に出るコースと、八幡橋神社のところから電車道に出るコースを、気分によって使い分けていました。そこから八幡橋を渡り、杉田行きのバスに乗っていました。磯子駅に寄らないで、16号線を真っ直ぐに行くバスでした。確か「市営4系統」だったと思うのですが、今、その路線はありません。高校生になっていろいろな煩悩?が増えたせいか、その頃の原町町内の様子は殆ど憶えていませんし、思い出せません。小学生の頃のことは思い出せるのに、何ででしょうね?

            警友病院のこと、情報をありがとうございます。中区に住んでおられたとお聞きしましたので、その時のことですね。時代と共に、いろいろと変って行きますね。両親にマリンタワーや港の見える丘公園に連れて行ってもらった時は、山下町にある建物はそれほど多くありませんでした。記憶に残っている建物は、ホテルニューグランドとシルクセンター程度です。大桟橋も、整理の付かない感じで、何か雑然としていましたね。本当はもっといろいろと見ている筈なのですが、忘れてしまっているのでしょう。そう言えば、小学生の頃に仲の良かった友達の親父さんが、ニューグランドに勤めていました。ホテルのマークの入った便せんを、貰った記憶があります。時々、小学校の頃の友達は、今どうしているのかなと思うことがあります。中学の同窓会に来なかった人も結構いましたので、根岸には住んでいないのかなと思ったりもしています。

            自宅のお風呂のことは、自分も手伝わされましたので、良く憶えています。石油を霧状にしてバーナーに着火させるタイプでしたが、それ以前はマキで焚いていたと思います。いまいち記憶が定かではありませんが、新聞紙を丸めてその上にマキを並べたような憶えがあります。風呂場の工事で、何日か銭湯に通った憶えがありますから、多分その時にマキから石油に変ったのだと思います。マキは、外の物置小屋に置いてあったと思います。銭湯と言えば、その帰りにかき氷を食べさせてもらった記憶があるのですが、それはZEPHER様も書かれている氷屋さんのことです。坂下橋のこちら側の角にありましたよね。氷を入れておく、木製の冷蔵庫のことも憶えています。扉を開けて中を覗いていると、よく叱られました。あと、手回しの絞り器が付いた1層式の洗濯機のこととか、裸電球のソケットに指を突っ込んで感電したこととかを思い出します。台形をした缶に入った野崎のコンビーフが好きで、内緒で缶に付いている鍵で開けたのですが、その切り口で手を切って大目玉を喰らったことがありました。家の前の路地の反対側に工場の倉庫があった時は、そこの屋根から飛び降りたら下にクギが出ている板が落ちていて、それがゴム草履を突き抜けて足をケガしたこともありました。関東病院の隣の奥に牛を飼っていたところがあり、時々遊びに行ったりしていました。ある時、そこで肥料として使っていたオカラを友達と投げ合って遊んで、さんざん怒られました。それ以降は入場禁止となりましたね。いろいろ思い出すと、ロクでもないことしかしていませんでした。

            八幡橋にあったバブコック日立ですが、1999年まであそこにあったそうです。その後は広島の呉に移転したようです。この会社は元々はイギリス人が起こしたボイラーの製造会社だったそうです。確か、横浜開港150周年記念行事のホームページに、この会社が創業した頃の写真が掲載されていたと思います。その後日立が全株式を取得して、バブコック日立と言う名称になったそうです。私の母の実父が、ここに勤めていたと記憶しています。日発も懐かしい名前ですね。工場の建屋の上の辺りにNHKと書かれていましたので、子供の頃は放送局なのか何なのかサッパリ分かりませんでした。磯子にあった会社が本社だそうですね。1991年に磯子から金沢区の工業団地の福浦に移転したそうです。あの辺りは、首都高速湾岸線が建設された関係で、また一段と変りました。八幡橋近辺も、昔の感じが残っているのは中華料理永楽のある一角だけです。八幡橋にあった協和銀行、松島人形店、小川ベーカリー、そして旧磯子警察署、磯子区役所のことは良く憶えていますが、それら全てが無くなったり、形を変えたりしています。八幡橋から間門近辺までの、道路沿いの様子も随分と変りました。今、あの辺りを歩いても、昔ここには何があったかと思い出すのは難しいのではないかと思います。

            根岸小学校の裏山を上り切ったところにあった家のことですが、かなり大きな家だったので、多分、外人さんが住んでいるんだろうなと当時も思っていました。その根岸旭日台ですが、今は家やマンションが所狭しと並んでいるようです。根岸線から見える山の上の景色も、マンションだらけのような気がします。私が根岸に住んでいた頃、大学への通学などで根岸駅を使うことが多かったのですが、その時はいつも、山の上にポツンと建っていた白いマンションを眺めていました。いつかあそこに住みたいなと思っていたのですが、実現できませんでしたね。最近は時々ですが、旭日台のマンションで空き部屋募集をしていますので、住もうと思えば住めるのですが、もう根岸に戻る気にはなれません。こちらに越してきて40年近くになり、根岸で過ごした25年よりも遥かに長くなってしまいました。住めば都ではありませんが、余り大きな変化は無いですし、ローカル色豊かな地域でもありますから、余生?を送るには最適な所だと思っています。しかし、子供の頃を過ごした根岸での記憶は、実に強烈ですね。根岸で過ごした日々のことは、いつまでも話していられそうな気がします。

          • ZEPHER says:

             Kojimaさんの生家は、櫻井歯科のわきの道を入ってつきあたって右あたりだったんですか。あのへんは、幼稚園の帰りによく歩いた道です。その後も、道がこまごまとあるので、自転車でよくふらふらとしていました。細かい道路は、下町の北から根岸市場に抜けるところにもあって、自転車で、その通路で鬼ごっこみたいなことをやったりしていました。
             私の中学高校の通学路は、中根岸3丁目から、市電の11系統(赤い色)にのって葦名橋でおりて、当時まだ走っていた市電の16か18系統(どっちかが赤くて、どっちかが黒かったような)にのって、屏風ヶ浦に行き、京浜急行の屏風が浦から横須賀の方に行っていました。金沢高校は、金沢八景でおりたんですか。あの辺りは、まだ、ハスの沼があって、京浜急行はその中をはしっていました。山側には、横浜市立大学がありました。泥亀なんて、名前の場所あって、いかにも、沼地みたいな名前ですね。

             大学には、まだ根岸線が開通していなかったので、滝頭から6系統(これは、大きな車体でした。)にのって、桜木町から東横線で渋谷まで行っていました。たしか、昭和39年9月ころ(ちょうどオリンピックのころ)根岸線が開通して、それ以降根岸駅から、かよいました。開通当時の
            根岸駅に前は、まだ、何にも建物もなく、草原で、ヒバリがたくさん鳴いていました。

             たしかに原町のあの辺りには、まだ畑がありました。幼稚園の帰りに、もう作物が収穫された後に人参が一本あったので、家計の足しにと、その干からびた人参を家に持ちかえったら、(母が喜ぶだろうとおもったのです。)ふだん穏やかな母がひどく怒って、人様の物をもって来るとはなにごとか!といわれました。たぶん、畑から引っこ抜いてきたとおもったのでしょうなんだか、がっかりして、悲しい思いをしましたね。

             関東病院は、よく知っていますが、その裏に牛がいたとは、初めてしりました。なんで、しらなっかったんでしょうかね。

             横浜港の大桟橋は、今はずいぶんきれいになりましたが、当時は、まだ山下公園が返還されていませんでしたが、大桟橋には、いかれたので、時折いって船を眺めたりしましたが、大学生のころ期末試験がおわって、ひとり大桟橋で船を眺めていたら、なにやら少しですが、二人ずれがいて、また空をみたら、スズメも二羽で飛んでいるような気がして、うら寂しい思いでがあります。
             大晦日には、12時ぴったりに、一斉に停泊している船が汽笛をならすのです。それで、兄の車で、それっと大桟橋まででかけたものです。その時は、どこの船にも自由に入ることができて、しかも船員さんの部屋に入って、おかしやら、ビールまで飲んできました。いまでも、汽笛はならすでしょうが、船には入れてくれるんでしょうか。

             バビコック日立も日本発条もいてんしたんですか。地図をみたら、バブコック日立ビジネスシステムなんてのが、残っているようです。小川べーカリーは懐かしい名前ですね。あそこには、よく買い物についてゆきました。中華の永楽は知りません(地図にはまだやっているようです)。
             あの広い通りの海側に花屋さんがありました。いつか、母と行ったときに、その店の娘さんが応対したのですが、母が、「ああいう子は、いい子だよ。」なんていうではありませんか。たしかに、まあ、かわいいおとなしそうな感じはしましたが。もうどんな人だったか、忘却の彼方です。
             こうやって、意外と雑然としていますが、記憶がよみがえってきますね。まだ、書くことはありますが、また次回に。
             その後お体の具合は、だいじょうぶですか。どうか、お大事に。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            お気遣いいただき、ありがとうございます。今のところ(笑)、元気に過ごしております。

            ZEPHER様は中・高校と横須賀の方に通われていたのですね。根岸からでは、通学するのが大変だったのではないでしょうか。私が高校に通う頃は、その前年に市電が葦名橋止まりになってしまったので、否応なくバスで京急の駅近くまで行くことになりました。最初は聖天橋で降りて杉田商店街を抜けて、杉田駅から乗っていました。クラスメートに磯子から通っている人がいて、屏風ヶ浦から乗った方が早いと教わり、途中から屏風ヶ浦から乗るようになりました。昔の屏風ヶ浦駅の周りは細い道路があるだけで、現在の様子からはとても考えられない光景でした。ZEPHER様も屏風ヶ浦からお乗りになっていらしたとの由ですので、当時の状況をご記憶のことと思います。富岡駅の手前辺りでは、海が見えましたよね。

            2年生になると、偶然、下町に住んでいた人とクラスメートになりました。この人は2年生になる直前に下町に越して来たようで、それ以前は磯子に住んでいたそうです。いやぁ、分からないものですねぇ。地元の高校に通っているのならばともかく、通学に1時間以上かかる高校に通っているクラスメートが、隣町に住んでいたなんて想像もできませんでした。そのクラスメートは既にオートバイに乗っていました。八幡橋のバス停でバスを待っているとその前を通りかかり、後ろに乗せてもらったことが何回もありました。当時、国道16号線はメチャクチャ渋滞していましたが、車の脇をすり抜け結構良いペースで走れましたので、バス・電車を使うよりもかなり早い時間で着くことができました。勿論、オートバイによる通学は禁止されていましたが、学校の脇の道路は校舎からはちょっと見え難かったため、オートバイを上手く隠せました。
            自分がオートバイに乗るようになってからは、時々オートバイで通学していました。学校の脇の道路に隠したり、学校近くのクラスメートの家に置かせてもらったりしていました。高校の隣は横浜市大でしたが、堺の塀が一部壊れていたためそこを通り、市大の食堂で昼食を食べたことが何回かありました。勿論、これも禁止されていましたが、例え見つかっても大きなペナルティは無く、生徒の自主性に任せた自由な校風の学校でした。こなんなでしたから、私は本当に伸び伸びと自由な高校生活を謳歌することができました。そんな市大でも学生運動末期の頃に一騒動起き、危険だと言うことで、私が3年生の時に市大へ行くことは厳禁になりました。市大との間の塀を早く直せばよかったのにと思うのですが、私が卒業する時まで、そのままだったような気がします。

            私は学校に行くのに金沢八景で降りていましたが、私が入学する前年(1967年)に蓮田が埋め立てられて、そこに泥亀バイパスが開通しました。その道路沿いに京急サニーマートが建ち、その向かいに金沢警察・金沢病院など、いくつかの建物が建てられました。その頃、金沢総合庁舎のビルは未だ無く、泥亀バイパスと旧道に挟まれた地域には、結構空き地あったと記憶しています。サニーマートの裏手では、4階建コンクリート造りの公務員住宅も建設中でした。元の公務員住宅は金沢八景駅の手前の線路沿いに並んで建っていました。新しい公務員住宅は1969年に竣工したそうです。また、1966年に平潟湾が埋め立てられ、柳町と言う新しい町ができました。私が高校1年の頃、この柳町にはまだまだ空き地が多かったと思います。そこにはオリビエと言う喫茶店があり、学校の帰りに時々寄ってコーヒーを飲んだことを思い出します。また、柳町の外れには侍従川と言う川が流れていて、その向かい側には関東学院がありました。関東学院の前の道を国道16号線方向に行くと、内川橋と言う交差点に突き当ります。その突き当たった向かいは東京ガスの敷地になっていて、大きな緑色のガスタンクが2基建っていました。京急の電車からも良く見えたのではないかと思いますが、何か災害が起こりこのガスタンクが爆発したら、金沢八景近郊は全滅するだろうと言われていたそうです。

            私が高校生だった頃は、金沢の海は健在でした。学校からの帰路、瀬戸神社の脇に出て泥亀バイパスを渡り旧道に入り、洲崎の信号を折れて若草病院の前を過ぎると、乙艫の海岸に突き当りました。1968年当時、ここにはまだ海の家があった筈なのですが、夏場に行ったことが無かったため(学校は夏休みでした・笑)記憶にありません。私がこの海岸に何回か行ったのは、多分、10月から12月に掛けてだったと思います。寒かったので、多分その頃だと思います。そこは砂浜が広がっていて、海苔を干すための桟が並んでいました。何か目的があって行った訳ではないのですが、時々海を見たくなることがありましたから、それが理由だったのだと思います。旧道に入り瀬戸橋を渡った辺りの平潟湾沿いには、貸しボート屋さんがありました。そこでボートを借りて平潟湾に漕ぎだ出したことがあります。一生懸命漕いで野島の近くまで行ったことがありましたが、それで疲れ果ててしまい、帰りは辺りが薄暗くなってしまったことを憶えています。部活もしないで、全くなにをやっていたのでしょうね。後になって考えると、小学校の頃と、基本的に何も変っていないような気がしました。高校を卒業した翌年に、柴町にある金沢園と言う料亭でクラス会を開いたことがありました。それは1972年のことでしたが、この時は金沢園の裏手から潮騒が聞こえていました。この頃はまだ、ここまで埋め立てが進んでいなかったようです。金沢は根岸・磯子と違って埋め立てられた後でも、海の公園とか野島とか、海に接する事ができる環境が残っています。埋立地にも散歩コースがあり、間近に海を見ることができます。根岸・磯子にも、こんな環境が残っていればよかったのにと思いますね。根岸・磯子で海の近くまで行けるところは、磯子のヨットハーバーがあった辺りから、火力発電所までのわずかな間だけですから。
            何か、高校時代の思い出話になってしまいました。磯子周辺のことについては、次回に書かせていただきます。

          • ZEPHER says:

            いつもたのしい書き込み興味深く拝見しています。当たり前ですが、ほぼ同時代に磯子区のあの辺りにまさに過ごした人で無ければ、絶対にわからないような事柄が書かれていて、とても楽しいですね。
             金髙(「かなこう」って言っていましたね)での高校生活の様子も、ほんとにのびのびしていて、うらやましい限りです。当時の、今もそうでしょうが、公立高校は、自由で生徒の自主性を尊重していて、とってもいいことですね。私の息子たちも、転勤でその土地の高校に通っていましたが、ほんとに、これでいいのかと思うほど自由で好き勝手なことをしていましたね。

             横浜市大の横にあったのですか。京品急行からは、横浜市大は、わかったのですが、金髙はどれかは、分かりませんでした〈申訳ありません)。横浜市大に侵入の話、高校生ならやるでしょうね。金髙は、共学でしたでしょうね。私たちは、一学年180人の男子校でした。煩悩の多き時代にそばに、女の子がいるのは、想像がつきません。同じ京浜急行には、横須賀市中央あたり?に「清泉」という女子高があって、よくのりあわせましたが、私には、何もおきませんでした。ざんねんなことです。

             それに、バイクでかよったとは。いまでも、バイク通学はどこの高校でも禁止となっているようですが、それでも、バイクに乗っていったとは、あっぱれですね。でも、渋滞の中、危険もあったのでは?ご両親はどういっておられましたか?

             平潟湾とハス田が埋め立てられたのは、1966年ですか。私が、乗っていたのは、昭和32年から38年でしたから、たしかにまだハス田はあったんですね。埋め立てられる前の平潟湾には、ボートを借りて、ハゼ釣りをしたことがあります。入れ食いで、おそろしくつれましたが、あまりの多さにどうしてよいかわからず、一応家にもってかえって、気の毒にバラの肥料にしてしまいました。翌年、なんとそのバラには、シュートが何本か出てきて、大きな花を咲かせました。

             当時の京浜急行は、通学時は、混みましたが、ちょっと、時間がずれると、ほとんど人が乗っていませんでした。ひとごとながら、これで、大丈夫なんだろうかと心配したものです。ところが、大学に入り、東京にでて、友人の下宿にとまって、夜中の2時ころ、山手線をまどからみたら、なんとそんな時間にも、乗客がたくさん乗っているのには、びっくりしました。

             私の通っていた学校は私立で(まだ創立10年くらいで、かなり厳しいしつけをされました。でも、そんなもんかと思っていたので、苦にはなりませんでしたが。)、開始時間は8時20分、朝は、6時40分くらいに何とか起きて、6時50分までには、家を出なければなりませんでした。
            それで、8時27分のぎりぎりの電車にのりました。それに乗れないと遅刻でしたから、必死でした。朝ごはんも、わずかしか口に入れず、登校途中で、もう腹が減って減って、はやく弁当の時間にならないか、そんなことばかり考えていました。残念ながら、早弁なんか、厳しく監視されていてできませんでしたね。

             私の2年先輩の方で、やはり磯子に住んでいた人が、なんと、高校生1年から、雨の日でも、自転車で通っている人がいました。私も、期末試験がおわってからは、中学生のころから何回も自転車で行きました。2時間くらいかかりました。

             景品急行は、曲がりくねっているのに、線路幅が広いので、すごいスピードをだしましたね。当時、想像できないでしょうが、古い車両があって、先頭車両の右側の、まさの先頭に席があり、しかも、その窓を開けることができたんです。猛烈な風が吹き込んで息もできないほどでしたが、良く開けては楽しんでいました。そもそも、いまは、多くの車両では、空調が聞いているので、窓もあかないのではないでしょうか。

             それに「谷津坂」(やつざか)は、今は「能見台」とかわっていますね。当時終点はどこでしたか。今は、三浦口まで伸びて、三崎に行くにはべんりになりましたし、なんといってもあの横浜横須賀高速は、便利にはなりましたが、横浜で一番自然の豊かな場所を壊してしまって、あれでいいのかという疑問は残ります。

             高校の途中で、下町に友人ができたとは、確かに奇跡的ですね。その方にも参加していただきたいものです。下町は、山の下から、堀割川まで、けっこう長い形をしていますね。私は、山のましたあたりでした。

             Kojimaさん、季節の変わり目は、いかがですか。呼吸器の関係では、いまごろは、台風もくるし、よくない季節ではないでしょうか。私も、喘息があって、いまごろは、要注意なのです。お体、お気を付けください。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            ZEPHER様も呼吸器系の持病をお持ちとの由、お互いに辛いですね。仰るとおり気圧が低くなる台風の時とか、どんよりとした曇天の時はどうもいけません。私の病気はCOPDですから、長い距離を一気に歩く事ができないのですが、天候が悪い時などはもっと短い距離で息が上がってしまいます。降るなら降ってくれた方が、はるかに調子は良いです。これから寒い季節になると、また一段と調子が悪くなります。幸いにも机にかじりついて仕事をしていますから、日常生活で困ることは少ないのですが、やはり健康な人のような訳には行きません。ちょっとお出掛けするような気力が起きませんから、私はいつも留守番役です(笑)。一昔前に、バイオリズムと言うのが流行りました。当時は全く役に立たないものでしたが、持病を持つようになって改めて見ると、体の調子の良し悪しのリズムが良く分かります。天気も良いし寝不足でもない、でも何か調子が悪いと思う時にバイオリズムを見ると、殆どの場合的中しています。原因が分からなくて調子が悪い時は、これを見ると納得することが多いです。一種の精神安定剤のようなものですね(笑)。

            ZEPHR様が通われていらした学校は私立の男子校だったとのことですが、それはそれで良かったのかも知れませんね。私の行っていた高校は共学でしたが、仰る通り、3年間煩悩と戦う日々でした。本当にいろいろとありました。今となっては良き思い出ですが、当時は辛く感じることも結構ありましたね。私が通学していた時は乗車時刻の違いでしょうが、女子高の生徒に出会ったことはありませんでした。自分の学校の女子生徒か、もしくは関東学院、横浜高校の生徒だけでしたね。何にしても通学途中の恋愛は、漫画や映画のようなわけには行きません。一度勇気を振り絞って、自分の学校の女子生徒に声を掛けたことがありましたが、体よくあしらわれしまいました。恥ずかしいやら悲しいやらで、一時再起不能になりかけました。ええ、あれは軽い気持ちでやるもんじゃありませんね。ちなみに、私の嫁さんは高校の同期生です。

            しかし横須賀まで、よく自転車で通われたものですね。当時の交通事情はいかがだったのでしょうか?。横須賀まで行く道は16号線しかありませんでしたし、道幅も今よりは狭かったと思いますので、いくら自転車とは言えかなり難儀したのではないでしょうか。私がオートバイで通った時は、いつも渋滞がひどくて、富岡の手前の青砥辺りからずっと混んでいました。いくら車の脇を通り抜けると言っても、いつもスイスイと言うわけには行きませんでした。私の場合は君ヶ崎の交差点までで終りでしたが、そこから横須賀まではまだ一踏ん張りが必要な距離です。当時はバイパスができていなかったと思いますから、文庫から八景までは曲がりくねった旧道を走るわけですよね。例の蓮田を見ながら。それを過ぎてやっと横須賀の入り口の追浜です。それから先はまだまだありますし、しかも自転車なんですから、私には俄かに信じられないことです。

            私が二輪の免許を取ったのは、高校2年になった時でした。私は誕生日が12月ですから16歳になったのが年末で、そのため1年生の冬休みから2年生の初めに掛けて、二俣川にある自動車試験場に通いました。私の父はタクシーの運転手をしていましたので、オートバイの危険性は良く知っていて、私がオートバイの免許を取るのは反対でした。しかし私は、やりたいことはやると言う我儘な性格でしたから、父には内緒で自動車試験場に通いました。父の勤務時間は変則的で家に帰らない日もありましたので、何とかごまかせたのです。いざ免許を手にすると、当然の結果として、今度はオートバイが欲しくなりました。中学の時の友人の知り合いにオートバイを持っている人がいて、小さなバイクでしたが、格安で譲ってもらいました。それに乗って家に帰り、免許と共に父に見せ、何とか許してもらうことができました。これは、事後承諾と言う手段を、私が初めて経験した瞬間でした(笑)。しかしその後、オートバイの危険性を身を持って体験することになりました。死んでいてもおかしくない、と言われた事故を2回起こしています。大袈裟かも知れませんが、今、このコメントを書くことができるのは、奇跡的なことなのかも知れません。幸いなことに、通学途中での事故はありませんでした。

            ZEPHER様は昭和32年から38年に掛けて横須賀まで通学されていたとの由ですので、屏風ヶ浦近辺の海をご存じなのですよね。電車道から見た海は、どんな感じでしたか?。昔の根岸・磯子は海が近かったと言っても、実際に海の傍まで行くのはなかなか難しかったと思うのです。埋め立てが始まったのは私が小学校低学年の時で、その頃は家から出掛けられる距離には限りがありました。ですから、私が自分で見た埋め立て前の根岸の海は、三景園の海岸と旧根岸中学の岸壁から見たものだけでした。大伯父さんの船に乗って、掘割川の河口沖に連れて行ってもらったことが何回かありましたが、海から見えるのは岸壁だけで、陸から海を見るのとは大違いでした。浜にあった母の実家に行った時など、電車道を海側に渡り突き当りまで行けば、磯子の海が見えた筈です。でもそうはしませんでした。今でこそ、根岸や磯子の海のことを懐かしみますが、当時はそんな感情は殆どなかったように思います。身近にあった海が消えることを、小さかったからかも知れませんが、全く分かっていませんでした。その頃の興味の対象は、他にありましたからね。

            私が通学していた当時、京急の終点は「三浦海岸」でした。1975年に「三崎口」まで延伸されました。今になって考えてみると、通学以外で京急を利用することは殆どありませんでした。観音崎、油壺、三浦海岸、逗子などに泳ぎに行きましたが、全て車で出掛けています。20年以上前の話ですが、野比の山の上にNTTの通信研究所があり、そこで約2年間仕事をしていたことがあります。栄区の自宅からバスで金沢八景に出て、そこから野比まで電車に乗り、野比で降りてバスで通研まで行くと言う日々でした。通勤時間は約1時間半でしたが電車が滅茶苦茶混んでいて、特に夏場は殺人的でした。野比に行くには久里浜で各駅に乗り換える必要があったのですが、何回か電車をやり過ごして、できるだけ空いている電車に乗るようにしていました。そんなことをしていて、通勤に2時間掛ったことも間々ありました。ですから、京急と言えばいつも混んでいる印象が強いのですが、通勤・通学の時間帯以外は空いていたのでしょうかねぇ。

            それと下町に住んでいた高校のクラスメートですが、高校卒業後に戸塚区に越してしまいました。家の仕事の都合で引っ越しが多かったようです。そのクラスメートの下町の家ですが、一時、下町の変則十字路の交差点の角に「お菓子屋さんか雑貨屋さん」がありました。そのお店の脇に細い路地がありましたが、そこを入って直ぐの家に住んでいたように記憶しています。家が近かったのですが、1回しか尋ねたことはありませんでした。地元の高校に通っていたら、もっと頻繁に行き来する時間があったのかもしれません。原町もそうですが、下町の路地も混み入っていますよね。小学校の友人で下町に住んでいる人が多かったので、よく友人宅を訪ねましたが、今となってはどこがどうだったのか記憶が曖昧です。時間があれば、あの辺りを一度歩いてみたいです。そうすれば、曖昧な記憶がハッキリするかもしれません。地元を離れてしまうと、地理的な記憶は薄れてしまいますね。しかし、今は家並みとか道路の様子とか当時とは全く違うと思いますので、曖昧な記憶のまま昔の姿が残っていた方が良いのかも知れませんね。

          • ZEPHER says:

             ここのところ、天候が不順ですが、いかがおすごしですか。COPDというご病気だそうですが、ネットで調べてみると、かなり厄介な大変な病気のようですね。日々、ご苦労なことです。精神的にも、いろいろな、ストレスがかかって、ご苦労の多いこととお察し申し上げます。もちろん、横浜ですから、大きな病院の呼吸器の専門医にかかっておられることとおもいますが、こんなことをいうのは、申し訳ないのですが、根治はむずかしいのでしょうね。一生付き合ってゆかねばならないとなると、さぞ、大変なことでしょう。

             バイクのこと、死んでも、おもかしくないことが2度もあったとは、おそろしいことです。やはり、バイクは、渋滞のときなんか、すいすいと追い抜けて気分がよさそうですが、やはり危険は大きいんでしょう。市電が間門から八幡橋に通じたころ、不動下と間門の間で、その瞬間はみませんでしたが、バイクが転倒し、運転していた人が血まみれになって、倒れていた情景を鮮烈に覚えています。もう、今は、お乗りにはなりませんでしょうね。

             お体が良くないのに、「机にかじりついて仕事」をなさっているのですか。それも、また、たいへんですねえ。ほどほどにしておいてください。

             私の子どものころの根岸辺りの原体験の一つは、やはり埋め立て前の根岸に海です。前に問題書きましたが、まだ、根岸中学校が、海のそばに立つ前から、根岸の海で遊んでいました。2,3メートルの岸壁(たぶん、2メートルくらいだったんでしょう)があって、そこを下って、海に入りました。岸壁は、石崖が適度に凹凸があって、楽に降りることができました。4、5月ころからの、貝堀(アサリやハマグリが禁止でした)、小魚やカニを取ったりしていました。前にもかいたのですが、一番おもしろかったのは、小さな粗末なアミでも、5センチくらいの深さで、砂をひっかきまわすと、小さなカレイがいくらでもとれました。あれは、実に楽しかった。あの根岸の干潟は、カレイなどの魚の産卵場だったんですね。夏は、当然、あそこで、毎日といっていいほど、泳ぎにゆきました。親なんか、ついてはきませんし、大人の監視員なんて、誰もいませんでした。潮が満ちると、わりあい深くなって、海にはいると、岸壁のそばでも、首あたりまでくる深さになりました。そんな風にしていましたから、自己流ですが、3,4年生のころには、かなり泳げるようになりました。海苔ひびの太い竹が適度な間隔で存在しているので、足がつかなくてもそこで、休めるのです。8月の終わりころからは、ハゼ釣りでした。とにかくたくさんつれるので、それは、おもしろかったです。ただ、ただハゼばかりで、他の魚を釣ったことがありません。

             大潮のときは、沖の方まで、干上がるので、遠くまで、ゆきましたが、振り返って陸地の方をみると、岸壁が小さく見えて、心細い気もしました。年上の子供たちは、元の航空隊の四角の埋立地の外側を回って、八幡橋の方にも行ったようですが、私はさすがついてはいかれませんでした。

             私の屏風ヶ浦までの通学路の16号線は、浜小学校を過ぎてしばらくすると、左側に、まさに16号線の際が海でした。台風などで、海が荒れると、波が、16号線や市電の線路に押し寄せたり、海藻が道路や線路に散乱していました。たしか、市電の停留所は、
             滝頭ー八幡橋ー葦名橋ー間坂ー浜小学校前ー屏風が浦ー聖天橋―中原ー杉田だったでしょうか。
             屏風ヶ浦の停留所の前には、よしず張りの海の家が夏にはできていました。

             子供のころの風景はだれでも、心の大切な風景でしょう。根岸や磯子の場合、いまや全くといっていいほど、その面影を残していないのは、残念ですが、万物流転ですから、しかたがないとはいえ、横浜の変わりようは、急激、かつ、大規模なので、やはり残念な気持ちがつよいのですね。

             昭和51年に発行された、厚い「磯子区史」を、うずもれていた本の中で発見しました。かなり網羅的なので、とくに磯子や根岸のことが詳しくのっているわけではありませんが、それでも、かなりの参考になります。いずれ、そのなかから、ご紹介いたします。図書館にゆけば、あるでしょうが。

             では、くれぐれもお体大切にお過ごしください。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            度々のお気遣いをいただき、ありがとうございます。
            そうですね、COPDは根治不可の病気ですから、一生付き合って行くしかありません。症状が悪化しないようにするのが、この病気の治療になります。疾患の箇所によっては手術で治る可能性もあるそうですが、何れにしても開胸手術になるので、今更と言う感じがしています。運動をしたりして息が苦しくなっても、少し休めば直ぐに回復しますので、今のところ生活に大きな支障はありません。私の場合は若い頃の喫煙が原因ですから、自業自得としか言えません。「机にかじりついて」と言うのは、何か悲壮感を抱く言い回しですね。机上での仕事ですから動き回らなくて良い、と申し上げたかったのですが、文才の無さが露呈してしまいました(笑)。

            根岸の海で泳がれたことは、やはり何物にも代えがたい経験でしょうね。埋め立て前、私は小さかったため、根岸の海の記憶はあまり残っていません。返す返すも残念なことですが、こればかりは仕方ありません。大潮の時は遥か沖の方まで干上がったとのことですが、私はそのような光景も見たことがありません。あの水上飛行場の先端を回って八幡橋まで行けたと言うのは、体験した人でなければ語ることができません。本当に貴重な体験談をお聞き出来るのですから、これほど幸せなことはありません。どのような書籍を見ても、そのような事が詳細に書かれていることはないでしょうね。

            私も小学生の頃に、ちょっとだけですが、釣りをした時期がありました。電車道の向こう側にあった釣り具屋さんでゴカイを買って、八幡橋や水上飛行場の傍で釣りをしていました。ゴカイに噛まれて痛い思いをしても、釣れるのはハゼばかりで、馬鹿馬鹿しくなって間もなく止めました。釣ったハゼはどうしていたのか、記憶にありません。当時ハゼなんて食べませんでしたから、多分、ニャンコの餌にでもなっていたのでしょう。私が幼稚園生の頃、祖父が水上飛行場と電車道の間にあった水路で、大きなボラを釣ったことがありました。あの水路では、ボラがよく跳ねていたのですが、それを釣りあげるのは中々難しいことだったようです。電車道から水上飛行場に行くのには、2つの橋がありましたよね。その小さいほうの橋は根岸中学の近くにありましたが、その上で釣りあげたものです。その時は竹竿を使っていたのですが、中が腐っていたのか、真ん中からグニャと曲がってしまいました。竹は周りの皮が柔軟性があり強いですから、ポッキリとは折れないのですが、それにしても太めの竿が曲がったのにはビックリしました。釣ったボラはかなり大きなもので、周りに居た何人かの釣り人から喝さいを浴びて、祖父は気分良さそうにしていましたね。祖父、祖母の面影もだんだんと薄れてきていますが、このように文章にすることで、記憶していることが鮮明になります。埋め立て前の根岸・磯子のことをこれからもお教えいただければ、これほど嬉しいことはありません。これからもよろしくお願い致します。

          • ZEPHER says:

             今年は台風の当たり年なんでしょうか。それとも、今後も温暖化でしょっちゅうこんな具合なんですかね。
             私の家は2階でちょっと高めのところにありましたので、2階からは、根岸の海がよく見えました。
             台風がくると、根岸中学校あたりに、かなり高い波が打ちつけて、家からもその高波が見えました。また、前にもかきましたが、たくさんの漁船が黒い四角い帆を張って、漁をしているのもよくみえました。カレイ、シャコなどの底魚を取っていたのでしょう。一度だけ、根岸市場のそばに住んでいた友人のつてで、漁船に乗せてもらったことがありました。八幡橋あたりからでて、屏風ヶ浦、根岸、三渓園の沖をゆき、何か所で留まって、そこで、泳いだのですが、船の上から見ると、海は浅く見えて、とびこんだらぜんぜん足がつかないので、びっくりした覚えがあります。船から見た、磯子、根岸の風景もよかったですね。
             間門から三渓園の崖は、特徴的な風景で、明治維新のころに横浜港に至った外国船は、あの白い崖が印象的だったらしく、たとえば、アーネスト・サトーの「一外交官の見た明治維新」の冒頭にも本牧岬とその崖の描写があります。当時、居留外国人は、根岸湾を「ミシシッピベイ」と呼んでいました。勝手に変な名前をつけるな、といいたいところです。当時の外国人は、山手の丘の上の見晴らしのいいところに住宅を建てて住み、仕事だけを下の山下町までかよったようです。これは景色だけではなく、当時は日本でもマラリヤがあって、それを避けるために低い土地や沼沢地を避けたようです。げんに、中華街あたりは、沼地だったようで、「SWAMP」と表示されています。
             また、ついでに言うと、山手の急な土地のことを「BLUFF」といっていて、三省堂の以前のコンサイス英和辞書には、「横浜の山手の崖地」が掲載されていましたが、最近のには、三省堂のにも載っていません。
             さて、おじいさんがボラをつった橋ですが、私もよく覚えています。八幡橋よりの橋は大きなはしでしたが、その橋は小さく(コンクリート製ではありましたが)、ゆきどまりでした。そこで、よくハゼ釣りをしていました。あの元飛行艇の基地と根岸側の間の水路でも私も釣りをしました。でも、そこで釣っていたのは、幼稚園か、小学校低学年のころですが。小さな船の係留場で、杭に板を張ってあって、そこでハゼ釣りをしていました。潮がみちくると、いまおもえばボラのちいさいのでしょうか、たくさん押し寄せてきて、体をくねらせると、腹の白いところがクッキリと見えて、いまでも鮮明に思い出せます。たしかに、大きなボラは、猛烈な引きがありますから、普通の仕掛けでは、糸は切られてしまいます。竿が折れるのは当然だったでしょう。よく糸がきられないで、とりこめたもんですね。
             それに、夕方になると、沖の方で、ボラがはねていました。当時ボラとはしりませんでしたが、あんな大きな魚を釣りたいもんだと思っていました。ボラは、あのころだったら、たべてもうまかったのではないでしょうか。夏は、東京湾の奥の方でとれたボラは、くさくてたべられません。西伊豆あたりなら、刺身にして臭みがなく、おいしいのですが、ついめんどうなので、逃がしてしまっています。
             それに、夏の終わりの釣りの時期には、なぜかあのボラをつったあたりの海と陸地のあたりにギンヤンマがたくさん飛んでいて、特有な長い棒の先に三角に網を浅くはったもので、大きな乙人さんたちが採っていました。当時、トンボは実にたくさんいました。とくに夕方になると、私の家の庭にもたくさんのとんぼ、たぶんオニヤンマやギンヤンマが、にわの上空をぐるぐると回っているのです。網の棒よりちょっと高いところを巧みに飛んでいるので、飛び上がって取ろうとしても、とれないで、悔しい思いをしてばかりしていました。
             

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            このところ、本当に毎日雨ばかりですね。本日は、雨は降っていませんが、曇っています。明日以降の天気予報を見ると、また雨降りが続くようですが・・。
            昨日は土砂降りの中、近所の医者に行ってきました。医者には毎月1回、薬をもらいに通っているのですが、昨日は1年に1回の定期診断の日でもありました。レントゲン・採血・肺活量検査を行いましたが、昨年と比べて変化無しと言う結果でした。血液検査だけは未だ結果が出ないのですが、数ヶ月前に入院して散々検査しましたので、その時と変らないだろうと思っています。この病気は良くならないので、昨年と変化無しなら上々の結果かも知れません。まぁしかし、困ったものです。

            根岸のご自宅からは海を見渡せたとのこと、今となっては望んでも叶わないことですから、実に貴重な体験ですね。私が1人で出掛けられるようになった頃は、もう埋め立てが始まっていましたから、埋め立て前の根岸の海を見れたのは、両親に連れて行ってもらった三景園の潮干狩りの時と、隣の中学生のお兄さんに旧根岸中学に連れて行ってもらった時だけでした。大伯父さんの漁船に乗せてもらった時は、埋め立てが大分進んでいた頃でしたから、海からは岸壁しか見えませんでした。もっと沖まで出れば、本牧岬を見られたと思うのですが、そんな沖には行きませんでした。当時は、船で海に出ると怖いと感じましたね。その頃は、足が着かないような場所で泳いだことがありませんでしたから、船から落ちたらどうなるかと心配していたように思います。ZEPHER様は沖まで出て、根岸・磯子の海の一部始終を見ることができたそうですが、これもまた実に貴重な体験ですよね。漁師の人達は毎日そんな光景を見ていたと思いますが、それ以外の人はそうそう経験できない事だったでしょうからね。

            本牧岬のことは、横浜の歴史書を見ると必ずと言ってよい程、記載されていますよね。写真で見ると、本牧岬は本当に印象的です。海が健在だった頃に、不動坂の上から見てみたかったですね。それと、前回いただいたコメントに、屏風ヶ浦近辺の海の事をお書きいただきましたが、本当に素晴らしい光景だったでしょうね。横浜近辺の事を思い返しても、海っぺりの国道に路面電車が走っていて、時として潮を被るなんて光景は、まずお目に掛れないのではないかと思います。

            旧根岸水上飛行場に続く大きい方の橋ですが、あそこには小さな頃から行っていたように思います。橋を渡って直ぐ右手にあった、何も無い空き地でよく遊んだのですが、あの道が真っ直ぐに日航まで延びていた光景を憶えています。根岸線の工事が始まってから、根岸線の橋げたの下は大きく掘り下げられましたが、その時のことも鮮明に憶えています。こんなに掘っちゃって、大雨が降ったらどうするんだろう、なんて考えていたように思います。もう55年以上も前の話ですが、昨日のことのように思い出します。忘れてしまっていることも多いのですが、あの辺りは余程気に入った場所だったのでしょうね。橋の上から見ると、水路には船を係留するための木の桟橋があり、小さな船が係留されていました。近所の方が乗っていたのでしょうね。あの水路は、1963年の写真には写っていますが、1964年にはもう埋め立てられてしまったようです。いつも遊んでいた空き地を検疫所の方まで行って、そこで釣りをしたりしていたのですが、それももう遥か昔のことなんですね。小さな橋のことは、祖父の釣りの時の記憶しかありません。それも、周りがどうであったかは殆ど記憶に無く、行き止まりだったことも憶えていませんでした。近くに旧根岸中学があったことだけは何となく憶えていますが、大きな方の橋の記憶とは大きな隔たりがありますね。

            昔はトンボもいっぱい飛んでいましたね。セミよりも、トンボをよく捕まえた憶えがあります。トンボに噛まれると痛いので、気を付けて捕まえるのですが、それでも何回も噛まれました。シオカラトンボと赤トンボが主でした。オニヤンマ、ギンヤンマを捕まえたいといつも思っていたのですが、出会えず仕舞でした。クマゼミを見たいと思っていても、見ることができなかったのと一緒ですね。その後、根岸から鎌倉、金沢区との境にある地区に越したのですが、その直ぐ傍には大きな緑地帯があり、子供の頃には見ることができなかった生き物を多く見ることができました。ホタルを見ることができると言えば、どのようなところか大体想像が付くのではないかと思います。オニヤンマ・ギンヤンマは、沢山飛んでいました。手の平にすっぽりと乗るような、超巨大なスズメバチも居ましたね。台風の後などには、必ずその巨大なスズメバチが落ちていました。自宅の網戸に、ナナフシが引っ掛かっていた時もあり、子供の時に越して来ていたら、きっと狂喜乱舞していたことでしょう。もっともその頃は宅地開発はされていませんでしたから、文字通り山の中でした。

            西伊豆には、良くお出掛けになられるのでしょうか。若い頃、知り合いの人が西伊豆町で、海の家をやっていました。21歳の頃でしたが、学校帰りのアルバイトが終り、そのまま車に乗って箱根から伊豆山中を横断して西伊豆町に出て、海の家の手伝いをしたことがあります。夏場の暑さと寝不足で、辛い思いをしました。海の家と言うと何か楽しげなイメージがありますが、そこでのアルバイトは、やるもんじゃありませんね。高校生から大学生の頃は、黄金崎やその近くで、よくキャンプをしました。伊豆に行くなら西伊豆、と言う思いは今もありますが、ここ暫くはご無沙汰しています。近いうちに、また行ってみたいですね。高校の同級生が焼津で漁師をしていますので、そちらにも足を伸ばしたいなと考えています。

            ここ2日ほど、寒いくらいに気温が下がっています。室内に居ても、長袖・長ズボンでないと寒くていけません。こんな時にちょっと油断すると、体調を崩す切っ掛けになりかねません。どうぞお体をお労りください。

          • ZEPHER says:

             たしかに天候不順が長く続いて、Kojimaさんには、つらい日々のこととお察し申し上げます。
            検査では、とくに大きな変化はないとのことで、私も安心いたしました。かかりつけのお医者さんがいるのは、心強いことですね。わたしも、喘息のほか、じつは、もっととても長い間慢性の内臓の病気を抱えていて、ほとんど無理がききません。食事の制限もあって、病気を持つ方の苦労はよくわかるつもりです。くれぐれも、今後とも、お体には、お気を付けください。

             西伊豆の黄金岬あたりで、海の家のお仕事をしておられたとか。あの辺りは、遊びに行くにはいいところです。私も、西伊豆専門です。静岡から沼津へ、414号線をくだって、狩野川の放水路から三津浜水族館の方へ、大瀬岬、井田、戸田、土肥、宇久須 恋人岬のある黄金崎あたり。いいところですね。あの道路は大好きで、よく行きます。釣りも子どものときの楽しさが忘れられず、
            遠路朝早く(体の調子いい時だけですが)目の前の富士山、それに魚種も豊富で、だいたいよく釣れます。ときには、大きなサバが入れ食いとか、メジナ、アジ、タカベ、イサキなどなど。始めると、浮きばかりじっとみていて、あっという間に、6,7時間はたってしまいます。このとしでも、こんなに釣りをしているのも、原点は、子どものころの根岸の海でのハゼ釣りです。

             あと、実は他人にはあまり言いたくないのですが、西伊豆スカイライン、特に戸田峠あたりでの、4月半ばころに咲く「フジザクラ(マメザクアラ)」は、ほんとに美しいのです。この時期には、万難を排して、身に言っていますが、何時までいかれるやら、と思う今日この頃です。

             横須賀市に近い金沢区は、たしかに、自然等が豊だったでしょうね。今でも、円海山、氷取沢市民の森は、横浜に残された自然の宝庫です。ネットでみると、あの辺りの自然を徹底的に毎年調査し、植物、鳥、昆虫などをリストにしてありますね。まだまだ、けっこういろんな生物がいるようです。

             いってん、話がかわりますが、下町の山がわに大きな「柳下」さんというお宅がありました。そのおたくは、大きな門があって、さすがにはいれませんでしたが、どういうわけか、2,3度中に入れてもらったことがあります。なんとも、きれいに整備された庭と大きな邸宅にはびっくり。いまは、どういう経緯かわかりませんが、市の物になって、だれでも、入れるようです。私が、根岸で暮らしていたころは、そうではありませんでしたから、わりあい最近のことなんでしょうか。

             また飛びますが、根岸小学校の裏において階段をあがって、ずっと豆口台の方に行くと、「聖光学院」といういまや有名な学校がありますが、私に子供のころは、あそこは、周囲の道路から、1,2メートル低い湿地と一部たんぼでした。周囲には、コナラなどがはえていて、そのあたりには、クワガタなどがとれました。さらに今の山手駅の方に行くと右下には、牧場があって、牛がたくさんいました。もう、いまや、家だらけで、そんな面影なぞしのぶべくもありませんが。

             またかわって、あの頃の遊びの一つに、ロウセキで、道路に絵?を書くことがありました。ロウセキは、坂下公園のそばの「さかもと」で買っていましたが、扁平の薄いロウセキで、すぐになくなってしまうものでした。真四角で、柱のようなロウセキは、磯子小学校の周囲の道路のうち、浜マートに平行した道路の真ん中あたりに、たしか「すぎの」?(これは、たしかではありません。)という子供用のいろん物を売っている店がありました。さすがの、川をこえて行くには、遠いのでいかれませんでしたが、近所のお兄さんたちについていって、買ったことがありました。そのほか、ゴムで飛ぶ紙とひごでできた飛行機(自分で組み立てる)も、いろんなのが売っていました。そのプロペラの先につけるアルミ製の小さな カタカナの「コ」の字のようなのがそこでしか売っていなかったので、かなり貴重なものでしたね。ともうしあげても、これは、ちょっと、お分かりいただけませんね。

             では、くれぐれも、お体大切に、決してご無理されないように。なお、肺炎の予防注射はうってありますか。私はまだなので、なるべく早く、打ってもらうつもりです。
             

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            気圧が低い時に息苦しいと言うのは、どのような原理なのでしょう。山の上の方に行くと気圧も酸素濃度も低くなりますが、それと同じことなのでしょうかねぇ。掛り付けのお医者さんに尋ねたことがあるのですが、それがこの病気の特徴です!と、期待外れの返事が返って来ました(笑)。でもこのお医者さんは大変親切で、今年の3月に行った時には動脈硬化の検査をしましょうと言って、首筋の超音波検査をしてくれました。1ヶ所ありましたね、動脈硬化が。普通、血管の皮?の厚さは 1.2mm までが正常範囲なのですが、それが 2.0mm になっているところがあり、このままではいつか拙いことになる(脳血栓)かも知れないと脅かされました。で、お薬が1種類増えたのでした。今ではいろいろと取り交ぜて(笑)、5種類の薬を服用しています。ちょっと前までは考えもしないことでしたが、5年前に気胸で入院してからどうもいけません。ZEPHER様も厄介な病気を抱えられておられるようですが、これから段々と寒くなりますので体調を崩されないよう、お気を付けになってください。

            肺炎のワクチンは、私は今まで一度も受けたことがありません。横浜市では65歳以上になると、肺炎球菌ワクチンを接種しなさい!と受診補助の案内が来るのですが、それまでにはあと1年半ほどあります。次にお医者さんに行った時に聞いてみようかと思いますが、お医者さんの方からそのような話が出たことは無かったので、気に掛けていませんでした。それ以外にも、風邪やインフルエンザに注意しないといけないので、これからなかなか面倒な季節になりますね。

            西伊豆へはよくお出掛けになられているとの由、あの海岸線沿いの道は本当に素晴らしいですね。横浜からもう少し近ければ良いのですが、行こうと思うとかなりの時間が掛ります。高速で沼津まで行って南下すれば良いのですが、どちらかと言えば石廊崎回りで行くことが多いので、黄金崎辺りに着く頃は疲労困憊しています。キャンプ等が目的の場合は着いたところでゆっくりできるのですが、そうでないとなかなかキツイことになります。西伊豆の何処かで一泊しようとも思うのですが、時間が中途半端なことが多く、結局箱根辺りで一泊と言うパターンが多いです。箱根まで戻るなら横浜まで帰れば良さそうなものですが、動くにはもうその辺りが限界です。昔、堂ヶ島の旅館に泊まったことがありますが、海の家の手伝いやキャンプを除けば、それが西伊豆で宿泊した唯一のことでした。ZEPHER様が西伊豆に出掛ける時は、宿泊されるのでしょうか。釣りに6~7時間も掛けてゆっくり楽しまれると言うのは、実に羨ましい限りです。

            西伊豆スカイラインは、本当に綺麗な所が多いですね。かなり前に、だるま山に行ったことがありますが、あそこから見る景色は抜群でした。ちょっと出掛ければ、すぐそこにこんな素晴らしい場所があるのですから、静岡は良いところですね。いつでも海の傍まで出掛けられますから、ZEPHER様にとって静岡は、住むのに格好の地なのでしょうね。桜の名所と言えば、私はよく横須賀の野比に行きました。野比にある山の頂上に、昔はNTT通信研究所と呼ばれていた建物がありますが、その裏手に岩戸中学校と言う学校があり、そこに続く道の両脇が桜並木になっています。満開の時に行くと、本当に綺麗です。ここ数年行っていませんが、時期が合えばまた出掛けてみたいと思います。

            下町の柳下邸ですが、私はあそこにあのような建物があることを知りませんでした。小学校の帰りも遊びに行く時も、柳下邸の前の道を通ることはあまりありませんでしたし、友達の口から聞いたこともありませんでしたから、全く知らないまま過ごしていたことになります。元の持ち主が、建物の老朽化で解体しようとしているところに、横浜市が買い取りの話を持ちかけたようです。ZEPHER様のお住まいは、あの辺りの山側にあったのですね。そうでしたら、旧根岸中学がほぼ真正面に見えたでしょうね。私の父母は共に磯子の出です。母は一昨年他界しましたが、父は元気でしっかりしています。終戦の時は両親共に17~8歳でしたから、昔の根岸・磯子の海の話が聞けるかと思いきや、意外と両親の口から話が出たことはありませんでした。こちらから聞けば、憶えていることは教えてくれるのですが、そもそも当時のことを知らない私が尋ねるのですから、具体的に何を聞けば良いのか思い付きません。昔の思い出話の中に、時々根岸・磯子の海の話が出て来ることがありますので、それを聞き逃さないようにしています。もう直ぐ母の3回忌がありますので、その時にまた話を聞いてみようかと思います。

            横浜の磯子区・金沢区・栄区に跨る幾つかの市民の森は、本当に自然の宝庫だと思います。ハイキングコースを歩いていても、結構珍しい生き物に出会うことがあります。夏場はマムシやスズメバチに油断できませんが、それさえ気をつければ、気軽に山歩きを楽しめます。体がもう少し言うことを聞いてくれたら、季節に関わらず山歩きをしたいのですが、たぶん、もう無理ですね。昔は子供と一緒に鎌倉まで歩いたのですが、今となってはそれも良い思い出です。

            ロウセキとは、これまた懐かしい名前が出て来ましたね。私もロウセキで道路にいろいろと書きました。缶蹴りをした時によく使った憶えがあるのですが、何に使ったのでしょうかねぇ。あの頃の遊びのルールは、ことごとく忘れてしまいました。磯子小学校の傍の文房具屋?さんでしたら、私も何となく憶えています。浜マーケットの出口を出て磯子小学校に突き当り、そこを右に曲がると道路の右側にありました。その道路をもう少し進むと道が右にカーブしていて、やはりその右手に貸本屋さんがありました。貸本屋さんの向かいは、コンクリートの塀で囲われた空き地になっていました。その道をもっと進むと左手に銭湯が、右手に果物屋さんがあり、16号線に突き当りました。今ではそれらのお店は、マンションやアパートに変ってしまっています。たまたま Google Street View を見ていたのですが、八幡橋の「永楽」と言う中華ソバ屋さんは、まだやっているみたいですね。それと八幡橋神社の隣には「水谷」と言う中華ソバ屋さんもあって、その日にやっているどちらかのお店に出前を頼んでいました。「永楽」はどちらかと言うと甘めの味付けで、我が家ではサンマー麺か五目焼きソバが人気でした。私はもっぱらラーメンかワンタンでした。そんなことを考えていると、当時の一家団欒の様子を思い出します。祖父・祖母・父・母・弟との6人家族でしたが、小学生の頃はこんな光景が永遠に続くと思っていました。中学1年生の暮れに祖母が突然亡くなり、愕然としたことがありました。一昨年亡くなった母も、心臓の病で突然亡くなりました。闘病で苦しむことが無かったのが救いですが、人生とは無情なものですね。昔に経験したような一家団欒を、自分は築けて来たのかと思うと忸怩たる思いがありますが、その時々の選択で良かれと思って進んできた道ですから、これからも自分を信じて進むしかなさそうです。まずは、健康により一層気を付けたいと思っています。

          • ZEPHER says:

             その後お体の具合はいかがですか。どうか、くれぐれもお大事に。救急車で病院に運ばれるなんてことがないように十分お気をつけください。

             低気圧と喘息などの呼吸器の病気の悪化の関連は、確かに、確実にあるようですね。ネットで、調べてみたのですが、あまりはっきりしたことは、書かれていませんでしたから、お医者さんの返事もせめられないかもしれません。
             医師は、とにかく、低気圧や気温の急激な変化があったときには、喘息の症状がわるくなることさえ知って、治療にあたればいいのですから、それ以上の理屈を知らなくてもいいようです。私も同じような経験をしたことがあります。
             一説では、気圧が低くなると、血管の圧が相続人退職金的に、外気に比べて高くなるので、血管が膨張する。特に小さな子供は、血管が細い上に、粘液で、気管が細くなっているので、わずかな、血管の膨張でも、悪影響が起きる、とのことです。分かったような、わからないような感じもしますが、そうなのかと思っておきましょう。
             私はさいわいひどい喘息ではないので、気圧の変化では、多少気管支の輪郭が感じられるような症状はありますが、それが常に喘息になることはありませんが、要注意ではあります。いつも見ていただくお医者さん自身が、喘息なので、よく見てくれるのはありがたいことです。

             磯子小学校のそばの文具などを売っていたお店のこと、Kojimaさんのお書きになったとおりの道順です。やはりご存じでしたか。なんだか、楽しいですね。昔の記憶を共有しているのは。
             
             ろうせきの使い道は、異論相手方の中学校ありましたね。道路になにやら電車の線路なんか書くとか、ビー玉の遊びで、まず道路の真ん中あたりにアメーバみたいな形のとじた形を書き(この中にビー玉を皆平等に拠出します。それを、離れた左右の直線を引いて、そのそとがわから、中のビー玉にあたって自分のビー玉が外にでて、かつ、中のビー玉が外にでれば、そのビー玉がもらえるようぐあい。自分乙ビー玉が、中にとどまってしまったら、アウトで、そこで、その人はおしまい。)、Sの字会戦で、大きな S を書き、S
            の奥に陣地を書き、そこの踏み込まれたら、勝負あり。ただし、S の外にでたら、片足でけんけんでうごく、敵と遭遇したら、倒したり、両足をつかされたら、対戦メンバーから外れる)、あと、けんぱけんぱけんけんぱ なんていうのもありましたね。

             女の子たちは、ゴム飛びや、おはじき遊びで、はっきりと分かれて遊んでいました。なお、私は、ベーコマはやったことはありません。近所の子も、下町あたりでは、みかけませんでした。

             「永楽」は残念ながら、私はしりません。「たま」には、ラーメンを取ってもらったことはありましたが、私の時代には、まだそんな余裕はなかったように思います。どこから、当事者っていたか、永楽ではなかたと思いますが、そのお店の場所や、名前はもうおもいだせません。一度、なにか、親戚の法事?で、中華街に出かけて、本格的なコースを食べたことがありました。なにせ、はじめてのおおごちそうだったので、では条メールからはら一杯食べたら、なんと、あとから、次々ともっと、うまそうなのが出てくるではありませんか。もう、おなか一杯で、もう食べられない。ごちそうを目の前にして、あの悔しかったこと!! 以後、最初から、がっついて食べないようにというのが、厳しい教訓にまりました。

             焼きそばのことですが、最近のものは、みな、麺が柔らかいのですが、私のころは、麺を上げて固くなり、それに野菜ありがとうございました。や肉の入ったトロっとしたものをかけて食べていました。家では、母が麺を揚げてくれるのいまや遅しと待ち構えていたのを思い出します。

             またとめどもないことばかりで、恐縮です。

          • ZEPHER says:

             訂正 

             血管の圧が、「相対的に」ですね。妙な、言葉が出てきますが、実は、私は、法律関係の仕事をしているので、専門用語は、単語登録がしてあります。それで、ブラインドタッチができないので、ああいうミスがでるのです。も一度みなおせば、いいのですが、どうしてもこういう返還ミスがでてしまいます。どうか、ご容赦のほど、お願いいたします。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            コメントをいただき、ありがとうございます。
            台風18号がウロウロしていた影響か、ここ数日、あまり調子がよくありませんでしたが、昨日と本日はスカッと晴れて、快適な時間を過ごしています。これから段々と寒くなって行くとそれも体に影響しますので、何となく憂鬱な気持ちになります。まったく因果な病気です。先日病院に行った際に、杏林製薬が新しく発売した気管肢の機能改善薬を紹介されました。現在それを試していますが、幾らかでも改善されると良いなと思っています。気管肢の疾病と気圧の関係は、やはり説明が難しいのでしょうね。ただ、関係が明確にならないと、なぜ調子が悪いのか納得できないのですよね。これも一種のビョーキでしょうかね(笑)。

            私には、ビー玉をやる時にロウセキを使った記憶がありません。ビー玉では余り遊ばなかったせいでしょうね。女の子は、いろいろな遊びにロウセキを使っていましたよね。懐かしいです。ベーゴマは、私が小学校5年生の時に禁止になりました。先生に見つかると、ベーゴマはその場で没収されました。後で返してもらえるのですが、その時は犯罪者扱い(笑)でした。ですから、学校の近くでは絶対にやりませんでした。昔の坂下町の郵便局のちょっと手前に、根岸橋に抜ける細い路地がありましたが、その途中に友人の家があり、その前がベーゴマ遊びの溜り場になっていました。ある時、クラスの女の子達にチクられて、先生から大目玉を喰らったことがありました。今となっては、懐かしい思い出です。

            私の家でも、出前はたまにしか取りませんでした。昔は、どこの家でもそんな感じだったように思います。出前を取るのは、母・祖母共に夕飯の支度が面倒になった時と決まっていました。お使いに行く時間が無いとか、天気が悪くて出掛けるのが面倒だとか、調理したくないとか、そんな時だったように思います。私の家では、朝食は台所のちゃぶ台、夕飯は居間のテーブルと決まっていました。居間のテーブルと言っても、掘りごたつのテーブルでした。夏でも掘りごたつをそのままにしておいて、テーブル代りに使っていました。足を下に降ろせるので、畳の上に置いたテーブルを使うよりも楽でした。朝食と夕食でなぜ場所が違うのかよく分かりませんでしたが、小学生の頃はずっとそんな感じだったと思います。中学生になってからは、朝食を食べながらテレビを見ていたので、居間で朝食を取るようになっていたのだと思います。その頃のニュースは、ベトナム戦争のことばかりでした。もう半世紀も前の話ですから細かいところは忘れてしまいましたが、ひょっこりひょうたん島の後に8時からのニュースを見て、8時15分頃に家を出ていたと思います。それでも遅刻しませんでしたから、ずぼらな私は、学校は近いに限るなんて思っていたかも知れません。実際に小学校よりも近かったですから、楽でした。小学校も中学校も校舎が建て替えられて、当時の面影は全くありませんが、それでもやはり懐かしいですね。こんなお話をさせていただいていると、忘れていたことも思い出します。

          • ZEPHER says:

             いつも、律儀なKojimaさんからの書き込みがないので、かなり心配していました。よかったです。もしや、また意識不明のまま救急車で行院へ  なんて、ろくでもないことが頭をよぎってしまって、失礼いたしました。でも、調子が悪かったとはいえ、大事に至らず良かったですね。

             お互いに歳ですから(歳はこっちのほうですね)、体には十分に気を付けて、いくら義理を欠いても、決してもう無理はしないことにしています。新しい薬がよく効くことを祈っています。

             坂下町の郵便局?確かに、なんか記憶はあるのですが、はっきりした位置が思い出せません。そこの横からの根岸橋方面への細い道も。ベーゴマは、なぜ禁止になってしまったのでしょうか。

             学校が近かったのは、いいことですね。私には、小学校から、バスに乗り、長い道を歩いて通いました。中学、高等学校は、もっと遠く、さらに大学も東京でしたから、ほとんんど、1時間半以上でした。下宿をしたかったのですが、やはりお金がかかるので、親にはいいだせませんでした。息子たちは、大学にはいったら、皆喜んで、家を出て、下宿をして、親の知らぬ間の自由を謳歌していたようです。やはり、あの時期親元を離れて暮らす方が、楽しいでしょうね。

             今日は、このへんで。とにかく、それなりに?お元気なようで、安心いたしました。今日は、家内とともに肺炎の予防注射を打ってきます。やはり、注射は、いやですねえ。そういえば、小学生の時の注射は、一列に並んで、同じ針と注射器で、次から次へと打っていましたから、不幸にもしらないうちに、肝炎などのウイルスに感染してしまった方々もいたんでしょうね。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            ご心配いただき、ありがとうございます。
            なかなかご返事を書けなかったのは、大した理由ではありません。部屋の整理を始めたのはいいのですが、それがなかなか終わらなかったのと、それに急ぎの仕事が重なり、ご返事の文面を考える時間が無かったからです。良く考えて書いた文章とは到底思えない!なんて言われそうですが、いつもかなりいろいろと悩んだ末に書いています。ちなみに、部屋の整理はまだ終っていません。何がそれ程大変なのか私にもよく分からないのですが、とにかくモノが多過ぎるようです。不要になったら捨てれば良いものを、いつまでも後生大事にとっておくため、存在を忘れてしまっているようなモノが出て来ることがあります。そんなモノに出くわすと、懐かしくて思わず見入ってしまうため、非常に時間が掛ります。私は「飽きっぽいくせに物持ちが良い」の、典型的な性格みたいです。しかし今回は、不用品は一気に捨てる覚悟でいます。毎週日曜日に紙類の廃品回収が来るのですが、先週は大量の本と段ボールを捨てました。しかし、未だ捨て切れていないものが、山のようになっています。狭い部屋のどこにこれだけのモノがあったのか、自分でも本当に驚きます。段ボールにきちんと整理して詰め込むと、結構な量のモノが入ってしまうようです。そんな段ボールが何段か重なっていましたので、こんな大変な量になったのだと思います。早く片付かないと落ち着きませんので、何とか今週中には綺麗にするつもりでおります。

            昔の坂下町の郵便局は、坂下町の交差点から馬場町方面に向って、最初のカーブを過ぎた左側にありました。根岸橋の傍まで通じている路地は、そのカーブの手前にあります。現在の坂下町の郵便局は、坂下町の交差点より下町寄りのところにあります。昔の町の様子は、人それぞれで微妙に記憶が異なることがありますよね。まして私達みたいに、その地を離れてしまった者にとっては、記憶に残っていないことも多いと思います。

            ZEPHER様は、小学校の頃から遠方の学校に通われていたのですね。私の家の近所にも、私立の小学校に通っていた同い年の女の子が3人いました。通学に時間が掛るためか、平日は顔を合わせたことはありませんでした。たまに日曜日などに顔を合わすと、ひとことふたこと言葉を交すのですが、どんな話をしたのかは忘却の彼方です。その3人共に才女で美人でしたから、小学校高学年になった頃は、幼馴染とは言えちょっと近寄りがたい雰囲気がありました。家の近くの女の子は、大人しくて真面目な子が多かったです。一方、私を含め近所の男子は遊ぶのに夢中で、雨の日以外は一日中外を駆けずり回っていました。小学校5年生までは、勉強した記憶が殆どありません。

            ベーゴマが禁止になったのは、PTAから苦情が出たのが理由でした。ベーゴマはメンコやビー玉と違って1個の値段が高かったため、負けて相手に没収されると結構な損害になります。いつも負けている子の親が、PTAを通じて学校に文句を言ったようでした。ベーゴマに関するいろいろな問題は以前からあったようで、それも含めて全面的に禁止されたようです。負けると取りあげられるのは、ベーゴマに限った話ではないですから、そんなの不公平だと憤慨していた子もいました。私はベーゴマに特に思い入れがあったわけではありませんので、クラスの女の子に告げ口されてからは、殆どやりませんでした。

            肺炎球菌のワクチン接種はいかがでしたか。受診される方は、結構いらっしゃるのでしょうか。私も今年は受診しないと、ダメかもしれないですね。それでは、この辺りで失礼します。

  25. ZEPHER says:

     その後、まだまだ寒い日が続いていますが、体調の方はいかがでしょうか。気管支
    の良いくすりは、効果はありますか。くれぐれも、お体、大切に。先日、部屋のセイルをなさったとか、書いてありましたが、あれは、かなりほこりを吸い込むので、呼吸器には、よくないので、ほどほどになさってください。また、花粉症アレルギーはありませんんか。さらにそれがかさなっては、たいへんですから。

     じつは、わたしも、いぜんから、いろいろと病気を抱えて、ときおりそれが悪化し(当面命にはかかわりないようなので、それはたすかるのですが)、パソコンに向かう気にもなれないような、日々がつづきました。それでも、その気になればかけないことは、ないのですが、なんとなく、もう年のせいで、気力がありません。

     肺炎とインフルエンザのワクチンの注射を昨年初めてしました。そのせいか、ことしは風邪などには、かかっていません。いちおう、なにか安心できるのです。Kojima様も、そろそろなさっては、いかかがでしょうか。横浜市では、65歳、70歳、
    と5年区切りで、助成金がでるようです。でも、呼吸器関係の問題のある方は、そんなことにかかわらず、医者に相談して早めになさっておくことを、余計なことを申し上げるようですが、おすすめいたします。

     冬の寒さのことですが、子供のころの寒かったことは、身にしみて覚えています。
    そもそも、あのころは、今よりさむかったのですね。最近は、温暖化で、たしょうは、気温が上がり気味(とはいえ、ことしのように寒くて豪雪の地方もあるんですが)なのと、なんといっても、まず第一は、建物の構造でしょうね。私の家は、2階立てで大きい家だったのですが、風通しがとてもよく、トイレなんか、もう凍えるようでした。だから年寄りにはきつかったんでしょう。

     第2に、暖房設備です。なにしろ大きな8畳間に、火鉢一つですたから。てのひらを温めるだけで、たぶん、室温なんか、ほとんど上がりませんでした。昭和30年過ぎころでしょうか、古風な石油ストーブが、入ってきたのは。火鉢よりは、かなりましでしたが、においがくさくて、煤も部屋にただよったりで、ひどいもんでした。それに比べると、今は天国のようで、外に出ても寒さを厳しく感じることは、まずありませんね。としよりには、ほんとに助かります。

     あと、雪がよく降りました。よく、雪だるまを作ったり、雪合戦をしましたね、たしか昭和26年2月の大雪はよく覚えています(Kojima様は、まだ生まれていなかった?)ちょうど、その日に、小学校の試験の日
    だったものですから、朝早く、4,50センチも積もった、雪をかき分けて、根岸3丁目のバス停へ。もちろん、車もバスなんかも、走っていません。そこで、八幡橋に出て、市電に乗ろうとしたのですが、これも不通。やむなく、ずっと2時間くらい歩いて到達。しかし、人が集まれず、その日は、試験が延期になってしまいました。とうぜん、帰りも歩いて、帰りました。その途中、アメリカ軍の大きなトラックだけが、チェーンをタイヤに巻いて轟音をたてて、たくさん走っていました(当時から、あの圧倒的な物量には、感心したものです)。

     まだまだ、寒さ厳しき折り、くれぐれも、お体大切に。返事も、いりません、夏にでもなって、気がむいたら、書いてください。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      お久し振りです。コメントを頂戴し、ありがとうございました。
      寒い時期は、やはり堪えますね。ZEPHER様も具合があまりよろしくない時がおありだったようですが、元気になられたようで何よりです。私の方は案の定と言いますか何と言いますか、2月の初めに風邪気味になり医者に行ってきました。普通の風邪だろうと思ったのですが、見事にインフルエンザにかかっておりました。今年のインフルエンザは熱が余り出ないタイプがあるみたいで、私の時も37.6℃でしたので軽く考えていたのですが、インフルエンザでした。発熱して直ぐに医者に行ったのが良かったのか、タミフルを5日間飲み続け、何事も無く完治しました。

      その前、昨年の12月には三半規管の異常で「めまい」がして医者で薬を貰い、1週間薬を飲み続けて完治しました。最近、肺の疾患だけではなく、いろいろと問題が出て来ているような気がします。ここ数日は幾らか暖かい日が続いていますので、心持ち楽な感じがしています。「冬の間は部屋を暖かくして湿度を高めに保ってください」と医者には言われるのですが、自分1人で生活しているわけではないので、なかなか難しいところです。

      昔の家は、本当に寒かったですね。火鉢に炬燵だけで、部屋を暖めると言う感覚はありませんでしたからね。大体、障子と唐紙が部屋の区切りで壁が少なかったですから、保温・防寒は期待できませんでした。私の生家は平屋でしたが断熱材なんて無い頃の家ですから、冬の寒さは厳しかったですね。当時の日本ではそれが当り前でしたが、時折映画で目にするアメリカのセントラルヒーティングなどの質の高い生活には、子供ながら憧れました。映画の中の場面では、外は雪が降っているのに、何であんな薄着と毛布1枚程度で寝ていて寒くないのか、外人は寒さを感じないのかと不思議に思ったことが何回もありました。そんなことを考えると、何となく侘しかった幼少期を思い出します。うう、何か寒風が余計に身に沁みますね(笑)。

      昔の大雪と言うと、私の記憶にも何回かあります。写真も何枚か残っています。ただ、大雪で学校が休みになった経験はありませんでした。学校が途中で休校になったのは、高校生の時に隣接していた横浜市大で学生運動が起こった時だけでした。1960年の安保闘争の時は小学生でしたが、何のために騒いでいるのか何となく分かりました。ただ、高校生の時の全共闘運動は目的が何だったのか理解できませんでした。基本的に私はノンポリ世代ですから、学生運動を見ても「よくやるなぁ」としか思えませんでした。

      今はまだ2月ですが、雨が降り風が吹き、だんだんと暖かくなって行くような気がしています。あと少しで寒さから開放されると思いますが、それまでは自重して生活する事が大切ですね。来年の冬こそ、寒さを感じなくて済むような工夫をしたいと思いますが、その前に灼熱の季節をどうにかしないといけません。冷え過ぎても良くないし、暑いと熱中症が気になるし、全くもって厄介なものです。この先は暑さと戦う日々が待っていますが、ZEPHER様もどうかお体をお労りください。肺炎のワクチン接種は、次に医者に行った時に聞いてみたいと思います。また気が向いた時にでも、コメントいただければ嬉しいです。

      • ZEPHER says:

         ほんとに ご無沙汰しています。その後お体の具合はいかがでしょうか。梅雨時は、やはちあまりよくないのではと、心配しています。くれぐれも、気をつけてください。私の方は、年相応でそれなりに、なんとか暮らしています。横浜には、もう1年くらい行っていませんが、法事などがあり、2回ほど行く予定です。できれば、ゆっくりと、八幡橋幼稚園あたり、原町、坂下町、下町など、歩いて様子を見てみたいとは思っているのですが。

         いちおう、さいきんは、グーグルマップで、空からの様子はわかるのですが、やはり、現場で直接見てみたいものです。それにしても、(あたりまえでしょうが)道などは、細くても当時のままのようですが、街並みはすっかり変わってしまっていますね。今後、人口は減少しゆくそうですが、私が生きているうちには、街並みが元のようなる(もとには、戻りませんね)ことにはなるには、まだまだでしょう。

         先日、朝日新聞に(たぶん、静岡でも出ていたので、全国版だと思います)、ホンチのことがでていました。たいへん、懐かしく読みました。金沢文庫あたりで、今も愛好家たちが、毎年大会を開いているとのことは、以前、ここでもお話しましたね。私たちは、子供のころ、5月の連休のあたりは、いつも、マサキの葉っぱに、ホンチがいなか、探し歩いていました。今のこどもたちは、誰かに教えてもらわない限り、そんなことはしないでしょう。男の子でさえ、クモなんて気持ち悪いと言って、さわりもしないでしょう。

         昔、横浜にも7月はじめころになると、田んぼにホタルがいましたね。ヘイケボタルでしたが、とくに、例のブドウ園の向かい側の田んぼに友人と鳥に言ったことがあります。たくさん、とれて、蚊帳のなかに話してたのしんだものです。可哀そうに翌日には、皆死んでしまいましたが。なお、静岡では、わりあい近くで、ゲンジボタルを見ることができます。車で20分くらいはかかるのですが、先日いったら、たくさん飛んでいて、感激でした。それに、われわれ家内二人以外には、誰もいないのですから、独り占めしたみたいで、いい気分でした。

         また、話が変わりますが、私の記憶では、子供のころ、なぜか、軽飛行機がよく、ビラ(たぶん、広告だったでしょう)をまいていました。そのビラを拾おうと、子供たちは夢中で、飛行機の撒くビラめがけて駆けずり回っていましたが、なかなか、その場所に到達できず、むなしい思いをしましたが、たまには、近くで、ビラがまかれて、何枚か拾ったことがありました。それが、なんおビラかもう記憶にはありません。

         だいぶ、間があいてしまいました。どうか、お互いに今後も元気で、のんびりと生きてゆきましょう。何かのご縁で、こんな文章のやりとりができるのも不思議です。
        また、「磯子区歴史」?(磯子区の発行、昭和54年刊)でも、眺めて、おもいだしたことがあったら、メールいたします。梅雨や、猛暑がきますが、くれぐれも、お体大切にお過ごしください。

        • cube-kojima says:

          ZEPHER様
          お久しぶりです。ご無沙汰しております。
          今年は冬の寒さで毎日調子が悪く、春になって暖かくなって来たら調子も戻って来ました。
          と思っていたら、もう蒸し暑い毎日に突入してしまったようで、それはそれで不快(笑)です。
          嫁さんには何かと文句が多いと言われますが、気持ちの中では家族や平穏な日々にいつも感謝している次第です。
          ZEPHER様は、お体の調子は良いようで何よりです。
          お出掛けになられる機会も多いようですが、これからの猛暑には充分にご注意ください。
          私達が若い頃は日射病なんて言って軽く考えていましたが、最近の熱中症は相当に拙いようですから。
          今まで何となく抵抗?していた酸素療法ですが、我が家にもとうとう酸素生成機がやって来ました(笑)。
          使ってみると、苦しくなることが減り、不調時の回復も早くなりましたが、チューブがまとわりついて鬱陶しくて仕方ありません。
          毎月の利用料も高いので未だ導入したくなかったのですが、お医者さんに勧められれば断るわけにも行きません。
          何れ使うことになるので、早いか遅いかの違いと納得することにしました。
          私はこちらに越して来て、生まれて初めてホタルを見ました。
          根岸に居た頃は、近くでホタルを見ることができる場所はありませんでした。
          今は実家から出てしまいましたので、それ以来ホタルは見ていませんが、今でも見ることはできると思います。
          奥様とご一緒にホタルを見にお出掛けになるなんて、素晴らしいですね。
          私もできればと思うのですが、歩いて遠くまで行くのはもう無理ですし、一緒に行くであろう家族に迷惑を掛けることにもなります。
          ですから最近は、車で行ける所が私が行ける所、になっています(笑)。
          それでも遠くまで歩く必要がある時は、車椅子を使うしかありません。
          ZEPHER様は、昔のことを良く憶えていらっしゃいますね。
          岡村のブドウ園の周りがどんなだったかなんて、私は全く憶えていません。
          ブドウ園の近くから山を下るとちょっと広い道に出て、その道を歩いて間坂に出て、家に帰ったと言う記憶しかありません。
          これは磯子の山歩きをした時の記憶なんですが、山の反対側に何があったのかなんて、多分見ていなかったのでしょうね。
          笹掘から間坂に続く道は整地されていて埃っぽかったことと、車が1台も通らなかったことだけ妙に憶えています。
          「今は昔」と言う枕詞が似合いそうな話ですね。もう60年近くも前の話ですものね。
          先日、原町の家にゆかりのある人があの辺りに行ったそうですが、何処が何処なのか全く分からなかった、と言っていました。
          恐らく道は変っていない筈ですが、周りの家が変り過ぎるくらい変っていたのでしょうね。
          私も時々グーグルマップやグーグルアースを見ますが、原町の辺りは私が住んでいた頃とは全く違う場所のようです。
          今も根岸に住んでいたら、その変化を余り意識しないと思いますが、離れてしまったから驚くのでしょうね。
          ZEPHER様や私の中にある、昔の根岸の情景が戻って来ることはありませんので、それだけに思い出を大切にしたいです。
          今年のお正月に実家に行った時に、昔の写真が沢山ある筈だと父が言っていました。
          昔に見た記憶のある写真が幾つかあるのですが、父のアルバムには貼ってありませんでしたから、バラのまま何処かに仕舞われているのでしょう。
          探しておくと言っていましたので楽しみにしているのですが、歩くと苦しいため、何となく行くのを躊躇っていました。
          しかし今は心強い味方ができましたので(こんな時だけ^^;)、本格的に暑くなる前に行ってこようと思います。
          実家までは、歩きなら30分、車なら5~6分の距離なのですが、なかなか行きませんねぇ(笑)。
          近くの床屋に行くのも億劫なくらいなので、少し鍛えないとダメですね。
          今年の夏もまた暑くなりそうですね。どうぞお体を大切になさってください。またお会い致しましょう。

          • ZEPHER says:

             早速のご返事をいただき、痛みいります。お体の具合は、心配していましたが、やはり酸素の吸入したほうが、楽なのですね。なんか、ずっと毎日息苦しいのは、さぞつらいことでしょう。血中の酸素濃度が下がると、免疫力や傷などの回復力が低下するので、残念ですがお使いになられる方がよろしいかと思います。

             日本の医療は、患者の痛みや苦痛に対する配慮が、足りないようにおもわれてなりません。いまだに、がんに末期の患者に使われるモルヒネの量は、アメリカの4分の1くらいと聞いています。伊丹充三?(宮田信子の亡くなった亭主)が作った、「大病人」でも、医師が、患者が痛みで苦しんでいるので、家族?看護師?が、モルヒネの使って痛みを緩和してほしいとの、要望に、「中毒になるかもしれないから、それはできない」と拒絶する場面がありました。20年くらい前の映画ですが、いまでは、かなり医師の意識は代わってはいると思いますが、いまだにかなり慎重ではないかと思います。
             WHO?でしたか、患者の苦痛に配慮しない医師は、犯罪的だとさえ言っているのですが。申し訳ありません、これは、本来のテーマとはだいぶちがいますね。

             さいきん、有隣堂新書の「横浜大空襲」を再読しています。写真の、燃え盛る煙の下にこの私が(1歳でした)、母に背負われて、逃げまどって、いるのかと思うと、黒焦げになって死んでいたかもしれません。生き延びることができたのは奇跡的ともいえます。20年前に亡くなった母には感謝してもしきれない気がします。kojimaさんには、お父さんがご健在なのですね。うらやましい限りです。なんとか、昔の写真をさがして、背景の移ったのをここに乗せていただけませんか。私の父はもう、亡くなってから30年以上たちます。あの高性能の焼夷弾による一般市民に対する無差別爆撃は、まさに「人道に反する犯罪」ではないかとおもいます。空襲被害について、軍人や軍属でない被害者の損害を求める訴訟もおきているようですが、私もできたら、くわわりたい心境です。

             政治向きの発言をここではしたくないのですが、最近の政府のいろいろな法律を強引におし通しているのをみると、子や孫の世代はどうなるのか、心配です。われわれが過ごした、戦後の一時期は、きわめて貧しかったけれども、なんか、空がつき抜けるような明るさがあったようなきもします(今にして思えばのことですが。これは、ジョンダワーの「敗戦を抱きしめて」の中や、以前に挙げた「本牧ララバイ」にもよく表れています。)もはや、Kojimaさんと共有できるような「古き良き時代」はもはや、永遠にかえってこないのですねえ。われわれが消え去るとともに、もう誰も八幡橋幼稚園の古い園舎の姿も心に残している人はいなくなるのですね。さいきん、「時は容赦なく流れる」という感じがひしひしとしてきて、気が遠くなるような長い長い時間の流れの中にの一瞬に ほたるの光のように浮かんだわれわれの この人生、意識というのは何なんだろうと、不思議の念に打たれます。そんな奇跡的な時間を共有できて、こんな話をできるなんて、これも不思議ですねえ。それも、kojimaさんが、八幡橋幼稚園の写真を掲載してくださったおかげと感謝しています。
             できるだけ、少しでもながく、こんな話ができるといいですね。その意味でも、どうか、ご体には、十分すぎるほど、大切にしてください。なお、ご無理して、ここに書きこみをする必要はありません。ごく体調の良い時に手短にしてください。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            ご返事いただき、ありがとうございます。また私の体をお気遣いいただき、お礼申し上げます。
            医療の現場のことは良く知りませんが、私が入院していた経験だけで言えば、患者の要望は結構聞き入れてもらえるようです。昨年の入院時は集中治療室や一般病棟にも重篤な患者さんが居らして、苦しみ出すとお医者さんは即座に対処しているようでした。少なくとも痛みを放置されることは無いようでした。ただ、病院によって対処の仕方が異なるとも言われますので、評判の悪い病院には行かないに限ります。私の母が心臓を患った時に、地元では大きな総合病院に入院しましたが、そこは地元民に評判が良くない所でした。やはり、看護師の態度ひとつ取っても、他の評判の良い病院とは大きな差がありました。母は救急車で運ばれましたので、その時には病院選択の余地は無かったそうです。
            私が6年前に救急入院した時は、たまたまその病院の救急受付が満杯で、他の病院に連れて行かれました。家からは、地元の病院へ行く距離の5倍は離れていましたが、この病院には業界でも優秀と言われているお医者さんが多く居て、看護師さんも超親切で私にとっては幸いなことでした。昨年の入院時も地元の不評な病院に連れていかれそうになりましたので、救急隊員の方には申し訳なかったのですが、以前に入院した病院に連れて行ってもらいました。と言っても、この時は声も出せないくらい息が苦しかったので、同乗した嫁さんに代りに伝えて貰いました。以前入院していますから、受け入れもスムーズに進みました。何にしても、感謝すべきは家族ですね。
            ZEPHER様は、本牧で空襲に遭われたのでしたね。私は戦後7年経ってから生まれましたので、その頃はそこそこ復興が進んでいましたし、あまり悲惨な話を聞くことはありませんでした。もの心つく頃には、進駐軍による接収は本牧と根岸の山の上だけになっていましたから、戦争を意識したこともありませんでした。自分の家族で戦争の犠牲になった人は居ませんでしたから、余計そうだったのかも知れません。ただ、その頃のマンガは戦記物が多く、「丸」や「ボーイズライフ」と言った雑誌に載った戦闘機・戦艦の記事をよく読んでいました。私が戦争を意識したのは、中学生になってからだと思います。当時はベトナム戦争の最中でしたから、新聞や雑誌に戦地の悲惨な写真が数多く掲載されていました。毎朝のテレビのニュースもそれ一色でしたから、「ジョンソン大統領とグエン・カオ・キ」と言う名前は、今も頭にこびりついています。当時、日本の世相は「反戦」一色でした。先の戦争の悔恨から、当時の殆どの日本人には、その意識が根付いていたと思います。当然私も、そのような意識を持っています。それは労働組合や学生運動の争議にも関係して来ますが、それは別の場所に書く話でしょうね。
            ただ、今回の憲法改正、自衛隊増強に関しては、私は是非進めて欲しいと思う一人です。勿論、侵略行為を禁止した条文を保持する前提です。現実として、北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射しています。北朝鮮がどのような意図でやっているかは関係無く、実際にミサイルが日本近海に着弾していますから、日本を防衛するための議論と実践は緊急で重要な話だと思っています。戦争になる事を避けたいならば、戦わず降伏して領土や国益を吸収されるか、相手が手出しできないような国力を持つか、どちらしかありません。かなり前の国会で「9条があるから他国からは攻撃されない」との滑稽な話を披露した国会議員がいましたが、今もそんなふうに考えている人はさすがに居ないでしょう。戦争に巻き込まれることが無いよう、日本はより強大な経済力と戦力を保持する国になって欲しいと思います。
            そんなに強大になったら、日本はまた侵略戦争を始めるのではないかと言う人が必ず居ますが、現在の日本人には戦前の日本人が持っていた意識は欠片も無い筈です。明治維新以降、富国強兵一辺倒で来た上に、それまでの戦争では連戦連勝でしたから、調子に乗っていたのでしょう。その頃の日本の国力からすれば、更に粘り強い外交努力で戦争を回避することはできた筈だと思いますが、それをしなかった結果が先の敗戦だったのでしょう。現在の日本人から見れば、考えられない程のお粗末さです。
            ただそうは言っても、戦後70年以上経って、先の戦争の記憶が薄れていることも確かです。今後、日本が戦争していたことを知らない世代が出て来るかも知れません。そこはしっかりとした教育をしていただきたいと思います。現在の日教組のような反日的思想の教育ではなく、過去に実際に起こったことと、これから日本人としてどのように考えて行くか、偏った思想は無しにして「平和を尊ぶ」そして「平和を維持する」ための教育をしっかりして欲しいと思います。何れにしても、日本を守ることができるのは日本人だけである、と言う当り前のことを意識しておく必要があると思います。アメリカさんは日本防衛を拒否するかも知れませんから、当てにできません(笑)。
            政治・思想の話が出て来ると、何かやり難いですね。でも、綺麗事ばかり言っていないで、自分の意見を表明することは重要だと思います。ZEPHER様のご意見とは異なるかもしれませんが、それを提起していただいたご見識に感謝致します。実際のところ、この先日本はどうなって行くのでしょうね・・・。

  26. アッキ says:

    こんにちは
    酸素濃縮器を入れたと拝見して、ついつい職業上関連していたもので失礼致しました。酸素が足りない状態を我慢したら心臓に負担が来ますので苦しい時こそどうか
    使用されるのが宜しいかと思います。お風呂とか、トイレこそ労作時になりますので使用されるとよいかと思います。(外出用は携帯用酸素ボンベでしょうか)
    通常障害手帳取得して費用負担なしで使用される方が大半ですが、kojima様は負担額は大きいのでしょうか。

    私はこの世の最初の記憶は根岸のあのマンションから根岸中学に向かう
    今も残る 小さな公園 でした。
    窓からいつも電車を眺め、赤と白の煙突から流れる煙 宇部興産(今あるのでしょうか)の建物がいまだに遠い記憶の風景です。
    三渓園のまわりが海だった話はkojima様のコメントで初めて知りました。
    kojima様は、ぼやけた私の遠い記憶と現実のアーチのような存在です。
    さらに根岸の記憶を語っていただけますよう、どうか健やかにお過ごしされてください。

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      こんにちは。
      ご心配いただき、ありがとうございます。アッキ様からすれば、今まで何してたの?と言う感じですよね。寒い冬の間はずっと調子が悪かったので、さすがに放っておいたら拙いと思い、お医者さんの勧めに従うことにしました。外出時は、携帯用ボンベを使用しています。障害者手帳ですが、現在の私の状態ですと4級の範囲であり、神奈川県の定めでは大した補助は受けられません。ですから、障害者手帳は今のところ取得していません。金銭的には、健康保険適用の3割負担です。何れにしても状態が悪化しないよう、風邪などには充分注意して行きたいと思います。昨日、私のところにも肺炎球菌予防接種の案内が送られて来ました。何処かの時点で、受診しないといけないなと思っています。
      アッキ様のこの世の最初の記憶が、あの公園と知って驚いています。私が中学に通っていた頃は小さな公園でしたが、その後ちょっと広く綺麗になったようです。アッキ様は1967年のお生まれでしたよね。当時私は中学3年生でしたが、何処かですれ違っているにしても、アッキ様はお母さんの腕の中でしたでしょうね。もう、50年前の話になるのですね。
      根岸・磯子の激動期は、私が幼少の頃でした。ですから、その頃の明確な記憶がありません。この欄には多くの方々から貴重なコメントをいただき、自分の知り得なかった知識を授けていただいています。本当に皆様には感謝しかありません。アッキ様からカナショクの言葉をお聞きした時は、当時の情景がまざまざと蘇って来ました。人の記憶とは不思議なものですね。普段忘れているようなことでも、何かの切っ掛けで昔の記憶が鮮明に現れるのですから。昔を懐かしむだけの話かも知れませんが、人生を重ねて来ると昔の思い出がかけがえのないものになります。お互いに、貴重な思い出を紡ぐ存在で居られたら幸いなことですね。これからもよろしくお願い致します。

  27. ZEPHER says:

     載りましたね。ほんとに暑いですね。その後お体の具合はいかがですか。
    こう暑いと、こたえるでしょうね。昔は、こんな暑くはなかったような気がします。
    ナチは暑いのですが、子供のころは、なんといっても長い夏休みがありましたから、それはそれは楽しかったですね。

     まず、夏休みに入ると、蝉取り。それに幼虫が、夕方、穴から這い出てくるのをさがすこと。根岸のあの山に登ると、セミがたくさんいました。ただし、ものすごい蚊の襲撃。足なんか、まっ黒にたかられて、いつも足踏みしていないといけなかった。でも、我慢して取り続けました。帰ると、足は、蚊の刺された跡がものすごい数でしたが、デング熱にも、日本脳炎にもかかりませんでした。

     あと、いろんな鳴くキリギリスやその仲間の虫いろいろとたくさんいました。とってきては、蚊帳の中に放して、鳴き声を聴きながら寝たもんです。でも、あの当時でも、蚊帳に入るのは、いやでしたね。ものすごい暑さでしたから。いまは、エアコンがあって、しかも、都会地では、蚊なんか、いないでしょうから、蚊帳なんて、作ったる、売ったりしているところ、あるんですかね。あのころは、スポーツしても、を水を飲んではいけないと厳しく言われていましたが、あの当時だって、校庭などは、ずいぶん暑かったから、熱中症だってあり得たとおもうのですが。いまだに、水は飲ませないやり方もあるようですが、非常識もいいところと思います。

     とにかく、夏休みはほんとに楽しかった。アリを見るにも、おもしろかったです
    赤いアリと黒いアリとを、それぞれエサで集合させ、そのエサを次第に接近させて、喧嘩をさせるのです。それぞれの穴から、ぞくぞくと応援部隊が出てきて、すさまじい戦闘状態になって、見ていると、すごくおもしろい。今思うとずいぶん、残酷なことをしていたなあとおみます。反省しきりです。よく、アリが、あれはいまだ分からないのですが、卵やサナギを咥えて、大行列をしていました。いったいどこに行くんだろうと観察するのですが、おしまいまで、見たことがありません。その日は、絵日記に行列しているアリをかきました。

     もう、ツクツクホウシが鳴いています。クサギの花も咲き始めました(クサギは、根岸小学校の裏の階段沿いにたくさんありました。花が咲くといい香りがするのです。でもホウシゼミもクサギも、夏の終わりでした。)その頃になると、やっていない宿題が気になって、かなり焦りましたね。しかし、その頃になると、ハゼも大きくなるので、海に出かけてしまい、親には、よく叱られましたが、最後まで、やりませんでした。かくしてやっつけ癖がつき、今に至っているわけです。これも反省。

    • cube-kojima says:

      ZEPHER様
      こんにちは。ご返事が遅くなってしまいました。一週間ほど前にPCが壊れてしまい、仕事環境や諸々の設定を回復させるのに悪戦苦闘していました。まともに動くようになったらなったで、溜まっていた仕事やメールの片づけをしなくてはならず、暑さすら感じられないような毎日でした。一番使いたいときに壊れる、これは物が壊れる際のお約束みたいなものですね。少し前から、データその他バックアップファイルを作っておかなくちゃと思っていたのですが、それをやっておけばもっと早く回復できたでしょう。後悔先に立たずです。でもそのお陰で、新しいPC環境が手に入りました。

      ここ数日、何となく涼しいですが、天気が悪いからでしょうね。天気が回復すれば、うだるような暑さが復活するのでしょう。台風5号は迷走しているみたいですし、嫌ですね。昔は暑いと言っても最高気温は32℃程度でしたが、今は下手をすると40℃にもならんとするのですから、呆れてしまいます。異常気象という側面もあるのでしょうが、昔に比べてコンクリートが使われている場所が異常に多いですし、皆エアコンを使いますから、ヒートアイランド現象が主な原因なんじゃないかと思っています。土が多く風通しの良い場所では、どんな感じなんでしょうね。昨年に比べても今年の暑さは異常です。とうとう我慢しきれなくなって、自分の狭い部屋にもエアコンを付けました。夏の冷え過ぎ冬場の乾燥し過ぎは持病に良くないとお医者さんに言われてるのですが、その前に熱中症になりそうです(笑)。

      子供の頃の記憶としては、どこで何をして遊んだかは鮮明なのですが、毎日の生活はどんな感じだったのか余り覚えていません。昔は網戸なんてありませんから、夜は窓を全開にして蚊取線香を焚いて、蚊帳を吊って寝ましたよね。でもその記憶は小さな時のもので、いつの間にか蚊帳は使わないようになっていました。何が変わったのでしょうね、扇風機かな?。蚊取線香の匂いを嫌う人は結構多いみたいですが、あの匂いを嗅ぐと夏だなと言う気がします。今は一日中エアコンを入れていますから、蚊取線香はおろかベープさえも点けていません。致し方ないことですが、こうやって懐かしい昔の光景が、徐々に失われて行くんですね。

      夏休みは、主に八幡橋神社に行っていました。蝉もクワガタもカミキリも、殆どは神社の境内で捕れました。根岸の山に行くこともありましたが、ZEPHER様が仰るとおり蚊が多くて、長い時間居たことはありませんでした。スズムシをどうしても飼いたくて、根岸の山を始めとしてあちこち探しましたが、どうしても見つかりませんでした。結局、虫篭と共に夜店で買って貰った記憶があります。夏休みに虫を追っていたのは、小学校中学年まででしたね。高学年になるに連れて興味のある事が増えて行きましたので、夏休みは家の中に居ることが多くなりました。あの頃は風さえ吹いていれば日陰は涼しかったですから、家の中に居ても扇風機があれば何とか凌げました。

      夏休みの宿題は、私も最後の週にまとめてやっていました。自由研究のようなものは遊びながらでも題材が揃いましたが、プリントだけはどうにもならなくて、いつも宿題提出期限の最終日に提出していました(笑)。そんなでも成績は良かったですから、自分の実力を誤解していました。それ以降、真剣勝負の場で散々な目に合うことが多く、高校生になった時にやっと自分の誤解に気が付きました(笑)。以後、気持ちの上だけでも、何事にも真面目に取り組もうとしています。

      最近、日が短くなったなと感じるようになりました。夏至からもう40日以上過ぎていますから当然なのですが、夏真最中なのに何か寂しさを感じます。小学生の頃、夏休みの終りに感じたのと同じような気持ちです。大きなイベントが終る時は何か切なくなりますが、それと似たような感じですね。歳を取ったらこう言った感じは薄れるのかと思っていましたが、嬉しいことに、いまだに自分の中では健在でした。

      ZEPHER様のお住いの近くでは、花火大会など催されていますでしょうか。海の近くとお聞きしていますので、花火を見れたら奇麗でしょうね。こちらも例年通り、幾つかの場所で花火大会が開催されています。7月の下旬に、平日なのにドンドンと聞こえてくるので何かと思ったのですが、鎌倉の花火大会でした。高校生の頃は、毎年鎌倉の花火を見に行っていたのですが、もう50年近く前のことなのかと思うと、思わず愕然としますね(笑)。そう言えば、私のところにも肺炎球菌の予防接種の案内が届きました。この予防接種は5年おきなんですね。次にお医者さんに行った時に相談してみようかと思います。

      まだまだ暑い日々が続きそうですが、どうぞお元気でお過ごしください。そうそう、未だ実家には行っていませんので、昔の写真は見ていません。珍しい写真が残っていると良いのですが・・・。

      • ZEPHER says:

         先日、ご返事を書いたのですが、なぜか突然皆消えてしまってがっくり。しばらく書く気力が出てきませんでした。

         その後、急に涼しくなったりして、体調はいかがですか。わたしも、今頃は、喘息がでるので、要注意の季節です。肺炎の予防接種はしましたか。ついでに、いずれ時期がきたら、インフルエンザの注射も、しておかれては。しかし、ご病気があるので、意外に副作用もあるらしい(まれではありますが)ので、かかりつけの、お医者さんにやってもらうほうが安全かと思います。

         先日、両親の法事(父の33回忌、母の25?回忌)があって横浜に久しぶりに行ってきました。
         

        • ZEPHER says:

           前の続きです。せっかく書いたのに、また、消えてしまうあの徒労感は、厭なものなので、ためしに、途中で送ってみました。

           せっかく横浜にいったものですから、休みをとって、2泊し、山下公園、遊覧船、元町、中華街などと、一時北方町にいたので、そのあたりを車でうろついてきました。それに、マリンタワーにも上ってきました。適度な高さで、横浜の中区の山手の景色が良く見えておもしろかったです。シーバスとかいうものがあって、横浜駅と山下公園を結ぶバスみたいなものがあって、その4席の小さな船の運行状況を、マリンタワーから観察し、その動き方を解明しました。暇人もいいところですね。なんと2時間半も外を眺めていました。もはや、田舎のネズミみたいなものですね。

           根岸小学校、根岸駅の前も通りましたが、もし、あそこだけきたら、根岸とは危害を加えられるおそれがあるときは、つかないでしょう。それから、旧柳下邸のよこもとおりました。あのあたりは、セミがたくさんいて、よく取りにいったところです。とにかく、いずれのところにも、家が密集していて、昔の面影は全くありませんでした。

           なお、横浜の車の走り方は、静岡の田舎の人間からみると、道路も一方通行だとか、信号もわかりずらく、ちょっと、もたもたしていると、うしろからクラクションを鳴らされたりして、また、車のスピードが速いこと速いこと、神経がくびれました。

           もう、歳なもんですから、もっと、行きたいところもあったのですが、適当におさめて帰ってきました。中華街で、中華菓子、肉まん、大きなシュウマイ(いずれも、本場の味がしますね。)も買ってきました。

           では、どうか、お体には十分お気を付けてお過ごしください。私の年になると、知人、友人が何人か、亡くなってきています。私の平均余命も、あと10数年。でも、やれることは、やって、できれば、あっさりと逝けるといいのですが、と最近は、よくこんなことをを考えます。

          • ZEPHER says:

             訂正 「あそこだけきたら、根岸とは、到底気がつかないでしょう。」 なんで、あんな、妙な文面になってしまうのか、ブラインドタッチできなので、見直すのですが、いつも、誤字、変換ミスが絶えません。失礼いたしました。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            こんにちは。
            今年は8月に入った途端に冷夏みたいな感じになりましたね。7月中の暑さに参ってエアコンを付けたのですが、とうとう「除湿」運転だけで済んでしまいました。最近の朝晩は適度に涼しくて、晴れた日の朝は清々しい感じがします。日本は明確な季節の移り変りがあっていいですね。美しい国です。

            ご両親の法事で、横浜に来られたそうですね。ご両親のお墓は生家のお近くなのでしょうか。車でお出掛けになられたそうですが、距離があるので大変だったことと思います。そのついでに横浜観光(笑)をなさったそうですが、前回横浜に来られた時と比べると何もかも変っていたことと思います。私など、同じ横浜市内に暮らしているにも関わらず、たまに磯子・山下方面に行く度にその変貌振りに驚きます。昔のまま変らないと言うのは、それはそれで困るのですが、自分の記憶の中の景色が無くなって行くのは何となく寂しいものです。

            マリンタワーに登られたそうですが、そのようなお話を聞くと童心に帰ります。なぜ童心かと言うと、小学低学年の時に何回か連れて行って貰って以降、マリンタワーに登っていないからです。横浜に暮らしていながら、小さな時以降登っていないなんて、信じられませんよね。現在のマリンタワーから見ることができる景色は、私の記憶の中にあるものとは全く違うのでしょうね。目の前に氷川丸が浮かんでいて、何となく寂れた感じの山下公園があり、左手に古ぼけた大さん橋がある、ある意味そんな殺風景な感じだったと思います。今、マリンタワーに登ったら、そんな記憶はたちどころに忘れてしまいそうで怖いです。そんなマリンタワーと氷川丸ですが、2006年末に一度営業を終了しています。運営会社がこれらを手放したためですが、マリンタワーは横浜市へ氷川丸は日本郵船へと引き継がれ、落ち着くべきところに落ち着きました。それ以後リニューアルを経て、2008年に営業が再開されました。そんなわけで、マリンタワーは想像されるよりも奇麗だったのではないでしょうか。

            氷川丸そばから出ているシーバスですが、1989年の横浜博覧会の時に作られました。89年当時私は東芝の修理部門に勤めていましたが、そのために東芝館の工事に駆り出され、大変な目に合いました。ただそのお陰で、開幕直前の各パビリオンを見て回ることができました。開幕後も1回見に行きました。その時にシーバスとゴンドラに乗りましたが、これらは何れも横浜そごうの傍から発着していて、なかなか面白い体験でした。当時はまだ貨物列車の高島駅があった頃で、現在のみなとみらいの形にはなっていませんでした。その後私は、横浜博覧会開催中の6月に東芝を辞めて独立しました。自分の会社を作ったのは1990年9月でしたから、東芝を辞めて1年以上右往左往していたことになります(笑)。ちゃんと準備してから辞めればよさそうなものですが、東芝の仕事には身が入らなくなっていましたので、丁度よい時期だったのだと思います。シーバスと聞くと、その頃の暗澹とした気持ちと、希望に満ちた気持ちと、全く正反対の日々を繰り返していたのを思い出します。

            根岸小学校や根岸駅の周りは、昔の面影が残っているところはもう殆どありません。そこから更に磯子方面に行くと、もう異世界に入ったような感じがしますよ。私の記憶も1977年で止まっていますから(笑)。昔の写真があればそれと見比べないと、そこに何があったかなんてとても思い出せません。これ以上無いと言うくらいに変りましたから、これから先は余り変らないんじゃないかと思います。ZEPHER様の菩提が横浜と言うことは、横浜にはご親戚がいらっしゃると言うことですよね。また機会があったら、是非横浜に来てゆっくりとお過ごしになってください。

            前回、肺炎球菌ワクチンのことを書きましたが、来週医者に行って受診するつもりでいます。今年の始めには、人生で初めてのインフルエンザにも罹りましたので、そちらのワクチンについても聞いてくるつもりでいます。肺気腫にも拘わらず体の調子について以外に無頓着でしたが、このような状態に至ってはそうも言っていられず、症状をひどくしないようにできるだけのことをしようと思っています。嫌ですね、これから寒くなって行くと・・・。冬は室温20℃以上、充分加湿して体を冷やさないようにとお医者さんに言われています。ZEPHER様も多分同様と思いますが、気を付けて過ごして行きましょうね。ただ、逝く時のことを考えるのは、いくら何でも早過ぎるかも知れません。私も苦しむのは嫌だなぁと思いますが、なるようにしかなりませんから、普段はなるべく考えないようにしています。私の父は若い頃に数回大病を患い、合計で数年間の入院・療養生活を送っています。そのくせ医者嫌いで体にも注意を払って来なかったように見えますが、それでも現在89歳で来年の3月に90歳になります。父親自身もここまで生きられるとは思っていなかったと言っていましたが、どうせならあともう少し長生きして欲しいと思います。できれば100歳くらいまで。誰でも、自分の家族には1日でも長生きして欲しいと思っていることと思います。多分、私の嫁さんも子供も、私に対してそう思っている筈です。そう考えると、逝く時のことを考えるのは申し訳ない気持ちになります。頑張って長生きしましょうね!

          • ZEPHER says:

             その後如何お過ごしですか。暑い暑いと思っていたら、ここのところ一転急に寒くなってきました。
             横浜は、室温は、朝方20度を下回っているのではありませんか。湿度もお気をつけて、ください。そうです、肺炎と、インフルエンザの予防接種は、医師とよく相談の上、受けられたら受けほうが安全かと思います。如何ですしたか。すませたでしょうか。今年は、夏からインフルエンザが流行っているとのことです。毎年型がちがうので、予防接種は毎年受けた方がいいようです。私も、そろそろ、やってもらおうかと思っています。
             
             kojimaさんは、独立自営の社長さんなんですね。最近も、人手が足りず、いろいろとご苦労がたえないことでしょう。お体が特に、一番の資本ですから、くれぐれも、ご無理なさらずに。でも、物価は上がらずといえども、景況感は多少はうわむきつつあるようなので、しばらく前とは、環境は良くはなったのでしょうか。そのあたりのことは、元公務員であった私には、感覚的にもよくわかりませんが。
             お父上様、2,3病息災とでもいうのでしょうか、大したもんですね。私の父は、75歳でなくなりました。括弧付かもしれませんが、そちらの父上様、介護も必要とせずに、来年で90歳とは、うらやましい限りです。やはり親には、何時までも元気で生きていてほしいものです。いわゆる健康的に年をとれるならば、何歳でも生きていても、問題はありませんが、なかなか、そううまくは行かないところが人生なんでしょうね。
             マリンタワーのことや、いろいろと私の知らないことを教えていただいて、ありがとうございます。マリンタワーに登ったのは、横浜にいるときは、一度だけでしたが、たまに横浜に帰ると、時折登っていました。たしかに、きれいになって、いました。
             一番上の階のすぐ下の階には、ベンチがあって、われわれ年寄りとしては、そこに座りこんで、シーバスをじっくりと、眺めていました。4隻の船のどのように往復航行しているか、見極めようと、なんと2時間半ばかり見ていました。暇人ですねえ。でも、航路が解明できてすっきりしました(しかし、駐車料金はやたらと高くなってしまいましたが)。マリンタワーは、適度の高さのため、横浜山手あたりの眺望が よく見えておもしろいのです。ランドマークは、高すぎて、かえって横浜の雰囲気がわかりません。
             元町、中華街などにも、行っていました。もはや、田舎のネズミそのものです。家内と、また、行こうなんて言っています。甥の結婚式が、横浜であるので、宿をとって、今度は逗子、7鎌倉、三浦半島の探索でもしようか、あのあたりは、私の学校時代のホームグラウンドみたなところなもんですから。
             私は兄弟が多くて、横浜には、そのうち、3人がいますが、さいきんは、ほとんど行く機会がありません。息子もひとり、横浜に住んでいるので、そこには、孫に会いには時折でかけます。車の運転等も、だんだん、危なっかしくなってきて、遠出が少なくなりました。あの、歳よりマークもは付けてあるのですが、あんな、煽り運転をするような変な人たちがいると、かえって、はらない方がいいのかとも、思ったりします。
             横浜にいったときには、根岸界隈を自転車にでも乗って、のんびりと、見てまわりたいのですが(折り畳み自転車を持っています)、できれば、家内に適当なところに注車してもらって、すこしばかりやってみようかなんて思っています。もう、いつまで、生きているのか、わかりませんからね。
             では、お互いに、健康には、十分気を付けて、「健康的」に、多少は長生きをしましょう。でも、Kojimaさん、くれぐれも、お体にはお気をつけください。そのお体で、よくぞ社長をなさっておられますね。敬服の至りです。

          • cube-kojima says:

            ZEPHER様
            こんにちは。最近、急に寒くなりましたね。今年は残暑と呼べるようなものがありませんでしたから、暫くエアコンを使わなくて済んだのですが、このところ1週間ばかりぐずついた天気で気温も低かったため、朝晩は暖房を入れていました。体の方は、寒くなると調子良くないです。今のところはまだ、何となく調子悪いと言った感じですが、本格的に寒くなるとこんなものでは済まないでしょうね。毎年のことではありますが、本当に嫌になります。ただ今年から酸素療法をしていますから、例年よりはましかもしれません。どの程度違いがあるか、体験するのを楽しみにしています。

            肺炎球菌の予防接種は、先月受診してきました。1回受診すると5年間有効とのことですが、5年後には忘れていそうです(笑)。今年はインフルエンザが、季節外れに流行しているそうですね。お医者さんにお聞きしたところでは、11月頃に予防接種をすればよいのではないかとの由でした。ただ、インフルエンザの予防接種の効き目は3ヶ月程度だそうですから、なかなか悩ましいです。例年は2月頃に予防接種を受けるらしいのですが、今年は様子が違うようです。今年のインフルエンザの予防接種は、複数の型のインフルエンザに対応しているそうですから、それがせめてもの救いかもしれませんね。

            私の仕事ですが、最後の顛末まできちんと書けば良かったのですが、社長さん(笑)をしていたのは9年前まででした。あと少しで創業20年になろうとしていた時に、主要な取引先が身売りすることになり、あっけなく沈没しました。その取引先は石油元売りの大手でしたから、まさかとは思いましたが、時すでに遅しの状態でした。元々起業したのは、日立関係の仕事を請けるためでした。当時はまだ株式会社の最低資本金があった頃ですから、会社が軌道に乗るまでは資金面で大変でした。やっと落ち着いた頃に今度はバブル崩壊で、またまた流浪の旅をする羽目になりました。それでも日立さんは面倒見の良いところで、いろいろと気遣っていただきました。当時はオフコン主流の開発だったのですが、それ以降はパソコンによるクライアント-サーバーの開発に方針転向しました。それ以後、日立、NEC、松下とメーカー関係の仕事を受注して来て社員も増えたのですが、またまた紆余曲折があり、最終的に石油元売り会社のお抱えみたいな感じになりました。当時、どのメーカーでも仕事があまり無く、経費節減の観点から外注に出さずに社内人員で開発すると言う方針になっていましたので、幾つかの取引先を確保すると言う安全網を築くことができませんでした。しかしそれは自分に力量が無かっただけのことで、いろいろと苦労して来た割に最後は呆気なく、大変残念なことでした。会社が残っていたら、もっと色々できるのになぁと時々思いますが、今は、しがない個人事業主をやってます。会社をまた作ろうかと思うこともありますが、設立したばかりの中身の無い会社ではどうにもなりませんしね。

            ZEPHER様は、横浜に住んでいらっしゃるご親戚が多いとの由ですが、今度いらした時は是非自転車で根岸周辺を回ってみてください。細い路地を入ったところなど、昔とは全く違った景色になっているようです。ようです・・・とお書きしたのは、私は気軽に出掛けて行ける体ではないので、知人から聞いた情報だからです。違う路地を通っているようだったと言っていましたので、余程変っていたのでしょうね。あ、これは原町周辺の話です。お車でいらした時は、八幡橋幼稚園の隣か、プールセンター(マンモスプール)の前に時間貸しの有料駐車場がありますから、そちらに停めればOKと思います。ひょこっと出掛けられる体であれば、現在の根岸周辺を是非周りたいのですが、何せあまり歩けないので現状では困難です。オートバイがあれば意外と気楽に行けそうですが、酸素ボンベをかついでオートバイに乗るの?と妻に言われ、その時の姿を想像して2人で大笑いしました。ダメですね、やはり(笑)。

            私の父のことですが、それまでとても元気だったのですが、9月の末に急逝しました。前回のご返事に100まで生きて欲しいと書きましたが、そんなこと考えたからでしょうかねぇ。母もそうでしたが、突然倒れてそのまま亡くなりましたので、両親がこの世に居ないとは今もって思えません。実家に行けば父が居ない現実に直面するのですが、以外にも悲しいという感情があまり湧きません。間違いなく動揺しているのですが、何か、淡々と時が過ぎて行くような感じです。小さい頃の私はおばあちゃん子で、いつも祖母に気に掛けてもらっていました。その祖母が亡くなったのは、中学1年生の冬休みに学校主催のスキー教室に行っている時でした。ロッジで寝ている時に、祖母の夢を見ました。ただ笑っているだけの姿でしたが、お別れを言いに来てくれたのでしょうか。昔は自宅でお葬式をしましたが、帰宅した時はお葬式も全て済んで、後片づけをしている所でした。そこで事の顛末を父から聞いたのですが、驚くほうが先で、祖母が亡くなった悲しみを感じたのは、もっと後になってからでした。その時父は、あれだけ可愛がってもらった人が亡くなったのに、涙も見せないとは冷たい息子だと思ったみたいで、ずっと後になって私の妻が、その感想を聞かされたそうです。母が亡くなった時も今と同じように、淡々と時が過ぎて行きました。お葬式で涙が出ることもありませんでしたが、今では母のことを思い出す度に目頭が熱くなります。父のことも、そう感じる時が来るのでしょうが、自分が治ることのない病気を抱えてしまったことで、そんな不感症のような状況が増長されているのかも知れません。

            以前、親の歳までは生きたいなと思っていましたが、母も父も長寿でしたから、今では多分無理だろうなと思っています。ただ家族とは一日でも長く一緒に暮らしたいと思いますので、できる限り体調に気を付けたいと思います。たとえ風邪でも重病に繋がる可能性がありますので、お互いに気を付けて過ごして行きましょうね。

  28. kath says:

    お久しぶりです。
    しばらくぶりに拝見したら、たくさんのコメントが続いていて
    懐かしい思いで読ませていただきました。
    根岸橋のお風呂屋さんにはよく行きました。
    祖父は開店と同時にお風呂屋さんに行き、帰宅すると寝る前に
    今度はお家のお風呂に入っていました。
    それで、わたしも行きたがってねだっていました。
    大きなお風呂で絵が描いてあり、お風呂上がりに瓶の飲み物を
    買ってもらえるのが楽しみでした。

    日赤は祖母の掛かり付けでした。

    子供の頃はよく馬事公苑で遊びましたが
    ちょっと歩くと元町商店街まで下りられたので
    そこから足を延ばしてあちこち行ったのを覚えています。

    久しぶりに、行ってみましたら
    横浜はすっかり変わっていてびっくりしました。
    博覧会のころからどんどん開発が進みましたよね。

    寒くなりますが、みなさまご自愛ください。
    またお邪魔します。

    • cube-kojima says:

      kath様
      お久しぶりです。コメントを頂戴し、ありがとうございます。
      最近は記事の更新が滞っていますが、皆さまから頂戴するコメントで体裁を保てております(笑)。随分前にも書かせていただきましたが、私の知らなかったこと、体験できなかったことを教えていただけるので、コメントをいただけることを心より感謝しております。
      kath様の、お爺様お婆様への思い出は沢山お有りになるのでしょうね。私のお爺さんお婆さんは明治大正の生まれで、戦前の昔からの日本人気質を持っていましたから、何をするにも折り目正しく風情があったように思います。子供心には不可解に感じることもありましたが、それはお爺さんお婆さんの信条だったのでしょう。kath様のお爺様は毎日外湯に入られていたそうですが、お風呂好きと言うだけではなく顔見知りの方達との交流とか、いろいろな楽しさがあったのでしょう。実に風流ですね。昔の方達は恰好良かった!と思わずに居られません。残念なことに、今はそのようなことを日常的に感じる場所も機会も少なくなってしまいましたが、自分が年寄りになった現在、何とか格好良く生きたいと願っております。
      日赤病院は、私も子供の頃お世話になりました。その頃の日赤病院は根岸小学校の近くにありましたが、私が小学校6年生の時に間門の近くに移転しました。移転後の日赤病院には、祖父が入院していたことがありました。それは私が中学生の頃でしたから移転したばかりで、非常に奇麗で近代的な感じがしたものです。窓からは根岸線が走っているのを見ることができましたが、その病院もとっくの昔に壊されて、今では日赤病院と言う名前を見る事はできません。
      根岸の競馬場跡地は公園になりましたが、オープンしたのが私が引っ越しをする年だったため行く機会がありませんでした。ずっと後年になって、自分の子供を連れて遊びに行ったことがありましたが、自分が子供の頃はフェンスに囲われた立ち入り禁止場所でしたから、いろいろと感じ入るものがありました。
      Kath様は、いつ頃横浜を離れられたのでしょうか。博覧会はMM21開発の足がかりのようなものでしたが、あの頃とはすっかり様子が違っています。当時勤めていた会社のパビリオン開設のため駆り出されて、しんどい思いをしたのも今となっては良い思い出です。時代が移りかつて自分の住んでいたところの景観が変わっても、その頃の思い出はしっかりと胸に刻まれています。歳を取ったから余計にそう感じるのかも知れませんが、思い出とは自分の生きてきた足跡ですから、これからも忘れることのないよう大切にしていきたいと思っています。
      11月下旬から急に寒くなってきましたね。年寄りには辛い季節の始まりですが、気持ちだけでも張り切っていたいと思っています。
      またコメントを頂戴するのを楽しみにしております。それでは失礼致します。

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