瀬戸内からの贈り物

By , 2012年4月6日 2:00 AM

 前回の記事に、高校時代のことを書きましたが、その高校の同級生から「みかん・はっさく・ネーブル」などを送っていただきました。
この方は女性で、瀬戸内地方の方とご結婚され、今は広島にお住まいです。ご主人の実家が果物栽培をされていて、沢山収穫があった時などに送ってくれます。

 荷を解くと、大小様々な形の柑橘類が詰め込まれていました。嫁さんと二人で、これは何だろうねなどと話しながら、早速、1つ2ついただきました。

 皮を剥くと漂う甘い香りに、何とはなしに懐かしさがこみ上げて来ます。今年の冬は長く、今も肌寒い日が続いていますが、橙色に輝くはっさくやネーブルを見ていると、春の訪れを感じます。
 
 
 
 

高校入学当時の思い出

By , 2012年4月2日 1:31 PM

 私が高校に入学したのは1968年、今から丁度44年前のことでした。
小学校、中学校は地元の学校に通ったのですが、地元の高校は嫌だ!と言う思いが強く(今となってはその理由は不明)、金沢八景にある高校に進学しました。

 同じ中学からこの高校に進学したのは6人しか居ませんでしたが、自由奔放な校風もあって、地元の生徒に馴染むのに時間は掛かりませんでした。忘れもしません、入学して間もない頃、今で言う「イケメン」の同級生に「ねぇ、ズートルビーってフォークルだよね?」と声を掛けられたのです。
 すかさず「おお!そうだと思うよ」と返答したのですが、心の中では「えっ?ズートルビー・・・ビートルズじゃないの?、フォークルって何?えっえっ??」と焦っていたのでした。と言うのも、中学生の頃に聞いていた、そして弾いていた音楽は「ロック!」そして「ポップス」だったからです。

 ベンチャーズ、ローリングストーンズ、ビージーズが特に気に入っていて、友人3人とギターを弾いたりしていました。事の始まりは1965年末に発売されたベンチャーズのシングルでした。「クルー・エル・シー」を聞いて一気にファンになり、それ以降、私の中で音楽と言えば「ロック&ポップス」になってしまったのです。ですから、当時全盛だったグループサウンズに興味は無く、フォークソングそのものを知らない状況でした。

 そんな状態で入学した高校では、フォークソングの嵐が吹き荒れる一歩手前でした。この状況には、「ええ~参ったなぁ」と言うのが正直な気持ちで、それからは毎日ラジオの深夜番組で「ポップス」と共に「フォークソング」も聞くことにしました。
 その甲斐あって、みごとにフォークソングの「オタク」が出来上がったのでした。

19681226 今聞いてみても、当時の音楽・歌には素晴らしいものがあります。もうすぐ18歳になる末の娘が、私の録り貯めた昔の音楽を時々聞いているようです。今、私のPCのiTuneには、1967年から1975年頃までのフォークソングとニューミュージック、そして同時期のポップスなど、数百曲を登録してあります。気分が滅入った時などに聞くと、当時の思い出と共に、明日に向かう気力が湧いてきます。心の中の音楽、これからも大切にしていきたいと思います。

ところで、ズートルビーとフォークル、ご存知ですか?

2017年9月10日追記:
ザ・ズートルビーは、山田隆夫さん、新井康弘さん達がメンバーだった「ずうとるび」とは異なるグループです。

50年前の根岸-2

By , 2012年3月20日 5:34 PM

【1962年】
 この写真は、1962年10月に根岸小学校の校庭で行われた、八幡橋幼稚園の運動会の模様を写したものです。この時、弟は八幡橋幼稚園の園児で、私は小学校4年生でした。根岸小学校の木造2階建て校舎の様子が、良く分かると思います。この頃、とても広いと感じていた校庭は、後に高校生になってから訪ねた時には、やけに狭く感じられたものでした。校庭を囲むように「口の字型」に建てられた校舎、そして校庭にあった大きな楠、特徴的な昇降口などを懐かしく思い出します。しかしこうして改めて写真を見ると、どの位置から写したものか判然としません。あと10年もすれば、「根岸小学校に通っていた」と言う事だけが記憶に残り、他のことは忘れてしまうのかなぁなどと思っています。
 
【1964年】
 左の写真は、1964年の根岸を写した航空写真です。1964年と言えば、東京オリンピックが開催された年で、私は小学校6年生になっていました。根岸線の根岸-磯子間が開通したのがこの年ですが、この写真は開通前か開通後のものか分かりません。
 この前年の1963年に、根岸中学は新校舎になり、それ以前の旧校舎から移転しました。旧校舎は岸壁の傍に建っていましたので、埋立の様子などがよく見えたのではないかと思います。根岸中学の新校舎の隣は、「横浜プールセンター(通称マンモスプール)」が建つことになる場所です。プールセンターの工事はこの年の12月に始まり、翌年の1965年7月に竣工しました。

 プールセンターが建つ前のこの場所は、「自己紹介」のページに記したように、駐留を終えた米軍のかまぼこ型兵舎が建ち並び、秋にはススキが一面に生い茂り、子供の格好の遊び場でした。米軍から返還され、プールセンターの工事が始まるまでの間、ずっとそんな感じで放置されていたと記憶しています。と言っても、それはほんの短い期間だったろうと思います。子供の頃は、小学校の6年間が永遠に感じられるほど時間の流れがゆっくりでしたから、ほんの数年の間に起きた変化も、私の中では、長い時間の中で起きた変化として記憶されているように思います。

 ですから、自分の記憶と、実際の年数が符合しないことが度々あり、その都度不思議な気持ちになります。もう既に、ブログには何回も書きましたが、あと5年ほど早く生まれていれば、根岸の海のこと、埋立によって変わって行った様子などを、きちんと記憶していたのではないかと思います。
 
【1965年】
 この写真は、1965年、小学校を卒業する年の1月に撮影したものです。根岸小学校の特徴的な昇降口が写っています。校門を入るとすぐに、職員室などがある校舎の通用口があり、それがそのまま昇降口となっていました。細かいところはもう忘れてしまいましたが、写真左手の校舎が6年生の時の教室だったと記憶しています。校舎の裏手には第二校庭があり、そこには回転ブランコやうんていなどが設置されていました。
 私が在学していた頃は、1年から6年まで各学年4クラスあり、1クラス40人程度の生徒数でした。先生や職員を混ぜると、大凡1,000人近い人数が居たことになります。私が在学していた当時に「開校90周年」の記念行事があったと思いますが、もう既に忘却の彼方の出来事となってしまいました。
 
【1967年】
 この写真は、根岸中学の運動会の時のものです。卒業する前年のもので、私は中学3年生でした。生徒の輪の中で、私もフォークダンスを踊っている筈です。たまたま根岸線が通過するところが写っていますが、写真で分かるとおり、どこかの路線のお下がりではないかと思ってしまうような旧式な形をした電車を使用していて、新設された路線と言うイメージはあまりありませんでした。もっともこの頃は磯子駅止りで、利用客もそれほど多くなかったため、地方のローカル線と言う感じだったのかも知れません。その後、磯子の埋立地に建った工場への通勤(新杉田駅)、大規模開発された住宅地の住人の利用(洋光台、港南台)などで飛躍的に利用客が増え、それに伴い主要駅(大船駅)との接続や専用車両の開発などが行われて来ました。

 この写真には、根岸水上飛行場の格納庫だった建物も写っています。根岸線の後ろに写っている大きな四角い建物がそうですが、改修されながら、戦争当時よりこの頃まで利用され続けていたのだと思います。小学生の頃は目と鼻の先に飛行場の跡地があったわけですが、主要な施設はフェンスに囲われ、その中がどうなっていたのかは窺い知ることができませんでした。子供心にも「近づいてはいけない場所」と言う思いがあり、そこへの冒険だけは避けていたように思います。今は製油所の敷地となっていますが、一時期「日航」と呼ばれていた時がありました。勿論、製油所になる前の話です。その頃、中はどのようになっていたのか、一度は冒険してみるべきだったかも知れません。(笑)
 
【1969年】
 自己紹介のページに載せた写真です。高校に入学してから撮影した写真であることはハッキリしているのですが、何年頃撮ったものなのか、実のところ憶えていません。自分で撮影したのに・・・。1969年か1970年のどちらかなのですが、写真は撮るだけではなく、その説明も何処かに記録しておかないと、後で悩む羽目になります。
 この写真には、手前に根岸小学校、向こう側に根岸中学の校舎と音楽室などがある特別校舎、そして体育館が写っています。その右手には横浜プールセンター、その後ろ手には新磯子の工場群が見えます。この写真を撮ってから、40数年が経っています。今、同じ場所(根岸山の登り口)から見ると、どんな景色が見えるのでしょうかねぇ。

※一部の写真は「横浜開港150周年記念行事-みんなでつくる横濱写真アルバム」から引用させていただきました。

50年前の根岸-1

By , 2012年3月16日 9:54 AM

 自己紹介のページに、私の生まれ育った場所のことを書きましたが、それに追加する意味でこの記事を書いています。
 根岸・磯子と言えば、何はさて置いても「埋立」のことが頭に浮かんできます。私に近い歳の方は、間違いなくそうなのではないかと思います。ただ惜しいことに、当時の私は幼稚園から小学校低学年と言う年でしたので、記録と呼べるような資料を持っていません。今まで掲載して来た写真も、古いものは自分が撮影したものではありません。しかし、自分が体験したことや両親から聞いた話が、断片的にですが記憶に残っているため、それを記しておきたいと思います。そのためこの記事には、他サイトから引用させていただいた写真があることをお断りしておきます。

 この2枚の写真は間門にあった米軍の飛行場です。左の写真は1952年、上の写真は1958年のものです。私は1952年の生まれですが、「赤ん坊の頃、飛行機の飛んでくる音でよく泣いた」と両親から聞いたことがあります。その話を初めて聞いたのは小学生の時で、その飛行機は「日航(旧根岸水上飛行場)」に飛来した飛行機だと思っていたのですが、実際には水上飛行機の運用はありませんでした。その後、間門に飛行場があった事を知るのですが、具体的な情報が無かったため忘れてしまっていました。ところが最近になって、これらの写真を発見して、初めて合点が行きました。

 私が赤ん坊の頃、その音で泣いたと言う飛行機は、この飛行場を離着陸していたのです。私の生家は、ここよりもずっと八幡橋寄りにあったのですが、その辺りは比較的開けた空間になっていました。写真を見る限り、この位置にあった滑走路を離着陸するために、正に私の家の頭上とも言える処を低空飛行していたのではないかと想像できます。多分、赤ん坊でなくても、びっくりするような音だったのではないでしょうか。近年の暴走族などとは比較もできないくらいの、大音響だったと思います。

 また、この2枚の写真には、八幡橋から本牧へ抜ける道が写っています。1952年の頃は道も細く、市電は走っていません。間門-八幡橋間の市電が開通したのが1955年(昭和30年)とのことですので、その施設工事の時に拡幅されたのだと思います。飛行場は1958年に返還されたそうですが、物心がついた頃以降、頭上を飛行機が飛んでいた記憶がありません。ですから、返還直前の頃はすでに、飛行機の離着陸はほとんど無かったのだと思います。返還後この場所には、陸運事務所、日赤病院などが建ち、現在は大規模マンション群、看護学校などが建っています。

※掲載した写真は「横浜開港150周年記念行事-みんなでつくる横濱写真アルバム」から引用させていただきました。

伊勢佐木町 えり藤

By , 2012年3月15日 1:29 AM

 昨年10月、伊勢佐木町にあった呉服店「えり藤」が閉店したそうです。
私がこの老舗のことを書こうと思ったのは、随分昔のことになりますが、私の叔父がえり藤の当主であった藤本家にお婿さんに行った関係で、少なからぬ縁があったからです。

 私が小学生の頃は、家族でよく伊勢佐木町に出掛けたのですが、その度、必ずえり藤に立ち寄りました。しかし、呉服のことなど分からない私は暇を持て余し、何軒か先にあったおもちゃ屋さんに行っては遊んでいました。当時のことは細かく憶えていないのですが、「へびやさん」があって「おもちゃ屋」さんがあって、やたら賑やかだったことは憶えています。

 また、私が23歳になった頃(1975年頃)、磯子の高台にあった藤本家に、何回か遊びに行ったことがありました。結婚の仲人を、叔父さんご夫妻にお願いに行ったのが始まりだったのですが、当時、藤本家の二階からは、造成が開始された丸山町付近の様子が良く見えました。その後、藤本家の当主が高齢のため、叔父さんご夫妻が店を継ぐことになるのですが、悪いことに叔父が病気で急逝してしまいます。叔母一人でお店を切り盛りするのは大変で、後年、お店を手放すことになります。

 その叔母も、今から十年ほど前に亡くなりました。今は藤本家とのお付き合いはほとんどありませんが、ご夫妻の息子さん、娘さんが立派に事業を起こされています。えり藤との縁は、とうの昔に無くなっていますが、子供の頃の思い出が消えてしまうのはさびしいものです。

へびやさんの手前の、青い日よけのお店が「えり藤」です。
叔父、叔母がこのお店で忙しく働いていたのは、もう40年以上も前のことになります。

 

 

 

 

磯子Old & New

By , 2011年12月19日 7:20 PM

 ここに掲載する写真は、SATURNO IOMさんから提供していただいたものです。1960年代の写真と最近の写真を比べると、其々の場所の変化が良く分かります。1960年代と言えば、日本は高度成長期の真っ只中です。ですからこの頃の写真には、日本全体が貧乏だった頃の佇まいと、活気に満ちた雰囲気が同居していて、何とも言えない懐かしさを感じます。

 芦名橋の奥から磯子山に向って行くと、途中に長い急坂がありました。1964年の写真では車が通れるように整備されていますが、私が両親に連れられてこの辺りを散策していた1960年頃は、まだ細い山道だったと思います。後年開始される宅地開発のため、先ずは工事車両が通行できるように整備されたのだと思います。今まで宅地ではなかったところが住宅街になると、その変貌ぶりが良く分かります。当たり前とは言え、坂道の形が変わっていないところが、妙に印象に残ります。
 

 磯子旧道入口から、磯子小学校前に抜ける道の途中で撮った写真です。其々の写真を見比べると、右側の家のブロック塀や左側の家の土留めが昔の姿のまま残っていて、何故かとても懐かしい気持ちになります。
 

 浜マーケットの出口近くにあった「室ノ木公園」周辺の写真です。新しい方の写真を見ると、左側に向って比較的太い道が写っていますが、昔はこの道はありませんでした。右側に行く細い道も見えますが、昔はこの道だけでした。太いほうの道は、禅馬川が暗渠化された後に作られた道です。細いほうの道は、下の写真に写っています。
 

 昔の写真に写っているのは、磯子旧道入口から磯子小学校前に抜ける道の途中にあった、禅馬川に掛かる橋です。禅馬川が暗渠になり、今ではその頃の面影はありません。昔の写真に「飛鳥田医院」の看板を見ることができますが、私が幼少の頃、こちらの医院に随分とお世話になりました。飛鳥田医院は、飛鳥田一雄元横浜市長の弟さんが開院された診療所で、八幡橋から少し磯子橋方面に行った16号線沿いにあります。今ではもう、お孫さんの代になっているのではないかと思います。
 

 磯子小学校や周りの住宅は異なっていますが、佇まいは殆ど変っていません。写真を撮った各々の季節が違うからかも知れませんが、最近の写真には何となく活気が無いように思われます。この辺りは、表通りから少し入ったところですが、昔は人通りも多く、良い意味でもっとごちゃごちゃしていたように記憶しています。
 

 この写真は、磯子小学校前から16号線に抜ける途中の様子を写したものです。昔の写真に写っているクリーニング屋さんは、以前は貸本屋さんでした。母の実家が久木町に引っ越した後、時々遊びに行った時などは、ここでマンガを借りたりしていました。ちょっと前まで、ここは何のお店だったか忘れてしまっていたのですが、SATURNO IOMさんから提供していただいた資料を見ていて、貸本屋さんであったことを思い出しました。それと同時に、当時のお店の様子や周りの雰囲気までもが鮮明に思い出されました。とっくに忘れてしまっていたことを何かの切っ掛けで思い出すと、その当時の周りの雰囲気まで蘇って来るのですから、記憶って不思議なものですね。

 昔の写真には、クリーニング屋さんだけでなく他のお店も写っていますが、今ではそれらは無く、何となく閑散としています。普段の買い物は、大型スーパーに車で乗り着ければ一遍で済んでしまいますが、その代り地元の商店街は廃れ、町の活気は失われて行きます。賑やかなのが良いとは限りませんが、活気が失われて行くのは、何となく寂しい気がします。
 
  写真の場所の地図です。地図は1961年のものですが、1963年頃と大きな違いはありません。一番上の写真からA~Fとして、写真を撮った位置を記してあります。
 
 
 
 
 
 

磯子山から

By , 2011年12月16日 2:49 PM

 左の写真(A)は1962年に磯子山から根岸湾を望んだものです。写真に写っているのは小学生の私ですが、ここはどこだったのか全く記憶にありません。この写真が、アルバムにポツンと貼ってあることは知っていたのですが、写っている本人も写した当人(父親です)も、ここがどこなのか憶えていませんので、汐見台の造成地じゃないのかと言う結論になっていました。ところが、SATURNO IOMさんの検証で、ここは「磯子配水池」の造成現場だったと言うことが分かりました。

 写真の右側に写っているビルは「日本発条」のビルであること、写真に写っている林が手前と奥と二重になっているため峰が2つあっただろうこと、そしてニョキッと突き出した背の高い3本の木の、左側の木と真ん中の木の間に「金蔵院」と思われる大きな建物の屋根が写っていること、それに当時のカメラの標準的なレンズの撮影角度を加味し、更に進駐軍(古い・・・)が作成した等高線の入った地図と重ね合わせて検証した結果、ここは「磯子配水池」の造成現場だろうとの結論になったそうです。

 もっと海に近い場所では、これらの建物が一緒に写り込むことはありませんので、それが正しい結論だと思います。場所の特定ができて、改めて写真を見ると、そこには埋立竣工前の根岸湾の姿がありました。ただ、山に遮られて海岸線に近いところは写っていませんので、実際には、かなり埋立は進んでいたのではないかと思います。本牧岬が海に迫り出しているところなどを見ると、この景色が今でも残っていたらと、未練がましく思うのは私だけではないと思います。
 
 この写真(B)は、上の写真より幾分根岸寄りの場所から写したもので、SATURNO IOMさん所蔵のものです。この写真は1964年11月に撮られたそうですから、根岸から磯子に掛けての埋め立てが終り、根岸線も磯子まで延伸し、これから周辺の工業地帯が稼働し始めようとしている頃のものです。

 写真の真ん中辺りには、根岸の製油所のタンクが見え、その左手には、工場の煙突なども見えます。上の写真とはたった2年程度の違いしかありませんが、こんなに変貌してしまうものなんですね。この時はまだ、磯子の山は健在でしたが、数年後には切り崩され、宅地造成が始まります。
 
 左の写真(C)は、真照寺傍の山から撮ったもので、正面に写っている木造の大きな建物は、磯子小学校です。これもSATURNO IOMさん所蔵の写真ですが、磯子の山を歩く時は、真照寺の脇から山に入ることが多かったそうです。写真右側に写っている大きな建物は「バブコック日立」の工場だと思います。

 私は中学生の頃にアマチュア無線を始めたとブログに書きましたが、その頃いろいろお世話になった人が、この近くにお住まいでした。現在の腰越プールがある後ろの山が、当時は緩やかな丘のようになっていて、そこに登ってはポータプルトランシーバー(TRIO TR-1000)で交信したものでした。丘の頂上には岡村の「金魚池」がありました。
 
 上に掲載した写真の場所を現在の地図に記すと、左の画像のようになります。一番上の写真から順番にA・B・Cと番号付けしています。
 
 
 
 
 
 
 

磯子旧道と岡村ブドウ園

By , 2011年12月14日 8:59 PM

 磯子旧道は、国道16号線の浜交差点から、16号線を離れて岡村の笹掘まで続く山側の道です。大正3年に国道16号線が開通した当時、磯子旧道は後にプリンスホテルが建つことになる山で行き止まりになっていたようです。その後、その山を切り開いて、昭和4年に岡村の笹掘まで繋がったそうです。この磯子旧道の延伸部分を「岡村道」とも呼ぶようですが、呼び名の定義は明確ではありません。

 このような大昔の話は検証できませんが、その後の昭和30年代には「磯子の山歩き」に記載したように、実際に自分でこの辺りを歩いていますので、その頃の記憶と、現在と比較した写真を載せたいと思います。以下に掲載する写真は磯子区役所発行の「浜・海・道(昭和63年発行)」から引用させていただいたものと、度々本ブログに登場していただいているSATURNO IOMさんから提供していただいたものです。
 
 
 

 上の写真は磯子旧道の途中にある、「広町バス停」の1963年当時と現在の様子とを写したものです。左の写真の電柱の位置からすると、現在のバス停は多少磯子寄りに移動しているようです。後ろに続く山は、当時まだ未開?で、磯子台などの住宅地が出現するのは暫く後のことになります。
 

 上の左側の写真は、上記の「広町バス停」近くから笹掘方面を見た写真です。右側の現在の様子と比べると、同じ場所を撮ったものとは思えません。もの凄い勢いで山が切り開かれ、住宅地に変貌して行ったのが良く分かります。それにしても、電柱の位置が変わっていないのは驚くべきことです。土地開発計画が、緻密に練られていたことの良い証拠だと思います。
 

 この写真は、上述のものとは反対に、「広町バス停」近くから汐見台方面を見たものです。昭和10年頃の地図と現在の地図を照らし合わすと、昔、主要な山道だった道が、現在の住宅街の中心的な道路になっています。これにより、小さな頃に両親と歩いた山道は、現在のこの辺りだっただろうと見当をつけることができます。そんなことを考えながら地図を辿っていると、忘れかけていた記憶が蘇るような気がします。
 

 この写真は、「広町バス停」の辺りから、もう少し汐見台寄りに行った場所で写したものです。左側の写真は、現在の汐見台中学の前辺りで撮影したものではないかと思います。汐見台に続く歩道は綺麗に整備され、ここに至るまでの途中の道路とは、全く違う道に見えます。この写真の1963年当時は、このようなコンクリート製の団地やマンションのはしりのような建物は珍しく、子供の目には「高級」な住宅地と写っていました。汐見台には、公団と分譲と社宅と、夫々目的の違った建物が混在していたのですが、全く新しく開発された土地に新築の建物が林立したのですから、やはり新鮮な驚きがあったと思います。

 汐見台の開発は、1963年の初入居後も継続されました。私の中学時代の友人が岡村の仲久保に住んでいましたが、1966年頃に何回か遊びに行った時も、汐見台開発のためのダンプカーが往来していたことを憶えています。ちなみに友人の家は、現在の岡村郵便局の向いのあたりで「お菓子屋さん」を営んでいました。
 

 上の2枚の写真は「浜・海・道」から引用させていただいたものです。時は1955年とのことですので、55年以上前のものです。写真の場所は、上述の磯子旧道のブドウ園近くから笹掘方面を写したものです。背後の山の形が、上述の写真とそっくりですので、そう判断することができます。私が両親に連れられ磯子の山歩きをしていたのが1959~1960年頃でしたので、その5年ほど前の写真と言うことになります。私の記憶では、当時の道路はもう少し整備されていたように思うのですが、風の強い日はかなり土埃が舞っていましたので、この写真と大同小異だったのかもしれません。上述の1963年の写真と比べると隔世の感がありますが、何故かものすごく懐かしい感じがします。

 右の写真の岡村ブドウ園の看板は、どこに建っていたものか分かりませんが、「中久保・磯子海岸」の記述があります。それを見ると、昔はこんなだったんだなぁと実感できます。そのブドウ園は、左側の写真の右手の斜面に位置していたそうです。50年以上前のこととなると、例え自分で体験したとは言え、殆ど憶えていないと言った方が正しいと思います。そう考えると、写真の存在は実に偉大だなと感じます。現在の地図に照らし合わすと、岡村ブドウ園の位置は冒頭の地図に記した辺りになると思います。このブログにコメントをいただいた、「くりさん」のお兄さんの、ご友人の家が「岡村ブドウ園」を経営されていたそうです。
 
 左の写真は1963年当時の岡村ブドウ園の様子です。ブドウの生る季節には、ベンチに腰掛けてブドウを食べることができました。両親に連れられて磯子の山を散々歩き回った後、ブドウ園にたどり着いた時は、「ああ、家に帰れる」と思ったものでした。その思いが強かったせいか、ブドウ園から間坂近辺まではそれ程距離があるように思いませんでしたが、実際は結構な距離があったわけです。子供心には、ブドウ園から山を下るとプリンスホテルまでは直ぐだったように記憶していたのですが、実際はそうではありませんでした。

 間坂に出るのにバスに乗った記憶がありませんので、笹掘近くのブドウ園から、間坂まで歩いたことになります。昔は歩くのが当たり前だったとは言え、山歩きの後で、更に結構な距離を歩いていたわけですからびっくりします。上の岡村ブドウ園の看板にも「磯子海岸 徒歩廿分」とありますから、20分程度歩く距離だったわけです。今の時代、特別な用事がない限り、笹掘近くから間坂まで歩こうとする人はまずいない筈です。これも、古き良き時代の思い出と言うことなのかもしれません。

磯子産業道路

By , 2011年12月4日 11:53 PM

 私は磯子区の根岸に生まれ、25歳になった年の12月に栄区(当時は戸塚区)に越しました。それ以来、34年間栄区に住んでいますが、子供時代から思春期、青年期を過ごした磯子のことを懐かしく思い出します。このブログにも磯子の記事を幾つか載せましたが、磯子に関して私が記憶しているのは、引っ越す前の1977年12月までのことです。それ以降の磯子周辺の変化は記憶にないため、現在目にする磯子とのギャップが凄く、どのような変遷を経て今の姿になったのか想像することができません。

 特に国道16号線沿いの、八幡橋から森町あたりに掛けての変化には驚くばかりです。私が引っ越す前くらいまでは、磯子駅近くの16号線沿いには普通の民家が多く建っていて木々も茂り、「三宅胃腸科」などのお医者さんがありました。不二家レストランも、そんな街並みの一角に建っていたと思うのですが、今となってはその位置すら分かりません。しかし、街並みや道路が綺麗になり、バイパスや高速道路との接続も良くなり、磯子がますます発展していると思うと嬉しくなります。

 私と同様、幼少期を過ごした磯子の事を、懐かしく思い出すと言う方は多く、このブログにもコメントをいただいております。そのような方々の中で、SATURNO IOMさんとそのご友人のkouさんから、ご自身の幼少期の写真と共に貴重な資料をお送りいただきました。私の拙いブログで紹介させていただいても良いとのことですので、私自身の記憶も絡めて、数回に渡り紹介させていただきたいと思います。手始めとして「磯子産業道路」について記したいと思います。
 
左の地図は、1961年の「浜」近辺の地図です。根岸湾の第一次埋立工事は1959年2月に開始されていますので、この地図は、それから2年ほど経過した時のものです。根岸線の線路も記入されていますので、埋め立てが順調に進んでいたことが分かります。肝心の産業道路は、まだ姿形が整っていなかった頃で、16号線から埋立地に向かう道路も、磯子警察の前は狭いままです。この後、磯子区役所側の道路が拡幅され、現在の広さになります。産業道路(橙色)と根岸線の線路を挟んで、もう一本の道路(緑色)も作られています。

 この緑色の道は、埋立地に建つ工場群へのアクセス用の道路ですが、長い間、磯子駅の裏手で途切れていました。この道路の事を何と呼んでいたか記憶にありませんが、当時、少年野球に入っていた私は、この道を通り埋立が終わった工場用地まで行き、毎週のように練習や試合をしていました。中学生になった頃もこの辺りはまだ更地のままで、Uコンを飛ばしによく出掛けたものです。
 

 上の左側の写真は、整備途中の磯子産業道路を写したものです。横浜開港150周年記念行事サイトから引用させていただいた写真ですが、1963年の撮影となっています。右の写真は、幼少のころのSATURNO IOMさんと弟さんが写っていますが、工事途中の産業道路の様子が良く分かります。撮影は1963年4月5日との由ですので、左側の写真と同じ頃かもしれません。ただ左側の写真では、根岸線の送電線などが施設されていません。SATURNO IOMさんからいただいた1963年7月の写真には、立派な送電線が写っていましたので、左側の写真は、ひょっとしたら1963年以前に撮影されたものかもしれません。
 

 上の写真も、同じくSATURNO IOMさんと弟さんが写っていますが、左側が1964年5月3日の日付で、磯子産業道路が開通する直前の写真だそうです。右側の写真は、それから1年程度経過した1965年8月20日のものです。この頃は、もうかなりの交通量であったことが良く分かります。また、右側の写真のように、道路沿いにはいろいろな会社やガソリンスタンドがありましたが、時の流れと共に、介護施設やマンションなどに変わっています。
 

 左の写真は、同じく横浜開港150周年記念行事サイトから引用させていただいた写真ですが、1960年末頃に撮影されたものと思われます。写真手前には、立派な日本庭園を持ったお屋敷が写っていますが、埋立前、この辺りは料亭が建ち並んでいましたので、そのうちの一軒と思われます。ちなみに、かの有名な偕楽園は、1968年まで営業を続けたとのことです。右側の写真は、現在の様子を写したものです。歩道は「磯子プロムナード」と呼ばれ、綺麗に整備されています。この道路は産業道路と呼ばれるくらいですから、自動車の交通量緩和のための意味合いが強い道路です。そのため、16号線とは異なり殺風景な感じを受けますが、それも仕方のないことだと思います。開通当初の16号線バイパス的な道路から、金沢区の工業地帯の道路と接続されたことで、今では磯子区の産業を担う、大動脈と言っても良いと思います。
 
 左の地図は、1963年の地図です。根岸線の線路はここまでで途切れており、翌年の1964年に根岸-磯子間が開通します。冒頭に載せた地図のところで、産業道路の線路向こうにあるもう一本の道路のことを記しました。その道路の末端が、この地図に示されています。この道路は、根岸線の磯子駅を過ぎたあたりで、根岸線の線路を跨ぐように高架になり、磯子産業道路に繋がっていました。私もオートバイや自動車を運転して屏風ヶ浦方面から来た時は、信号の多い16号線や産業道路を避け、この道路をよく利用しました。

 今では、この道路は八景島まで繋がっていて、国道357号線と呼ばれています。高架になっていた部分は、今では途中で切れ、通行止めになっているようです。

※この記事に記載しました写真は、借用したものが多いため、転載しないでください。

昭和30年代

By , 2011年9月25日 12:32 PM

 私の父は、昔、タクシーの運転手をしていました。その頃タクシーの運転手と言えば花形の職業だったと聞いたことがありますが、その変則的な勤務時間のせいで、私が子供の頃は結構寂しい思いをしました。タクシーの勤務は、朝、会社に出勤して、一日中通しで仕事をします。次の日の朝方に乗務の仕事を終えるわけですが、次の乗務員に車をバトンタッチするための準備とか、事務処理だとかがあり、直ぐに勤務が終わるわけではなかったようです。勤務を終えた日が「明け番」で、次の日がお休みと言う勤務体系でしたが、私は日曜日以外は学校に行っていますので、下手をすると3日に1度、それも夜しか父親に会えないと言うこともありました。

 そんなわけで、寂しい思いをすることもあったのですが、乗せたお客さんの話をよく聞かせてくれて、それが楽しみの一つでもありました。上の写真は1957年8月に撮影したものですが、父がタクシーで乗っていた観音開きのクラウンです。父は時々、乗務の途中で家に立ち寄り、私を膝の上に乗せて近所を一周してくれました。私の自動車好きは、こんなところから始まったのかもしれません。
 

 上の2枚の写真は、1959年4月と9月に撮影した自宅の様子です。
左側の写真は、私が小学校に入学した頃のものです。この頃の旧家は、大部分の家が写真のような構造をしていて、玉石の上に柱を立て、その上に家が乗っているような作りでした。そのため「縁の下」が高く、小さな頃は縁の下に入ってよく遊んだものです。こんな構造ですから、強い地震には弱かったのではないかと思います。幸いその頃は、家が倒壊するかと思うような大きな地震には遭遇しませんでしたが、今年の東日本大震災のような大きな地震にあっていたら、どうなっていたか分かりません。

 右側の写真は、左側の写真から半年後のものですが、弟の成長が良く分かります。縁側に腰掛けてポーズを取っていますが、弟は母親似で、兄の目から見てもとても可愛らしい仕草をしていました。この写真には家の中の様子が写っていますが、「障子」に「からかみ」と言ったその頃の家屋の様子が分かると思います。

 ちなみに、この家はいつ頃建てられたのか、迂闊なことに私は知りません。祖父の代に建てたことは間違いないと思うのですが、近い内に、両親に確かめてみようと思います。私達が引っ越してから間もなく建て替えられたと聞きましたので、もう写真でしか見ることができないのですが、子供の頃の思い出がいっぱい詰まったこの家のことを、しっかり憶えておきたいと思っています。
 
 左の写真は、1960年4月に自宅の前で自転車に乗っているところを写してもらったものです。この頃は、写真で分かるように「板塀」の家が一般的で、道もでこぼこしていて雨が降る度にぬかるんでドロドロになり、運動靴を汚しては母親に怒られたものです。当時はまだ日本全体が貧しく、テレビが(それも白黒)やっと普及し始めた頃です。テレビに比べると冷蔵庫などの大物の普及は遅く、この頃までの冷蔵庫と言えば木製で、氷の塊を入れて庫内を冷やすと言う代物でした。洗濯機も手回しの絞り器が付いた1槽式で、パルセーターがとにかく目一杯勢いよく回り、物によっては洗濯物がポロポロになってしまうこともあったようです。

 ゴミの処理は、各家庭の勝手口などに「ゴミ箱」があり、その中にゴミを入れておき、1週間の内に何回か「ゴミ屋さん」がリヤカーで回ってきてゴミを回収していました。当然、夏場は腐敗臭がすごく、蠅は飛んでいるわウジ虫は湧いているわで、家の中で一番近寄りがたい場所でした。また、水洗トイレなんてものは想像さえもつかず、汲み取り式が当り前で、肥桶を担いで来た人が柄杓で汲み取っていたことを憶えています。それからバキュームカーになり、浄化槽になり、完全水洗にと発展?して行くのですが、ことさら左様に「何も無かった」と言っても良い時代でした。
 
 この頃の子供の遊びと言えば、男の子は「自転車」「野球」「めんこ」「べーごま」など、外で遊ぶことが当然で、雨降りの日は一日中家の中で、「何か面白いことないかな-」と言っていたものです。女の子は「ゴム飛び」「ケンケン」や、「ビー玉」「おハジキ」などが主な遊びだったようです。

 遊びもおもちゃの種類も、今に比べれば実につつましいものでしたが、自然だけはどこにでもありました。その自然の中で遊び回ったことが、私達の世代の大切な思い出となっています。今の子供は、私達の世代とは違った種類の素敵な思い出を持っていることと思いますが、それでも、昔の自然を見せてやりたかったなぁと思うのです。右側の写真は、1960年4月に根岸山の登り口で撮ったものです。この根岸山や根岸八幡神社などが、小学校の帰り道の遊び場でした。

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