自己紹介

By , 2011年2月15日 7:26 PM

negishi_1969私は1952年12月、横浜市磯子区の根岸に生まれました。私が小学校3年生くらいまでは、根岸の海が存在していて、両親に三溪園の潮干狩りに連れて行ってもらったことも何回かありました。自宅の近くには、横浜水上飛行場の跡地があり、子供たちは「日航」と呼んでいて時々遊びに行きました。勿論、「日航」の中には入れませんでしたが、今は「マンモスプール」が建っている場所が広い空き地になっていて、錆びついたカマボコ型の兵舎?が建ち並び、秋には周り一面がススキだらけになり、子供にとっては遠慮することなく遊べる場所でした。その頃子供の間では、2B弾と言う小さな花火(爆竹)を投げ合う遊びがありました。その遊びをこの空き地でやっていて、花火の火がススキに燃え移り、危うく火事になりかけて大いに肝を冷やしたこともありました。

根岸線の線路が未だ施設されていない頃、市電が走っていた通りから「日航」に続く道は真っ直ぐに延びていました。今は、根岸線のガード下の道路は掘り下げられています。小学校で同級生だった女の子の家が、「日航」へ続く道沿いにあったように記憶していますが、この頃の写真を見ても家らしきものが建っている様子は無く、私の記憶違いだったのかなと今でも不思議な気がします。何となく侘しげな道沿いに、外国の家のような佇まいのフェンスがあり、何かの届け物をしに行ったような記憶があるのです。「日航」には一時、米軍が駐留していましたので、そんな佇まいの家があっても不思議ではなかったのですが、はてさて、一体その家はどこにあったのか・・・。
歳のせいかもしれませんが、何につけても野放図で、そして何となく貧しかったあの頃を、最近良く思い出します。

写真は1970年頃、根岸小学校の裏山から、解体中の根岸小学校と、その向こうの根岸中学校を撮ったものです。私は1977年頃、栄区(当時は戸塚区)に越してしまったのですが、今、根岸小学校の裏山からは何が見えるのでしょうね。

82 Responses to “自己紹介”

  1. どうも初めまして、「昭和時代のアマチュア用無線機」で検索していましたら偶然このサイトにたどり着きました!URLをご覧頂きますとお分かりのように昭和50年代に開局したHAMの一人です。ハンドルと同様のIDで楽天ブログサイトに投稿しております。まだ始めたばかりでコチラのブログも二月のスタートだったのでしょうか?私は3/6から書き始めましたので恐らく年齢もパソコン歴も大先輩とお見受けしました。時々覗かせて頂き勉強させて下さい!
    ロータス・ユオロッパは少年ジャンプ連載の「サーキットの狼」で有名になったクルマでしたね、私の住む福島県郡山市でも当時一台だけ道路を走っているのを目撃した事がありいつかは「ヨーロッパ」みたいに憧れていましたがほとんど諦めていましたのでとても懐かしかったデス!最近は「エリーゼ」をたまに見掛ける時がありTOYOTAの4AGか何かを載せているのでしょうか?チョッと気になる存在です。
    無線の方は一応こじんまりした大きさのアンテナを数本建てて受信をメインに楽しんでいます。いつの日にかお空での交信が実現出来ると幸せに存じます!

    • cube-kojima says:

      ココラジサポーター2号さん
      コメントいただき、ありがとうございました。
      福島県郡山市にお住いとの由ですが、この度の震災の影響はいかがでしたでしょうか。
      こちらでも結構揺れまして、思わず外に飛び出したのですが、隣近所の皆さんも大勢家の外に出ていました。それ以来、被災地の様子を連日テレビ等で見ていますが、被災された方々のご苦労は幾許かと案じています。地震大国の日本にあって、とても他人事とは思えません。体力的にボランティアなどはできませんが、募金などで少しでもお役に立てればと考えています。
      大きな災害時は、アマチュア無線網が活躍する時でもありますが、今回はいかがだったのでしょうか?QRTしてからもう8年が経過しておりますので、アマチュア無線界の情報にはとんと疎くなってしまいました。無理矢理アンテナを建てるか、もっと広い場所に越すか、どっちもどっちでいい加減面倒くさくなって来ています。もう少しして諦めがついたら、V・UHFで我慢するかなとも考えています。Hi
      「Hi」なんて書くのは、本当に久しぶりですねぇ。何とか早くカムバックしたいです。
      私の開局は局免を見ると(返さないで保存してあります)、昭和42年9月6日になっていました。
      経過した時間だけ見ればスーパーOMの部類ですね。(笑)
      そのようなわけで、近い内にQRVするのは無理だと思いますが、いつかお空の上でお会いしたいですね。今後とも、宜しくお願い致します。

  2. あっ、どうもご丁寧な御見舞いのメッセージ並びにコメントを添えて下さいまして大変恐縮です!今後ともお付き合いの程よろしくお願い申し上げます。
    先月の大地震は勤務先で遭遇しましたが、揺れ始めから一旦おさまるまで異様に長かったですね!初めは「微振動」でゴゴゴゴゴッて感じから次第に振動の周期が大きくなっていくのが立っている状態でもダイレクトに伝わって来ました。今思い返してみるとスローモーションヴィデオを見ているかのように鮮明によみがえってくるぐらいの未体験な出来事でした。この辺りは地震直接の被害は少なかったのですが太平洋沿岸部は二次的に襲ってきた大津波で多くの犠牲者が出ました。また追い討ちをかけるかのような「原発トラブル」で東日本一帯を巻き込んでの大惨事を引き起こしていると言えましょう!
    アマ無線の方ですが、だいぶ昔と様変わりが進んでいましてやはり、アナログ文化の象徴のように付き合ってきた世界でしたが次第に「デジタル・テクノロジー」の波が押し寄せて来ましたのでもう私自身余りお空に電波を出す事は少なくなりましたし再開を急ぐ必要も無いものと存じます。気長にお待ちしていますので・・・

  3. くりさん says:

    こんにちは初めまして。現在、同じく戸塚に住む者です。ブログ掲載の八幡橋界隈の写真を懐かしく拝見しました。私も同じく1952年の2月生まれの59歳。私は滝頭小学校出身で中学は岡中です。小学校6年までは滝頭にいてその後蒔田方面に引っ越しをしました。中学時代は久木町に住んでいた中学時代の友達とよく遊びまわっていました。人間この年になるとやはり昔の昭和の時代が何となく懐かしくなるのでしょうね…。私も時たま過去を振り返る意味で先日も浜マーケットのそばに住んでいた友達の自宅があった付近をバイクでぐるぐる探し回ってみたのですが当時の家があった場所はすっかり新しい住宅地に様変わりしていて見つけ出す事ができませんでした。ブログに記載してあった禅馬川も確か見た覚えがあるような無いような感じです。美空ひばりが生まれた滝頭のせんだ市場?もあそこは未だに残っていますね。またそのすぐそばに高い塀で囲ってある大きなお屋敷も未だに残ってはいました。昭和の40年代はまだあの界隈も道路は砂利道も沢山あった様な気がします。人は誰しも20代から50過ぎまでそれほど過去を振り返ることなく人生を突っ走ってきたのではないでしょうか…。私ももう59で来年はいよいよ還暦です。残す人生もそう長くは無くなってきました。それだけにふと自分の過去を振り返る事がしばしばあり自分が生まれ育ち過ごした界隈に行ってみる事がたまにあります。自分の出発点に戻りどう自分は半生を走り続けてきたのか?これでよかったのか?これからどうあるべきかなんてまだ考えております。同じ滝頭小学校を出た昭和の歌姫、美空ひばり、54年の生涯をスタートして生き抜き華々しい人生を生きた人もいれば人は様々です。ひばり一族も皆、親兄弟はご承知の様に長生きすることなくこの世を去っています。人生、太く短く生きるのか?細く長く生きるのか?人によって様々ですね。それぞれの宿命なのでしょうか。何か昔の写真からいろいろな事を考えさせらる年代になってきました。突然の書き込み失礼いたしました!

  4. cube-kojima says:

    くりさん
    コメントをいただき、ありがとうございました。
    私も50歳を過ぎた辺りから、単に昔を懐かしむだけではなく、何かもっと切実な感じを抱くようになりました。
    それが何なのか言葉では上手く表せないのですが、昔の記憶がだんだん薄れて行くような感じがあったため、記憶を繋いでおくためにもブログを公開させていただいております。
    つたない内容の記事ばかりですが、これからもお付き合いいただければ幸いです。
    磯子界隈のことにつきましては、ブログ中で紹介させていただいておりますが、以前磯子にお住いであった「SATURNO IOMさん と kouさん」のお二人が、幼少だった頃の磯子周辺の資料作りをされています。
    その貴重な資料を11月の初めにいただいておりますが、なかなか自分の中で整理が付けられず、今に至っております。
    資料中の写真についてはブログへの掲載許可をいただいておりますので、差し障りのない範囲で紹介させていただきたいと考えています。
    くりさんのご記憶の中にある浜マーケット裏の様子や、産業道路の出来立ての頃の様子、そして岡村にあったブドウ園についてなど貴重な写真がありますので、またご覧いただければと思います。
    来年は、いよいよ??還暦を迎えることになりますね。自分が60歳になることを実感として受け入れるには、まだ気が若過ぎるように感じます。赤いちゃんちゃんこを着る自分を、想像することすらできません。そのような感じは、恐らく くりさん も同じなのではないかと思います。とは言え、老い先を考えると一気に現実に引き戻されてしまいますが・・・。でも、来年は還暦を迎える年であると同時に、自分の干支の年でもあります。一回り先の干支の年(その時は72歳ですね)に向かって、新たなスタートを切りたいと思っています。これからも宜しくお願い致します。

  5. くりさん says:

    どうもです。私も年月がたつにつれて様々な記憶が遠のいていくような気がします。今まではそんな気にも留めなかった自分の育った地元の歴史を記録に残していくのも自分史を綴る一つの方法ですね。今年になってからも私はオートバイで小学校6年まで居た滝頭の家があった周辺を歩き写真を撮ってきました。かつて我々が住んでいたあのバラックの家は現在駐車場になっておりますがこんな狭い所に当時は10人近くも住んでいたのかと驚きです。本当に貧乏な時代でした。実はそういった古き時代の磯子や滝頭の古い写真がインターネットに載ってないものかと思い探していたところこちらのブログに辿り着いた訳でして…。古い時代の写真はアルバムにも多少あるのですが殆ど人物を撮った写真ばかりで町の風景を残したものなどはなかなかありません。ま、当時は風景を残しておこうなんてあまり考えてもいませんでしたし何よりもそんな高価なカメラを持てる身分でもありませんでしたから…。(笑)岡村のブドウ園なんぞは私自身はまったく記憶にありませんでしたが64になる私の兄貴に聞いてみたところ兄貴の同級生の家がやっていたブドウ園だそうです。笹堀からプリンスホテルへ抜ける道の左側の山の斜面にあったそうでね。
    ご貴殿も私と同じ子供時代を過ごしていらっしゃるので根岸から屏風ケ浦までは海であったのはご存知かと思います。私も多分5~6歳の頃にアサリ取りに家族で行った記憶があります。昭和35年に埋め立て工事が始まっていますので私が8歳の時という事になります。そんな根岸がまだ海だった頃の写真があれば是非見てみたいものです。あの天神橋から中村橋に抜けている川からも昔は天然のウナギが取れていたという話も聞きます。水も昔は綺麗だったんですよね。

  6. cube-kojima says:

    くりさん
    そうですね。私達が子供の頃は、日本全体がまだまだ貧しい時代でしたね。子供は子供なりに、いろいろな遊びを見つけて楽しんではいましたが、自転車ひとつとっても貸自転車が主流で、自分の自転車を持っている子供なんてあまり居ませんでした。マンガも貸本屋さんで借りたりしていましたしね。生活が豊かになって来たと感じたのは、中学生になった頃だと思います。日本は高度成長期の真っただ中でしたが、その代償として、自然がどんどん無くなって行ったのは仕方のないことだったのでしょう。私が小学校5年生くらいの時、何かの用事で間門の近くまで行ったのですが、もうそこには海は無く、木の杭とバラ線で囲われた、だだっ広い野原が広がっているだけでした。その時は子供心にも、「海が見えなくなった」と、何か得体の知れない恐怖のようなものを感じたことを憶えています。とは言え、日頃から海に接していたわけではありませんでしたので、海が無くなって行くことについて、特別な感情はなかったように思います。今考えると、随分勿体ないことをしたと悔やまれます。もっともっと身近にあった海に接して、それがどんなだったか、記憶に留めておければよかったのにと思うのです。根岸の海については、自分はまだ小さかったので無理だったと思いますが、富岡から金沢に掛けての海は、私が高校生の頃も健在でした。通っていた高校が金沢八景にありましたので、記録しようとすればできたのですが・・・。そんなわけで、根岸~金沢にかけての海の写真は、残念ながら持っていません。それと、岡村のブドウ園ですが、くりさんのお兄さんの友人のお宅がやっておられたとの由、奇遇と言えば奇遇ですが、世間は狭いものですね。小さい頃、両親に連れられて磯子の山を歩き回ったことを思い出します。ブドウ園で一休みして帰路につくのが、いつものコースでした。

  7. くりさん says:

    最近はうちの兄貴とも昔はこうだったああだった…と話す機会が増えてきたように思います。(笑)ついぞ5~6年前まではそんな話することも無かったのですが。
    やはりお互いに歳を取ってきたんだなと感じます。また自身も最近は歴史をより勉強するようになり面白いなと感じるようになりましたね。古きは戦国から江戸、幕末、明治、昭和まで興味をもっています。最近はインターネットのおかげで図書館へ行かなくても殆どの資料を自宅に居ながらにして見て読むことが出来るので確かに便利な世の中ですね。磯子区の資料によると古くは根岸の海は明治の時代から埋め立てが場所によって始まっているようです。また屏風ヶ浦方面では海苔の養殖も行われていたとか…。白黒ですが遠浅の根岸湾の写真も小さく載っていました。
    そんな時代から更に時代をさかのぼって江戸時代の金沢八景などは歌川広重の版画を見ると本当に風光明美な所であった事をうかがい知る事が出来ます。それからすると根岸から芦名橋、杉田方面まで遠浅の海岸線が続くやはり風光明美な所だったんではないかと思います。我々が根岸湾でアサリなんぞを採ることが出来たのはそんな名残を残す最後の時代だったのかも知れませんね…。グーグルアースの航空写真で埋め立てられた本牧から金沢八景までの状態を上空から見てみれば今は何と味気ない土地になっているのか一目瞭然です。

  8. cube-kojima says:

    くりさん。
    私も同じようなものです。昔の画像や地図などがあると、その場所の特定とか現在の位置との比較とか、調べないでは居られなくなります(笑)。また、自分の知らなかったことをいろいろな方々から教えていただいたりしたお陰で、身近な場所の地理とか歴史にだいぶ詳しくなりました。そんなわけで、ブログに書きたい題材は10ほどもあるのですが、仕事が山積していてなかなか手につきません。夏場の入院で1ヶ月近く仕事をしていなかったことが未だに尾を引いているようで、自分の能力の限界を感じています。(悲)

  9. くりさん says:

    掲載されているブログをよく読みますとご自身も大変なご病気をされてご苦労なさっているご様子。くれぐれもご自愛のほどお見舞い申し上げます。kojimaさんと私とは何か性格が多少似ているのか或いは同年代のせいなのか昔に対する思う気持ちが似ている所があるのかも知れませんね…。(笑)私も昔の写真を見てかつてはこんな建物が建っていた、或いは今は何も無い場所に想像を巡らせてこの場所で誰かが生きた証があった…なんていろいろ考える事が好きな人間です。以前は、戸塚区平戸にも住んでいたのですがそこは旧東海道のあった道で品濃一里塚が有ります。今も昔のままの細いけもの道の様な場所がありますが、かつて大石内蔵助も坂本竜馬も江戸へ行く為にこの道を通ったのだな…なんて思いを馳せると面白く感じます。今は原宿に住んでいますがここも昔は東海道の道すがら。現在の原宿交差点から戸塚警察へ向かう途中に大坂上というS字カーブしている道は今も松の木が中央分離帯のところに植わっているわけですがその左側は谷になっています。現代になって分譲する為に工事をしている時に掘る度に人骨が沢山出土したと言われています。ここは旅をいそぐ人が夜中に通った時に山賊に襲われて旅人が命を落とした場所なんだそうでそれで昔の人の人骨が出るそうなんですね。確かに横浜バイパスを戸塚警察方面に向かう時は大きく登り坂になっており松の木が分離帯に植わっている付近は丁度山の頂上付近である事が分かります。現代では車が多く通る広い道になっていますが江戸時代、山賊が出ても不思議ではない暗く細い道がかつての東海道だった訳ですね。歴史を知り改めてその場所を訪ねて昔に想像をタイムスリップさせると身近な場所の散策でもより楽しくなるものです。

  10. cube-kojima says:

    くりさん。
    こんばんわ。この時刻になって、やっと仕事の区切りがつきました。明日からは、また違う仕事が待ち構えています。こんな感じでバタバタしている内に、あっという間に年が過ぎて行くんですね。知らぬ間に歳とるわけです・・・。東海道の原宿手前の松林は、すごく懐かしい感じがします。たぶん、小学校低学年の頃だったと思いますが、当時は車のまばらだったあの道を、何度か通ったことを憶えています。横浜方面から行くと、それまでの味気ない風景の中に突然松林が出現して、おおっ!と思ったものでした。当時は、まだ松林も元気いっぱい??で、「東海道!」と言う感じがしたものです。ドリームランドが開園してから何度か連れて行って貰いましたが、その時も「松林を過ぎたらもうすぐ」なんて思っていました。そんなわけで、モノレールには乗り損ねています。モノレールと言えば・・・話が終らなくなりそうですね。私は現在、環状4号線の公田の近くに住んでいます。実家はもう少し朝比奈寄りにあります。私が高校生だった頃、今の港南台に同級生が居て、しょっちゅうオートバイで遊びに行っていました。その当時は港南台も野庭も影も形も無い頃で、友人の家は深い山の中にありました。上大岡から公田に向かって行くと、横横道路の日野インターを過ぎて直ぐのところに「新橋」と言う小さな信号があります。その信号を左に入り(今は一方通行になっていて車は入れませんが)、川沿いの細い道をどんどん行くと、道が途切れる少し手前に友人の家がありました。山に分け入って「山芋」を掘ったり、ザクロの実を食べたり、面白い体験をすることができました。その友人の家は、今の港南台の「めじろ団地前交差点」近くの「UR都市機構港南台かもめ団地1号棟」のあたりにありました。また、野庭の辺りは日野小学校の裏山が造成され、「公務員住宅」の建設が間近に迫っていました。建築工事が始まるまでの間、そこには舗装され真直ぐに延びた直線道路がありました。そこでオートバイのゼロヨン競争をしたり、まぁろくでもないことをやっていたわけです(笑)。高校が金沢でしたから、学校が休みの日などは、鎌倉街道を通って公田に出て、そこから金沢の友人宅にもよく行きました。この頃の環状4号線(当時は鎌倉街道と呼んでいたのですが、本当の鎌倉街道は公田から右に行くようですね)は、周りは田んぼと畑ばかりで、現在私が住んでいるところも、その他の団地も全て山の中で、造成すら始まっていませんでした。それが今ではこなんになるとは、本当に想像すらできませんでした。全く何も無いところに、突如何かができた!みたいな感じがして、良くも悪くも私達の世代は、世の中の激動の最中で大きくなったように思います。中途半端?に昔を知っているため、それをもっと知りたいと言う欲求が強いのかもしれませんね。いつか、仕事をリタイアすることができる日が来たら(永遠に来ないかもしれませんが)、子供時代から青年期あたりに掛けて、身の回りにあった出来事や移り変わりを、じっくりと調べてみたいと思っています。

  11. くりさん says:

    どうもです。この4~5日の間、具合が急に悪くなり寝込んでおりました。前日までは元気に仕事をしておりましたが翌日の朝8時に何か吐き気を感じて眠りから一気に冷めトイレの便器に顔をうずめた瞬間に胃の中の物を全部吐き出しました。何故急に?前日の仕事先で風の菌を貰ったのか?何か食に当たったのか?見当もつきません…。いやはや病魔?!は突然に遅いかかってくるものです。体は冷え切るようになり羽毛布団を2枚重ねで寝ていても体が温まりません…。湯たんぽを足元に入れて寝てなんとか眠れたという状況でした。然しここなんとか体力も回復してきて食も食べられるようになり仕事に支障なき状態に戻れそうです。来年で60歳。歳の変わり目に体の変化が起こるのでしょうか?

    日曜の今日、自宅そばの大正小学校の校庭で原宿町内の自治会イベントが開催されておりました。ふと足を向けてみると昭和28年代の原宿交差点付近の古い写真が数点パネルに貼られておりました。私達が生まれたばかりの昭和28年の原宿交差点は普通の家が立ち並ぶ舗装もされていない何処にもあるような町のいち風景でしたね。原宿交差点を藤沢方面に顔を向けて向かい左角は明治牛乳のお店が写っておりました。その隣りが柳屋という看板がかかっている食堂なのかいまではそのあたりは大きな立派な邸宅が建っていてそんな面影は何処にもありませんね…。(笑)
    交差点から大船方面に向かう道路は本当に狭い道の様子でしたね。そして松並木の分離帯がある東海道も昭和30年の時の写真ではあのボンネットトラックが1台走っている写真があり勿論道路は舗装されておりません。道路もトラック2台がすれ違い出来る程度の道幅でした。それからすると更に大正、明治、江戸と時間を遡れば当時は東海道といっても本当に道がそれほど広くはなく場所によっては山賊がでたのも嘘では無いような気がしました。私は磯子生まれですからこちらの地元ではないのですが当時の古い写真には大変な面白さを感じます。NHKのブラタモリの番組でも江戸時代の古地図と現代とを照らし合わせて見る時代の変遷にはいつも私も興味を持って見ています。ご覧になってますか?

  12. cube-kojima says:

    くりさん。
    ここ暫くの間、体調を崩されていたとの由ですが、もう完全に回復されたのでしょうか。60歳になる節目に体調に変化が・・・と言うことは聞いたことがありませんが、ちょっとした病気が原因で重病になることもありますので、お気を付けになってください。私は一昨年の12月に風邪をひき、大したことないだろうとタカをくくっていたところ、40度近い熱が何日も下がらず呼吸も困難になり、肺炎の一歩手前と言う状態になったことがありました。直ぐに医者に行ったのですが簡単には治らず、2週間近く寝たままの状態でした。昔はこんなこと無かったのですが、それからと言うもの外出から帰宅した時は必ずうがいをし、風邪気味と感じたら直ぐに風邪薬を飲むことにしています。私の場合は肺に疾患を抱えているため、特に注意が必要のようです。気胸で入院した時も退院まで3週間掛かりましたし、普段は意識していないのですが、そんな時はやはり歳を感じてしまいます。気分はいまだに高校生なんですが・・・(笑)。
    それから、原宿周辺のこと、お伝えいただきありがとうございます。私達が生まれた頃はそんなだったんですね。今となっては信じられませんが、昭和30年代から昭和40年に掛けて、日本のどこもかしこも大きく変化したと言うことなんでしょうね。自分の身の周りのことを考えても、海は無くなり山は団地に変わり、それ以前はどんな感じだったのか、思い出すことさえ難しくなっています。それが時代の変化と言うものなのかもしれません。自分の知らないうちに、いつの間にか道ができ、気付かないうちに周りにいた人達が居なくなり、だんだんと昔を思い出せなくなって行くみたいな・・・。ああ、何か湿っぽくなりますね。
    仕事が幾らか片付いて来ましたので、もういい加減ブログを更新しようと思います。「SATURNO IOMさん と kouさん」のお二人から貴重な資料をお送りいただいたままになっておりますので、それを活用させていただこうと考えています。今日はそのための資料整理をしましたので、ここ数日のうちには更新したいと思います。また、くりさんからご意見をいただければ幸いです。宜しくお願い致します。
    「ブラタモリ」は、時間が遅いこともあり続けて見てはいません。「横浜の街をブラつく」と言う題名の時が、見た最後だったと思います。「神田川」の時も見ましたが、なかなか面白い番組ですね。もともと、あまりテレビは見る方ではないので、気にしていないとついつい見逃してしまいます。面白そうな内容の時は、忘れずに見てみたいと思います。

  13. くりさん says:

    お~、やはりブラタモリたまにご覧になったこと有るんですね…(笑)タモリさんも結構江戸時代から明治~昭和までの東京の変遷には詳しいですよね。普段見過ごして通り過ぎている東京都内も江戸時代の名残を残している所もあってなるほどな~ってまた興味を持って見る事が出来ます。歴史を知らないと都内のいずれもつまらない所になってしまいますが昔はこんな所だったなんて思いをはせると面白い事もありますよね。東京都庁も戦前からの浄水場跡地に建っているんですよね。どうもあの辺は道路が何か立体的に交差しているので知らない時は何か変な作りだな~って感じていました。結局ブラタモリを見たお陰で昔の貯水池の底である事が分かりました。そんなことから私もタモリさんの様にその土地の高低差を見るようになりましたね。町中に走る妙なS字道路も昔はここに川が流れていた!なんて推察できれば面白いとおもいます。

  14. cube-kojima says:

    くりさん。
    そう言われれば、東京都庁が浄水場跡地に建っていると紹介した番組を、私も見たことがあります。それがブラタモリだったかどうか憶えていませんが、この種の番組は見ていて面白いですよね。「へぇ~そーなんだ」と思うことも多く、なかなか勉強になります。以前ブラタモリで横浜を取り上げた時は「本町通りを南下して行くと途中に段差がある」ことについて検証していましたが、身近にある風景で歴史を証明しようとするので、大きな説得力があります。いつか「根岸・磯子」の紹介をしてくれないかな~と思っています。根岸・磯子には、何かを検証すると言うような大きな題材はありませんが、「昔はこんなだった」的な話題には、こと欠かない場所だと思います。

  15. yasumuro says:

    初めましてエラン修理で検索してましたらなにやら見覚えのあるヨ-ロッパが懐かしさのあまり鳥肌が 私20歳の頃相生町でステ-キハウスに勤めておりました その頃店の前にヨ-ロッパTCが止まってまして その方が2Fにお住まいのデザイナ-のダOさんでした 写真の1056がその方の車ですね 仲良くさせてもらい旅行行くから1週間ヨ-ロッパ貸してくれたことお覚えています 江の島のお寺の高Oさんも仲良くさせてもらってました日立にお勤めでしたね サ-キットの狼の池澤さんも食事き来られてました あの頃から37年すぎて私も23年前に憧れのヨ-ロッパSPお手に入れ エランS3ク-ペと乗り継ぎ今はエランS1に乗ってます 小学生の低学年の頃作曲家だと思いましたが三保啓太郎さんがエランでテレビに出てくるの見てからロ-タス信者になってます アマチュア無線もJM1コ-ル取りましたが長らくQRTですね何か懐かしくなるブログお拝見してあの頃お思い出しました 又拝見させてもらいます
    近いうちに江の島のお寺に寄ってみようと思います ありがとうございました

  16. cube-kojima says:

    yasumuro様
     いやあ、懐かしいですね。2Fの飯田さんのオフィスに遊びに行った時など、yasumuro様がお勤めだったステーキハウスに何回か連れて行ってもらったことがありました。路上にヨーロッパを止めていて、駐車違反の取り締まりがある時などは、ちょくちょく連絡していただいたりしていたのではなかったかと思います。高木さんや池澤さんともお知り合いだとのこと、もう本当に懐かしさでいっぱいです。私は当時、飯田さんの義弟の鈴木さんの会社にお世話になっておりました。鈴木さんはグリーンのSPに乗っておられたので、yasumuro様のご記憶にも残っておいでなのではないかと思います。その後暫くして、私は中目黒の会社に移ったのですが、自由な時間がなかなか取れなかったため、皆様とのお付き合いは疎遠になってしまいました。それからも、飯田さんには何回かお目に掛かる機会があり、Esprit Turboに乗っておられたことまでは存じています。当時、22歳そこそこの未熟な私を親切に指導していただき、また、数々のanother worldも体験させていただき、皆さんには本当に感謝しております。私より5~10歳も年上の方々でしたが、今もお元気で活躍されていることと思います。
     yasumuro様は、ヨーロッパSP、エランS3、S1と乗り継がれておられるとの由、大変羨ましく思います。私は、ヨーロッパが欲しいと40年近く思い続けているのですが、趣味の車を保管できるガレージがありませんので、なかなか手を出せずにいます。加えて車両価格は年々高くなって行きますので、最近では、もう殆ど諦めています。無線も住宅事情でQRTしたままになっていますが、そのうちに復活させたいと思っています。車にしても無線にしても、何処かでお目に掛かれる機会があるかもしれません。その時は、どうぞ宜しくお願い致します。

  17. 大島篤 says:

    岡村の暗渠について検索していたら、こちらのページがヒットしました。
    ヨーロッパほか、車や磯子の昔話を大変面白く読ませていただきました。
    もし、岡村の「ファミリー丸岡」裏の、暗渠になっている川の名前をご存知だったら教えていただけませんか? おそらく水源は久良岐公園だと思いますが。

    自分は独身時代はケイターハムのスーパー7、エスプリS2、911(84年)などに乗っていましたが、結婚して長男が生まれたのを期に磯子区に転居し、車は日産プリメーラになりました。
    友人がヨーロッパSPを持っていて、何度か運転させてもらいましたが、あの車は本当にすごいですよね。道を曲がるときに、まったく車体の質量を感じさせずに車の向きが変る。車体がさらに軽いスーパー7でもあんな風には曲がってくれず、さすがミッドシップは違う! と思ってエスプリを買ってみたのですが、車体が大きくて重いためか、ヨーロッパのヒラヒラ感とは全く違うハンドリングでした。

    • cube-kojima says:

      コメントをいただき、ありがとうございます。岡村のファミリー丸岡裏を流れていた川ですが、それは恐らく禅馬川ではないかと思います。禅馬川の源流は、久良岐公園の湧水と言われています。そして江戸時代に、岡村・滝頭村・磯子村を総称して禅馬郷と呼んでいましたが、禅馬川はその禅馬郷三村を流れていたそうです。笹掘近辺の地形を考えますと、そこを流れていた川の源流は久良岐公園と考えるのが自然ですし、磯子山方向に坂を上る形で川が流れることはありませんので、久良岐公園-岡村-磯子と流れていた、禅馬川と考えて間違いないと思います。
      大島さんが乗り継いでこられた車ですが、正にスポーツカーの王道と言って良い車ばかりですね。ここにヨーロッパでも入っていようものなら、ガチガチの硬派!と言っても過言ではないと思います。私も残念ながらヨーロッパを所有することはできませんでしたが、今でも、あの車だけは別格だと思っています。ただただ、あの操縦感覚を味わうためだけに存在する、そんな車だと思います。逆に言えば、それ以外に取り柄が無い車とも言えます。しかし、その唯一の特徴が余りにもずば抜けているため、今もって諦めがつかない自分がいます。まぁ、もう歳も歳ですので、一種の憧憬のようになって来ています(笑)。機会がありましたら、またスポーツカー、乗ってくださいね。

      • 大島篤 says:

        cube-kojimaさん、禅馬川の情報ありがとうございます。大変参考になりました。今度、久良岐公園から暗渠伝いに掘割川まで歩いてみようと思います。

        スーパー7だけはいつか復活させたいと思って調布の実家に置いてあるのですが、結局もう10年放置したままになっております。とりあえず磯子に移動してコツコツ整備するか、諦めて手放すか、悩ましいです。

        • cube-kojima says:

          大島さん、ご返事ありがとうございます。私が中学生の頃、仲の良かった同級生が、根岸から岡村に越しました。引っ越した先は、笹掘近くの岡村郵便局の向かい辺りだったのですが、その家に遊びに行った帰りに、磯子橋近くの自宅まで歩いたことがあります。もう45年以上も前のことですから詳細は忘れましたが、意外に近かったのを覚えています。多分30分程度だったのではないかと思います。時間がありましたら、是非歩いてみてください。面白い発見があるかも知れません。
          スーパーセブンを実家に置かれているそうですが、それは何よりです。お子さんが成長されて、乗りたいと言い出すかもしれません。実生活にあまり密着していない車は、一度手放すと次に入手するのが困難になります。特にロータス等の純スポーツ系は、大変困難と言っても良いかも知れません。私の例で恐縮ですが、次はヨーロッパと思いつつ、40年が過ぎてしまいました。置いておく場所があるのでしたら、あと暫くは手元に置かれてはどうでしょうか。ご健闘をお祈りいたします。

  18. 森島 勝 says:

    「懐かしい」の一言で、絶句しました。このサイトに、出会って。実は、昨年から、生まれて二十歳まで住んでいた滝頭町744番地あるいは磯子一番地と呼ばれた場所の昭和20,30年代の町の復元をめざして、資料を集め始めました。まずは、子供のころ意味わからず使っていた地名:「にっこう」「塵やき場」「かめのこじま」「よこいち」から手をつけています。にっこうは、進駐軍が占領していたので「危ないから行ってはいけない」と親に注意されていたので近づきませんでしたが、塵焼き場・かめのこじまは、なわばりで遊び場でした。

    • cube-kojima says:

      コメントをいただき、ありがとうございました。
      「進駐軍が占領していた」の下りから、森島さんは私より年上と思われますが、いかがでしょうか。
      私が物心ついた頃には占領は終了していて、現在プールセンターになっている部分に、錆ついたカマボコ型兵舎が点在していました。
      私も小さな頃は「にっこう」の意味が分からず、何となくあの辺りと言った感じでした。「塵やき場」「かめのこじま」「よこいち」は、聞いたような気はしますが、ハッキリとは記憶に残っていません。
      小学校低学年の頃の遊び場は掘割川より根岸側で、八幡橋より磯子寄りに行くのは、母の実家や親戚の家に行く時、そして墓参り(密蔵院)に行く時くらいでした。ですから実の所、磯子の海は見たことがありません。電車道を渡れば、すぐそこに磯子の海があったのですが、その頃はそんな意識さえありませんでした。ひよっとして「塵やき場」「かめのこじま」とは、現在のヨットハーバーの辺りなんでしょうか?
      小さな頃の記憶を探ると、鼻にツンと来るような感覚があります。忘れてしまわないうちに、思い出せるところは何処かに記録しておきたいと思っています。このブログにも、書きたいことはまだまだあるのですが、思い出すことが断片的で、文章にできないと言うジレンマがあります。もっと資料集めをして、1つでも多く文章として残せればよいなと考えています。
      また、コメントをいただければ幸いです。よろしくお願い致します。

      • 森島勝 says:

        こんばんは、cube-kojimaさん。おっしゃる通り、百歳までいきませんが、ちょっぴりだけ上の世代です。また、「かめのこじま」「よこいち」はご賢察のとおり、現在のヨットハーバーのあたりにありました。明治のはじめ掘割川を掘削する際に出た土を使って、八幡橋の河口に波止場をつくり、その先端に波止場をカバーするように石垣を組んだ島のようなものです。明治7年末に完成したそうです。
        こんなことは最近知ったことで、当時は、みんな、これを島の形から「かめのこじま」「よこいち」と呼んでいました。夏には、親に内緒で掘割川を泳いで島へ渡り(当時は、すでに汚れた水の川で、泳ぐのに勇気がいりました)、島の外側の石の隙間にいるワタリガニを潜ってたくさん採りました。ちなみに「塵焼き場」は廃墟の大きな建物で、中はがらんどう。でも製氷会社が一部を使って、大きな氷のブロックを作っていました。この建物は、いまのヨットハーバーのクラブハウスのあたりにありました。小学生のころ、ここの堤防で、主翼のない二式大艇の残骸を海底から引き上げるの見ました。(もちろん、川西の二式大艇と解ったのは、高校生になって飛行機に興味をもってからですが)敗戦直後、「にっこう」に集められた生き残り飛行艇の一つだったようです。ア~懐かしい。また、コメントさせていただきます。滝頭は、こじまさんの隣りですからね。
        追伸:わたしは、八幡橋幼稚園は入試に失敗しましたが、磯子小、岡村中は無事、卒業しました。いずれも、磯子の埋め立て前のことです。

        • cube-kojima says:

          森島様
          再度コメントをいただき、ありがとうございました。
          「ゴミ焼き場」「かめのこじま」「よこいち」は、ほぼ同じ場所にあったのですね。
          1960年頃の航空写真を見ると、高い煙突を持った建物が見えます。丁度、現在のヨットハーバーのクラブハウスの場所で、そこが「ゴミ焼き場」ですね。
          その先の河口にあった防波堤のような場所が「よこいち」、その内側にあった小さな島のようなところが「かめのこじま」ですね。
          今、「よこいち」も「かめのこじま」もありませんが、いつ頃なくなったのでしょう。ヨットハーバーを作る時に撤去されたのでしょうか。
          ブログにも書きましたが、私の祖母方の親戚は根岸の漁師で、私が中学生の頃まで八幡橋の河岸から漁に出ていました。私の大叔父に当る方ですが、私がまだ小学生低学年の頃、船で時々河口先まで連れて行ってくれました。その頃、船からはどんな景色が見れたのか、ほとんど記憶に残っていません。
          あの頃、海は身近な存在でしたから、船に乗せてもらったこと以外、特別な感慨なんて無かったのかも知れません。その頃はまだ、「よこいち」も「かめのこじま」もあったはずですが、残念なことに記憶に残っていません。動物検疫所の岸壁が、うっすらと記憶に残っています。
          子供の頃、掘割川で泳いだとのお話ですが、私も父親から、よく泳いだことを聞かされました。その頃、水は綺麗だったのか聞きませんでしたが、「よく」泳いだとのことなので、泳げる程度には綺麗だったのかもしれません。ちなみに父は、昭和3年生れです。それと二式大艇のことですが、根岸水上飛行場のことを書いた資料によると、終戦後に残っていた飛行機は、飛行場沖に廃棄されたようです。埋め立てを行う際に、これらの機体が海中から引き揚げられたのかも知れませんね。そんなことをいろいろ考えていると、根岸・磯子と言う場所は、昭和史を紐解くのに格好の場所のように思います。いろいろなお話をお伺いするに連れ、子供の頃のことを思い出すこともあり、考え出すとなかなか止まらなくなります。(笑)
          私は昭和27年の生れですから、丁度美味しい?時代を見ずに育ちました。見てはいたのかもしれませんが、小さ過ぎて記憶に残っていません。またいろいろなことを教えていただければ幸いです。小島伸一

  19. 森島勝 says:

    kojimaさん、知っていたら教えてください。磯子の「清掃・工業地帯でっぱり三本指地区」!?復元作業に関連して知りたいのですがよろしくお願いします。
     Q1:市電11番が走っていた通りのバス停「プールセンター前」(関東病     院の反対側の方です)真ん前の門塀が御影石と鉄のアートでできた家    がありますが、この家は芸術家のお宅ですか?小学生のころからすぐ    そばの釣り道具屋さんにゴカイ(ハゼ釣り用の餌)を買いに行く度に    鉄製のオブジェに見とれていました。特に、トンボのオブジェが大好    きでした。先日、磯子散歩して寄ってみたらまだ残っていました。素    敵だ。

     Q2:横浜日赤病院は、何処へ越したのでしょうか?
        子供のころは根岸台の崖下にあり、根岸の埋め立てが完成したころ根    岸線脇に引っ越したのですが、今その場所には県衛生看護専門学校に    なっていますね。

     Q3:旧柳下邸を建てた人はどんな人だったのですか

    以上、勝手なお願いですがご存知でしたらご教示ください。

    • cube-kojima says:

      すみません。ちょっと長くなります。

      Q1:
      関東病院前の、門塀が御影石と鉄のアートでできた家のこと
      A1:
      昭和9年の磯子の地図を見ると、現在の原町の辺りには建物が殆ど建っていません。ところがこの家はその地図に載っていますので、かなり昔からここにお住いだったのだろうと思います。
      ただ残念なことに、私はこの家にお住いの方のことを知りません。この家の並びには小学校の同級生の家が何件かありましたので、特別なお宅であれば何かしら話を聞いていると思いますが、全く記憶にありません。
      申し訳ございませんが、詳細不明です。

      Q2:
      横浜赤十字病院は何処へ
      A2:
      地元では「にっせき」と呼んでいました。
      小学校の指定医がここだった関係で、学校の健康診断には「にっせき」からお医者さんがやって来ていました。ツベルクリン検査は、学校から「にっせき」まで歩いて行き、そこで注射を打ち検査をしていました。これが陰性になるとBCGのお出ましとなり、また「にっせき」まで歩いて行き、注射を打たれる羽目になります。
      外耳炎とか「ものもらい」の治療にも、この病院に連れて行かれました。そんなこんなで、私にとってはあまり良い思い出はありません。

      この病院は1923年に開院し、その後1964年に中区根岸町に移転しました。この移転先には祖父が胃ガンで入院し、お世話になりました。その後、2005年に閉院し「横浜市立みなと赤十字病院」に機能を継承したそうです。この時に、横浜赤十字病院と言う名称は無くなり、跡地には看護専門学校が開設されました。「横浜市立みなと赤十字病院」は、昔、山下町にあったバンドホテルの前の道を、小港方面に向かった途中にあります。

      Q3:
      旧柳下邸を建てた人はどんな人だった
      A3:
      私も詳しくは知りません。
      このような建物があったこと自体、子供の頃は知りませんでした。
      灯台元暗しと言われるように、地元のことは意外に分かっていなかったのかも知れません。学校の友達の間でも、この家のことが話に出たことはありませんでした。学校帰りに寄り道をする時など、何十回となく前を通っているはずですが、ほとんど記憶に残っていません。

      資料を読みますと、この建物は横浜で金属の輸入業を営んでいた柳下家が、大正時代に建てたそうです。戦後も柳下家により大切に保存されて来たそうですが、1996年に横浜市の管轄となり、創建当時の姿に復元され「根岸なつかし公園旧柳下邸」として一般公開されたそうです。

      私が小学生の頃は、かなり寂れた状態だったのではないかと思います。
      当時は旧家と呼べる建物が点在していましたから、特別珍しい存在でもなかったように思います。

      ほとんど答えになっていませんね。
      このようにいざ尋ねられると、答えられないことがいっぱいあることが分りました。自分の記憶にある以外のことを掘り起こすとなると、結構労力が要りますね。

  20. 森島勝 says:

    こじまさん、無理なお願い、すいませんでした。日赤の移転、旧柳下邸のこと、よくわかりました。ありがとうございました。関東病院前の門塀のことは、近いうち磯子散歩をしますので調べてきます。判かったら、報告いたします。
    ●今日、こじまさんのサイト、すみからすみまで再読・再見しました。新しい発見があって感無量です。真照寺脇の細い道から山道をを登り切ったところの磯小校舎の写真。小6のとき、担任の石井先生が急遽休まれて自由時間になり、原因は忘れましたがクラス内で口論となり、男子生徒20人ほどが怒って、写真の場所へエスケープ。残った私たち生徒30人くらいが、写真に写っている2階の窓から「戻って、こ~い!」(ほとんどが女子でしたが)と怒鳴った事件を思い出しました。結局、学校側には知られず、事件は、うやむや解決しましたが。写真では、山頂が宅地開発されているようですが、当時は、背の低い竹と少し大きめの松の木が数本ありました。この先、尾根伝いに行くと光り輝く根岸湾を見ながら、プリンスホテルそばの第一広場・第二広場に行けました。素晴らしい、楽しいコースでした。
    ●磯小正門前の室の木・浜マーケットへ下る細い道の写真、よく見つけましたね。道に入ってすぐにあった橋、私の記憶からは少し変化していますが、懐かしい。橋の周りには、大きな木が何本かあって、この間だけ山道のようでした。台風の時など、ものすごい勢いで水が流れ、この時ばかりは橋を渡るのが怖かったです。この近くに、禅馬川が暗渠から地上に出る場所があり、それを見ることができました。この後、川は、浜マーケットを下って左側、杉野文房具店の裏あたりをカーブして流れ(この辺りに、こじまさんが話していた屋敷が川の脇2,3メートルの崖の上にありました。この場所は、マーケットの中ほどのところ、左脇に入ると見ることができました)、16号の暗渠をくぐって、日発正門脇の小さな砂浜から根岸湾に流れ込んでいました。
    ●マーケット内の駄菓子屋さんでのテレビ相撲放送視聴、店の入り口の大きな桶に入っていた小島屋さんの元気なドジョウ、16号側から入ってすぐの右側にあった古本屋さん、出てすぐの禅馬川の上にあった喫茶店覗き(同級生がいた)、浜書房の立ち読み、さらに八幡橋方面にゆくと、警察署の向かいにあった小川ベーカリーのおいしそうなパンの匂い、などなど思い出します。
    ●パチンコ「テキサス」の話がありましたが、この隣に平屋で野澤屋の数少ないプチデパート「入九ストア」がありました。のちに、汐見台団地にも出店したと聞きました。
    ●長々とすいませんでした。このサイトにある写真を見ると、海岸部は、完膚なきまでに景観が変わってしまいましたが、丘陵部は随分あとまで昭和20、30年代の景観を残していたのですね。新発見です。こじまさん、ありがとうございました。

    • cube-kojima says:

      森島様
      度重なるコメントをいただき、ありがとうございます。
      また、磯子小学校時代の思い出もご紹介いただき、ありがとうございます。
      この真照寺脇の広場の写真ですが、子供の頃、磯子にお住まいだったKさんから提供していただいたものです。
      Kさんと、ご友人のTさんが、昭和30年代の磯子の資料を作ろうと活動している時に、このブログを通じて知り合いました。
      Kさん、Tさんは、磯子小学校の卒業生で、森島様の後輩に当る方達です。
      室の木公園、磯子産業道路、そしてブドウ園の写真は、Kさんからご提供いただいたものです。
      お二人は私よりお若く、実家が浜マーケットの近くだったそうですので、森島様をご存知かもしれませんね。
      この写真をいただいてから3年近くが過ぎようとしていますが、もうそろそろ資料の方もまとまっているのではないかと思います。

      ブログに記しましたとおり、私も小さな頃、両親と何度となく磯子の山歩きをしました。
      1958~60年頃の話ですが、その頃、山の頂からは「光り輝く根岸湾」が見えたはずですよね。
      残念なことに、何も記憶に残っていません。
      山歩きの帰りは、間坂の急坂を下って電車道に出て、市電に乗って帰ったと思いますので、途中途中で磯子の海が見えた筈です。
      しかし、それも記憶に残っていません。
      あの頃、子供心に何を考えていたのか忘れましたが、自分の周りの出来事を憶えていないのは何とも残念な気がします。

      台風の後の禅馬川は、様々な大きさの金魚や鯉が泳いでいて、子供の間では金魚すくい騒動が起きたようです。
      実際に子供が捕まえたのは少しだったらしいのですが、そのまま海に出たら死んでしまいますから、誰かがどうにかしたのだろうと思います。
      私も、こんな経験を2度ほどした憶えがあります。
      岡村の金魚池から流れてきたと言うのが通説でしたが、本当はどうなのか誰も知りませんでした。
      この頃の記憶は、一つの場面を切り取ったようなものが多く、しかし事の顛末はすっかり忘れているので、辻褄が合わないことがよくあります。
      物の資料を読むと、自分の記憶と実際の時間に、随分ずれがあることもよくあります。
      細いことは忘れちゃっていますから、こんなこともありかなと思っています。

      磯子と言えば、小さな頃、浜にあった?映画館で「四谷怪談」を見たことがあります。
      時代劇ではなく現代の話だったのですが、タクシーに乗った女性が「お岩さん」になり、後の席からヌッと出て来る場面がありました。
      それを見た時は本当に怖くて、何日かの間、夜のトイレに行くことができませんでした。
      それとは別に、そこではよく時代劇も見ました。
      「鞍馬天狗・眠狂四朗」などが定番だったと思います。
      勿論、親に連れられて見に行くのですが、同じようなストーリー展開ですから、時間が経つと退屈して「早く終わらないかな」と思うこともしばしばありました。
      「お岩さん」の時は、別の意味で「早く終れ!」と念じていたと思います。
      今も時々考えるのですが、磯子の映画館は何処にあったかご存知でしょうか?
      浜マーケットを過ぎたあたりで16号線を向こう側に渡り、海に向かう路地を入ったどこかにあったように思うのですが・・・。
      その路地の角には、家具屋さんか、布団屋さんがあったかなぁと、朧気に憶えています。
      この映画館に行くのは、母の実家に泊まりに行った時でした。

      浜マーケットのお店で覚えているのは、「旭屋さん」と言ったかもしれませんが、中頃にあった靴屋さんです。
      それとマーケットの入り口にあったお肉屋さん。ここの真っ赤なチャーシューの味は、今も懐かしく思い出します。
      あと、浜書房へはよく通いました。中学生の頃までは、いろいろな種類の本が置いてあるのは、ここしかありませんでした。
      ここで購入した何冊かの本は、今でもそのタイトルを鮮明に覚えています。
      あの頃、浜マーケットの周辺は本当に賑やかでしたね。夕方などは、歩道を行く人を縫いながら歩くような感じでしたから。

      それとイリクストアですが、確かに汐見台にありました。
      汐見苑と言うレストランの隣にありました。
      あと、私がこちら(栄区)に越して来た時にも、すぐそばの団地にイリクストアがありました。
      当時、イリクストアは結構な勢いで店舗を拡大していたのではないかと思います。
      ただやはりベットタウンの悲しさか、近隣住人が徐々に歳を取り、若い人たちが少なくなるに従って、地域のお店は活力を失っていきます。
      こちらにあったイリクストアも、いつも間にか店仕舞いしてしまいました。
      私が越して来た当時、若い人の数は決して少なくなかったと思いますが、今、親と同居して地域に留まっている人は少ないようです。
      私もその中の一人ですから、あまり人のことは言えませんね。
      このまま子供が減り続けと行くと、将来の日本が心配です。
      とは言え私の周りは、子供が2~3人居るお宅が多く、少しづつでも改善傾向にあるのかなと思っています。

      小島

      • 森島勝 says:

        こじまさん、お元気ですか。子どもが本当に少なくなり、また、町の商店街と個人商店の寂れようには悲しいものがあります。大資本のチェーン店とショッピングセンターの隆盛。もう止めようがないのですね。ガックリ!
        さて、浜マーケットそばの映画館は、「磯子?アテネ劇場」で間違いないと思います。ブレイクする前の美空ひばりが出演したという劇場ですが、マーケット入口斜め向かい側の16号に面した路地(突き当りは、行き止まり)を入ったところに劇場入口がありました。2年前に訪問した時は、まったく景観が変わっていて位置特定できませんでした。こじまさんの話に、映画館が出てきたのは、初めてですね。物心ついたときからテレビ黄金時代の世代で映画などあまり関心ないのかと思っていました。私たちは、紙芝居・貸本漫画に始まり街頭テレビ、映画などでビジュアル娯楽?を堪能しました。
        ●映画館ですが、当時は「封切館」「二流館」「三流館」というランクがあって、フィルムが一年間くらいかけて回っていたようです。で、三流館に来るとフィルムの傷で、スクリーンは雨降り状態。時々、フィルムが切れて中断。怒声と口笛催促がとびかいました。三流館は、三本立て30円が相場でした。封切映画は、ザキ(伊勢佐木町の愛称)へ行って見ました。
        私のテリトリーには、「磯子アテネ劇場」、市電根岸橋停留場そばの16号に面して「根岸座」が、また、四間道路を16号から入ってすぐに「根岸シネマ」がありました。杉田にも「杉田劇場」があったようですが、縄張り外なので詳しいことは分りません。いずれの劇場も三流館で、贔屓は根岸座。ほぼ、毎週日曜日には、弁当と30円持って3本立てを鑑賞。ほとんど一日映画館の中。(小学校低学年のころは、東映のチャンバラ(時代劇)映画・ゴジラ・ラドン・宇宙大戦争などの特撮もの。で、夏のお盆のころには、必ず怪談映画。お岩さん・化け猫などです。高学年になると、日活のアクション物。そして、中・高生になって洋画・西部劇になり、ザキの三流館めぐりとなりました)このころの映画館は、どこも子どもで満員。立ち見が、当たり前でした。赤胴鈴の助・少年探偵団のテーマ・ソング、画面と一体となって合唱?しました。

        「街頭テレビ」と「アテネ劇場」のこと、もう少し書きたいのですが長くなるので、またにします。こじまさんのおかげで、気力充実で「生地復元」、頑張っています。Kさん、Iさんのたちのクロニクル、完成が楽しみですね。

        • cube-kojima says:

          森島様
          浜の映画館のこと、謎が解けました。ありがとうございます。今までも時々思い出すのですが、どの辺りにあったのかしっかりとした記憶がありませんでした。磯子の山歩きも、親に連れて行ってもらったので、確かな記憶として残っていないのだろうと思います。
          このような断片的な記憶が数多くありますが、今までお聞きできる人も少なかったため、記憶が繋がらずにいました。幸いなことに森島様とお知り合いになれ、私の中の曖昧な記憶も、徐々に蘇るのではないかなと期待しています。
          映画館のお話を紹介していただきましたが、私も小学校3年生から4年生の頃に、「根岸座」には何回か行きました。「モスラ」や「ディズニー」などを見に行きましたが、すぐそばの「根岸シネマ」には行ったことはありませんでした。そう言えば、昔はよく「四間道路・疎開道路」の名前を聞きました。なつかしいですね。そうこうする内に、磯子界隈に映画館は無くなり、長じてからはもっぱら長者町の「ピカデリー」や馬車道の「東宝会館」に通っていました。ただ、入場料が高かったので、頻繁には行けませんでしたが。これらの映画館は、とっくの昔に無くなってしまいました。テレビの普及で映画を見る人が少なくなったからでしょうが、映画館のようなランドマーク的な建物が無くなるのは、凄く寂しい感じがしたものです。映画全盛の頃は、どの映画館も鈴なりの人でしたよね。立ち見が当たり前だった頃が懐かしいです。
          私が高校を卒業した次の年の1972年まで、市電が走っていました。市電に乗れば伊勢佐木町でも馬車道でも手軽に行けましたので、小学生の頃流行り始めたスロットカーを走らすために、頻繁に出掛けた思い出があります。本牧方面は中根岸3丁目の停留所から11系統で、伊勢佐木町方面は八幡橋から13系統または8系統に乗って出掛けました。市電も懐かしい思い出の一つです。
          テレビが我が家に来たのは、確か小学校1年生の頃だったと思います。しかし当時は、子供が見て面白い番組はほとんど無かったと思います。それから1~2年すると、「ポパイ・三バカ大将」を始めとするアメリカの番組や「少年ジェット・怪傑ハリマオ・ナショナルキッド」等の日本の番組が、怒涛のように増えて行きました。テレビが普及するまでは、紙芝居は私にとって貴重な楽しみのひとつでした。紙芝居が来る時は、何か特別な合図があったのでしょうか?。私は途中から見ることが多かったのですが、いつの間にか子供が集まっている光景は、大変不思議に思ったものです。
          それと貸本屋さんにも大変お世話になりました。特に八幡橋の中浜郵便局の並びにあった本屋さんには、週1回は通っていたと思います。毎週お小遣いで買えるのは少年マガジン等で、それ以上高い本は買うことができませんでしたから、専ら貸本屋さんで借りることが多かったです。あの頃よく借りていた単行本(マンガです)は、半分くらいが戦記物でした。その影響で「丸」などの写真雑誌や小学校高学年の頃は「ボーイズライフ」なども借りていた記憶があります。
          今思い返すと、あの頃の全てが懐かしく「昔は良かった」と感じます。ただその当時、本人はどのように感じていたのかと考えると、単なるノスタルジーなのではないかと言う気もしています。小学生の頃は、外国の、特にアメリカの情報が広がり始めた時でしたので、写真で見るような、未来的な生活に憧れていました。セントラルヒーティングやクーラーって何ぞや?などと考えていたような気がします。何と言っても、その頃日本人はまだまだ貧乏でしたから。

          • もりしま まさる says:

            こじまさん、ご無沙汰しています。お元気ですか。ここ2か月、野毛と磯子の図書館通い。様々な資料に出会え、記憶の訂正、甦り、新たな発見があり、わくわくドキドキの毎日でした。こじまさんの生地と違って、昔をしのばすよすがなど何もない磯子浜の埋立工場・貧民窟地帯ですが、昭和20、30年代の姿が徐々に見えてきて楽しいです。
             こじまさん関係では、根岸小の昭和14年ころの増築工事上棟式の宴会風景(根岸八幡がバックに写っています)や根岸飛行場の拡張工事の様子、戦後日航基地跡からイギリスまでの航空路に就航した根岸湾に浮かぶBOACのマーチン4発飛行艇などなど、ビックリするような写真が見つかりました。また、根中の記念誌の写真も貴重品ばかりで、よく集めて掲載しましたね。当時の記憶が甦ります。
             私も中学生のころから写真を始めました。ネガなど整理しないで実家に置きっぱなしでしたが、試しに紙焼きしたところカビなどなくきれいに仕上がりました。雪の日の亀のこ島上のブルトーザーや、建築中の掘割川を渡る根岸線の鉄橋を工事現場に入り込んで撮った写真など沢山あり、こんなものを撮影していたのかとビックリしています。
             整理がついたらこじまさんにもお見せします。
             こじまさんの新しいアーカイブ、楽しみにしています。

          • cube-kojima says:

            森島様
            こちらこそ、ご無沙汰しております。
            あちこちと、精力的に資料集めをされている由、大変羨ましく思います。
            大きな成果があったとのこと、どのような資料を発見されたのか、詳細を拝見できるのが楽しみです。
            また、最近復刻された古い写真も、是非拝見させていただきたいと思います。
            いや~楽しみです。ワクワクします。
            私もいっ時、カメラにはまっていた時期がありました。
            その頃は、八幡橋にあったカメラ屋さんに良く出入りしていて、現像・焼き付けセットまで揃えたのですが、何故か撮りためたネガがどこを探しても見つかりません。
            少し前?の記憶では、箱に一杯ネガが詰まっているのを見ているのですが、果たしてそれはいつの記憶だったのか・・・。(笑)
            何回か引っ越しをしていますので、その途中で行方不明になったと思われます。残念です。
            根岸線の施設工事の記憶としては、電車道から旧根岸水上飛行場に行く道の記憶があります。根岸線が通る以前は、真っ直ぐに伸びた道でしたが、線路との干渉を防ぐために高架下は深く掘り下げられました。
            線路の施設工事中は、その道への立ち入りは禁止されていましたので、工事の経過は分かりませんでした。いつの間にか高架ができていて、道路が掘り下げられていました。大雨が降ったら、ここはきっと池のようになるなと、子供心に思ったことを憶えています。
            現在のプールセンターが建っている辺りは、子供の頃の遊び場でしたから、周りの情景をいろいろと憶えています。しかし、それらは連続したものではありませんので、何歳頃のことかと考えると、途端に記憶が怪しくなります。
            当時の写真があったとしても、この怪しさは解決できないかも知れません。
            最近は、自分の中の思い出ですから、曖昧なままでも良いかなと考えるようになりました。
            子供の頃は、もっと沢山のことを経験している筈なのですが、歳と共に忘れて行きますね。
            逆に、鮮明な記憶ではないから、心地良いのかも知れませんが・・・。
            そんなワケで、今、何となくネタ切れ状態です。
            古い資料や写真を見れば、また思い出すこともあるのかも知れません。
            森島様の資料、いつか拝見できることを楽しみにしております。
            今日は風邪気味で集中力が無く、何かばらけた文章になってしまい申し訳ございません。

  21. snoopy says:

    はじめまして。横浜物語を検索中、cube-kojima さんの「私は1952年12月、横浜市磯子区の根岸に生まれました。」に遭遇しました。遭遇という表現は如何なものかとは思いますが、なかなか横浜根岸のサイトには出会うことはありません。写真と検索してもせいぜい明治頃の葉書くらいなものです。メジャーな土地柄ではないので当然でしょうが…そんな折、このサイトに出合い、根岸小学校の裏山の情景からはじまり、楽しんで拝見させていただきました。私も根岸小・根岸中の卒業で、cube-kojima さんより2学年上ですが、年を取ると数年の差はないのも当然、親しみが湧いてしまいました。根岸中の「菊友」を引っ張り出し、久しぶりにみて、ひとりにやけております。ガリ版刷りの懐かしさや全校生参加のアンケートは秀逸なものもありますが、やはり自分のものは気恥ずかしいものがあります(笑)あと生徒会に携わっていたので、本当に真面目なコメントをしている自分に出会えました。大笑いでした。
    それで、今は世捨て人みたいな生活をしていますが、お邪魔してしまいました。これ以上、書き連ねるとご迷惑をおかけしまうかもしれませんので、これにて失礼します。読み返すと、送信するのを戸惑ってしまいそうなので、誤字等や不愉快な思いをさせてしまいましたら、ご容赦願います。

    • cube-kojima says:

      snoopy様
      コメントをいただき、ありがとうございました。
      2学年上の先輩からコメントをいただき、大変嬉しく思います。
      根岸中学でのご活躍の様子には、身近に感じられるものがあります。
      生徒会に携わっておられたとの由ですので、私が新入生の頃は大変お世話になったと思います。
      あの頃からもう50年近くが経とうとしていますが、このような形でお目に掛れるのは何か不思議な感じがします。
      snoopy様は2学年上ですから、根岸中学が新校舎になって初めての新入生ですよね。
      私が2年後に入学した時は校舎こそ新しいものの、隣でマンモスプールの工事をしていたせいか、何となく雑然としているように感じられました。
      校庭も、整備中の箇所が多く残っていたように思います。
      私はテニス部に入ったのですが、そのような状況だったため、コート整備が日課となっていました。
      大きな石ころを掘り出したり、ローラーを引いたりの毎日でしたが、怖い先輩もおりませんでしたので、それなりに楽しくやっておりました。
      もう20年以上前になりますが、2回ほど根岸中学校の同窓会に出席したことがあります。
      男性は勿論ですが、女性も地元に残っている人が多かったのには驚きました。
      私は25歳の時に引っ越してしまったため、それ以降中学の同級生と会うことも無かったので、もの凄く懐かしく感じました。
      勿論、昔話に花が咲いたわけですが、結構バカなことをしていたんだなと改めて思いました。
      そんなバカなことも笑い話にしてしまえるところが、同級生の良いところなんでしょう。
      話は変わりますが、最近このブログに、私は記事を書いていません。
      記憶の断片は多くあるのですが、文章としてまとめられるような繋がりを思い出せずにおります。
      そんな拙いブログでも、皆様から暖かいコメントを多数頂戴し感謝の念に堪えません。
      またお時間がございましたら、懐かしいお話でもお聞かせ願えれば幸いです。
      ありがとうございました。

  22. snoopy says:

    cube-kojima さん、またお邪魔します。こちらこそ、よろしくお願いします。
    そうです。鉄筋4階建て校舎1期生です。入学式と何日間は旧校舎でした。根岸線騒音問題でモデル校舎となり、2学年?の時、何に使われたのかわかりませんが、たったひとり校庭でただボールを蹴るシーンの撮影に参加したのを覚えています。私は中学校の同窓会に出席したことはありません。羨ましいですね。「菊友」はお持ちですか?共通号は15号です。通信簿などは何度かの引っ越しで紛失しまったのですが、何故か3年分手元にあります。今も存続しているのかなぁ…
    私の記憶では、中学生の頃は順に近所の幼馴染・小学校時代の遊び友達・同級生・同学年・前後1学年のふれ合いが多かったと思います。クラブに入部すれば、その位置関係は自ずと変わっていくこととなりますが、その当時の1年と3年とは大きな差となっていました。cube-kojima さんはテニス部。当時にしてはハイカラさんですね。校舎と電車道にあった掘割を埋めて作ったコートを一生懸命均してた姿を覚えています。部員は少なかったのでは?3年生部員は誰だったか?私は何故入部したが定かではありませんが陸上部に入りました。当然、好きだった野球部に入るのが?(野球部はきついぞ!球拾いばかりだぞ!…などの噂があったのか。今となっては思い出せるはずはありません)足は速かったので、入ってしまった。それが真相でしょう。しかしながら、小学生の足の速いのは、3年の先輩方にはジョギンクの毛の生えた程度で軽くあしらわれてしまいました。3年の方の中には市内で有望な中距離ランナーがおりまして、不動下(階段)・間門(坂)まで、たまにcube-kojima さんの写真のもあった産業道路~磯子駅手前へのランニング、ついてゆくのがたいへんでした。校庭に帰ればしごき練習が待っており、座ってはいけない、水を飲んではいけないで(今では考えられませんが)学校へ行くのも苦痛に感じていました。ただ、その当時は簡単には部活はやめられない雰囲気もあったような気がしますが、どうにか辞めずに続けられたのは、顧問のO先生に相談したのか、これも定かではありません。原町に住まわれたとのこと、ひときわ大きかったS君は覚えているでしょうか?私は単距離で、彼は砲丸投げの選手でした。こんなことを書いたのは、1年生のcube-kojima さんが3年生の私のことを覚えてはいないのではと思ったからです。私にとって2学年上の記憶の方は、怖い部活の先輩と数名のみです。いずれ私の正体はコメントが続いていけば判明しますが(笑)
    今回は、小学校の遊びについて確認したいと思っています。(休み時間の)小学校では高学年でやっと校舎のへばりつき遊びから校庭をほぼ占有できる遊びができました。校庭には大きなクスノキが斜め対に立っていました。クスノキの前あたりの地面に棒か靴で線を引き、一方のクスノキと職員室・昇降口・池方面にゴムボールを遠投し、目印をタッチして戻るのが早いか、相手チームがノーバン(ノーバンド)でとるか、返球が早いか、というものでした。かなりの人数で行った記憶がありました。きっと先輩がやっていたのを受け継いだ遊びでしょう。cube-kojima さんもおやりになりましたか?
    あと、根岸山裏の小さい第二校庭では、女の子はゴムとびとしていました。男子は基地とり?(陣地とり?)で名前は定かではありませんが、2チームに分かれ、何重か円を描き、所々に膨らみを持たせた安全地帯?を作り、攻める側はうまく安全地帯を利用し、中心にある相手側の基地を攻めていきます。防御側は、手や体を使い相手を弾き飛ばします。私は相手の体当たり攻撃にあい腕を骨折したという苦い経験があります。
    あっ、cube-kojima さんは脱脂粉乳は大丈夫でしたか?私は苦手で頭が痛くなりました。たまにあったコーヒー入りは救いでした。給食は嫌いでランドセルは残したコッペパンと残飯で嫌なにおいを発してしまうこともありました。トイレ(その当時は便所)も当然溜めでしたので行くのを我慢することが多く、穴がいくつも空いていた大のほうは下側がかなり隙間があったか?仕切りがなかった?(cube-kojima さんの記憶はどうでしょうか?)そんな気がして何度か悪夢をみました。人間、嫌なことは印象に残るものですね。良いことも覚えていますが、得てして自慢話になってしまうこともありますので控えます(笑)
    いずれにしても根岸小裏山・106階段・坂下公園・市電・映画座(根岸座)・カメラ・車など興味深い話に目が留まりました。長くなってしまいましたので次回まで。?も多く今回も読み直しませんので誤字、不明瞭、ご不快はご容赦願います。

    • cube-kojima says:

      snoopy様
      コメントありがとうございます。同じ小・中学校だと、話がかなり具体的になりますね(笑)。
      中学校の入学時は旧校舎だったとの由ですが、当時未だ旧校舎が残っていたのですね。その頃私は小学校5年生だったのですが、当時の旧根岸中学の辺りがどのような感じだったのか記憶がありません。周りにビルが建ち始めたのはかなり後になってからだったと思うのですが、毎日のように見ていた割に覚えていません。あの頃は、そのようなことに興味が無かったのだと思います。
      テニス部のコートは水路を埋め立てた場所だったので、本当に石ころだらけでした。それまでも先輩方が整備されていたのですが、テニス部は人数が少なかったので追いつかなかったのでしょう。コート整備ばかりでは、誰でも嫌になりますものね。テニスコートの隣はバレーボール部のコートでしたが、バレー部の人達も石拾いをしていたように思います。
      そのようなわけで、入部したての頃はコート整備とランニングばかりしていた記憶があります。ランニングは校庭の周りを走るだけでしたが、結構きつかったことを覚えています。しかしそれも夏休みまでで、2学期に入ると3年生が部活に出て来なくなり、かなり楽な状況になりました。ハッキリした記憶はないのですが、2年生の先輩は少なかったのではないかと思います。女子部員の先輩も居た筈ですが記憶にありませんし・・・。そんな感じでしたので、当時のテニス部は校内で一番楽な運動クラブだったのではないかと思います。ただ、自分たちが実権を握った頃(笑)は下級生の部員も増えて、対外試合をしたり緑ヶ丘高校で指導を受けたりと、かなり積極的に部活動に励んでいました。
      そんなテニス部でしたが、私は入学直後に入部したわけではなく、野球部・剣道部などの見学を経て入部しました。要するに消去法です(笑)。野球部のグランド整備・玉拾い・ランニングはつまらなそうでしたし、剣道部は渡り廊下の屋上のコンクリートの上に正座とかしていましたので、とてもとても耐える自信がありませんでした。体操部・陸上部は元々興味が無かったので、テニス部くらいしか残っていませんでした。当時入部した新入生は10人近くいましたので、テニス部もそれなりに体裁が整いつつあったように思います。
      snoopy様は陸上部だったそうですが、同級生で陸上部と言うと、T君(長距離)・N君(短距離)のことを覚えています。実名を出せば、たぶんsnoopy様も覚えていらっしゃると思います。陸上部が校外ランニングを行っていたのは、良く覚えています。八幡橋の辺りで、何回も見たことがありました。
      snoopy様もお書きになられているように、上級生と知りあう機会はクラブ活動が主でした。下校してからは、仲の良い友達同士で遊ぶことが多かったので、年上・年下の人と知り合うチャンスは少なかったように思います。写真を見れば思い出すかも知れませんが、3年生の先輩方は殆ど分かりません。原町にお住まいだった巨漢で砲丸投げをしていた方のことですが、うっすらと覚えています。お名前をお聞きすれば、ハッキリすると思います。陸上部の先輩方は、市や県の大会で活躍されたと思いますので、お顔を拝見するかお名前を聞けば思い出せるかもしれません。普段意識していないものは、段々と記憶の深層に沈んで行き・・・何かミステリーじみていますが正にそんな感じです。
      生徒会の会報の名前が「菊友」だったと思いますが、探してみましたが残念ながら手元に残っていませんでした。人には見せたくない通信簿なら出て来ました。中学当時の物で手元に残っているのは、あまり多くありません。私も2度引っ越しをしていますので、その都度失われたものがあると思います。
      私は、中学の3年間はアマチュア無線に夢中になっていました。2年生になった頃、同級生の仲間とアマチュア無線クラブを作ろうと言う話になり、担任の先生に相談したり磯子工業高校のアマチュア無線クラブを訪問して話を聞いたりしたのですが、結局実現できないままになってしまいました。このことで、自分だけでなく他人を伴った活動をしようとすると、かなり苦労するなと感じたものです。snoopy様は生徒会の活動をされていたわけですから、いろいろなご苦労があったことと思います。
      今思い返してみると、中学校生活は素晴らしい思い出に満ちています。その時々の情景を思い出すと、もう50年近くが経っているとはとても思えません。人間の平均的な寿命からすれば50年と言う歳月はとても長いものでしょうけれど、そこに直ぐにでも戻れそうな気がするほど短いと感じてしまいます。鏡に自分の姿を写せば納得できる年数ではあるのですが、つくづく人間は幸せな生き物だと思います。
      小学校の頃の遊びについては、他の方からいただいたコメントに返事を書かせていただきましたが、校内では馬跳び・乃木さんは偉い人・遊具を使った遊び程度しか思い出せません。他にもいろいろとあったのでしょうけれど、気に入った遊びが無かったのだと思います。ドッジボール等のボール遊びは、休み時間は禁止だったと思います。下校時に校庭でよくドッジボールをしたことを覚えています。第2校庭には遊具が幾つかありましたが、表の校庭みたいに整備されているとは言い難く、体操の時間か何かに石拾いをさせられたような記憶があります。当時は舗装された道以外は、あちこちが結構デコボコでしたよね。
      小学校の時は、運動クラブと文化クラブの両方に入る規則がありました。運動クラブは体操クラブ、文化クラブは理科クラブでした。体操クラブは、あの木造の薄暗い体育館で、跳び箱とかマット運動とかをやらされました。全く面白くなかった記憶があります。理科クラブでは主に気象の観測をしていて、調理棟の傍にあった百葉箱で、気温や降水量の計測をしていました。運動会の時などに演奏を行う鼓笛隊や、時報や通知事項を流す放送クラブは何故か敷居が高く、一種の憧れでもありました。中学校でのことはともかく、小学校での出来事はたった数年の違いですが、さすがに苔が生しているような気がします。例の体育館で行われた学芸会や映画の映写会、そして卒業式など所々鮮明に覚えている場面がありますが、建物が古く暗かった影響か、記憶の中の光景は見事にセピア色です(笑)。
      長々と書いてしまいましたが、コメントをいただく度に思い出すことが多く、書けることは全部書いておこうと言う気持ちになります。読み難い部分が多かったことと思いますが、どうかご容赦ください。またコメントをいただけることを、楽しみにしております。

  23. snoopy says:

    cube-kojima さん、長いコメントありがとうございます。小学校の頃、「運動クラブと文化クラブの両方に入る規則がありました。」、「休み時間のボール遊びは禁止」との事。素晴らしい記憶力ですね。だとすれば、体育館で跳び箱とマット運動をした覚えがありますので、私も体操クラブだったのかなぁ?他にどんな運動クラブがあったのか、それらの記憶が全くありません。ボール遊びは放課後ということになりますか。クスノキを背にしての長馬跳びとドッジボールは思い出しました。よくやりました。しかしながら、私の小学校時代の一番の思い出は、トラウマにもなっている「便所」のことでした(笑)
    中学の陸上部は、校庭を軽くジョギングをして、体ほぐしのストレッチを全員で行い、あとは各自自主練習が基本でした。長距離部門は別メニューでしたが、私は、根岸線の電車とよく競争していました(笑)
    cube-kojima さんは、テニス部で「緑ヶ丘高校で指導に受けた」とありましたが、私の出身校です。高校も陸上部でしたが、中学の古傷が原因?で記録が伸びず、早い時期に退部してしまいました。
    あと、「菊友」の件ですが、共通号があり全員参加のアンケートがありますので、私の正体がすぐに判明すると思ったからです。cube-kojima さんのものらしきをピックアップしました。50年前のもので差し障りのないコメントかと思いますので、ご容赦ください。
    C組「テレビ」とは…S君 テレビったらテレビだヨ しつこいなホント
    D組「友だち」とは…N君 困っている時は互いに助け合い何でも話し合える人
              T君 どうせ友達を持つなら良い友達をもちたい
    この中にあれば、きっと、その頃の自分に出会えると思います(ニヤリ)
    坂下公園の駄菓子屋は「さかもと」でしたか。私も利用しましたが、近くに2件あった駄菓子屋のほうへよく行きました。公園では、小学校で遊んだボール投げと三角ベース+ワンバンベースが主な遊びでした。
    紙芝居も見ましたね。それから粘土を型にはめ色のついた粉を施し作品を作り、行商のおじさんに品評してもらい、それに応じた点数の紙をもらい、たまった点数で大きな型を貰える(高く売られている金粉・銀粉を使うと点数も高くなる)と、今でいう子供だましのも乗ってしまいました。時も忘れ良くきれいな夕日を迎え家路についた思い出があります。
    これからもcube-kojima さんがよろしければ記憶を辿りながら楽しみたいのと、ネタ切れになってしまうので今回はこれまで。ありがとうございました。

    • cube-kojima says:

      snoopy様
      またまたコメントをいただき、ありがとうございました。小学校の運動クラブは、他に何があったのか私も覚えていません。ただ、好きでもない体操クラブに入ったと言うことは、他にはもっと酷い(笑)運動クラブしかなかったのだと思います。小学校の休み時間のボール遊びは、確か私が3~4年生の頃に禁止になったと思います。あれだけの数の生徒が遊んでいましたので、ポール遊びは危なかったのかもしれません。そんなわけで、放課後のドッジボールはよくやりました。
      小学校のトイレのことは、私にとっても避けられない問題でした。臭いし何となく不気味だったので、落ち着いていられなかったような気がします。自慢ではありませんが、私は小学校の6年間を通じて、学校のトイレで「大」をしたことはありませんでした。そのせいかどうか、今もって便秘症です(笑)。
      snoopy様は緑ヶ丘高校に進学されたのですね。夏休みの中の1週間ほど、緑ヶ丘のテニスコートで先輩から指導を受けたことは、良い思い出になっています。私が2年生の時の話ですが、あれがあったから部活動も活発になり、積極的に他校との練習試合も行えるようになったのだと思います。そんなこともありましたので、できることなら私も緑に行きたかったのですが、ちょっと難しかったのですね。でも、私が進学した高校も、中々捨てたものではありませんでした。素晴らしき高校生活でした。
      「菊友」に書かれているコメントですが、私は1年C組でしたから、私が書いたものかも知れません。何を考えていたのかなぁ、あの頃は。私のものだとすれば、冗談のつもりで書いたのだと思いますが、忸怩たる思いがあります(汗)。でも、同級生の顔と共に、あの頃の情景が浮かんで来るような気がします。snoopy様の正体も、大いに気になります。
      当時の駄菓子屋と言えば、坂下公園そばの「さかもと」と中根岸町(後の西町)の「きんた」だったと思います。「きんた」は家も近くでしたから、毎日のように通っていました。金田さんと言うお宅だったので、「きんた」と呼んでいたのだと思います。子供は無邪気で良いですね。
      粘土に色の付いた粉をまぶしたことは覚えていますが、行商のおじさんによる品評は知りませんでした。ときどき小学校の帰り道の道端で、駄菓子やおもちゃを売っていた行商のおじさんが居ましたが、実はいろいろな仕掛けがあったのですね。余り興味が無かったので、行商のおじさんがどんな話を子供にしていたのかは知りませんでした。自分に興味の無いものには顔を突っ込まない性格なので、友達は知っているのに自分は知らないと言うことが往々にしてありました。そんなわけで、いまだに世間話が苦手です。
      小学校高学年の頃、原町に町内会館ができました。そこには卓球台があり、近所の子供の溜り場になりました。その常連の中には2~3歳くらい年上のお兄さんも居て、いろいろと教えてもらいました。年上の人との付き合いは、この時が初めてだったと思います。根岸中学の生徒ではなかったと思いますが、とても面倒見の良い大らかな性格の方でした。歳も近いですし、ひよっとしたらsnoopy様がご存じの方かもしれません。
      このように断片的なことは書けるのですが、1つの文章にしようと思うと、どうしてもネタ不足になります。ですから、皆様からコメントをいただけるのは、とても嬉しいことです。今後も、時間がある時に、気儘な感じでコメントをいただければ有り難いです。よろしくお願い致します。

  24. snoopy says:

    cube-kojima さん、またお邪魔します。私としてもとても懐かしい事柄ばかりですが、記憶のほうが曖昧で文章も断片的になってしまいます。お付き合いくださるcube-kojima さんに感謝しております。
    峰の話がありましたが、私は中学生の頃数名で大晦日の夜、聖天橋まで行き浜中?辺りを過ぎるともう山の中(現在は洋光台・港南台あたりにでしょうか)を懐中電灯片手に鎌倉を目指し歩きました。友の懐中電灯を奪い消して逃げ(いじめではなく)揶揄いながらトランジスターラジオに勇気づけられ真っ暗闇を進みました。天園までゆくと出店もありかなりの方がいたと思います。一気に下り鎌倉市内に出て、鎌倉宮に辿りつきます。大きな焚火があり暖を取り甘酒を飲み?…(何度か大晦日は同じことをしたと思いますが、それ以降の記憶がないのです。むなしいものです)八幡宮は混雑がひどく寄らなかったような?海方面のも行かなかったような?何をしたのか?帰路は?横須賀線で?全く思い出せません。その時の友とは連絡が取れませんので謎のままです。
    市電は八幡橋から睦橋あたりまで直線で交通量も少なく、勢いよく飛ばし車両も大きく横揺れ運転手のお尻も左右振られ進んでゆくのを思い出します。ザキ(伊勢佐木町、大人の真似をして格好つけてそういっていましたね)方面は吉野町三丁目?か睦橋?で乗り換えて行っていたような気がします。
    伊勢佐木町では野沢屋でおもちゃを買い(長者町五丁目付近のおもちゃ屋も)、不二家で甘いものが定番でした。不二家で思いだしましたが、カワイボクシングジム(当時)の会長が父の知り合いで、よく袋いっぱいにケーキの切れ端を持ってきてくれました。そんなものでも当時はとても美味しく感じられたものでした。
    あと五丁目近くのガンショップにもよく行きました。本物の拳銃?みたいで小遣いを貯めて買い、触っているだけで幸せでしたね。父が本業ではなく曙町に小さな洋食屋を経営しており、そこでのカレーライスを食べるのが楽しみで、未だにカレーが大好物です(笑)また、近くに遊技場がありお菓子をいっぱいもらえ喜んいたことも懐かしく思いだします。
    映画座(根岸座)は邦画でチャンバラでは終盤に御用提灯が出てくると満場一致の拍手が常でした。四間道路の根岸シネマは洋画が主で、後にはポルノばかり上映していたと思っています。
    なんだか私の記憶にあるものを箇条書きにしてしまい、訳のわからないものになり申し訳ありません。
    ただ、こうしていると様々な光景と友が浮かび上がってきます。どうしているのかなぁ。もうリタイアしているものも多いと思われ、人生そのものも終えてしまったものいるでしょう。今、自分にとって何が大切か?問われる年齢と時期に到達している感です。では、またの機会にしましょう。お元気で!

    • cube-kojima says:

      snoopy様
      だんだんと涼しくなって来ましたね。夏の終わりと言うのは、いつもうら寂しく感じます。昔日の思い出みたいなものが心の中に残っているのでしょう。

      今回もまたまた懐かしいお話をご紹介いただき、ありがとうございました。お正月に聖天橋から鎌倉まで歩かれたのですか?それはすごいですね。浜中の前を通り過ぎて栗木に出て、そこから峰の入口まで行き、円海山を経由して鎌倉に行かれたのですよね。結構な距離がありますよね。私が根岸から引っ越した先は、上郷市民の森の近くの住宅地でした。そのようなわけで、徒歩で自宅から鎌倉までのハイキングには何回か出掛けました。自宅から天園を経由して二階堂に出て、岐れ路近くのバス停からバスに乗って自宅に帰るコースでした。何れも子供連れでしたが、自宅を出てから岐れ路に出るまで2時間半近く掛った記憶があります。snoopy様が歩かれた距離は、私が歩いた時の距離の3倍以上あると思います。

      私は、徒歩による鎌倉詣は、高校を卒業した年の大晦日に行きました。snoopy様のご回想のように、私もその時の帰りの記憶が全くありません。その頃、私は未だ根岸に住んでいましたので、高校通学の時と同じコースで金沢八景まで行き、そこから徒歩で朝比奈峠を越えて鎌倉を目指しました。親しい友人と夫々の彼女の計4人で行ったのですが、大道を過ぎた辺りからずっと上り坂でしたから、十二所辺りの下り坂に差し掛かった頃には、いい加減疲れ果てていました。もともと長距離を歩くのは好きではなかったのですが、なぜ徒歩で行ったのか今となっては謎です。彼女の手前もありますので、疲れた素振りはできませんでしたが、幸いなことに高校の同級生が鎌倉の長谷に住んでいましたので、夜はそのお宅にお世話になることに決めていました。そんなこんなで、由比ヶ浜に着くなり近くのスナックで大騒ぎをして、その後はその友人の家にお邪魔して一夜を明かしました。未成年だと言うのに、全く何をしていたんでしょうね。そんな感じでしたから翌日の元旦は八幡様には行かず、海岸をブラブラしてから帰路につきました。初詣に行った筈なのに・・・。ただ、そこからどのように家に帰ったのか、全く記憶がありません。

      今から数年前に、その時のことを一緒に行った友人に確かめたことがあるのですが、歩きで鎌倉に行ったことも、彼女達のことも忘れていて、そんなことがあったのか?と言われました。その時、ひよっとして私はボケ始めていて、何か勘違いをしているのではないかと、大いに心配になった記憶があります(笑)。いろいろと話をする内に友人もその時のことを思い出したのですが、鎌倉ではお前達とは別行動だったと言われました。そう言われれば、鎌倉の友人の家にお世話になったのは、私と私の彼女の2人だけだったなと思い出しました。そして帰りも別々で、友人達2人は八幡様にお参りした後、バスで帰ったとのことでした。そんなに詳しく思い出せるなら忘れるなよ!と内心思いましたが、記憶と言うのは実に不思議なものですね。全く忘れていることでも、きっかけがあればいろいろと細かいことまで思い出せるみたいです。そんなわけで、自分達がどのように帰ったのかは、今もって謎のままです。あの時の彼女はどうしているかと時々思い出すことがありますが、それも古き良き思い出の一つです。

      未だ市電が健在だった頃、何処かに出掛ける時は私も常に市電を利用していました。バスは、高校の通学で乗るようになるまで、あまり利用したことはありませんでした。市電で伊勢佐木町に出掛ける時は、途中で乗り換えた記憶がありませんので、吉野町3丁目で曲がって長者町5丁目方面に行く路線があったのではないかと思います。睦橋で曲がる路線は浦舟町方面に行き、途中で浜松町方面と本町方面に分かれていました。浜松町方面に行く市電は、坂東橋経由で藤棚を経て青木橋の方まで行っていたようです。私の祖父が現役の頃は、この路線で浜松町まで通勤していました。もう50数年前の話です。そんなこんなで、長者町5丁目と浦舟町と言う名前は、小さな頃の記憶にしっかりと刻まれています。

      子供の頃、伊勢佐木町にはよく連れて行ってもらいました。野沢屋で買い物をして不二家で食事するのは、私の家も定番のコースでした。親戚の家が呉服屋をしていたので、伊勢佐木町に行った帰りは必ず立ち寄りました。そのお店はヘビ屋さんの隣にあり、両親が親戚の人と話をしている間、私と弟はヘビ屋さんやその近くのおもちゃ屋さんで遊んでいました。そのお店は随分前に人手に渡り、数年前に閉店しました。あと、横浜開港記念日のパレードは、必ず伊勢佐木町で見ました。何かと言うと伊勢佐木町に行く!と言うくらい、私たちの世代では買い物とレジャーを兼ね備えた場所でしたよね。野沢屋の屋上にあったミニ遊園地で遊んだ記憶もありますが、当時、遊園地と言えば野毛山遊園地でした。小さな頃、私にとっては伊勢佐木町と野毛山遊園地が2大イベント会場でした。

      その野毛山遊園地も、いつの間にか閉鎖してしまいましたが、小学校6年生になった頃に横浜ドリームランドが華々しく開園しました。開園後暫くしてから、何回か連れて行ってもらいましたが、何せ戸塚の山の中にありましたから、根岸からは無茶苦茶遠いところのような気がしました。ですからドリームランドに着いた頃にはもうクタクタで、何かに乗るよりも飲み食いが先だったような記憶があります。ドリームランドを始めとして、東京オリンピックを境に、急にいろいろなものが身の回りに出現し始めました。小さな頃の何となく貧しく侘しかった記憶が、徐々に薄れ始めたのはちょうどこの頃、中学1年生の頃だったかなと言う気がします。

      私も根岸座にはよく行きました。特に怪獣映画が好きで、モスラやゴジラは必ず見ていました。モスラでザ・ピーナッツが小人の姉妹を演じていましたが、何故か強烈な印象として記憶の中に残っています。また当時のマンガで、比較的マイナーな存在でしたが「ストップ・ザ・兄ちゃん」と言う題名のものを覚えています。ハチャメチャな兄の活躍を、弟の視点から見た情景を描いたマンガでしたが、私は大ファンでした。
      私の記憶もこのように断片的なものが多く、時間軸での夫々の繋がりが不明なため、ブログの記事にできないでおります。しかし、皆様からいろいろなコメントをいただく度に、忘れていた事を1つ2つと思い出しますので、その内に、断片的だった記憶が繋がるかもしれないと感じています。
      またまた長文となってしまい申し訳ございません。
      天候が落ち着かない毎日ですが、どうぞお体をご自愛ください。それでは、またよろしくお願い致します。

  25. snoopy says:

    cube-kojima さん、高校を卒業した年の大晦日の鎌倉初詣、ごちそうさまです(笑)今の奥様ではなかったのですね。青春の一ページの大切な思い出ですね。cube-kojima さんにとっては、「あの時の彼女は?」は「ただ通り過ぎた女のひとりよ」、だっだりして。これは失言ですね。悪しからず。以前、私は由比ガ浜と長谷に約25年住んでおりました。こうして芋ずる式に懐かしの地名が出現してきますとcube-kojima さんが旧友の一人とお話ししているように思えてきました(笑)私のダブルデートは小学校5,6年の紅葉坂にある県立青少年センターでした。当時としては目新しいものに出会えたり、ウィーン少年合唱団(映画?)を聴きに行ったりしていました。早熟っくー。私は小学校6年間一緒だったその女の子(初恋?)が好きだったのですが、当然幼かった自分には思いは告げられず、私立の女子中学に進学してしまった彼女の影を追って切ない時期を暫く引きずっていました。女の子は原町に住んでおりました。あと音楽堂は音響効果がよいとの評判で、青年期何度かジャズコンサートで足を運びました。こう綴っていると紅葉坂にはかなり思い入れがあるようです。1973頃、市教育会館で行われたヤマハ・ポプコンに参加していた元カノのラストコンサートにギャランGTOで駆けつけ、駐車するところがわかわず、真っ暗闇の路地でダッシュボードと睨めっこ。数分間の歌う彼女の姿を胸にとどめ去りました。後日、そのコンサートの模様がレコードになったことを友人伝えに聞きザキのヤマハで購入しました。なんとセンチなお話でしょうか(笑)
    ギャランGTOが出てきましたが、はずれだったのでしょうかエンストばかりしていて、cube-kojima さんのような遠出は考えられませんでした。そもそも、当時そのような発想は私にはなかったようです。cube-kojima さんは相当のカーマニアでらっしゃるご様子。愛車との写真が数多く記載され楽しませていただきました。特に平等院の駐車場で撮ったもの(ナショナルのバンが脇にあるのがよい、そして長髪のキメポーズ、グッド!)と海老名インターに集うヨーロッパ、富士をバックのエランは秀逸ですね。羨ましい限りです。私には残っていません。父は、戦後はBMWとハレーを乗り回し、1958年頃にはオペルオリンピアレコルトを購入していました。古い写真が残っており、過日ミニカーを購入しました。マニアックなもの?で小さくとも高く感じられました。それをきっかけに乗り継いできた車のミニカーを集めたりしました。cube-kojima さんは、覚えていらしゃるでしょうか。坂下橋から磯子橋の川沿いにバルコムのディーラーがありました。1973年前後だったと思うのですが当時BMWがあのような場所にショールームができビックリしました。ましてそこで父がBMW3.0CSを購入(私は車に詳しくないのでアメ車より地味で見栄えもしないのに何故そんなに高いのか、わかりませんでした)してしまいました。その後、ちびっ子カメラマンも交え懐かしのスーパーカーブームが訪れるのですね。そんな車もほとんど乗らず3、4年で手放してしまいました。この車はスイス人のデザイナーの作?(契約切れで更新されず3.0シリーズ以降はあまり好きではありません)で今思えばフォルムが素敵に思えてなりません。しかしながら、残念なことに写真は1枚も残っておりません。cube-kojima さんはポルシェにも長く乗られていますが、私は75年頃のものが好きで一度は乗ってみたいと思っていましたが夢叶わずでした。車に詳しいcube-kojima さんとは話は合わないと思いますので今日はここまで。いつも断片的で自己満足的な文章になってしまい申し訳ありません。今回もお付き合い下さり、ありがとうございました。

    • cube-kojima says:

      snoopy様
      こんにちは。素敵なお話をありがとうございます。
      何からご返事差し上げれば良いのか、今回も盛り沢山な内容ですね。先ず、女性のお話から。
      「私のダブルデートは小学校5,6年の紅葉坂にある県立青少年センターでした」との由、やはり緑ヶ丘高校に進まれた方だけあって、小学生の頃からクールだったんですね。
      私の同級生にも緑ヶ丘に進まれた方は何人も居ましたが、彼らに共通していたのは「真面目」なだけではなく、非常に「センスが良い」と言うことでした。
      お目当ての女の子は原町に住んでいたとか・・・誰だろう?
      ヤマハ・ポプコンに参加していた元カノのお話は、実に切ないですね。私にも、snoopy様のお話に似た経験があります。そんな切なさは何れ癒されるものですが、その最中は正に悲劇の主人公を地で行くような感じです。歳を取ると、そのような切なさからは解放されます。それが歳をとることの、唯一の救いと言えるのかも知れません。(悲)

      私も「青少年センター」には良く行きましたが、目的はもっと幼稚なものでした。折しもラジオに興味を持ち始めた頃でしたから、もの珍しい展示を眺めては、こんなものが実現するのだろうかと考えていました。それから50年後、当時の殆どの展示内容は実現されています。鉄道関係や宇宙関係は、実際の現実の方がよほど高度ですから、科学技術の進歩には本当に驚きます。余談ですが、私が小学校5・6年生の時、青少年センターの館長をされていた方の娘さんと同級生でした。坂下町の根岸市場の傍にお宅があり、何度か遊びに行った記憶があります。彼女には綺麗なお姉さんがいましたので、ひょっとしたらsnoopy様もご存じかも知れません。
      女の子に告白できなくて辛い思いをしたのは、私の場合は高校生の時でした。高校生活の思い出の半分は、彼女への思いに溢れています。なぜか口に出せないまま卒業してしまいましたが、美しい思い出だけが残っていますので、それはそれで良かったのだと思っています。ちなみに、鎌倉に初詣に行った彼女とは何もありませんでしたよ。その後暫くして、自然にフェードアウトしました。(笑)

      snoopy様は ギャランGTO にお乗りだったんですね。カッコ良かったですよね。当時は、いろいろと楽しい車がありましたね。私も一時 GTO-MR が欲しくて、真剣に金策に走ったことがありました。ただ、当時の私にとってはあまりにも高価でした。そうこうしている内に生産中止になり、その後暫くしてエランを買いました。ギャランGTO のあの形は、その後の スタリオン まで続く、息の長い傑作だったと思います。中里町の近くで、今も スタリオン に乗られている方が居ます。べレットGTR も最近見かけましたが、あの頃の車って本当に好きです。今、車を持っていませんので、いろいろと物色しています。現在最も欲しい車は Alfa Romeo 2000GTV です。若かった頃は、何となく物足りなくて購入するには至りませんでしたが、今は欲しい車のトップです。次点は TRIUMPH TR-4A ですね。若い頃に気になっていたのですが、性能が大したこと無かったため買わなかった車達です。ただ程度の良いものが無い!のが欠点です。なぜ国産の新車に目が行かないのか、生涯直ることのない病気なんでしょうね。

      snoopy様のお父上は、マニアと言うよりはエンスーですよね。筋金入りの。掘割川沿いのバルコム、覚えています。そこでお父様は 3.0CS をお買いになられたんですね。もうウワーと言う言葉しか出ません。私がBMWで好きな車種は、3.0CS、2002turbo、そしてちょっと外れますが ALPINA C1 2.3 の3車種です。あまりお乗りになられなかったとの由ですが、3.0CS を新車で買う経験をされた方は、そう多くはなかった筈です。私の父が勤めていた会社の社長令嬢が、そこで 2002turbo を買いました。何回か見せていただきましたが、品質・性能共にずば抜けていました。1975年頃だったと思いますが、当時の国産車では相手にならなかったと思います。3.0CS は現在の目で見ても、すごくスタイリッシュです。あのフォルムは、その後の630シリーズ等に影響を与えました。BMWの中で、私が一番好きな形です。

      スーパーカーブームの頃、私は一時その渦中にいたことがあります。勿論、スーパーカーを持っていた訳ではなく、スーパーカー展示のお手伝いをしていました。昔、ヨーロッパに乗っていた方々が、次第にスーパーカーの世界に足を踏み込んで行き、そんなご縁でお手伝いをしていたのです。現在、車の雑誌等に顔を出されている数名の方が、当時、ヨーロッパに乗っていました。ブログに掲載したヨーロッパ軍団?の中にも、そのような方が何人かいます。正確な日付は忘れましたが、旧横浜プリンスホテルの中庭でスーパーカーの展示会が開かれたことがあります。車を中庭に搬入するには側溝を乗り越える必要がありましたので、長い板を渡してその上を誘導していました。その時に新車の FERRARI 365GT BB が参加していましたが、その緻密なエンジンの回転音に感激した思い出があります。現在のように世界中の高性能車が溢れている時代と違い、当時はFERRARI、MASERATI、LAMBORGHINI等の高性能車は珍しい時代でしたから、そのような車達に間近で触れる機会があっただけでも幸せでした。今となっては、私の中でスーパーカーはどうでも良い存在になりましたが、一時、Dino 246GT を買おうと計画したことがありました。もう少しで何とかなりそうな状況になった時、突然かなりな値上がりがあり、思いを遂げられませんでした。しかし、それで良かったのでしょう。貴重な車を維持するのは、それなりの労力と費用が必要ですから、分相応であることが肝要と考えるこの頃です。(笑)車の話を書くと切りがありませんので、ここらで止めようと思います。

      snoopy様は、以前長谷にお住まいだったんですね。私の友人の家は、長谷の踏切を渡って海に向かう道の左側にありました。衣料品店をしていましたので、夏は水着で溢れていました。由比ヶ浜までは、彼の家から歩いて1~2分でした。高校生の頃の夏休みは、オートバイで彼の家に行き、水着に着替えてそのまま由比ヶ浜に行って泳ぎました。高3の夏は、由比ヶ浜の海水浴場にショッキングブルーの「ビーナス」が流れていたのを鮮明に覚えています。当時、由比ヶ浜の向かいの道路沿いに「サッポロ」と言うスナックがありました。そこの店主が札幌出身だったので、そのような名前になったとか・・・。鎌倉に行く度にそこに寄り、「ホットコーラ」なるものを良く飲んでいました。ジュークボックスで好きな音楽を聞きながら、テーブルに腰掛けて海を見るのがお決まりのスタイルになっていました。鎌倉の初詣の時に大騒ぎをしたのは、このスナックでした。遊びの話ばかりですので、勉強はしなかったのかい?と言われそうですが、それなりにしっかりとやっていました。ただ、深夜番組を聞きながらのことも多かったので、果たして身になっていたか疑問ではあります。オートバイに乗っていた頃の話もいろいろとあるのですが、snoopy様がご興味が無いといけませんので、書かないでおこうと思います。

      今回も長文で失礼しました。また、よろしくお願い致します。

  26. snoopy says:

    cube-kojima さんの凄まじい記憶力に感服しております。私も知能検査?知能テスト?なるものを小学校か?中学校?で受けたことがあり?信じられない?すごく高い評価をされた?……夢を見ているかものような記憶ですが…そんな私(エッヘン。。。時々自慢が入ります(笑))がうろ覚えの事柄をかなり鮮明にまとめられています。素晴らしいことです。記憶は人それぞれ、生活の場違い、心の持ちようでも、過去のものは追いやってしまう方や忘れてしまったまたは忘れてしまいたい方、様々だと思っております。こうしてご縁がありcube-kojima さんと巡り会い交信をしているとcube-kojima さんのひととなりとこれまで歩まれてきた良き人生に思いを馳せ、そのような方とご一緒できるひとときに幸せを感じています。ありがとうございます。
    「青少年センターの館長をされていた方の娘さんと同級生でした。坂下町の根岸市場の傍にお宅があり、」は敷地が大きな三角形で、市場よりには米屋・薬局があり、三角の先端には小さな蕎麦屋(田中屋?)その前は銭湯があったお宅ですか?名のある方のお住まいだと記憶していて私も遊びに?行き、縁側に腰を掛けた…???後はロッキード事件ではありませんが「記憶にございません」(笑)根岸市場はその当時は下町で、のちに坂下公園近くに移転。1993年頃廃止になりました。実は、父がそこで商いをしていました。私の正体がバレバレ。同級生だったら誰も知らない?「原町の女の子」もきっと判明してしまうでしょう(笑) cube-kojima さんのブログに辿りつけばの話ですが…青少年センターは1962年開館で、当時学級委員をやっていた4人で行った(招待?)のが最初だったような気がします。ダブルデートではなかった?少しずつ記憶は手繰り寄せることもできるのですが曖昧ですね。ただ、その後も恋多き私は、「切なさは何れ癒されるもの~切なさからは解放され」とありましたが、私の場合は情けないですが引きずっているかのようです。
    Alfa Romeo 2000GTVですか。フォルムが3.OCSと同じ匂いがします。ドキドキしてきます。乗ってみたいですが、ポルシェ同様無理な気がします。私には、体力・気力・財力、もうすべてで白旗です(笑)cube-kojima さんにお任せします。もう亡くなってから大分経ちますが、父はエンスーではなく(笑)、戦時中戦車隊だったので、ただ大きなもの、人とは違うビックリさせるものが単に好きだったような気がします。人には負けまいという気性は戦争体験者には多い気がします。青春時代がなかった分、生き残った人生を懸命に生き駆け足で逝ってしまったような気がします。今思えば複雑な気持ちで何も言えませんね。湿った話でスミマセン。
    どのあたりが忘れましたが、磯子の紹介?で寺田透氏のお名前が出てきましたね。氏の娘さんとは緑高で同級でした。目がクリクリした、如何にもお嬢さんという雰囲気を醸し出していました。話はまた飛びますが、矢作俊彦はご存知ですか。横浜の昔を懐かしむということで私が愛読している?横浜に縁の深い作家です。再読したのですが、ハードボイルドで「マイク・ハマーの伝言」では、首都高と本牧が舞台でcube-kojima さんのお好きな車の話も頻繁に出てきます。難解部分がありますが、かっこよく楽しめます(笑) 「リンゴォ・キッドの休日」は、私たちの横須賀がど真ん中のストーリーが堪りません。辻原登著「寂しい丘で狩りをする」にも根岸競馬場跡辺りと…(失念)が、三島由紀夫の「午後の曳航」は横浜山手・元町・杉田と身近に感じ思い入れもひとしおです。cube-kojima さんの横浜のお勧めは何でしょう?
    根岸中の校舎の写真はお持ちでしょうか?私は、実家から離れるとき、結婚したとき、何度か引越しをしたときとその度ごとに思い出の品を失ってしまいました。その時は何も感じなかったことも、今となっては後悔先に立たずです。我らは断捨離の時期に突入しているのですが、私のようなものは何故かその流れの逆らうように過ごしています。きっとあまい軟弱な人間なのでしょうね。ちょっと暗くなってしまいましたので、今日はここまで。お付き合いありがとうございました。

    • cube-kojima says:

      snoopy様
      突然寒くなったり暑くなったりして、体調悪しです。前日より6℃近く低くなったり、そうかと思うと夕方から気温が上がり、夏場と同じ格好で過ごしたりしています。例年のこととは言え春秋は気候に翻弄され、スッキリしない日が多いです。
      私の記憶力なんて、大したことはありません。自分の好きだったことだけは明確に思い出せますが、そうではない事柄は忘却の彼方です。世間話が苦手だったこともあり、普通は知っているよね、と言うことを知らないことも多々ありました。ですから女の子と話をするのは、どちらかと言えば苦手でした。小学校の頃の記憶は殆どが断片的なもので、時系列上の繋がりが曖昧なことが多いです。ですからsnoopy様を始め皆様からコメントをいただく度に、パズルのピースが1つ2つと埋まって行くような気がします。
      坂下町のお宅のことですが、そうです、あの三角形の土地に住んでおられた方です。根岸市場へ行く路地が、ちょうど下町と坂下町の境界になっていましたね。やはり、snoopy様も訪問されていたのですね。お姉さんと同級生だったのでしょうか?
      根岸市場が坂下町に移転したのは、いつ頃だったのでしょう?私は1977年の年末に戸塚に越してしまいましたので、それ以降の根岸の移り変わりが分かっておりません。確か、火事で焼失した後、再開されずに閉鎖されたのでしたよね。お父様がご商売をされていたとの由ですが、火事の時は大丈夫だったのでしょうか。私があのまま根岸に住んでいたら、もうsnoopy様の正体は分かっていたでしょうね。しかし、原町の憧れの彼女のことが謎です。原町はそんなに広くないですよね。私より2歳年上の女性と言うと、はて、誰だろうなぁ。一軒一軒思いをめぐらせても、出て来ません。全てのお宅を知っているわけではありませんから、当り前ですね(笑)。「切なさは何れ癒されるもの」と書きましたが、私も憧れの彼女のことを忘れてしまったわけではありませんから、思い出せば胸キュンになります。思い出す時の彼女は当時の姿のままですから、余計にややこしい感情になります。ですから逆に言えば、このまま会うことも無い方が良いのだろうと思っています(爆)。
      お父様のお話は、胸に迫るものがあります。私も母を、昨年の11月に突然亡くしました。家を出てから忙しさにかまけて、あまり実家には戻りませんでしたが、もう少しいろいろと気遣ってあげれば良かったと思っています。小さかった頃の、母と一緒に写っている写真を見ると、親孝行できなかったなぁと言う悔恨の念が湧きます。幸いなことに父親は元気ですから、近いうちに実家に行き、昔話でも聞いてこようと思います。
      お父様の車好きは、やはり機械物に接していた時期があったからなのですね。戦後の早い時期に自分の車を乗り回しておられたのですから、やはり普通ではありませんよね。それなりの財力や知力がないと、とてもそのようには行かなかった筈です。それを実現してしまうと言うことは、やはりエンスーなんだと思います。私はどちらかと言えば、そのような生き方に憧れますね(笑)。
      snoopy様は、本を良く読まれているのですね。以前コメントをいただいたZEPHER様も、本を良く読まれているようです。皆様の探究心には、頭が下がる思いがします。数ある本の中から、根岸・磯子・横浜について書かれているものを探すなんてことは、私にはできません。私も本は読む方だと思っていますが、その殆どが小説です。エッセイは、どちらかと言えばあまり手に取る方ではありません。ですから、そのような本を探すことができないのだと思います。世間話が苦手なのが影響しているのでしょう。このような体たらくですから、snoopy様にご紹介できる本は残念ながらありません(泣)。ご紹介いただいた本を買って、読んでみたいと思います。
      寺田透氏の娘さんと緑高で同級だったとの由。学生時代は、そのようないろいろなことが普通にありましたから、楽しかったですよね。誰に気兼ねすることもありませんでしたから。高校の時の同級生と、毎年暮れに忘年会を行っています。男女合わせて20人に満たないこともありますが、お互いに健康を確かめ合うような年齢になってしまいました。ここ数年、私は参加していませんが、今のところ皆元気のようです。私の嫁さんは高校の同級生ですから、家の中でも時々、昔話に花を咲かせています。いや、しかし、女性は元気ですね。もう敵いません(笑)。
      中学校の時の写真ですが、残念ながら校舎を写したものはありませんでした。私の時の卒業アルバムに校舎全景が写っていますが、snoopy様の卒業アルバムには写っていませんか?。必要でしたら、コピーしますよ。
      ああ、もうこんな時間ですね。午前1時!、そろそろ失礼します。またよろしくお願い致します。

  27. snoopy says:

    cube-kojima さんとの毎週の長文のやり取り、こんなにハマってしまうとは思いませんでした(笑)
    二年後輩の方とこんなにも親しく語り合えるとは思ってもいませんでした。寧ろ人とはなるべく接することを避けていたくらいでしたので、不思議なものです。ブログを拝見しながら、きっとcube-kojima さんのお人柄に惹かれたのだと思います。ありがとうございます。昔日の日々をご一緒に心に刻むように振り返ることができましたこと感謝しております。私のことは根岸中の生徒会役員(総務赤十字委員長・HR委員長)・陸上部短距離・根岸市場・緑高で同級生の方ならわかってしまうと思います。しかしながら、私も二年先輩のことは、ほとんど記憶にありませんので、cube-kojima さんがご存じないのも当然です。このまま調子に乗って続けていると個人名が出てきそうなので、この場では潮時かなと思い始めています。
    根岸中の校舎の写真は、卒業アルバムにグランドからの全景(正確には4階建て側がメイン)がありました。その他、陸上部メンバーの集合写真や修学旅行の夕餉の情景(ひとりサスペンダーをしているやはりキザだった自分?に偶然巡り会えビックリしました(笑)の写真もあり、お教えいただき改めて感謝しています。差し障りのない場合は、たまにコメントをさせていただきますが、その折は、よろしくお願いいたします。何かありましたらブログ登録時のメールアドレスにご連絡いただければ幸甚かと存じます。一方的で申し訳ありませんが、お付き合いいただき重ねて感謝申し上げます。ありがとうございました。
    寒暖の差があり、すでにインフルエンザの流行の兆しがみえるようです。どうぞご自愛くださりますよう…お元気で!

    • cube-kojima says:

      snoopy様
      こちらこそ、楽しいひと時を過ごせましたこと、感謝申し上げます。
      数十年の時を経て昔のことをお話できるなどと、ブログを始めた当初は予期しておりませんでした。
      単に自分の防備録のような感じで書き始めたのですが、皆様から様々なコメントをいただけたのは望外の喜びでした。
      新しい記事は久しく掲載していませんが、まだまだこのブログは続けるつもりでおります。
      私の記事はさて置き、皆様のコメントには大変貴重な情報が記されております。
      それをお読みいただくためだけでも、ブログを続ける価値があると思っています。
      また、ご紹介いただける事柄がございましたら、是非、コメントをお寄せください。
      次にお会いできる日を楽しみにしております。
      ありがとうございました。

  28. says:

    はじめまして!!私も1952年8月生まれです。最近やっとの思いでエランスプリントを購入し、ネットで情報収集してたらここへたどり着きました。私はヨタ8~S8~TE37~27レビン~ハコスカGTR~ユーノスロードスターと乗り継ぎ、最後のクルマとしてエランを買いました。やっぱりキャブ車は良いですねぇ!!
    ウェーバーをOHしたりと今までで一番充実した日々を過ごしてます。

    • cube-kojima says:

      剛様
      はじめまして。
      コメントいただき、ありがとうございます。
      剛様の車歴を拝見し、思わず唸ってしまいました。国産スポーツカーの王道を辿って来られたようで、羨ましいばかりです。
      また、最近エランスプリントを購入されたとの由、おめでとうございます。同年代の方からこのようなコメントをいただくと、とても嬉しく思います。
      お乗りになられた車の数が少ないので、一台づつじっくりと楽しんで来られたのだろうと推測しています。
      エランのウェーバーのOHですか・・・めちゃくちゃ楽しそうですね。この手の車は、そのような付き合い方をするのが正解なのだろうなと思います。
      私の若い頃は1台の車で全てまかなっていましたから、不動状態が続くと大変困った状況になります。ですから、自分の車をいじくり倒すような接し方はできませんでした。
      剛様は、足になる別の車を所有されているのだと思われますが、そのような状況にならない限り、古いスポーツカーと深く付き合うことはできないのではないかと思っています。
      私はどちらかと言うといろいろな車に乗りたいと思っていましたので、若いころは同じ車に3年乗れば良いほうでした。SP311・SR311・エラン・S8・コスモスポーツ・GT-R HT・TE37・セリカXX・MR2 GTS・マセラティBiturbo Si・911 Turbo・928GTS・VWゴルフGLと言うのが私の車歴です。
      TE27については思い出があります。私はTE27を所有したことは無いのですが、大学に通っている頃、中学の時の友人に電車の中でばったり会ったことがあります。その友人は高校を卒業してトヨタのディーラーに勤めていたのですが、「もうすぐセリカのエンジンを積んだカローラが出るよ」と教えてくれたのでした。1971年の暮れだったと記憶しています。車好きなら誰でもそうだと思いますが、独特のテイストを持った車が欲しいと思っていましたので、そんなカローラが出るなら是非乗っみたいと思いました。しかし残念なことに、当時は収入がありませんでしたから、新車なんて買えるわけもありませんでした。
      そんな状況でしたから、私の車歴は中古年代物のSP311から始まります。父親と一緒に環八沿いの中古車屋さんを巡っていろいろと物色したりしていました。今思い出すと、大変懐かしいです。
      現在車を所有していませんので、何を買おうかと考えている最中ですが、やはり古い車にしか興味が湧かないですね。
      40年以上前のスポーツカーに乗ると言うのは、とてもとても労力が必要と思われます。また、欲しくてもお金があっても、車そのものを見つけられないような状態だと思います。エランと聞くと「大変」という言葉が先ず頭に浮かびますが(笑)、どうぞ大切になさってください。

    • says:

      cube-kojima 様

      私は55歳の時20年間も愛用したGTRをあっけなく手放したのは会社の車好きの若者に勧められ衝動で僅か18万で購入したユーノスロードスターでした。マツダスピードで固めた足に四輪ダブルウッシュボーンは最高のコーナーリングマシーンでした。走り屋でもなんでもない私が休日は必ず峠に行くようになってました(女房連れて笑)。とにかくよく回ります。自分の腕が上がったかのような気になりましたねぇ。そしてロードスタークラブもそんな走りに魅せられた同世代の人が大勢みえました。話はとても楽しいのですが、何となく自分の居場所じゃない気がして親しみはありませんでした。何時だったか道の駅でSR311が目に入り、おおっ!!と叫びながら飛んで行き満面の笑顔で話してる自分の姿を見てこれが俺の居場所だと再確認してしまいました。
      現在、私はエランスプリントとM-2、1001と言うロードスターを足として乗ってます。01と呼んでますが300台限定のメーカーチューニング車です。これこそ最高の車だと思ってましたがエランに乗ったら単なる車になっちゃいましたねぇ。GTRを手放して8年目にしてやっと理想の車にたどり着いたと言った所でしようか。趣味の車は絶対キャブ車じゃないとダメでしようねぇ。キャブ車の味は体に染み付いて離れないですから。
      そしてエランのオーナーズクラブは全国ネットで活発に動いてます。
      近日中に入会知る予定です。でも私のエランは古いダイナモ仕様なので十分な充電ができず車庫にの着いたら毎回充電と、そうそうガソリンタンクの錆でカートリッジ式のフィルター掃除が楽しい?日課になってます(笑)。
      それとリトラクタブルヘッドもバキュームが漏れて現在手動式です。そんな状態ですので長距離はまだ先の先です。
      私は岐阜県の下流に住んでますので長良川、木曽川、揖斐川、と一級河川が三つもあり信号も無く思い切り走れる穴場もいくつもありますので週3回は走りに行ってます。往復30キロ位のコースで途中にヘアピンカーブがあり、忘れかけてた復活のぎこちないヒールアンドトゥを使いセカンドに落すのが何よりの楽しみでもあります(笑)。こんな充実感はGTR以来味わえなかったですね。後、こんな生活が何年続けられるのかなぇぁと思ってるこの頃です。
      人生下り坂最高!!って言葉ご存知でしようか? TVでやってますが(笑)

      • cube-kojima says:

        剛様
        楽しいコメントをいただき、有難うございます。そうですか、やはり複数台持ちじやないと、旧いロータスとは付き合えないですよね。最近のロータスはどうか分かりませんが、少なくともキャブタイプのエスプリの時までは、主治医を探すのが先決だったような気がします。しかし昔と違って今はロータスを扱うお店がいっぱい在り、メンテナンスに苦労しなくなったのは嬉しいことですね。
        私はロードスターに乗ったことは一度も無いのですが、2シータースポーツと言うとどうしてもエランと比べてしまうことがあったように思います。エランが基準になっていた感じです。ですから、TR-4A・マーコスGT・ジェンセンヒーレー等々、当時はいろいろな車があったにも関わらず、それのどれにも魅力を感じることはありませんでした。時代は違いますが、ロードスターもそんな目で見ていたので、購入する気になれなかったのかも知れません。エランはそれほど良かったのかと言われると困るのですが、独特の雰囲気と高い性能を持っていて、今でも大変魅力的に写ります。そんなわけで、故障しても困らない人には、お勧めしたい車です。しかしその後ヨーロッパに乗ってしまってからは、私の中の理想的なスポーツカーはヨーロッパになってしまいました(笑)。
        エランのダイナモはDCダイナモでしたよね。発電量が少なくて、私も随分手を焼きました。加えてバッテリーの位置が良くないため、充電するだけでも面倒でした。でも、バッテリーがトランク内に置かれていることにも、何となく魅力を感じてしまったりしたのですが・・・。「いろいろ換える必要があるけど、ヨーロッパのダイナモにすると良いよ」と修理工場の人に言われたことがありました。
        それとリトラクタブルヘッドランプですが、私の場合はランプユニットを起こすレバーが貫通している所のFRPが割れてしまい、片目になってしまったことがあります。ブログにも書きましたが、いろいろな所が満遍なく?壊れて、メンテナンスには随分と時間と費用が掛りました。乗っているよりも、修理工場に入場していた時間の方が長かったように思います。エランは華奢な作りでしたが、それが魅力でもありました。しかし、もう少しどうにかならなかったのでしょうかねぇ。
        エランを手放した後、S8・コスモスポーツと乗り継ぐのですが、この2台共に突然止まり動かなくなったことがありました。S8は電気系統、コスモはキャブ関係の故障でした。2台共に出先での故障でしたので、その日はその場に置いて帰り、次の日に修理工場のお世話になりました。エランは故障しても何とか家に帰ることができましたから、エランの方がまだましだったと思ったものです。SP・SR311もそれなりに故障しましたから、GT-Rに乗り換えた後、故障らしい故障をしないことにいたく感心させられました。GT-Rはこんなにお気楽な車だったのかと、逆に驚いたほどでした。
        剛様はGT-Rに20年もお乗りになっていたのですか、それは凄いですね。随分とメンテナンスには気を使ったのでしょうね。私もGT-Rは大変気に入っていたのですが、2年ほど乗りあっさりと手放してしまいました。今考えると勿体なかったなと思うのですが、当時は他に乗りたい車が沢山ありましたから、自然とそんな状況になったのだと思います。1台手放す度にヨーロッパを探し歩いたのですが、幸か不幸か?良い車を見つけることができませんでした。今考えれば、故障で悩まなかっただけ、幸いだったのかも知れません。
        剛様は岐阜にお住まいとの由、あの辺りはそれは楽しい山道に恵まれていますよね。911に乗っていた頃、知り合いの人の案内で岐阜の山道を走ったことがありました。適度に空いていて、高速ステージと低速ステージが程良く混ざっていて、楽しませてもらいました。911Turboだとちと重くて大きいので、下りはあまり楽しめませんでした。こちらでもちょっと足を延ばせば箱根・伊豆がありますが、早朝・真夜中以外はそれなりに交通量があるため、気楽に飛ばせる状況ではありません。剛様がお住まいの所は、スポーツカーを愛でる環境が揃っていて、大変羨ましく思います。
        私は今、車を探していますが、昔は気にもならなかったTR-4AとかアルファロメオGTVとかが、非常に気になっています。アルフェッタGTも良いですね。歳と共に、随分とヤワになってしまった感じがします。取り敢えず健康でいれば、車はずっと楽しめると思います。お互い、健康には気をつけたいものですね。

  29. says:

    cube-kojima 様

    ここへ着て昔話をしてると時間が経つのも忘れてしまいますわ。でも20~21才の時に140万のエランを購入されたのですよね。これメチャ凄いですよ!! 私はこの頃50万でも買えませんでしたからねぇ。だだ私の住んでる所は水田ばかりの大田舎でそんな車なんて見た事もありませんでしたし刺激も少なかったですからねぇ。エスハチでもみんなにダサい車って言われてましたから当時友人はごく平凡、ハコスカGT、ギャランGTO、B110とか乗ってました。どこへ行くにしても全く着いて行けなかったですからねぇ。おまけに私のエスは錆だらけのボロボロでしたし。。名岐工房ってご存知でしようか?今でもエス専門で営業されてますが、ここの社長、近藤さんがジムカーナーでいつも 優勝するの が私の唯一の光明でした。ジムカーナーならエスはどの車より早いんだぜ!!って自慢して皆に話してましたよ笑。
    とにかく20歳の頃のエスハチ、ヨタハチなんて田舎では全くの不人気、変わり者扱いでしたねぇ。ヨタハチなんてイモ八チ!なんて馬鹿にされてましたから笑。当時は名岐オートと言う名称でしたが私は最初期のお客のようで今でも遊びに行くと大歓迎してくれますねぇ。エラン買ったよ!!って報告しようと思ってます。
    その後、6年も付き合った彼女がいなくなると予想外の落ち込みであんなに快感だったエスハチサウンドが耳障りに聞こえるようになるから不思議、同時にエスも手放してしまいました。車歴には記しませんでしたが次に購入したのがRT114、コロナ2000GTでした。セリカも 候補に上げてましたが、当時はゼロヨン15.8秒が何とも 魅力的でしたねぇ。そしてコロGのゴォーと言うソレックスの吸気音が最高でした。不思議な事に同じ18R-Gのセリカだと何故かこんな良い音は出ませんでした。配管の廻しが違うからでしようか?
    でも145馬力なんで絶対嘘っぱち! 全く走りませんでした買ってその日に嫌になりました。とにかく走らない回らない、ハンドルは切れない、足はフニァフニャ。何ともならん車でした。ただ初めてのエアコン付き、8トラ?のカーステレオ付きでデートには最適でした。長距離ドライブも難なくこなす事がでしましたし。そしてこの車で女房を釣りました笑。この頃が一番冷めてた時代でしたねぇ。その頃、カーボーイと言う雑誌に出合って人生が一転しました!!こんな改造を本にしていいのだろうか?警察が黙っていないだろう!!と思いました。
    コロGから乗り換えたばかりの37レビンを一年で捨て27レビンを購入しました。だって37は100㎏重いなんて致命的だと知ったからです。
    当然、バックナンバーも買い揃えて毎日、 毎日、カーボーイを貪るように読み続けメカの部分から見 るようになりました。そして元来凝り性の私は独学で2T-G改2リッター(懐かしい響きです)を自分で作り27レビンに載せました。でも当時は解体屋でなんでも買えましたのでお金はそんなに掛かりませんでしたねぇ。だだストロークが長くなった分エンジンの回りは悪くなりましたがトルクで走る車に変貌しました。クラブのツーリングでも150キロで走るSR311を軽くブツチ抜いてやりました笑。でもそんな車なんて長続きしませんよねぇ。自慢の当時では珍しい60パイマフラーも抜け、爆音を出すようになりノーマルに戻したら糞理詰まり状態。一気に嫌気が差し手放しました。次にクラブ内で何人もの人が乗ってたGT-Rを購入した訳です。少しエンジン不調のGTRが200万で売りに出されてたので即決で購入しました。( この頃は300円が 相場でした。)最後にはGTRと決めてましたのでパーツは10年位前から雑誌のガレージセールでコツコツ買い集めてましたねぇ。S20エンジンは二機も持ってたんですよ。

    S20でも平気でいじってた私ですがエランに関しては全くの弱気、何故かなぁ?基本的に日本車と全く違うからかなぁ、予備パーツも全く持ってないし、工具がインチだし、何故かメチャ弱気です。

    でも今自分の人生を省みると車趣味でずいぶん得したなぁと思います。私は永年アパレルの営業に携わってましたが、私らの年齢は車過ぎ好きが多いんですよ。当時百貨店、スーパー全盛時に大手スーパーユニーの口座を飛び込みで取得したのも唯一の自慢でしたし、それもエスハチのお陰でした。俺も欲しかったんだわ!!なんてね。又、東京の取引先の部長が筑波のクラシックカーレースにMGで参戦しててそんな所から話が盛り上がり、良い取引させて貰ってました。これ数年前の話です。

    昔は楽しかったですねぇ。残念ながら今は新車で欲しい車は何もなしですし。ハンドルはナルディークラシック、ホイールはRSワタナベ、エンジンはDOHCでなくてはならないこれが私の拘りでした笑。だからSR311は乗らなかったです。(だだあのZ432が単なるOHCでSUツインの240Zに全く歯が立たなかった現実にはガックリ!!で神話が崩れましたねぇ。)エランの購入前にも僅か120万で話しはあったのですがユーチューブで黒澤さんのインプレッションを見て遊びの多いハンドル、堅いだけのサスペンションを見て自分の好みと違うと思い購入しませんでした。私が唯一乗り忘れた車がSR311です。kogimaさんのインプレお願いしたいですねぇ。

    • cube-kojima says:

      剛様
      またまた素敵なコメントをいただき、ありがとうございました。
      いやぁ、剛様の車遍歴には脱帽ですね。私は、自分で車をいじるのは無理です。車をいじるとなると、先ず広い場所とそれなりの工具・設備が要りますよね。S8は知人から譲っていただいたのですが、その人は庭先に広いガレージを持ち、アメ車数台と英国スポーツカー等をメンテナンスしたり改造したりしていました。その作業を傍で見ていると、私には無理!と言うことが良く理解できました。車をジャッキアップして車の下にもぐり、上を向いていろいろな作業をするなんて、とてもできないなと思いました。いっときガソリンスタンドでアルバイトしていたことがありましたので、リフトした車を下から見上げて作業する辛さは理解していましたから。その彼は、体も細く力持ちには見えませんでしたから、車の作業をするにはそれなりのコツがあるのだろうと思ったのですが、やりたいかと聞かれれば、どちらかと言えばやりたくないと答えたと思います。そんなわけで、剛様が2T-Gを2000ccにしたこととか、S20を2基持っていたこととか、エランをいじり倒すのにワクワクされている様子とかをお聞きすると、感心する事しきりです。自分ができるのはせいぜい軽整備だけで、キャブのOH(OHキットがあるヤツ限定)やディスクパッドの交換程度までだと思います。外装関係は、当時乗っていたGT-Rのフロントフェンダーがオーバーフェンダーになっていたので、それをノーマルに戻したのが最大の作業でした。GT-Rのフロントフェンダーは普通のスカイラインと同じものでしたから、日産のパーツセンターに買いに行き、近くの塗装屋さんで塗装してもらい、自分で付け換えました。この頃のメーカーのパーツセンターは、建て前では業者販売だけでしたが、ちょっとした作業着を来て何気ない感じで行くと、何でも買えました。簡単な業者登録までしてくれたのには、正直びっくりしました。ホンダのパーツセンター(当時の呼び名を忘れてしまいましたが)では、オートバイからS8のパーツまで取り寄せてもらったことがありました。名岐オートさんのお名前には覚えがあります。随分昔から、レースをされていたのではないでしょうか。旧いカーグラかオートスポーツ紙に確かS8でレースに出ていた写真が乗っていたような気がします。S8には長く乗りませんでしたから、専門のお店と懇意になることはありませんでしたが、専門のお店に行くとパーツやら情報やら、お宝の山に出会えますよね。それも車趣味の醍醐味なのかなと思います。
      コロナGTは、私の友人も乗っていました。ちょっと運転させてもらったのですが、やはり乗用車ですよね。マークII-GSSも何回か運転したことがありましたが、コロナの方が少し鼻先が軽かったように思います。余談ですが、私の知人が3代目コロナのマニアで、コロナS、コロナGT5の2台を持っていました。その頃、私の自宅の近くに片側3車線の産業道路ができ、ガラガラに空いていたその道を年中飛ばしていました。そんなある時、カマロとそのGT5で競争したことがありました。加速では軽く置いて行かれるのですが、100km/hを越えた辺りから、段々とカマロに近づくのです。相手が手加減しているのだろうと思ったのですが、実際はそうでもなかったようで、大変驚いたことがありました。私は家庭の事情で、GT-R以降は単なる国産乗用車に乗っていたのですが、全く面白くない日々を過ごしていました。そんな時に限って、心を揺さぶるような車に乗って来る人が居るんですよね。私より5つほど年上の、外資系の会社に勤めているお金持ちの方が、ある時911Sに乗って我が家を訪れました。この方とはワンちゃん繋がりで、マルチーズの子犬を譲っていただいたりしたのですが、かなりなマニア(車の)でした。キャデラックアランテ、初期のベンツSL500、デローリアン、ジャガーEタイプV12等々、弩級の車に乗っていました。そんな人が何故か911S、それも2.2リッターと言う過激な車に乗って来たのです。ちょっとそこまでと言う感じで運転させてもらったのですが、これで911の虜になってしまいました。そんなこんなで、やはり外車が欲しいと言う気持ちになったのでした。それから暫くのあいだ紆余曲折があり、何のお告げかマセラティビトルボSiと言う、とんでもない車を買うことになりました。この車については多くを語りたくありませんが、私が乗った中で一番信頼性の低い車でした。操縦性が良かったのが、せめてもの慰めでした。数年前まで、隣町でスカイブルーのマセラティビトルボSiを良く見掛けました。スムーズに走っている姿を見る度に「やはりいいな~」と思うのですが、眺めているだけでしたら被害はありませんから(笑)。
      TE27は良いですね。国産セダンで今も欲しいと思う車は、TE27・GT-R・ベレットGTR・GTO-MRくらいです。コンテッサクーペ・コンパーノGTなんかもなかなか良いのですが、見つかりませんよね今はもう。
      ナルディにRSワタナベって、当時は究極の選択でしたね。車のモディファイリストを作ると、この2点はどの時でも必ずリストに入っていました。しかしエランの時は、本当に寂しい思いをしました。当時、26R風で英国製の何の変哲もないアルミホイールがあったのですが、これが馬鹿高でした。ボディが深緑ならこのホイールをオレンジに塗装してとか、無理をしたのかもしれませんが、幸か不幸か私のエランはブルーでした。私が一番気に入っていたのは、JAPと言うホイールでした。一見カンパニョーロ風の感じのホイールでしたが、これまた超馬鹿高でした。ホイールもパーツも、当時は安易に手に入らない時代でしたから、モディファイと言う楽しみはあまりありませんでしたね。エランとなると、今でも安易に社外パーツは揃わないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
      最後にSR311ですが、私は着座位置が大いに気に入っていました。床に括りつけたようなシートに座ると、足は前に真っ直ぐに投げ出した形になります。エランも着座位置は低いのですが、膝は曲がっていますよね。SR311はそれが無いのです。真っ直ぐに伸ばした足の先にペダルがあり、ヒール&トーをするために理想的なペダル配置となっていました。SP311もそれは同じだったのですが、これぞスポーツカーと思ったものでした。そしてSR311は、当時としては速い車だったと思います。比較的軽量でしたし、エンジンは他の2リッターよりもトルクが有りましたから、山道以外なら早く走れました。山道を走るには、繊細さが大いに不足していました。中速コーナー以上でしたら楽しめたのですが、箱根のような狭く急な山道は、楽しむには難がありました。何しろ、全ての操作系が重くサスは無きが如くガチガチで、体に伝わる振動は酷いもので、エイヤッと操作しないと、言うことを聞いてくれませんでした。ですから見た目とは裏腹に、高速道路なんかを走るのが適していたように思います。そんなSR311からエランに乗り換えたのですから、箱根の山道は魅力百倍の場所となりました。特に下り坂での速さは、もうこれ以上のコーナリングマシンは無いだろうとさえ思ったほどでした。これから剛様は、エランの良いところも悪いところも、嫌というほど経験されると思いますが、どうか末永く可愛がってあげてください。私は・・早く車を探さないといけません(笑)。

  30. says:

    SR311はそんな感じですか~。リーフスプリングは強化するとガチガチですもんねぇ。そして重ステ、私の01もオモステですのでよく解かります。車重も940キロなので同じくらいですよね。普通のロードスターはパワステですのコーナーはグイグイ回りメチャ楽しいですけどオモステは体力がないとダメですねぇ。でも自分で操ってる感覚があるし、切っても手を離すと自然に戻るので私は好きです。
    でも今思い出すとヨタ8、シャコタンにしたら最悪でしたからねぇ。あの時代はほとんどリーフスプリングでしたし、でもフロントはトションバーシステムの為ボルトを回すだけで自由に車高が変えられ楽でしたねぇ。私は国産車なら大体知ってますのでご報告します。TE27はエンジンが良いだけでその他は最悪です。ハンドルはファミリーカーカローラそのまま。ミッションもストロークが長く全然気持ち良くないですし、一番酷いのはコーナーが大アンダー全く回りませんねぇ。27はドリフト以外何も無い車です。この前、イベントで運転させてもらいましたが、ただで持って行って下さいと言われても断ります笑。昔はニリッターにできるのと、車高を下げオーバーフェンダーいっぱいのワイドタイヤを履くのが夢でしたから、現実は悪路ではハンドル取られるし乗れた物じゃありませんでした。ベレットGTRはハンドリングは良かったです一級品です。エンジンは ツインカムらしくなく高回転になっても盛り上がりません。コーナーは全然回りませんねぇ。GTOのMRも借りて乗りましたがMⅡの方が回りが良かったような記憶があります。音だけツインカムでしたが、そう考えるとあの頃は2T-Gが高回転で盛り上がり最高のエンジンでしたね。当時で速いと感じたのは27レビンとサバンナGT、RX-3かなぁ! この前同窓会でその人に会い昔話をしましたが彼はRX-3よりその前に乗ってたS54Bの方が楽しくて今でも欲しい位と言ってました。100キロ超えたらどの車にも負けなかったらしいです。ハコスカGTRは音だけで現実はGTXより遥かに遅かったですからねぇ。今自分の車歴を振り返ってやっぱり一番はホンダS8です。でもそれをパワーアップしたのがエランですので今が最高と言う事で締めます笑。

    • cube-kojima says:

      そうですか、S8気に入っていたのですね。私ももう少し長く付き合っていたら、もっと気に入っていたのかもしれませんね。S8の雰囲気は最高ですからね。シフトレバーとハンドル、そしてメーターパネルなんて、そんじょそこらの車には無い感性です。おまけにスタイルは清楚で美人ですから、車好きなら誰でも一度は憧れるのではないでしょうか。エランの後に乗ったと言う事情さえなければ、たぶんもっと気に入っていたと思います。エンジンルームの4連キャブも秀逸ですしね。まぁオートバイのキャブと同じ形でなければ、もっとワクワクしたかもしれませんが。ケイヒンCRキャブなんてのもありましたね。懐かしいです。
      ヨタ8のフロントはトーションバーを使っていたのですか。あの頃は、トーションバーを使っている車が結構ありましたね。ヨーロッパの小型車は、その多くが使っていたと思います。911なんかは、1989年まで使っていましたね。
      リーフスプリングと重ステは、60~70年代の車の代名詞みたいなものでしたから、大体はこんなものだろうと思って乗っていました。でも、SR311の重ステは例外的だと思うのです。SP311はエンジン廻りがしょぼいせいかまだましなんですが、SRだけはどうにもならなかったような気がします。ハンドル回さないと曲がらないので、タイトコーナーでは仕方なく回しているような感じでした。据切りなんかは、車をちょっと動かしながら切るようにしないと無理でしたね。それに引き換え中速コーナー以上だと全てのフィーリングが良くなるので、随分と楽しめたのですが・・・。あと後ろのリーフスプリングの固さは、レースでもするんですか?と聞いてみたくなるほど固かったです。クラッチを急に繋いだ時、普通なら多少はスクウォットしますが、そうならずに後輪が暴れてしまいます。同じようなサス形式のスポーツカーでも、トライアンフのTR-4なんかはもっと洗礼されていたような気がします。
      剛様は、国産のスポーツ系は、大体ご存じなんですね。べレットGTRとGTO-MRもお乗りになったことがあるそうですが、体験した方のお話を聞くのが一番ですね。私なんかは、あくまでイメージ先行で憧れていただけですので、どこが良いかなんて分かりませんからね。当時のスーパーセダンの最高峰だったGT-Rを買った時点で、これらの車はどうでもよくなってしまったのですが、でも一度は乗ってみたかったですね。この他には、一週間程度でしたが、代車としてギャランGSIIに乗っていたことがあります。お決まりのオレンジ色の車でしたが、噂に違わず速かったですね。エンジンも良く回りましたしね。ボディが軽かったことも、速さに一役買っていたのかもしれません。それと、スバルのFF-1。エンジンが良く回る割にサスがグニャグニャで、大変怖い思いをしました。
      当時のスポーツエンジンでは、2T-Gが最高だったとのこと。2T-Gは量産エンジンと思っていたので、少し意外な気がしました。これもイメージ先行による誤解ですね。私もTE37に乗っていましたが、ターボ化された車を買ったので、素の2T-Gがどんななのか知る由もありませんでした。
      TE27のシフトフィーリングは、まぁ仕方ないですよね。当時の車でシフトストロークが短いと言えば、S8とベレGくらいなものだったのではないでしょうか。後は、大体がギッタンバッコンしていましたよね。日産のミッションだって、似たようなものでした。ポルシェシンクロなんて言ってましたが、決して入りが良かったワケではなく、トヨタのミッションの方が潔かったような気がします。過大なストロークと言う点では、トヨタのミッションはアルファのミッションに似ていたような気がします。
      私がTE27を欲しいと思うのは、あのスタイルが気に入っているからです。剛様のお書きになられているとおり、少し車高を落としてちょっと太いホイールとタイヤを入れると、完成されたスタイルになるのかなと思います。アンダーが強いのは、当時の国産車共通の性格ですから、ある程度仕方のないことだと思います。オーバー傾向の車よりは、幾分心臓に優しいかと思います。
      こんな風にあれこれ考えていると、ヨーロッパが欲しくなって来ます。今更なぁと言う気もしますが、高校時代の初恋の彼女と共に、ヨーロッパは私の中では永遠に忘れられない存在のようです。

  31. says:

    そうそう書き忘れましたが2TGエンジンはどうしても量販エンジンですのでピストンコンロッドの重量差が10グラム前後の差があるのですがこれを1gくらいまで削って合わせ、クランクシャフトをバランス取り直すとタコメーターを軽く振り切る程回るようになりますねぇ、全くのノーマルエンジンで、ですよ!! いかにバランスが大切かと言う事だと思います。 私がお世話になったショップ篠田レーシング(ホームページがあるので検索して見て下さい)のオーナーは昔、F2のメカニックをしてた人ですが以前ロータスヨーロッパをOHしベンチで168馬力出たと言ってましたねぇ。これもブログに出てます。私もお金が貯まったらお願いしたいですねぇと言うとあのエランのエンジンは当分大丈夫だと言われました。全てやって90万だそうです。現在、アルファがメインで仕事されてますが全国から旧車が入庫して来るので、要予約状態です。今で二ヶ月待ちです。kojimaさんの話のスバルFF1、水平対向エンジンよく回りましたねぇ!(これもトーションバーでしたね。) ヨタ8であまり良いイメージ持ってなかったのですが会社の先輩に乗って乗せてもらいびっくりしました。スバル党と言われるマニアの人がいた位で何となく解かる気がしました。車はダサかったですがエンジンは一級品でしたね。その後の1300Gも良かったですねぇ。ちょうどエスロクとエスハチの違いのようでした。スバルで思い出したのですがN3に乗ってた頃、亀スバル360ってありましたよねぇ、あれのヤングSSってご存知ですか?ツインキャブになってて確か36馬力だったと思います。私のNもツインキャブの36馬力でしたが、まさかあのダサい亀に負けるとは思いませんでしたがシグナルグランプリで見事に負けまし たねぇ!! 笑。これ18歳の頃の話です。何故か若い頃の記憶は鮮明に覚えてますねぇ。そう言えば皆エヌコロと呼んでました。ハンドルにロープを巻いてコンペ風にしてたなぁ。白のボディでしたがボンネットとトランクを黒のつや消しに塗り直し気分は街道レーサーでした。フロントガラスの中央にトランジスターラジオのアンテナを入れてエスハチ風にしてたなぁとか鮮明に記憶が蘇ります。毎日カタログ通りの115km出ると絶好調だと思った物でした。でもあまりの遅さに閉口してたのも確かです。当時ボーリング場でアルバイトしてましたが先輩がフローリアンTSに乗ってて、ベレGと同じエンジンだと言われ乗せてもらいましたがまさにエンジンレスポンスだけは最高でしたねぇ。この頃、友人がハコスカいや当時はスカGと呼んでた2000GTを100万で買ったと自慢してましたがkojimaさんはこの頃に 150万のエランを買われたわけですよねぇ!凄い情熱だったと思います。私には雲の上の車で遠い存在でした。そして私もガソリンスタンドのアルバイトもしてました。一日に二台クラッチ盤交換した記憶があります。あの頃は単純、簡単でやり易かったですねぇ。でも一度リフトアップ作業をしてしまうともう車の下には潜れないですね。又、私はエスハチ絡みから評論家、吉田匠さんが好きなんですが彼が今ポルシェ356を乗ってますが車載カメラで見ると楽しそうで良いですねぇ。(これも彼のホームページに出てます。)昔はポルシェは嫌いでしたが最近興味が沸いて来ました。ヨーロッパは古い車は文化遺産として英国では73年以前の車は無税、ドイツでも半額になると聞きました。だからポルシェは海外で高騰し、とても手が出せない状態になってしまったのが残念です。ロータス系もかなり里帰りしたと聞きましたよ。

    車の話は楽しいですねぇ。でも後何年乗れるのかなぁ?と最近よく考えます。10年後は乗ってるのかなぁと。。私はAT車を所有する気は全くないので01の重ステが回せなくなったらきっぱりと車から降りるつもりです。 だから私はそんなに裕福じゃないのですが現在スポーツカーを二台所有し残り少ない時間を過ごしています。私には車しかないですし。。

    • cube-kojima says:

      「エンジンバラして1g単位でのバランス取り」は、昔ある人が年中騒いでいたことを思い出しました。その人Aさんは、私の人生最初の就職先の隣にあったガソリンスタンドに入り浸っていた人で、サニーでレースをしていました。当時の富士フレッシュマンで頑張っていた人で、レースをするために働いていたような人でした。何が悪いのか分かりませんでしたが、入賞するのがやっとで表彰台に乗ったことは無い人でした。そのAさんが、事ある毎に車のチューニングの話をするのです。その時に必ず出て来るのが、バランス取りの話でした。私がその時に勤めていた会社は、ヨーロッパSPに乗っていた人が社長をしている会社で、社長とAさんを交えて3人でよくレースの話をしました。話が飛びますが、ヨーロッパと言えば漫画の「サーキットの狼」が思い出されますが、それを書いていた池沢さんと社長は懇意にされていました。そんな縁で、池沢さんがレースをすることになった時に、チューニングショップを探し回ったようです。その結果、池沢さんは横浜にある「マツオカ自動車」と言うチューニングショップの車をレンタルして乗ることになりました。Aさんも、自分自身で行うチューニング作業には限界を感じたのか、最終的にマツオカに世話になったようです。そんな関係もあって、富士にはよく行きました。富士に行くと、帰りの時間がある時は必ずと言って良いほど、カート場に寄りました。狭いサーキットですからミッションカートはありませんでしたが、高低差のある面白いコースでした。そこで皆でタイムトライアルをするのですが、たまたま、くだんのAさんが一緒の時がありました。何と言うことか、その時のAさんのタイムはビケでした。それからというもの、車じゃなくて腕が悪いと言うのが定説になってしまいました。この頃は、車漬けのような毎日で、本当に楽しかったです。
      やはり2T-Gは、そんな感じだったのですね。私も一度はチューニングを経験してみたかったなと、今更ながら思います。自分の車のエンジンが、そんなに劇的に変わったら、それは嬉しいですよね。そう言えば、当時の正規輸入のヨーロッパSPは、キャブがストロンバーグ×2だったのです。それに乗っていた社長が、セリカに煽られるとオカンムリでした。そんなわけで、私がエランの修理でお世話になっている工場を紹介したところ、話はとんとん拍子に進み、ヘッドの乗せ換えと腰下も含めたチューニングに発展しました。そこの工場長はレースメンテナンスにも関わりが深く、数台の47GTもメンテナンスされていたそうです。この頃のロータスツインカムエンジンは、剛様のエランも同じだと思いますが、吸気ポートがヘッドに溶接されていました。このため違う形式のキャブに交換するためには、ヘッドの溶接加工が必要でした。アルミの溶接は難しいからとか何とかで、当時はこの溶接を行う専門業者が居たほどです。下手に加工するのを良しとしなかった社長は、TCのヘッドを入手して、それをビックバルブ仕様に加工する方法を選択しました。パーツを揃えてチューニングが完了するまで、半年程度掛ったのではないかと思います。あの頃は、とにかくパーツが揃わなかったので、ちょっとした修理でも1ヶ月は軽く掛っていました。今は、ロータスに乗るには、良い時代になりましたね。そのチューニングのお陰で、性能はずば抜けて良くなったようです。社長のお義兄さんにあたる方がTCに乗っていたのですが(このブログに出てくるブルーのTCです)、その方も一緒にチューニングをしました。確か、カーマガジン紙だったと思いますが、チューニングを終えたこの2台のヨーロッパのテスト結果が掲載された号がありました。TCは0-400が14秒前半、トップスピードが200km/h弱、SPは0-400が14秒後半、トップスピートが210km/h程度だったと記憶しています。当時の1600cc車でこの結果ですから、お金を掛けただけのことはあったようです。
      旧い車が優遇されると言う文化は、羨ましいですね。日本では、古くなればなるほど税金も高くなり、風当たりも強くなります。アメリカでは、正規輸入されていなかった車の中古車は、販売から25年経たないと輸入できないそうです。R32GT-Rが丁度25年を経過して、アメリカに輸入できるようになったそうで、かなりの台数が海を渡っているようです。その煽りで、日本国内でR32GT-Rの中古車価格が高騰しているようですね。好き者はどの世界にも居るようで、剛様がお書きになられたヨーロッパにおける旧車高騰の話と相通じるものがあるようです。そう言えば、最近空冷911の価格が国内で高くなって来ています。何の変哲も無いモデルでも、かなり高くなっています。この理由のひとつとして、そんな背景があったのですね。
      スバルヤングSSは、私の中学時代の友人が軽自動車免許を取得して一時乗っていました。暫くしてスバルR-2に乗り換えたのですが、この頃は時々仲間で走りに行くことがありました。普通、追い越しはシフトダウンして行いますが、その友人はシフトアップして追い越ししていたそうです。シフトアップしないとレブりミットに達してしまいスピートが出ないから、と言うのがその理由だったのですが、その話を聞いて皆で爆笑したことがありました。しかし、スバルR-2は結構走りました。ガソリンスタンドでアルバイトしていた時に、そこの主任さんが同系車に乗っていて、時々運転させて貰ったのですが、それなりに走るのにはびっくりしました。それより以前、私は2スト3気筒500ccのオートバイに乗っていたことがあったのですが、スバルR-2はそれよりも1気筒少なく、排気量も150cc近く少なく、重量は遥かに重かったのにも関わらず、予想外に走ったので驚いたのです。その頃、私は車の免許取り立ての頃で、どんな車を運転してもその度に感心していたような気がします。
      吉田匠さんの書く記事は、彼がCGに在籍されていた頃から好きでした。特にポルシェに関する記事は秀逸だったように思います。フリーになってからも各方面で活躍されているようですね。今は356にお乗りになられているそうですが、旧い911に乗られている頃、箱根のダウンヒルで誰も彼に追いつけなかったと言う逸話があったように思います。インチキレポーターも中には居るようですが、彼は筋金入りのレポーターだと思います。これからも彼の書く記事からは、目が離せそうにありません。CGは、中学生の頃から集めていました。学校の帰り道に古本屋さんがあり、そこにCGが時々入荷していました。それ以後も古いCG収集は続いて、海外のスーパースポーツが載った号は殆ど持っていました。しかし、数回の引っ越しでだいぶ冊数が減りました。
      基本的に私も、最近の車には全く興味がありません。ガレージが狭かったと言う事情がありましたが、そもそもファミリーカーと言う概念が無いので、何処に行くにも自分の気に入った車で出掛けました。子供ができてからは2シーターと言うわけには行きませんから、セダン系統の車に乗っていましたが、心はいつもスポーツカーを求めていました。私のスポーツカーの定義は、オープン2シーターであることでした。と言ってポルシェボクスターやベンツSLが私のスポーツカーの定義に嵌まるかと言うと、そうでもないのです。自分勝手で曖昧な定義ですが、私の気持ちの中のスポーツカーはスパルタンなオープン2シーターと言うことになるようです。その中でも、イギリスの古いスポーツカーが好きです。その最高峰がエランと言うことになります。ヨーロッパはオープンにならないのですが、私の中ではスポーツカーと言うことになっています(笑)。マーコス1600GT、ジネッタG12なども同じですね。
      歳を取ると共に、1年が過ぎるのが早くなっています。今は、もう今年も終りかと言う気分になっています。私も早く自分の気に入った車を買わないと、貴重な時間がムダに過ぎて行くような気がしてなりません。自分の好きな車に乗っている時の充実感は、何物にも代えがたいものがあります。歳も歳なので、若い頃と同じように行動できるとは思いませんが、自分の人生を豊かにするためには、自動車は不可欠の存在のように思います。走れば何でも良いと思えるのでしたらどんな車でも可なのですが、難しいところです。剛様は、ご自分のカーライフをしっかりと築きあげて来たのですから、これからも楽しめるだけ楽しめば良いのですよね。自分は幾つまで生きられるのかな、などと漠然と考えることがありますが、気にしても始まりません。それだけは成るようにしか成らないので、今を精いっぱい楽しむことが肝心なのだろうと思っています。歳を重ねて来るといろいろと考えることが多くて、若い頃のように自分の欲しい車を買うためだけに邁進することはできません。とどのつまりは、じっくりと考えましょうと言う、いつもの結論に落ち着くことになります(泣)。それではまた、よろしくお願いします。

  32. says:

    ヨーロッパの14秒台のゼロヨン、カーマガジンで読んだ記憶があります!! カーマガジンも膨大な量になったので五年くらい前に読みたい記事だけ切り取りクリアーファイルにまとめました。ハコスカGTRが三冊、ホンダSシリーズで二冊、ロータスエランで二冊あります。毎晩寝る前に目を通してますが20分位で睡魔が襲いダウンです。若い頃は1時間は読んでましたねぇ。車の本ばかり。。これ程学問に打ち込めたら人生変わってたかもね笑。kojimaさんは中学生の頃からCG読んでたのですか!!驚きました。私は高校二年の時、通勤途中で見たシルバーのヨタハチを知ってからでしたねぇ。当時ヨタハチの名前すら知りませんでした。あの頃は古本屋さんもいっぱいありましたねぇ、そこで初めてトヨタスポーツ800と言う名前を知りました。高校三年生の時に生産中止になり、もう新車では買えないのかと寂しい気持ちになったのを 思い出しました。18歳でライセンスを取得し行動範囲を広げ古本屋を何件も回った物です。当時は本屋さんでもそんな雑誌なんて何もありませんでしたよねぇ。そしてオートスポーツで鈴鹿24時間耐久レースが行なわれ二台のトヨタ2000GTに挟まれて1.2.3フィニッシュを飾ったと言う記事を目の当たりにし、振るえが来ましたねぇ笑!!。これしかない!!と確信しました!。わずか800ccでも耐久レースには強く無給油で走り切り優勝した! 私には決定打でした。

    マーコス!! 懐かしい名前です。これには忘れられない思い出があります。20歳の頃友人と深夜よく名古屋へ車見学に行ったのですが、夢は私がエランで友人はヨーロッパでしたねぇ。そこで初めて目にしたのがマーコス1600GTでした。カッコよか良すぎゃ!!あの時は大感動でしたねぇ!!出るのはため息ばかりでした。 長い間無言で見惚れてたあのひとコマが蘇りました。でもあれからその名前はずっと忘れてました。今はユーチューブがあるので改めて確認した所です。あれから3回も見に行った程です。当時から英国の企画力は凄かったですねぇ。現在はコストダウンが優先で魅力ある車は皆無になってしまいました。あの頃ディーノが好きでしたが高いので10年落ちになって100万切ったら買おうかと考えてましたが古くなった車が高くなるなんて当時は考えもしなかったですね。でも車は1975年まででしたね。それ以来、公害対策、騒音、コストダウンに勢力が注がれ、魅力ある車は皆無になってしまいました。いや、キヤブが消滅した時点で終わったのかも知れません。今は二輪もインジェクションが多くなってきたようですがそうなると又、マニアが激減するでしようね。私達は本当に良い時代に青春を過ごせたのかも知れません。他に私はエレキギターが好きでベンチャーズに始まりベンチャーズで終わると思います。又、オーディオも好きで真空管アンプでレコード鑑賞もしてます。

    • cube-kojima says:

      剛様と私は、物は違えど趣味の方向性は似ていますね。ベンチャーズは私も大ファンです。昔、私はエレキは持っていませんが、アコースティックギターでベンチャーズやローリングストーンズの真似ごとをしていた時期がありました。そもそもの始まりは、1965年の「Cruel Sea」を聞いてからでした。当時はベンチャーズのオリジナル曲とばかり思っていたのですが、そのメロデイーは実に衝撃的でした。感化された私は、中学の3年間はロック&ポップスに夢中になり、グループサウンズなどは眼中にありませんでした。そのお陰か?、高校に行ってからフォークソングの嵐にとまどうことになりました(笑)。今ではPops、J-Pops、Folk何でもありです。それとオーディオですが、真空管アンプとは実に素晴らしい限りです。剛様の車の趣味からお察しすると、オーディオにもかなりの拘りをお持ちではないかと思います。アンプは自作ですか?それとも栄光のマッキントッシュとかマランツとかでしょうか?。私はオーディオには詳しくありません。中学生から現在まで、アマチュア無線の方が専門です。昔は専門知識が無くても回路図が読めてハンダ付けができれば、パーツを集めることで無線機を作れた時代がありました。当時は私も無線機を自作したことがありましたが、そのような時代は長くは続きませでした。それからほんの数年で、日本製の通信機が世界を席巻する時代が来るのでした。そうなるともう、専門家ではない私は手も足も出なくなり、メーカー製通信機の収集に励むことになりました。小学生高学年の頃、アマチュア無線の世界に私を引っ張り込んだ友人は、大学生になるとオーディオに夢中になり始めました。たま~に遊びに行くと、自作の真空管アンプを自慢されたりしました。当時から、オーディオの趣味はお金が掛るものと決まっていましたから、私にはとても手が出せませんでした。トランス1個の価格を聞いただけで、気持ちが萎えたものです。とは言え、出来合いのステレオ(死語?)は持っていましたから、レコードもそれなりに集めました。今は置き場所が無いので、段ボールに詰めたままになっています。どんなレコードを持っていたか忘れていることもあり、たまに引っ張り出すとレアなレコードを発見して、得した気分になることがあります。
      剛様は、カーマガジン誌をお集めになっているのですね。カーマガジン誌は、楽しい雑誌でした。スーパーカーブームが去ってから、チューニング競争の時代になった時に、私も毎月のように買っていました。L型エンジンの3リッター化とかクロスフロー化とか、矢田部での最高速競争とか、毎月のように誌上を賑わしていましたね。
      私の中学生の頃からのCG誌収集は、あくまで中古本でした。毎月発刊されるCGを買うようになったのは、20歳を過ぎてからです。何故中学生の分際でCGなんか、と思われるかもしれませんが、1964年・65年と続けて行った東京モーターショーの影響があったのだと思います。1964年は小学生でしたし近所の大人に連れて行ってもらったので、あまり身近に感じなかったのですが、1965年の時は中学校の友人3人で出掛けました。その頃は、私の住んでいた地域にも根岸線と言うローカル線が開通していて、東京に行くのも便利でしたし、無線の関係で秋葉原にも行き慣れていましたので、面白半分で出掛けたのでした。しかし、そこにあった展示車には、随分と見入ってしまいました。特にS600には、心引かれるものがありました。車の免許を取ったら、絶対にS6を買うぞ!と決心したものです。またその会場でハンドブックを買ったのですが、家に帰って来てからじっくりと見ると、魅力的な車が随分と載っているではありませんか。特にジャガーEタイプの写真は、今もありありと思い出されるほど素敵なものでした。残念ながら、その本は手元に残っていませんが、その時の感激がCGの中古本収集のきっかけになったのだと思います。高校生の頃はオートバイに夢中でしたから、一時、CGの収集はストップしていました。もっぱらモーターサイクリストと言う本を読み漁っていたのですが、そこにも高値の花のMV、BSA、トライアンフ、ノートンなどのヨーロッパ車の記事が載っていて、外国車に対する潜在的な意識が醸成されて行ったのだと思います。このお陰で外車を買うのに何の抵抗もありませんでしたから、資金を別にすれば、エランの購入は至って自然な出来事だったのです。
      剛様はディノに憧れておられたとの由、考えることは皆同じですね。私は911ターボを買う時に、実際にディノを探したことがありました。当時、東京の環八沿いのローデムコーポレーションと言う中古車店に数台並んでたことがあり、価格も400万円台~だったと思います。911ターボを買う金額にもうちょっと上乗せすれば買える状況だったのですが、半年ほどグズグズしている内に、一気に700万円台に暴騰してしまいました。その金額ではどうにもなりませんので、911ターボを買うことにしたのですが、あの時無理してもディノを買っていたらと考えることがあります。多分、持ち切れなくなって直ぐに手放しただろうと思うのですが、他人の車にチョイ乗りさせてもらうよりは、随分と楽しめたのではないかなと思います。残念なことをしました。私は頭の中が古いのか、感覚がズレているのか、フェラーリはデイトナかディノ、ちょっと譲歩して330GTCと言う感じなのです。しかしこれらは皆暴騰中ですから、多分これから先、一生フェラーリには縁が無いのだろうなと思います。
      鈴鹿耐久レースの2000GTとヨタ8の写真は、余りにも有名ですよね。私もあれでヨタ8に憧れたことがありました。実際に自分の最初の車を買う時に、ヨタ8を探したのです。でも中古の台数が少なく、見つかっても高価でした。また昔からの憧れだったS6は、台数が少なく程度の良い車がありませんでした。S8は台数はありましたが、これら3台の中でもっとも高価で、やはり買うことができませんでした。それで、DUTSUN SP311になったと言う、情けない過去を持っています。まあでもそのお陰で、日産の中古車センターのアルバイトと言う、なかなか楽しい思いもすることができました。
      剛様もマーコス1600GTには、一目置かれていたのですね。あの車のカッコ良さは尋常じゃありませんよね。猫背のスタイルなのですが、走っているところを後ろから見ると、本当にカッコ良い車でした。また、ジェンセンヒーレーと言う車もありましたね。CG誌上では、非常に評判の良い車でした。私は触ったことも乗ったことも無いのですが、オープンで走っている時の後ろ姿は、これまたトレビアンでした。私はどうも、バックシャンの車が好きみたいです(笑)。
      今回もまた長文になってしまいました。このような話は、尽きることが無いので困ります。どうか、ご容赦ください。
      追記:前回、今回とカーマガジン誌と書いていたのは、モーターマガジン誌の間違いでした。カーマガジンはネコでしたよね。すみませんでした。モーターマガジン誌にチューニングヨーロッパの記事が載ったのは、1975年頃の号でした。カーマガジン誌にチューニングしたヨーロッパの記事が載ったのは、もっとずっと後年のことだったと思います。

  33. says:

    私達の田舎では高校入学のお祝いにステレオを買ってもらうのが登竜門のようでしたねぇ。今から思えばバカでかくて、セパレートタイプと呼んでたのかなぁ?本体が真ん中で木枠のスピーカーを両左右に置くタイプの物でした。30cmのでかいスピーカーから流れる低音が自慢の仕合でしたねぇ。今ではミニコンポが主流でそれでもかなり良い音で聴ける様になりましたが、私が40歳の時にプレイバック70と題したイベントが催され、なんとそこには私が使用してたのと同じステレエオが試着できるようになってるではありませんか。レコードの柔らかい音質、重い低音を再び耳にし、高校時代の記憶が蘇りました。今のCDや小さなスピーカーでは絶対に味わえない音響でしたねぇ。そこでオーディオ熱が再燃しました 。ちょうどその頃ハードオフと言う中古のオーディオや楽器、レコードなどを販売してるお店ができ、自分と同じような人が大勢いるのを知りました。そこで知り合った人達と各地のハードオフ巡りをしたものです。壊れた昔のアンプを購入し修理するのが楽しみでした。コンデンサーの交換で蘇るのも教えて貰いました。そこでも無線をしてる人が何人もいましたねぇ。同じような構造だと聞きました。私のアンプは今は無きサンスイのAU-111と言う昭和40年製で最後の真空管アンプです。スピーカーは英国のタンノイです。オーディオは家庭訪問が付き物で聴くと欲しくなる底なし沼?のようです。ここまで辿り着くまで何台も代えました。メインは50、60年代の黒人ジヤズを聴いてますが、日本で販売されてるレコー ドはマスターテープのダビングなのでどうしても音質が悪く原盤を聴いてしまうともうダメですねぇ。昔は演奏が下手クソで大嫌いだったビートルズでしたが英国の原盤を聴くとまるでライブ演奏のようで驚いた記憶があります。レコードで聴くボーカル物は唾が飛んできそうな程生々しいですねぇ。(ただ原盤は高価なので簡単には買えないです。)岐阜にも高級オーディオの店がありますが、どうだ!と言わんばかりに録音状態の良いCDを流してますが100万も出して聴くような音色ではありませんねぇ。CDは綺麗な音なので一瞬は良いなぁと思いますが長時間試聴すると必ず疲れます。レコードは逆に心地良い気分に浸れるから不思議です。要は昔は生楽器演奏でしたので心地良かったのだと思いますそれを綺麗に現再現できるのがレコードと言う事だと思います。だからクラシックに関してはCDなんて全く売ずライブだけになってしまいました。

    現在はオーディオマニアは壊滅状態で私らより上のレコードを知ってる人達しかいないのが現状です。どことなく現在のカーマニアとオーバーラップしませんか笑? 日本は大切な物を置き去りにして来たと思います。kojimaさんもやはり古いレコードをお持ちのようですが私のアンプで聴くとビックリすると思います。私が高校時代擦り切れる程聴いた、1965年ベンチャーズ初来日のライブアルバム、べンチーズインジャパンをこのアンプで聴いた時、今まで聞えなかった細かな音まで再現でき再び大感動させてくれました。でもそんな心地良いレコードでもめんどうな儀式?をしてまで中々聴く気になれず今は大半がCDを30分聴いて終了が現在です。よく聴いた音楽はベンチャーズが7割でその他、GS時代はコールデンカップスのみ、ディープパ-プル、グランドファングレイルロードなんて好きでしたねぇ。最近、ZARDの若くして亡くなった坂井泉水に興味を持ち読んだり聴いたりしてます。全くマスコミにも出ずあまりにも綺麗な人でしたし。。

    でも全く見ず知らずのkojimaさんですが同じ時代を生きて来た人とネットを通して昔話ができるなんて最高に楽しいですねぇ笑。

  34. says:

    今、kojimaさんの当時のエラン見て思い出しましたが、あの車に検対応のスピンナーが付いてましたが私も爪タイプでは車検が通らないとの事で買いましたが一個2万円もしました!そして取り外すスパナーが16000円で10万近いお金使いました。又、ラバードーナッツも一個2万円弱だったと思います。とにかく馬鹿高でしたねぇ。

    • cube-kojima says:

      やはりそうでしたか。車に劣らずオーディオの趣味も実に熱いですね。サンスイの最高級真空管アンプに、タンノイのスピーカーですか。JBLとかではないところがシブイですね。オーディオに関して大した知識を持たない私でも、ハイレベルな組み合わせであることは分かります。レコードの原盤がと言うお話は私も耳にしたことがありますが、原版とコピー版とではそんなに違うものなのですね。私は音楽をじっくり聞く習慣が無かったので、細かい音を聞き分ける能力が希薄です(笑)。長年、無線機にヘッドフォンを付けて夜な夜な微弱な信号を雑音の中から聞き分けるみたいなことをしていたので、いささか難聴気味なのかもしれません。そんなこともあり、せいぜい分かるのはCDよりレコードで聞く方が何となく音に広がりがある、ソリッドステートアンプより真空管アンプの方が音が柔らかいと言う程度です。それも直接聞き比べないと分からないくらいなので、怒られそうですが、CD+ミニコンポで充分と感じてしまいます。音楽に対する姿勢が、マニアの人と私のような一般人とでは、随分違うと言うことなのでしょうね。私は音に拘るような所がありませんから、音楽に対する自分なりの評価基準がありません。ですから、アーティストやメロディ、歌詞で歌や音の好き嫌いを判断しているような気がします。世俗的な私は、ジャズ・クラシックのような分かり難い曲はどちらかと言うと苦手で、適当に聞いていても分かり易い歌・音楽が好きです。Jポップス・ポップス・フォークソング・スクリーンミュージックのどれにも大好きな曲があり、CDで聞くと入れ替えが面倒なのでiTuneにライブラリ登録して、PC+外部スピーカーで聞いています。まぁ一般人はこんなものだと思います。

      剛様がお書きになられた「現在はオーディオマニアは壊滅状態で私らより上のレコードを知ってる人達しかいないのが現状です。どことなく現在のカーマニアとオーバーラップしませんか」のくだりですが、何か悲しいものがありますね。私の周りの人は、老若男女含めてどちらかと言うと車好きの人が多いです。しかし車にこだわりを持っている人は少ないと感じます。私たちの年代では、車はステータスシンボルであり、労力・財力を注ぎ込む対象でもありました。どれだけ珍しい車に乗っているかが自慢の種だったりしましたが、今は違いますよね。車を運転したくないと思う人が相当数居るし、車が無くても不便を感じない人も多いと思います。ワンボックスカーが幅を利かせている現状を見ると、車好きとかカーマニアの定義が、私たちの頃とは違うのかも知れません。オーディオについては私は良く分からないのですが、自分が若かった頃と比べると、物が豊富にあり過ぎるような気がします。車もそうかも知れませんが、現代は機能豊富で便利で手を煩わせない商品が溢れています。価格も常識的な範囲のものが多いですから、わざわざ面倒で高価で不便なクラシック商品を買う理由がありません。ただ繋げばいいだけのオーディオ機器や、最新型の車に次々と入れ替える人のことは、一般的にマニアとは呼ばないような気がします。そう考えると、私たちが思い描く「マニア」は、減少の一途なのでしょうね。とは言え、いつの時代も好き者は居ますので、オーディオや車の趣味が無くなることは無いと思います。ただ、2020年までに車の自動運転を実現させるらしいのですが、将来的にどうなるのでしょうね?。安全のため、自動運転車以外は走行禁止なんて日が来るのでしょうか。そんな時代になったらマニアもへったくれもありません。そう考えると、マニアと呼ばれる人が少なくなったのは、時代の趨勢なのかも知れません。

      そうそう、エランのホイールはセンターロック式でした。私が買ったエランはディーラー車だったので、例のジャイアントレンチが付いていました。ホイールのスピナーって、そんなに高いのですか?。一個2万円とは驚きです。それをわざわざお買いになったと言うことは、元々は角付きなんですね。いいなぁ~。センターロック式の市販車は昔も少なかったのですが、私がエランに憧れた理由の一つでもあります。昔、エランと言えばレースでしかお目に掛れませんでしたよね。三保敬太郎、滝進太郎、浮谷東次郎のレーシングエランは、レースが開催される度、どこかしらの自動車雑誌に掲載されていました。本当にカッコ良かったですねぇ。実のところ、私がエランの実物を見たのは、レース場以外では自分が購入する時が初めてでした。購入したエランはS4FHCでしたから、ボンネットにふくらみが有りテールランプが四角型であること、そしてクーペであること等がレーシングエランとは異なっていたのですが、このチャンスを逃したら次はいつお目に掛れるか分からないと思い、ある意味自分の物になるまで必死でした。エランを買ってからはあちこちと走り回り、そして時々は中古車屋さんを覗いたりしていたのですが、驚いたことにエランにお目に掛ったことは一度もありませんでした。エラン+2Sを見掛けたことはありましたが、普通のエランを見たのは修理工場で見掛けた時だけでした。そのせいか、走っている最中や駐車場に止めている時など、毎回何人かの人が写真を録っていました。ヨーロッパに乗っている人に聞いても、やはりエランは珍しかったようです。エランを手放して以後、数十年にわたり車を運転して来ましたが、路上や駐車場でエランを見掛けたことは1回しかありません。ヨーロッパは時々見掛けることもあるのですが、エランは絶無と言って良いほどです。実際の生息数がどれほどなのか分かりませんが、これからエランが増えることはありませんので、是非とも大切になさってください。

      一昨日、近くの警察署に免許の更新に行った時、マーコスが走っているのを見掛けました。マーコスの実物を見るのは、40数年振りのことでした。それは1600GTではなく、80年代に作られた新しいモデルのようでした。新しいモデルは、昔見た1600GTの記憶と比べると、何となく長く大きく太り気味でした。しかし周りの車に埋もれるように低くそして猫背の姿は、まごうかたなきマーコスでした。昔は、木骨フレームなんてとんでもないと思っていましたので、とても買おうとは思わなかったのですが、1600GTだったら欲しい!と思ってしまいました。思うだけはタダなので、最近では何でもアリになって来ています。昔は車が生活の一部になっていて、車の選択で迷うことなどなかったのですが、今は迷いっぱなしです。迷いを一掃するほど、欲しいと思う車が無いのかもしれません。私も歳を取ったなと感じる瞬間ですね(涙)。

  35. says:

    最近めっきり寒くなりましたね、とは言うものの今年は暖冬ですよねぇ。最近朝の気温が5℃を切るようになり、元来かかりが悪いエランのエンジンが益々悪くなって来ました。
    昨日、新品のバッテリーが上がってしましました。いかにダイナモが充電できてないかですねぇ。毎回充電器は付けてますが性能の良い充電器じゃないとダメかなぁと思ったりもします。
    ショップでそんな話をして来ましたが最初にアクセル何回位踏んでる?と聞かれたので三回でセルスタートしてますと言うと「全く解かってないねぇ。それでは全然足りない!!」7~8回バタバタやって、プラグがかぶるようなら交換して、何回踏んだらいいのが把握しないとダメだよ、と言われてしまいました。春秋、夏、冬と全く違うものだよとも。
    エンジン特性によって異なるが、それを知らぬば全然ダメだよ!!っとも言われました。私は今までそんな車を何台も乗り継いできた訳ですが、どんな車でも最高で三回で掛かってたのでそれを厳守してました、と言うと純正の車は誰でも乗れるように扱い易くなってるよと言われました。
    まさに寝耳に水、状態でした!!GTRでも電磁ポンプオンで真冬でもアクセル三回で軽く掛かってたのにねぇ。 kojimaさんは当時エラン、ヨーロッパで冬場のエンジンスタートはアクセル何回空踏まれてました?

    • cube-kojima says:

      そろそろ剛様にエランの試練が襲い掛り始めているようで・・・と言うのは冗談です。エランのエンジン始動で、そんなに気を使った記憶は無いですねぇ。剛様がされているように、パタパタはせいぜい3回程度でした。確かに夏場の方が掛りは良かったかもしれませんが、季節によって全く違ったかと言うと、記憶にないです。定期的に交換する以外にエランのプラグを外したことはありませんでしたし、そもそもがそんなに神経質なエンジンではなかったように思います。オートバイの時は、かぶり気味であればアクセル全開にしたままキックするなんてこともありましたが、車では更に悲惨な事になるとたまりませんので、やったことはありません。SR311の時はかぶったことが何回かありましたが、車でかぶってプラグを外して大騒ぎをしたのは、多分そのくらいだったと思います。GT-Rの時なんて、アクセルを煽らなくても始動していたような記憶があります。何れにしても40年くらい前の話ですから、細かいことは忘れているかも知れません。ひょっとして、剛様のエランはチューニングエンジンを積んでらっしゃるのですか?それならば、始動に微妙なさじ加減が必要なのも分かりますが・・・。それにしても、もう気温が5℃くらいまで下がるのですね。こちらはちょっと寒いなと思う朝でも、まだ10℃以上はあります。室内では、昨日やっと20℃を下回った程度です。そちらでは、冬場は結構雪が降るのでしょうか?。こちらでは、今年は大したことはありませんでしたが、昨年の2月に2回雪が降った時は大パニックになりました。いくら寒い方が良いとは言え、雨・雪ではエランには乗れませんよね。
      このあいだ書きましたマーコスですが、どうも近くの方が乗られているようです。昨日、ちらっとですがまた見掛けました。そんなの買って苦労しなけりゃいいがなと思ってしまうようでは、私はリタイア組の仲間入りと言うことでしょうかねぇ。つらつらと考えるに、今また以前のように車で苦労できるかと言うと、何か微妙な感じになります。したいけどしたくないような、でも古い車にしか興味がないし・・・無限ループです(笑)。

  36. says:

    あれからアクセル10回ほど踏みイグニッションONで掛かりました!! やれやれです。kojimaさんの言われるように 2T-Gでも S20でもそんなに神経質にならなくても簡単にかかりましたよねぇ!
    ええっ、エランのプラグも見なかったのですか!!余程調子良かった証拠ですね。

    実は私のエランスプリントは今回の車検は国内では新規なので3年車検なんですよ。
    1995年に英国から日本に輸入され要は20年近く眠ってた車なんです。だから詳しい仕様など全く解からず試行錯誤状態です。ただショップではピストンクリアランスがかなり大きく取ってあるので鍛造ピストンが入ってると言われてます。又、フレームはオリジナルではなくレース用のスパイダーフレームに代えてありますし。インマニも研磨してあり、ウェーバー45が入るように大きくなってると聞きました。それとオリジナルエランは乗らないと直ぐクラッチ板がひっつくと聞いてますがこのエランは20年乗らなくても無事でした。ありえないでしょ? 多分クラッチ関係も新しく改良されたのが組んであると私は読んでます笑。

    私の主観はかなりプラス思考の考えで、英国でフレーム交換時に全てOH済みなのでもうどこも悪くならない!! と勝手に判断しておりますがどうでしょうか笑?
    ミッションのヘタリもなし、、デフのバックラッシュも完璧で静かですしねぇ。近県なら毎日、kojimaさん所へ行き刺激して背中を押してあげたい気分です笑!!人差し指で軽く押すだけでOKだと思いますが。

    そうそう、kojimaさんが乗ってたエランはローギヤーで簡単に60km位でましたか?

    • cube-kojima says:

      ははは・・・私の乗っていたエランは、プラグだけは見なくても大丈夫でした。他の部分は殆ど見る必要がありましたけどね。電気系統・水回り・油脂関係等々、専門工具が無くても大丈夫な所は、ほとんど手を入れていました。自分の気に入るように手を入れるのは、旧車趣味の醍醐味ですよね。まぁ知識が少ないので、大したことはできないのですが、それなりに楽しかったです。

      剛様のエランは、やはりチューニングされていたのですね。それもエンジンだけではなく、殆ど全ての主要部分に手が入れられているようですね。それでは、ショップのご主人が口喧しくなるはずです。エランは一度重整備をしてしまえば、そうそう壊れないと整備を頼んでいた工場の工場長に言われたことがあります。剛様のエランは、それだけの整備がされているのですから、簡単には壊れないと思います。しかし20年乗っていないと言うのは、どんな状況だったのでしょうね。どこかが壊れて、そのままにしてあったとか・・・、もしそうであれば、何となくその気持ちは分かります(笑)。

      駆動系のガタは、エランの泣き所ですね。ラバードーナッツが入っているせいで、あまりシビアにできなかったのかも知れません。ラバードーナッツで衝撃を吸収しないと、プロペラシャフト・デフ・ドライブシャフトの全てをもっと強化する必要がありそうですし、そうなれば重量が嵩んでしまいます。ラバードーナッツは、痛し痒しと言うところなんでしょうね。でも、それだけ隙無くきっちりと組んであると、車に慣れるまでは何となく乗りにくそうな感じがします。クラッチは、普通に繋がる感じなんでしょうか?。私の乗っていたエランは、タイミング良く繋げてやれば素早いダッシュが可能でした。ただし普通に繋ごうと思うと、かなり慎重になる必要がありました。半クラッチばかり使っていると、ジャダーが出るようになって、クラッチ板交換と言う災難が待ち受けていましたしたから。ロータスのもう一つの弱点がクラッチでしたね。ヨーロッパに乗っている人の中でも、クラッチをダメにした人が何人かいらっしゃいました。当時の国産車では、余程の下手くそが運転しない限り、およそクラッチ・駆動系の故障は考えられなかったと思いますが、ロータスはそんな常識を簡単に覆してくれました。エラン・ヨーロッパに乗るなら「思い切り良く!」が合言葉です(笑)。しかし、ローで簡単に60km/h出ると言うのは、かなりギア比が高い感じがします。私のエランは、そんなに出なかったと思います。街中は乗り難くないですか?

      剛様のエランはスプリントでしたよね。ハンドブレーキのレバーはどんな方式でしょうか?。ヨーロッパと同じで、レバーをひねると解除される形式だとブレーキの掛っている状態を調整し易いのですが、私のエランはボタンを押して解除する方式でした。ボタンを押した途端に解除されてしまいますから、レバーを引いておいて上手くクラッチと連動させることが難しかったのです。ちょっとした坂道でしたら全くOKなのですが、横浜と言う所は山が多く坂ばかりですし、それも急坂がかなりの割合を占めていますので、坂道発進はいつもいつも大変緊張しました。下手をするとジャダーが出てしまうし、あのような外観でエンストさせると大変カッコ悪いですし、ですから急坂のある道はなるべく避けて走っていました。今思えば、凄く楽しかったですが、いろいろと面倒な車でもありました。時には国産セダンに乗っている人を、羨ましく思ったこともありましたね(笑)。

      剛様のスプリントは、大変貴重な車であることをご紹介いただきました。どうかいつまでも大切に乗っていただきたいと思います。そして、私の背中を押しには来ないでください。今そんなエランを見せられたら、何を考え出すか自分でも怖いですから。

  37. says:

    このエランは埼玉のロータスマニアからが譲り受けた物なんです。フェースブックに出てる古川さんと言う方です。他にもヨーロッパ、セブン、エランももう一台ありました。畑野自動車さんが輸入し古川さんが購入されたようです。その時点では動いていたと聞いたので購入に踏み切りました。実は定年後に乗ろうとGTRを売ったお金で購入し、我が家でも7年眠ってました。ここで動かない車ほどつまらん物ないと実感しましたねぇ。本来は自分で全てやろうと意気込んでましたが20年も眠ってたような車は私のような素人では手に負えないのが実感しました。バッテリー新品に換えても電気がほとんど流れませんでしたしねぇ。ヘッドすらぼんやり状態でしたねぇ。それでショ ップにお願いした次 第です。昨日行きましたが来年の3月末のでいっぱいだと言ってみえました。アルファのエンジンOHが3台入ってるとの事です。

    趣味の車屋さんはどこも開店休業状態で廃業する所が多いと聞きました。だって日本は古い車には全く理解されず逆風が吹いてますもんね。降りる人は多いがこれから始めると言う変わり者は私のような極少数派だと思いますねぇ。現在も1300ジュニア、スパイダー。ベローチェが入庫してました。私が思うに人間国宝に推薦したい程の人です笑。
    クラッチは急激に繋がるタイプでkojimaさんのエランと同じだと思います。話を聞くまではクラッチ調整しなくてはと思ってました。7月10日に新規車検を取得し5ヶ月経過してますが未だ完璧なクラッチワークが難しく気を使います。やはり私のエラン、ミッションの1速がかなりハイギャーになってるのでしょうねぇ。最初綺麗なスタートができないので、ウェーバーのジェット交換、ベンチュリーなど交換しりしましたが全くダメでした。だだゆっくりクラッチを繋げばアクセルワークなしで前に出ますがそこで吹かすとグズります。回転を上げてならスムーズなレーシングスタートはできると思います。
    それが毎回100k位で流すようになったら中のカーボンが燃えきったのか出足もかなりスムーズに出るようになりましたねぇ。

    ハンドブレーキはkojimaさんと同じでボタンを押して解除するタイプで同じく坂道発進は最悪です。

    現在、ウェーバのジェットですがエアーが200.メイン140.アイドル45F8です。もうお忘れだと思いますがノーマルがエアー150.メイン120.アイドル50F8です。これも試してみましたが全く走りませんでした。

    どちらかと言うとSR311に近いセッティングです。ジェットも高価なのであまり買えませんがエアーとメインはもっと大きくても良いような気がします。

    • cube-kojima says:

      お手元で7年も眠っていたとのことですが、私には想像できません。余程気に入られているのですね。英国で隅々まで手を入れられた車ですから、これからが楽しみですね。ノーマルのエランと乗り比べてみれば、剛様の車の凄さが実感できるかも知れません。アイドリングからクラッチを繋ぐなんて、私が乗っていたエランではちょっと無理でした。剛様の車は、トルクもかなり上乗せされているのではないでしょうか。キャブのセッティングがSR311に近いとお聞きすると、剛様の車の仕様が何となく分かる気がします。100km/hではなくて、150km/hくらいで流さないと調子を保てないかも知れませんね。さもなければ、常に1段低いギアで4000rpm以下には落とさないとか(笑)。1速が速いところから推察するに、英国にあった頃はクラブレースとかを目指した車だったのではないでしょうか。外観がノーマルだとすると、ロータス版「羊の皮をかぶった狼」みたいな感じになるのでしょうかね。街中をレーシングカーで流すなんて、旧車ファンの究極のロマンですよね。実に羨ましいです。

      昔、2スト3気筒のオートバイに乗っていたのですが、同じオートバイに乗っていた年上の人が居ました。2ストですから、街中をトロトロ走っているとマフラーの出口は直ぐにすすとオイルでべたべたに汚れてしまうのですが、その人のオートバイのマフラーの出口は、いつ見てもカラカラのきつね色をしていました。4ストじゃないのだからどうすればこうなるの?、と私は信じられない気持ちでいたのですが、その人と一緒に走るようになって初めてその理由が分かりました。アクセルを殆ど戻さず、常に高回転をキープするような走り方をしていたのです。それも街中でもどこでも。当然、とてつもなく速く、そして周りの車が大変邪魔になるのですが、委細構わずローリングでよけながら、速度をキープしたまま走るのです。この人と一緒に走ると死ぬ!と思ったのですが、よくよく見てみると、意外とオートバイに優しい乗り方をしていました。それはそれは新鮮な驚きでした。上手い人は上手いのだ!と当り前のことに気が付きました。私は上手くはありませんでしたし、死にたくないので、マフラーの汚れはある程度目をつむることにしていました。これはオートバイだからできたことで、車ではこんな運転はできませんよね。ですから私は車に乗るようになってからは、週に2回ほどは全開で高速を走るようにしていました。こちらでは第三京浜と言う高速道路があるのですが、そこは比較的直線が長く、トリッキーなコーナーは無く、通行料金も安いので、このような目的にピッタリなのです。夜中になるとそこに走りに行くのですが、同じような目的の車が何台かいて、必ずと言ってよいほど競争になりました。そこで、自分の車の実力が分り喜んだりがっかりしたりと言うことを繰り返していました。そんな感じで過ごしていましたので、故障は別にして、所有した車は比較的調子の良い車が多かったと思います。

      高速道路でのエランですが、大方の車には負けないのですが、残念ながらRX3には置いて行かれました。加速ではエランの方が速かったので、多分ガスが薄かったのかもしれません。街中でも結構乗り易かったしプラグがかぶるようなことも無かったので、もう少し濃いめにしてやれば高速でも良い勝負ができたかもしれません。

  38. says:

    そうですか、ノーマルのエランだとアクセルクワークなしでクラッチつなげませんか?やはり私のエランは2リッターくらいになってるかも知れませんねぇ? 昔、2TGの1940仕様で乗ってましたがそんな感じでトルクフルです。だから今は下手に吹かさずゆっくりクラッチを繋いでからアクセル吹かすと言う感じですねぇ。ハイギャーなので飛び抜けた加速はしませんが60㌔でも6000RPMまで行ってません。今の所それ以上は回した事がありませんが、しっかりトルクは付いて来てますねぇ。
    今日も乗りましたが電磁ポンプオンでアクセルから吹かし10回で一発でかかりました。kojimaさんのお話からこのエランの仕様が少し見えて来ましたねぇ。
    20歳の頃、私はエス8で流してたら偶然にエランが隣に並びええっ、エランだ!!初めて見る動くエランに大感動したヒトコマが今でも脳裏に焼き付いて離れません。全てはここから始まりました。あっと言う間に置いて行かれましたげどね。でも、これが最初で最後のエランとの遭遇でした。それ程エランは少なかったですぇ。
    次回はGTR、S20の話聞いてやって下さい。知り尽くしてますので。

    • cube-kojima says:

      ご自分の車と対話中って、何か素敵なお話ですね。全てを理解するのにどれほどの時間が必要か、知りたいような、知りたくないような。趣味で乗る車ですから、多少ミステリアスな部分があって丁度良いのかも知れませんね。乗った感じからするとこんな仕様かも、などと類推して楽しむのも、チューニング車を所有した人の特権みたいなものですよね。1速6000rpm以下で60km/hですから、かなりハイギアードですよね。レッドゾーン入口が6800rpmのままだとして、そこまで回すと1速で70km/h程度出る計算になりませんか?。そんなハイギアードな車でアイドリングスタートできるのですから、かなりトルクがあるエンジンだと思います。一体どんな仕様のエンジンなのか、想像するだけでも楽しいですよね。

      自分がエランに乗っていたせいか、当時は希少性を意識しませんでしたが、路上で会ったエランは1台もありませんでした。もっとずっと後年になって、西湘バイパスと言う有料道路を走っているところを見掛けたのが最初で最後でした。S3のDHCでしたが、チラッと見ただけですが、年配の方が乗っておられました。なかなか渋いですよ、エランに年配の人が乗っていると。昔、TR4やMGBに年配の方が乗っているのを時々見掛けたのですが、やはり絵になっていましたね。歳を取ってからスポーツカーに乗るのはなかなか難しいことですが、それだけの価値はあります!。

      ブログにも書きましたが、GT-Rは殆どトラブルはありませんでした。ヒュージブルリンクが壊れて、ウンともスンとも言わなくなったのが唯一の故障でした。比較的長距離が多かったので都合3万kmほど乗りましたが、いつも快調でした。ただ、町の整備工場ではメンテンナンス不可の場合もあり、タペット・キャブ調整などは、品川にある日産の整備工場で行っていました。オイルの交換だけは小まめにしていましたが、他は殆ど手は掛りませんでした。GT-Rを買う前にSR311・エランを経験していましたので、なんて信頼性の高い車だろうと感心したこともありました。事前に調べた限りでは、結構気難しい車だと言われていたのですが、何のことはありません、国産を代表するスーパースポーツがこんなに楽チンな車で良いのかとさえ思ったほどでした。剛様はGT-Rに20年間乗り続けて来られたわけですが、様々なエピソードがあるのでしょうね。是非ともその顛末を、お聞かせいただければと思います。

  39. says:

    kojimaさんはGTRを1975年に購入されたのですね。昭和50年とすぐ解かります。一番底値の頃かなぁ。こちらではセダンが60万、ハードが120万位から売ってました。この時に買っておけばとよく思った物です。ホンダS600に関しては書類ありが二台となし一台、3台で15万でどうだ!!と言われた事もありました。我が家に3台も置くようなスペースは到底無理な話で諦めましたが。当時ですら喉から手が出てましたねぇ。
    私がGTRを購入したのが36歳の時でしたが年々上昇の一途のGTR、今買わねばもう買えなくなると思い、当時で210万で四国で購入しました。数年後にマイホームの新築計画もあると言うのに無謀と思える計画でしたが、昔も今も変らぬのは趣味の車があるから元気に目標を持ち生きて行ける、俺にはエネルギー源なんだ。と自分に言い聞かせてました。
    だからその後、GTRを手放しロードスター一本にしましたが確かにワインディングロードや 峠を走るには楽しい車ではあったのですが何故か満たされる物はなかったですねぇ。だだ車庫で静かに眠り続けるエランだけが心の支えだったのも確かです。世間に車好きは星の数程おりますが私のような人間は数少ないと思うようになりました。35年来の付き合いでもあるGTRオーナーズクラブの会長も私と同じ人間でしたが病で倒れ、今ではひとりぽっち?になりました。

    GTRの話に戻しますが若い頃はGTRはオーバーフェンダーに超ワイドタイヤが似合うハードトップに限ると思ってましたが、年齢と共に4ドアセダンに魅力を感じるようになって行った私でした。
    S20エンジンは一台、一台何故か同じサウンドで同じ雰囲気の車はありませんでした。何が違うのでしょうかねぇ。ただ私が所有してたのは44年の初期型、PGC-000146で146番目に生産された車でした。
    オイルポンプがギヤー駆動でレーシングするとヒュンヒュンと独特な音がしました。80キロ位で流すと何ともいえない静かなキーンと言うギヤーの音がして自己満足陶酔の世界でしたねぇ。
    その後、ハードになり、ケンメリになり、スパルタンさはどんどん消えて行きました。kojimaさんはハードなのでかなり大人しい車だと思いますねぇ。(ノーマルなら)
    44の初期型は超スパルタンでエンジン音もでかいです。それが45年のマイナーチェンジであれっと言うほど大人しくなってます。(内装に関してはちようど鉄からプラスチックに変更した時代で大きく変りました。
    エンブレムも鉄からプラスチックに換えられ安っぽくなりましたねぇ。)又、ハードになるとずいぶんマイルドで静かになったと思います。ケンメリに関してはもうファミリーカーに近かったですねぇ。親友の会長はセダンとハードの二台所有でしたがOH時にエンジンをそっくり入れ替えをし、マイルドなセダン、スパルタンなハ-ドへと変貌したので間違いありません。多分ヘッド がいろんな種類ありましたしバルブリフターも二種類、バルブも二種類ありましたのでいろいろ改良変更されましたのでその影響だと思います。これノーマルの話ですけど。

    私のGTRは四国の高知県までエンジン OH済みで動くと言う事でしたので赤ナンバーを借りて自走で帰る計画立て友人と二人で片道12時間かけて行きました。あの頃は私はまだ喫煙中で一番体力が劣ってた頃でしたのでかなりしんどかったですねぇ。(瀬戸大橋が往復で当時は8000円でした!!。)そこで対面したGTRは大きなタペット音がしてました。カンカンカンカンとね。近県ならやめて帰りましたねぇ。ここまで来た以上仕方ないと覚悟し購入しました。(エンジンも二機持ってるので何とかなるでしょう!!と当時は強気でした。) 赤ナンバーを付け我が家を目指し高知県を後にしましたが、3000RPM以上回らない!! パーキングに入りキャブのアジャスティングスクリューを調整しようとしたら1機のデロルトギャブのスクリューが折れて無くなってるではありませんか!!この時は冷や汗が噴出し、血液が下りる様な感覚に襲われました。とりあえずキャブの同調のみ取り直しエンジンは何とか動いてるし。。最悪の事態に怯えながらの長い帰路に着きました。名神高速道路を60k走行で五感を研ぎ澄まし何とか我が家に辿り着いたと同時に猛烈な睡魔に襲われまるで死んだように熟睡しました。高知県をとんぼ返りで26時間中、睡眠は僅か1時間の過酷なロードでした。私の人生振り返ると一番忘れる事のできない1日でしたねぇ。。   続くと言う事で笑。

    • cube-kojima says:

      はい。GTRを買ったのは1975年です。1971年(46年)式のKPGC10を、110万円で購入しました。蛇足ですが、1971年と言えば、私達が高校を卒業した年ですね。このGTRは日産に勤務していた人がオーナーで、きっちりと整備されていました。勿論ノーマル車です。フロントがオーバーフェンダーになっていたのは、流行りか何かだったんでしょうかね。私は車の外装をいじるのは余り好きではありませんので、これが唯一気に入らないところでしたが、そのうちにノーマルフェンダーに戻そうと思っていました。GTRのエンジンは、そんなに種類があったのですか?。そうすると気難しいとか雑誌に書かれていたのは、あながち妄想記事だとは言い切れないのですね。確かにスーパースポーツと呼ぶには、私の乗っていたGTRは迫力が足りませんでした。それまでに乗ってきた車が車ですから、乗り心地も大変良かったですしね。加速は速くないですが、速度に乗ってしまうと、そこからは速いと言う感じでした。もし今GTRを買うなら、そしてスパルタンな感覚を求めるなら、初期の4ドアを探せ!と言うことですね。こんなこと、お聞きしないと分かりません。しかし何れにしても、やはりGTRは当代随一のスーパースポーツだったのだと思います。現代においてこれほど珍重されている国産車なんて、それほど多くありませんから。

      剛様のGTR購入の顛末は、笑うに笑えない体験ですね。今はもう笑い話になっていることと思いますが・・・。それにしても、車体購入の前にエンジンを2基お持ちになっていたとは、恐れ入りました。購入した車が3000rpm以上回らなかったなんて、その時の心底落胆した気持ちは嫌と言うほど分かります。私はS8の後、いっときコスモに乗っていた時期がありました。当時のロータリーエンジンは耐久性が低かったのですが、購入した車はOH済みとなっていて整備記録もありました。しかしいざ乗ってみると全くパワーが無く、914の1.7リッター車に付いて行くのがやっとでした。こんな筈はないといろいろと調べたのですが、燃料系・電気系に異常は無く、これが実力なのか?いやいや待て待てと、自問自答を繰り返す日々が続きました。そんなある日、突然キャブがお亡くなりになり、不調の原因もキャブにあることが判明しました。修理が終わってからは本来の速さを取り戻し、楽しい日々を過ごしました。しかしコスモは、形はスポーツカー然としていましたが、走りも操作系も乗用車でした(笑)。外から見るとシフトレバーは、いかにもストロークの短いカチッとしたものに見えますし、ウッドリムのハンドルはこれもカッチリしたもののように見えます。しかし、実態は乗用車なのでした。過大なシフトストロークとゴムをひねるような曖昧なハンドリング、効きそうで効かないブレーキと言えばあの頃の大多数の自動車を思い出されることと思います。速く走れるようになった興奮の時期を過ぎると一気に熱が冷め、GTR購入へと気持ちが傾いて行きました。

      時と共に、乗りたい・欲しい車は変化して行きますから、いつまでも同じ車を所有して居られることを大変羨ましく思います。複数台所有できる財力と、それらを置いておく場所が必要になるわけですからね。それにしても「車庫で静かに眠り続けるエランだけが心の支え」のお言葉には、グッと来るものがありました。私もそんな言葉を一度で良いから発してみたい・・・羨望の極みです。

  40. says:

    コスモスポーツは外観とはかなり落差があるのですねぇ。私は昔からロータリーはエキサイティングに走らないから興味ありませんでしたけど、コスモスポーツは良い音で走ってたような記憶です。
    少しkojimaさんに似てるかも知れませんが私の知り合いにも購入してレストアし完成すると急に冷めてしまう人がいます。本人も自分自身、不信に思うと言ってますねぇ。数年でSR311~GTR ~ケ-ターハム7と乗り継いだ彼、 今はビンテージ腕時計の販売で頑張ってます。だだ何に対しても物知りで私にはなくてはならない友でもあります。昔の商店街の廃業寸前の時計屋さんに骨董価値の高い物がいっぱいあると言ってましたねぇ。今年60歳なので退職してお店出す筈です。昔の時計屋さんが片目の小さな眼鏡で修理してる光景を遠い記憶の中にあると思いますが、将にそんな感じです。今では修理も完璧のようです。彼の凝り性には私も脱帽ですわ。

    現在のハコスカGTRはハードトップで15000万以下では買えませんし、セダンでも1000万以上ようです。私が手放した要因の一つに日産のパーツ打ち切りもありました。バンパー一本10万円ですよ! 
    又、日産で在庫が減ると各ショップの買占めです。そんな話を耳にするとガッカリです。
    それと私の近くにGTRを10台所有してる人がいるのですが めちゃ、変人、大きな倉庫に埃を被ったまま放置、勿論車検もなしでナンバーは当時の古い物が付いてますが税金も払わずです。全く乗らずもう30年間以上も放置、そのくせパーツは未だ買い集めてる人です。GTRはそんな乗らずに仕舞い込んでる人が多いのも確かです。当時私たちのオーナーズクラブでも在籍は15名程おりましたが車検取得して乗ってる人は僅か3~4名でした。最後は乗ってる奴が異常だ!!なんて話してましたねぇ。本来はアマチヤアのメカ好きがいじって楽しむ車なんですけどね。

    話を戻しますが我が家にやってきたGTR、油圧が上がらない、ヒーター動かない、水温計もおかしい、タコメーターも誤作動、難題が山積みでした。キャブは純正も付けて見ましたがいまいちでミクニ工業の完成品と言われた4型トヨタの2T-G用に変更しました。でも調子が悪い。その原因はキャブでなく、ガソリンタンクの錆が燃料フィルターを詰まらせガソリンが来てないのを発見しました。 タンクシーラーなるの物を購入しコーティングでしのぎました。
    ただGTRほど整備のやり易い車はないと思いますねぇ。どこでも簡単に手が入りメンテナンス性は抜群でさすがにレーシング目的の車だと実感しました。又、タペットの煩い音は何と当時からシムは無かったのか加工したシムが付けてあったのですがそれが外れてクリアランスが出すぎてるのが.原因でした。ついでにタペット調整も完璧にと24個を全て誤差0.3ミリ以内に収めるのに丸一日かかりました。カンカン音が出ない初めて聞く我がGTR、S20サウンドは感激でしたねぇ。
    試行錯誤の末、タコメーターの誤作動はフルトラを新品に交換したら直りました。ヒーターは分解掃除でoKです。これとてとても簡単に外せました。残すは油圧メーターが上がらない原因のみになりました。センサーを交換しても変化なし、スペアーメーターも持ってたので交換してもダメ。迷宮入りしかかってた矢先にカンカンカンカンと耳を劈くような金属音!!そうですクランクシャフトが逝っちゃいました!!この時の落胆は空前絶後、将に足から崩れ落ちる感じで 立っていられませんでした。終わった終わった、何故かもっと家庭を顧みなきゃ、と何故かそんな事が脳裏を霞めました。
    それから空白の期間は二週間位だった思います。サービスマニュアルを貪るように熟読する自分がいました。よ~し、自分でOHしよう、いや、もし失敗したらもう立ち直れないと叫ぶ二人の自分との戦いでした。でも予備のクランクシャフトは1本しかないし、当時ですらクランクシャフトは中古でも1本30万もしました。もし失敗したら。。そう考えるとかなり屈辱的でしたがショップに依頼する事にしました。カーボーイやカーマガジンでS20エンジン売ってましたがほとんどクランクが焼け付きダメな物ばかりでしたねぇ。長いクランクは捩れが出やすく、GTRだからとオーバーブレさせるものですから、くたびれたエンジンはすぐ焼き付きを起こします。ノーマルGTRは7000rpmまでに抑えないと原始的なS20のクランクシャフトは一番の弱点でした。kojimaさんの頃はまだ新車に近かったから良かったのだと思います。ガソリンタンクの錆とクラククシャフトが一番の弱点でしたねぇ。それがなかったら気楽に乗れる車だと思います。私は手放すまでに8万キロ走破しましたがかなりパワーダウンしてましたねぇ。昔のエンジンはだいたい5万キロ位で本来のパワーが出なくなりましたが今は私の01ロードスターですが21万キロ走ってもパワーダウンしませんから。。部品の品質向上と技術の進歩なのでしようねぇ.

    所でこれは私の自慢なのですがS20エンジン、アイドリングからレッドゾーンまで1秒で回りましたがkojimaさんどうでしたか?笑。 キャブのセッティング次第でそこまで持っていけるのがS20なんです。
    会社に若い車好きのコが当時4AGの後期型、カローラFXに乗っててレッドゾーンまで1.8秒弱で回るとカタログに記載されてるとの事でしたが確かに86の頃とは別物くらい回りましたねぇ。その彼にGTRはこんな感じだよ!!とレーシングしてやりましたが感動してましたねぇ!! あの時は私も負けじとレーシングしたもんだから10000rpmまで回ってしまい冷や汗搔いた記憶があります笑。どうだ、これがGTRだよってね。

    • cube-kojima says:

      コスモスポーツは格好は良いのですが、中身はやはりあの時代の車です。もう40年以上前の車ですから、所有するとなればそれなりの付き合い方が必要で、そこに楽しみを見い出せないと落胆することになります。当時のロータリーエンジンは回ることは回りますが、下から一定のペースで盛り上がって行く感じですから、ドラマチックなところはありません。回転が軽いと言っても、アクセルをちよっと踏んだ程度では敏感に反応するわけではありませんから、レスポンスが良いとは感じませんしね。乗ったことが無いので良く分かりませんが、最後年のRX7などに積まれたターボロータリーなんかは、どんな感じで回るのでしょうね。

      ビンテージ腕時計を手掛けているお知り合いがおられるそうですが、パーツが細かく構造が繊細なので、修理・OHは超絶に大変な作業になります。私もカメラ(フィルムカメラ)とレンズの分解修理を幾度となく手掛けていますが、とくかくパーツが小さく細かいので、大変厄介な作業となります。昔のことですが、私は仕事で通信機・計測器の製造・修理を手掛けていたことがありました。その頃は半導体の時代になっていて、IC等も続々と誕生していました。ですから、作業の相手はプリント基盤上の小さな小さなパーツで、これほど細かい作業は他には無いだろうと考えていました。カメラは精密機械と言われてはいるが所詮は機械物であり、電子回路の複雑さには敵わないだろうと思っていたのです。しかし、最近になってカメラを分解してみてビックリしました。カメラが何故精密機械と呼ばれているのか、嫌と言うほど思い知らされました。ピンセットとルーペが無いと、作業できないのです。小さな小さなネジは、ピンセットで掴んでいても何処かに飛んで行ってしまいそうで、正に息を飲むような作業が必要になります。パーツを指先でつまむなんてことはまずできませんし、組み込まれているスプリング類は、誤って外してしまうと二度と組み込めないのではないかと思われるほど、意地悪な存在です。カメラでそれなのですから、もっと小さな筺体にびっしりとパーツが詰め込められている腕時計の分解・修理は、より一層作業が難しいことが理解できます。想像するだけで、身の毛がよだつ感じがしますね(笑)。

      現在のハコスカGT-Rは、殆ど投機物件化しているのですね。幾ら何でも1500万円と言うのは、無茶な価格だろうと感じます。それだけの価値が、ハコスカGT-Rにあるとは思えません。昔乗っていたから、そしてGT-Rの物と成りの一端を知っているから、そう感じるのかも知れませんが・・・。空冷ポルシェも、近頃は投機的な傾向があります。70年初期のナロータイプならともかく、930・964等の何の変哲もないスタンダードタイプが、500万とか600万とかのとんでもない価格になっています。ハッキリ言って馬鹿ですね(笑)。930・964は、ナロータイプに比べると台数が1桁以上多いですから、希少価値があるとはとても思えません。空冷ポルシェはもう手に入らないよ!と言う、謂わば脅迫的観念で価格が高騰しているようです。ただ、絶版希少車の価格高騰は世界的な傾向ですから、ハコスカGT-Rが1500万しても、何の変哲もない空冷ポルシェが500万しても、決して不思議な話ではないのでしょう。私も昔の車が好きな人間ですから、ビンテージカーの価格高騰に一役買っているのかも知れません。ただ、買える買えないは別にして、明らかに価格と釣り合わない車は、とても買う気にはなれません。もし今自分がハコスカGT-Rを買うなら、歴史的価値を加味しても、その1/3程度の価格が上限だろうと思います。手の入っている物ならともかく、決して速くもないし操縦性が傑出しているわけでもありませんから、程度の良いヨーロッパなどを買った方が余程楽しめるだろうにと思います。車はやはり、乗って走ってなんぼだと思います。後生大事にしまい込んでいると、将来、環境・交通規制などで自由に走れなくなり、ビンテージカーは無価値の物件に成り下がるかも知れません。自動運転車を普及させるなんて言っているワケですから、将来的にはヤバイのではないかと思っています。車を楽しむなら、今の内かも知れません。

      剛さんがお買いになったGT-Rの修理ですが、正に壮絶な戦いがあったのですね。私は自分では車のエンジン修理はできませんから、それがどれほど大変な作業なのか、実際には分かっていません。S20エンジンの構造程度は知識として仕入れましたが、だからと言ってどうするものではなく、自分でエンジンをいじくろうとは露も思いませんでした。私は今まで、機械製品にも電気製品にも全幅の信頼を置いたことは無く、それらは基本的に壊れる物だと言う前提に立って来ました。ですから修理に関する事は、プロに任せたいと言う気持ちが強いのです。電気系統については、今までプロとして仕事をして来ましたので、自分でいじっても何の危惧も抱きませんが、車だけは下手をすると命に係る場合がありますから、恐ろしくて自分でいじくろうとは思わないのです。恐らくは車の構造を良く理解していないので、こんな話になるのでしょうね(笑)。しかしそれにしても、中古のクランクシャフト1本が30万ですか・・・。思い返せば、SRもエランもS8もコスモもGT-Rも、当時の相応価格で買うことができたし、修理費用も予想できる範囲の金額だったので乗っていられたようなもので、今改めてそれらの車を買うかと聞かれれば、躊躇なくNOと言います。だってハコスカGT-Rを1500万出して買ったとしても、最近の乗用車の方が余程速そうなのは、精神的に耐えられそうにありませんから。車はやはり、価格相応の特徴か、若しくは速さを備えていないと拙いだろうと思うのです。

      私の乗っていたGT-Rですが、アクセルをちょっと踏んだ程度だとエンジンはワッと吹けるのですが、タコメーター上は4000rpm程度でした。基本的に空吹かしは避けていましたので、無負荷でレッドゾーンまで回したことはありませんでした。走行中は4速まではいつもレッドゾーンまで回していましたが、5速ではそこまで吹けませんでした。ジェットを代えるとかしてガスを濃くすれば、もっと回ったのかもしれませんが、確かめたことはありませんでした。剛様では考えられないことでしょうが、私の場合はそんなものでした。何れにしても、1台の車を煮詰められるまで乗り続けたことが無いので、夫々の車がどの程度のポテンシャルを持っていたのか、実際は分かっていなかったと思います。私は人一倍飽きっぽいのですが、物持ちは良い方なので、押入れをひっくり返すと予想外のものが現れることがあります。しかし、車は大きさが大きさですからそう言うわけには行かず、飽きると乗りかえていたので、乗った台数だけは多いのです。自分が乗っている車はどのような車なのか、それが分かってしまうと何となくつまらなくなります。つまらなくなっても、それなりに魅力がある車には乗り続けることができました。一番長く乗った車はポルシェターボで、6年5万kmでした。子供が大きくなり家族3人で乗れなくなったので928に買い替えたのですが、それが無ければ今も乗り続けていたかもしれません。いつも話が逸れてしまいますが、そんなわけで、私が乗っていたGT-Rがレッドゾーンまで回るのに、どの程度の時間が掛っていたのかは分かりません。剛様の話から判断すると、常識的な性能のS20だったのではないかと思われます。

  41. says:

    走行中は4速まではいつもレッドゾーンまで回るなんてさすがに新車時代ですね!! それとkojimaさんのGTRは整備士から譲り受けた物なので完璧だったと思います。 私たちの頃はほとんどが事故車の修復暦ありの車ばかり、それも当時は修復技術も悪く120キロくらいから振動が出る車が多かったですねぇ。私のGTRもレーシングのみはエンジン良く回りましたが現実は120キロくらいから振動が出で怖かったです。リア側に大きな修復暦があり、多分ボディが歪んでいたと思います。4ドアはほとんどレース上がりの車ばかりで床は腐り落ちたのが大半でハコスカの1800などの床を切り取り移植されてましたし、経年劣化の現実は厳しかったですねぇ。でも4速でレッドソーンまで回るGTR に乗ってみたかったですねぇ。

    クラブ内に当時有名だった石坂自動車で500万掛けてフルレストアした人がおりましたが(同時点火になってました。)そのGTR運転させてもらい3rdでレッドゾーンに入ってもトルクが付いて来たそんな車でしたが将にそんな感じだったのですねぇ。やはり新しいうちに乗らなくてはダメですねぇ。吉田匠さんもエランのインプレで新車の頃に載ってみたかったと言われた言葉を思い出しました。

    又、私は車を運転する技術よりも何故かメカの方に興味を持つようになってました。若い頃はお金がなかった事が発端でしたが知識もないのに何度もエスハチの4連キャブをいじり、名岐オートで叱られた物です笑。
    当時の整備は企業秘密に近かったですからねぇ。カーボーイが創刊された時はこれこそ、望んでた本だ!!と思いました。
    エランでお世話になった篠田レーシングの店長もその昔はレーサーでしたがメカの方が好きでそちらがメインになって行ったと言われましたが将に自分と同じタイプの人だと思います。ただ、ボーリング、エレキギターなど同じ趣味でも自分では足元にも及ばない頂点まで極めた人でしたので信用してエランを出しました。整備は解かれば解るほど他人には出せないです。みんな目に見えないのでいい加減がほとんどでぼったくりばかりです。OH済みで100万支払ってもピストンリング交換してバルブの擦り合わせだけで済ませる業者が大半です。最低でも交換したパーツは全部返して貰わなくてはダメですねぇ。そしてベンチテストは必ずやりますのでパワーチ ェック表を貰うべきです。ソレックスキャブなんかOHすれば簡単に直るのに知識がない人と解ると新品買わされてましたねぇ。

    10年位前まで、私は定年になったら英国車のショップ経営を夢見てましたが、国産車と違い、こちらは長年の実績がないと難しいと感じましたし、時代は逆風でした。お金儲けなら国産車に限るとも思いました。

    旧車オーナーズクラブでも私は主治医的存在で好きな人にはキャブ調整からメンテナンス全て伝授してあげました。GTR時代の私は日産の汚れたツナギ服のイメージの人が多いと思います。それくらいメカが好きでしたねぇ。たから私が手放した車は全て買った値段よりも高く売れました。そんなに財力、資産もない私が現在まで乗り継いで来られた理由のひとつだと思います。S20の6気筒24バルブからエランの4気筒、8バルブのエンジンに限っては何の魅力もなく、おもちゃみたいな物ですし。それよりもう年齢的にも根気がなくなったのかも知れません。今は細かなメンテはやる気ないですねぇ。

    そうそう、このエランでも新規車検取得し何とか走るだけでした。ウェーバーキャブのバタフライシャフトは捩れたままで4気筒ともバキュームがバラバラの状態でした。捩れの調整とジェットセッティングは試行錯誤で大変難しい作業なんです。又、後日、キャブ修理で来て下さいと言う感じでした。完璧に修理してお店に行ったら不機嫌そうな顔してましたわ笑。でもそれが商売なんですよ。 個人病院でもそうですねぇ。簡単に治したら儲からないし通院させるような治療しかしませんねぇ。私は10年位前から蓄膿で花粉の季節になると必ず病院通いしてましたが、次第に治療方法に疑問を持ちはじめ、営利の関係ない?大学病院へ行ってみました。そしていきなりCT検査でした。そして蓄膿の直接の原因は歯から来てる事が判明しました。耳鼻科じゃ解るわけないですよねぇ。すごい無駄金使いました。kojimaさんも何かあっても個人の医院はやめた方がいいと思います。私の親父は4年前に89歳と10ヶ月で他界しました。年齢的には天寿全うと思えますが、これでももっと早く気が付いていたら。。そして大きな病院だったらと後悔もしました。今まで寝込んだような病は一度もした事のない頑丈な親父でしたが始めての病気で逝ってしまいました。個人病院で薬漬けにされてね。。

    話は変りますがラブラドールを飼ってみえましたようですね。私もペットは大好きで子供の頃からいつも隣に何かはいました。4年前に白の雑種でしたが17年の生涯を閉じもうペットは二度と飼わないと思ってたのですが女房が偶然に飼育出来ない人から3歳のちわわを譲り受け、現在は8歳のおばさん、ちわわですが我が家の家族でなくてはならない存在になってます笑。内犬は初めてですが外犬よりもっと身近な存在でメチャ可愛いですねぇ。

    子供の頃はクワガタ、カブトムシ、カニ、カメや鯉、キリギリス、鳩、熱帯魚、アライグマ笑!! サザエ、海水魚など何でも来いでした。こんな話もしましょうか!!

    話を戻しますが17年間一緒に生きて来た愛犬はラッシュと言います。火葬場で子犬4匹捨ててあった中の一番小さくて愛想のない犬を選んだのは何かの因縁だったのかも知れません。

    非常に気が小さくて大人しく、まるでメスのような雄犬でした。私の住んでる岐阜の羽島市は大田舎ですので屋敷だけはやたら広く300坪くらいありますがほとんど放し飼いで飼える犬でひとりでは絶対に外へは出ませんでした。朝晩の散歩は私の日課でしたが田舎なのでほとんど放し飼いで大丈夫でしたねぇ。ゴー、と言うと走り出し、ストップの号令でピタリ立と立ち止まる。そんな賢くて従順な犬でした。私の見えない所には絶対行きませんでしたし、しゃがめば必ず大急ぎで戻ってくるそんな犬でした。動画もいっぱい撮りましたが今でも見てると涙になります。正確には16年と10ヶ月の命でしたが最後は病院にも見放され私の手で安楽死させてやりました。死体は火葬場(遺骨もなにも返して貰え ないので ヤメました)ではなく我が家の畑で埋葬してあります。今でも時々そこで話しかけてますけどね。 次回に。。

    • cube-kojima says:

      剛様のお話をお聞きすると、中古車業界の闇?みたいなものが良く分かります。もし今、GT-Rが欲しいと思ったら、そのような状況を覚悟する必要があるのですね。私が気づいていなかっただけなのかも知れませんが、今まで乗って来た車で購入時から明らかに調子が悪かったのは、コスモくらいだったと思います。そのコスモもエンジンはOH済みでしたから、調子の悪かったキャブを交換しただけで、元の性能に戻すことができました。新車を除いて、いろいろと買った車は必ず1度は故障していますが、その修理は知り合いの整備工場とか、オーナーズクラブお勧めのショップとかでしていました。それらの工場は交換したパーツはきちんと返してくれましたし、故障の原因も丁寧に説明してくれましたから、不安を感じる要素はありませんでした。エランの時だけは選択の余地が無く、今までロータスのディーラーだった会社の整備工場を利用するしかありませんでしたが、パーツ・工賃とも滅茶苦茶高かったものの、修理は信頼の置けるものだったと思います。そして剛様の仰るとおり、私が乗っていたそれらの車は、新車からせいぜい4年落ち程度の車ばかりでしたから、重大な故障に繋がるような問題は抱えていなかったのだと思います。重大な故障にもいろいろありますが、私が経験したものは全てメジャーな故障でしたから、特に深刻なものは無かったと思います。購入した時に一番年数が経っていた車はSP311の1966年式車で、新車から6年経過した車でした。しかしこのSPは非常に程度の良い車で、遅いのさえ我慢できれば長く乗っていられる車だったと思います。その他の車達は今までいろいろと書いたとおり、良い所も悪い所も合わせ持った車ばかりでしたが、その時々で非常に楽しい思いをさせてもらえました。同じ車であっても、年数が過ぎてビンテージカーと呼ばれるようになってしまうと、やはりいろいろと問題が多いのですね。う~ん困りました。今度は何を買うか、また悩ましい要素が1つ増えちゃいましたね。

      GT-Rに限らず、5速ミッション車は大体4速でレッドゾーンまで回していました。勿論、回して気持ち良い車とそうではない車がありましたが、回すつもりならば大方の車で4速レッドゾーンまで回せました。あの頃の車では4速でレッドゾーンまで回したとしても、実際のスピードはたかが知れています。私の乗っていた車達は、エンジン関係は全てノーマルでしたし、当然ギアなんていじってませんから、実測ではせいぜい180km/h出ていたかどうかと言う程度だったと思います。SR311は、CGのテストで実測値190km/h、0-400mm 15.4秒でしたから、当時の国産車では最速の車でした。私が乗っていたSRは調子が今一歩だったのかも知れませんが、4速の時のスピードを5速では維持できませんでした。当時の車の最高速は、大方の車が4速で記録されたものだったと思います。しかしこんな具合にブンブン回せたのは、新車時から年数が経っていなかったからなんですね。やはり昔の車と付き合うのは、精神的にも技術的にも豊かでないと難しいと言うことが、改めて良く分かりました。そしてS20と言うエンジンは、実際にかなり神経質だったことも分かりました。私の乗っていたGT-Rは、経年変化が少なかったことを差し引いても、調子が良い部類だったのだと思います。こればかりは同じ車種を何台も経験したり、深く付き合ったりしないと分かるものではありませんね。

      剛様のメカとしての腕は、相当なものなのですね。幾ら自分の楽しみのためにやっていたのだとしても、その知識や経験がこのままになってしまうのは、惜しい気がします。お住まいも広いので、余暇を利用して庭先でサービスショップ的な仕事をやられるのも、面白いのではないかと思います。商売にしようと思うと大変ですから、アルバイト的な感じでおやりになると、楽しめるかもしれませんね。英国車のショップを始めようとされたことがあるとの由ですが、車体の販売が主になると辛いのではないかと思います。仕入れが大きな問題になりますし、在庫を抱えている間は資金繰りも考えなければなりませんし、店の賃貸料やら改装費やらで、考えるだけでヤメ!みたいな感じになります。でもワークショップみたいなものだったら、面白いのではないかと思うのです。勿論、剛様の本業との兼ね合いもあるでしょうけれど、世の中には旧車を抱えて困っている人が沢山居るような気がします。

      私の家族はもともと動物が好きで、子供の頃は鯉・蛙・チャボ・ネコ・犬・リス・うさぎ・ワニ(笑)・熱帯魚等々を混在して飼っていました。私の生家は庭がそこそこ広かったので、大型犬などでなければ全て放し飼いにしていました。勿論家は塀に囲まれていましたので、脱走できるのはネコ・リスだけでした。それでも不思議なことに、動物同士で喧嘩をするようなことはありませんでした。脱走しても、直ぐに帰って来ましたしね。リスだけは脱走させちゃうと、帰ってきても捕まえられず厄介でしたけれど・・・。うさぎは、電化製品のコードをかじってしまうので、一度家の中で放して大変困ったことがありました。生家で飼っていた動物の思い出は、今も鮮明に記憶に刻まれています。現在の所在に越して来てからは、土地が広くないこともあり、ほとんど小型犬だけを飼って来ました。幸い、近くには市民の森みたいなところがあり、散歩のコースには事欠きませんでしたから、ゴールデンも何とか飼えましたが。ただそれだけに、飼っている動物が死ぬのをずっと見て来ましたので、自分が歳を取るに従って、動物を飼うのをためらうようにもなりました。飼っていた動物に死なれると、非常に辛いですからね。ブログに載せたゴールデンが死んでから丸6年以上経ちますが、それ以来、犬もネコも飼っていません。ただ、動物と生活を共にすることは、大袈裟ではなく、人生を豊かにしてくれます。住まいと、そして体調と相談しなければなりませんが、また機会があれば飼ってみようかと思っています。

      ここ数日、なぜか仕事やら何やらでバタバタしていて、ご返事が遅くなりました。今日は26日(土)ですが、まだ落ち着きません。もう皆さんは、お休みモードですよね。年越ししたら嫌だなと思っています(笑)。

  42. says:

    2015年ももう終わりですね、年齢と共に月日の流れが急ピッチに加速し過ぎ去りますねぇ。来年は64歳!! 死んでも若い人から見れば良い人生でしたと言われる年齢ですわ笑。
    しかし、ペットもいろいろ飼われましたねぇ!! 我が家は子供が小さい頃は動物園と言われてました。何かと共通点が多いkojinaさんですので親近感を持ちます。又、来年も宜しくお願いします。

    • cube-kojima says:

      早いですね、時の経つのが。50代は坂を転げ落ちる感じでしたが、60を過ぎてからは、小学校の6年間を1年で過ごしているような早さです。小学校の6年間は、それがもう永遠に続くのではないかと思うくらい、時の流れがゆっくりしていました。来年は64歳ですね。でも、まだまだ悲観するような歳ではありません。昨年の11月、実母と義母が相次いで亡くなりました。86歳と95歳でした。父親は今年87歳で、誕生日が3月の早生まれですから、歳が明けて少しすると88歳になります。義父が亡くなったのは92歳の時でした。周りがそんな感じなので、80歳を過ぎないと往生した内には入らないような気がしています。そう考えると、少なくともあと20年くらいはあります。これから20年と考えると、やはり長い長い時間に感じます。僕らの歳になるとアクセクする所が少なくなり、自分がどのような環境に居ようと、楽しめば良いと思えるようになります。例え仕事に追われている時でも、楽しさを感じてしまうのは、変態なんでしょうかね(笑)。一遍にやると疲れるので、少しづつ楽しみながら生活できればと思っています。
      剛様のお子さんは、やはり動物が好きなんですね。私の子供も、動物は大好きですね。ただ一番下の娘は、昆虫が苦手なんです。小さな頃は、セミが飛んで来ると、悲鳴を上げて逃げ回っていました。家の中に居る小さなハエ取り蜘蛛もダメですね。私が住んでいるところは、比較的自然が残っているところですが、最近は虫を余り見掛けなくなりました。今年の夏は、セミの鳴き声もあまりしませんでしたね。剛様のお宅の辺りは、いかがですか。夏になれば虫であふれ返っていた、子供の頃が懐かしいです。
      こちらこそ、また来年もよろしくお願い致します。

  43. says:

    あっという間にお正月も終わりましたねぇ。お正月のバーゲンセールに飛び回り買出ししてました。実は私はもう57歳で会社を辞め、若い頃からの憧れだった解体屋でアルバイトしてました。でも今は解体屋なんて絶滅状態でパキスタン人の経営の解体屋で。。面白かったですわ!! オークションで仕入れた少し古めのBMWとかベンツを真っ二つに切断しコンテナに乗せでドバイへ送る仕事なんですけどね。

    この話は私の今までの人生で最も?????でした。ロシア人3人と日本人3人で働いてましたがこの不思議な話は後でゆっくりお話します笑。

    60歳の時に私は自分の趣味と実益を兼ねたアメカジショップをネットを通じて経営してます。主にレッドウィング、ダナーなどのブーツ、ミリタリー関係の衣料品の販売です。それを仕入れにお正月は飛びまわってました。しかしもう背負う物何もないので気楽です。でも趣味と実益を兼ねた仕事がこんなに楽しいなんて思いませんでしたねぇ。毎日ブーツのレストアに励んでますが車と比べたら簡単なもんですねぇ。本当に車は体勢は悪く、手は入らないボルトは折れる、おまけに外仕事の冷暖房なし、車以外の物は何でも簡単に思えてきます。先日も換気扇から異音が出るので業者に頼んだらベアリングがダメで交換以外ないと言われたのですがモーターにベアリングなんて全く関係ないのは車で熟知してるので自分で取り外し掃除したら完璧に直りましたねぇ。9万円浮きましたわ笑。でも業者が掃除すれば直るなんて言えないですよね。今は家電にしても何でもそんな感じですね。
    所で私の仕事ですが注文が入ったら荷造りしてエランにしようか?01で行こうかと悩み??コンビニまで届けるだけです。今までの人生で今が一番楽しいかも知れません。この仕事を始めてから年中ブーツして履かない私でしたがさすがにエランだけは無理でペラペラのスニーカーを購入しました。改めて01も運転してみると微妙な感覚が足に伝わり運転がいっそう楽しくなります。そうなるとブーツの出番が全くなくなるのでエランのみと決めました。女房とよくJR主催のさわやかウォーキングに参加しますがブーツ履いてミリタリー着て参加してるのは私くらいのものです笑。A2、M-65、タンカースと言えば解りますか?これが私のファッションです。

    暖冬とは言え、最近メッキリ冷えるようになりエランのエンジンスタートの空ぶかしの数は15~20回位やらないとエンジン掛かりません(但し、チョークワイヤーは繋いでないので使用なしで)。ウエーバーって初体験なので解りませんが、こんな感じなのでしょうか?最近疑問に思えてきます。kojimaさんの乗ってたS4エランは ウエーバーキャブでしたか?

    • cube-kojima says:

      松の内もアッと言う間に過ぎて、1月も中旬に突入しました。1ヶ月後には、2016年の暮れが来そうな勢いです(笑)。63歳になったばかりだと思っていたのに、気が付けばいつの間にか64歳になっていたと言う・・・昨晩見た夢のお話です。歳のことは気にならないようでも、実は心の深層ではかなり気にしていたのだと言うことが良く分かりました。
      若い頃から解体屋さんに憧れていたとは、本当に車がメカが好きなんですね。昔の話ですが、私の知り合いにも解体屋さんが居て、毎日忙しそうにしていました。解体した車から部品を取り外しそれを販売するのが主な仕事で、海外への輸出はやっていなかったと思います。その部品のデータ化について相談されたことがありましたが、膨大な量のデータをどのように保存するかが問題でした。当時はCD-ROMがやっと世に出たばかりで、CD-ROMを焼くためのハードウェアはバカ高で、簡単にCDを何枚も浪費できるような状況ではありませんでした。書き換え可能のCD-RWなんぞは、まだ姿が見えなかった時代でした。毎日のように部品在庫が変動するわけですから、もう手作業ではどうにもならない状況に追い込まれていたようでした。取り敢えずデータの内容を絞り込んで、ハードディスクに分散して保存する形のプログラムを作りました。当時使用していたPCはNECのPC-9801で、ハードディスクもそれなりに高価でしたが、ネットワークを構築すれば一番現実的な選択肢でした。それからアッと言う間にCD-ROMも何も普及し始めて、今ではインターネット無しでは生活が成り立たない程になりました。考えてみると、恐ろしい時代になったものだと思います。昔の写真の自分を見ると、何と呑気そうに見えることか。今思えば、古き良き時代でしたね。
      剛様はネットでご商売をされているそうですね。趣味と実益を兼ねた商売でお金儲けができるなんて、実に羨ましい限りです。荷物をコンビニに持って行くと言うことは、コンビニ発送をされていると言うことですね。エランで行くとなると大変ですね。20回くらいパタパタやってやっとエンジンが始動して、ちょっと温めてからいざ発進!と思ったらアッと言う間にコンビニに到着。荷物の発送をして、走り足りないので近くまで足を延ばして山道を攻めて、家を出てから3時間後くらいに帰宅。ドッと疲れが出て早々に就寝・・みたいな感じになりませんか?。私の場合、仕事で出掛ける時にお気に入りの車で出掛けると、必ずそんな状態になりましたね。仕事よりも、ついでにそこら辺を走っている時間の方が長いことが多く、それで疲れちゃうみたいなそんな感じでした。
      ブーツでエランは無理でしょうね。クラッチを踏むつもりでブレーキも一緒に踏んでいたみたいな感じになりそうです。私もそう思って、一時底の薄い細いスニーカーのような靴を履いていたことがありましたが、それだとクラッチが重いくせにペダルが小さいため、足の裏が痛くなってしまうのでした。いろいろ試している内に面倒になり、普通のスリッポンの革靴になりました。多少の引っ掛かりは気にせずにガンガン踏める方が楽だったので、最終的には底の固い靴を選んでいました。エラン以降、どの車に乗る場合も靴を気にしたことはありませんでした。そんな状態でしたから、エンジンの微妙なレスポンスとかブレーキのロック点とか、足の裏で感じるのなんて無理でしたね(笑)。何か振動を感じるから、ちょっとブレーキを緩めようとか、アバウトもよいところでした。
      車に乗るための靴ひとつまともに選べないのですから、ブーツとかミリタリーファッションとか、私の感性からは一番遠いところにあるものに違いありません。一応、レッドウイング・ダナーの名前は知っています。スウェードのブーツに憧れた時もありましたが、数万円と言う単位のお金は、全て車のために消えて行きました。タンカースのジャケットにも憧れた時がありました。それはオートバイに乗っていた頃でしたが、イージーライダーが日本で公開された直後の頃ですから、アメリカンジャケットにリーバイスのジーンズ、そしてレイバンのサングラスが3種の神器のような時代でした。この頃は、お金は全てオートバイのために消えていましたし、私にそれらを選ぶようなセンスはありませんでしたから、ライディングブーツにエドウィンのジーンズそしてカジュアルシャツにグラジャンと言う組み合わせでした。グラジャンの下に着るものを増やしたり減らしたりして、冬も夏もいつも同じ格好をしていましたね。
      奥様と一緒にウォーキングに参加されているとか・・・これも羨ましいですね。私は家族と一緒に歩いて何処かに出掛けることは、それほど多くありませんでした。しかし最近になって、それをして来なかったことを後悔しています。今の私は、体の大部分はバッチリで血液検査も上々なのですが、肺に疾患を抱えていて長い距離を歩くことができません。ですから、家族と共にウォーキングなんて、したくてもできないのです。今頃になって山登りがしたいとか、花を眺めに行きたいとか、一緒に行く人が迷惑しそうなことばかり頭に浮かんで来ます。休み休み行けば、行けないこともないだろうと考えているのは本人ばかりで、それに付き合わされる家族は迷惑千番な話です。車を買ったらフッとんでいくからいい!などと強がってはいますが、何か情けない話ではあります。
      一昨日から、何か熱っぽくて鼻が出る。喉は痛くないし、頭も痛くないし、熱は37.5℃程度。風邪と考えるには何かオカシイと思っていたのですが、副鼻腔炎かもしれないと思うようになりました。実は、私も6年前頃に一度経験していたのでした。その時は頬が痛くて頭も痛かったのですが、最初は今回のような症状だったと思います。沈痛解熱剤と風邪薬を飲んでいるのですが、改善しなければ連休明けにでも医者に行こうと考えています。そんなあれやこれやで、何か暗い歳の始まりとなりました。こんな時にこそ、気に入った車でも買えば一気に気持ちが好転するのですが、何か夢中になれない今日この頃です。
      あっそうそう、私の乗っていたエランは、勿論ウェーバーが付いていましたよ。72年以降、日本に入って来るヨーロッパにはデロルトが付いていましたが、単にウェーバーの供給が追い付かなかったのが理由だとか・・・。ウェーバー・デロルト・ソレックス、皆同じようなんですが、具体的な違いって何かあるのでしょうか?。ソレックスしかバラしたことが無いので、良く分かりません。

  44. says:

    今年もはや桜の開花を耳にするシーズンになりましたがいかがお過ごしでしょうか? 私は各地の旧車イベントに顔を出しロータス仲間探しに出掛けてます。
    しかし、今まで国産車一筋の私でしたがエランに乗り始めてから今までの旧車が色褪せて見えるのは自分がレベルアップしたと言う事なのでしようかねぇ?
    ハコスカ、SR311、エスハチなど全く興味が無くなり、どうでもいいわ!と言う感じになりました。動画で観るヒルクライムやジムクラークが操るロータスコルチナの三輪走行に魅了されてます笑。
    逆にkogimaさんは当時からレベルが高かったんだなぁと改めて思うこの頃です。

    同じ岐阜の方でラリー仕様のエスコートと26Rを所有してる方、エランとヨーロッパの二台を所有してる方などと知り合い電話交換しました。5月にエランツーリングが実施されるようで是非参加して下さい!!と誘われてます。東京、名古屋、大阪、広島、など各地にエランオーナーズクラブがあり、全て交流があり、年二回、交代で幹事を受けて一泊、日帰りツーリングが行われてるそうです。全体で70名程の会員で最低でも30台は集まるとの事です。
    しかし、エラン人気は凄いですよ!! 60過ぎのオヤジばかりですが!!笑。

    同じ車で走る楽しみはGTRで経験済みですので浮き浮き気分が手に取る様に解るのですが、我がエランは未だ五体満足じゃないですし。。。

    まず、とうとうチャージランプが点灯し充電機能なし。リトラクタブルヘッドの不動。ガソリンタングの錆、改造ラジエーターのオーバーヒートに対する信頼性などなど。。
    現在、二日に一回は乗ってますが、長良川河川往復(信号二ヶ所のみ!!)30キロを走破するには全然支障なしなのでそのまま乗り続けてます。(普段の足には01を使用してるので。)
    田舎の堤防なので警察もいないし、6000rpmまで引っ張り、思いっきり走ってます!! しかし、4000rpmからの加速はロードスターでは味わえないさすがロータスツインカムですね。
    しかし、エランに限らず外車のオーナーはお金持ちが多いですねぇ。サラリーマン上がりの私には肩身が狭い思いです。
    又、ロータスのオーナーが多く利用してる修理屋と言うショップを紹介してもらいました。検索して見てください。凄い所ですよ。私もそこでお願いする予定です。

    以前お話しましたがエンジンスタート時のアクセル20回踏みは燃圧が低いか油面が低いかですと教えて貰いました。油面は基準値にあるので問題なしなので
    電磁ポンプの劣化か、電磁ポンプからガソリンホースを延長し取り外し可能なガソリンフィルターを取り付けてあるから燃圧が落ちてるのどちらかだと判明しました。

    でも私のエランは燃圧が低くても走行には全く影響なしです。又、本来エランのエンジンスタートは簡単に出来るとの事です。

    話は変りますが、kojimaさん蟹は好きですか? 越前海岸まで2時間で行けるのでドライブを兼ねてよく行ってますが本場の蟹は新鮮でメチャ美味いですよ~。3月いっぱいで終了なので
    最後に箱(二人で食べきれない程です)いっぱいの残り物のバラが僅か1000円で売ってたので買って帰りました。これも値段に関係なく美味かったですわ。

    kojimaさんxxxxxxxx@yahoo.co.jpにメール下さい。我がエランの写真など送ります。

    • cube-kojima says:

      剛様
      お久しぶりです。またコメントをいただき、ありがとうございます。
      すっかり春めいて来て、ツーリングに出掛けるのに最適な季節になりましたね。最近は各地の旧車イベントに出掛けられているそうで、楽しんでおられる様子が手に取るように分かります。もうすっかりエランに嵌まってしまっているのですね。車に関して筋金入りの剛様のことですから、剛様のエランがこれからどのように変貌して行くのか、今からお聞きするのが楽しみです。
      外車と言うと、国産車には無い独特の匂いがありますよね。特にロータスは、独特のこだわりを持って作られていましたので、周りの車とは一線を画していたように思います。1960年代は、他にも見ているだけで胸躍る車が沢山ありましたが、性能とスタイルを同時に極めた車は少なかったように思います。そのような数ある車達の中にあって、一部のエキゾチックカーを除けば、エランは他を圧倒していたように思います。比較できる車があるとすれば、アルピーヌA110くらいだったのではないでしょうか。

      以前にも書かせていただきましたが、私は中学生の頃からCGを読んでいました。勿論、中古本を買い漁って読んでいたのですが、1966年頃のCGに真っ赤なエランS2クーペの記事が載っていたことがありました。当時の村山自動車試験場のテストコースでテストを行った記事ですが、ちょっとカントの付いたコーナーをスムーズに走っている写真が載っていました。ちょっとロールしながら安定した姿勢で走っているところを捉えたものでしたが、それは実に感激モノの写真でした。今、その本は仕舞い込んでいるため直ぐに見返すことができないのですが、その記事は鮮烈な印象を私の中に残しました。当時、エランに関する記事と言えば、各地のレースに出ていたレーシングエランの記事が散見されるだけで、実物もレース場以外で見たことはありませでした。ですから、エランって本当に売っているんだ(笑)と、驚くと同時に急に憧れのような感じを抱いたものです。しかし冷静に考えてみると、当時、エランの価格はトヨタ2000GTよりも高かったのです。でも何故だか分かりませんが、そんなことは考えもしなかったですよね。それ以来、容易に買うことなんてできないのに、エランのことは常に頭の中にありました。それから4年後、幸運にもエランの中古車と出会ったわけです。もう衝動買いでしたね。ですから私がエランを入手したのは出会い頭の事故のようなもので、レベル云々以前の話なんです(笑)。

      剛様のエランが陥っている不具合は、私もほとんど経験しました。充電不良、オーバーヒート、リトラクタブルヘッドランプの不動、ラバーカップリングの破損などなど、枚挙に暇が無いとは正にこのことです。でも直るんですね、修理すれば。当り前のような話ですが、中には修理しても元に戻らない車もありますので、エランは旧車の中でも維持し易い存在だと思います。ボディは頑丈で腐ることはありませんし、鉄板のようにぶつかってグシャグシャになることもありません。そして、基本的にエンジン・ミッション・デフは丈夫ですから、とてつもなく修理にお金が掛ることはないと思われます。私がエランに乗っていた頃は、常に故障の危険と隣り合わせでしたが、帰って来られなくなるような故障はありませんでした。ラバーカップリングが吹き飛んだのが、たまたま家の近くだったと言う幸運もありましたが、それ以外にエランを押した経験はありません(笑)。
      現在の愛車の状態は不満足なものだと思われますが、1つづつ不具合を直して行くのも、剛様にとっては楽しみの一つなんだろうなと思います。気になる不具合を克服して、チューニングしたエランが本領を発揮できるようになったらどうなるのか、考えただけでワクワクします。その時はまた、是非コメントをお寄せください。事の顛末をお聞きするのを楽しみにしています。

      岐阜からですと、日本海側に抜けるのも直ぐなんですね。やはり、日本の中心近くにお住まいなのは、何かにつけて良いものですね。昔から金沢や福井の風情に憧れていたものの、私が新潟・金沢・福井方面に出掛けたのは、今まで2度しかありません。2度とも車で出掛けたのですが、その頃は高速道路がありませんでしたから、全て下道でした。横浜から東京回りで新潟に出るまで、7~8時間掛ったと思います。2度共に夏場でしたからカニの姿は拝めませんでしたが、日本海を見ながら国道8号線をのんびりと走ったのが良い思い出となっています。今では東京経由でも長野経由でも、どちらも高速から降りることなく行けますので、また是非行ってみたいと思っています。日本の中には行ったことが無い場所、再び行ってみたい場所が沢山ありますから、余生(笑)は車で日本全国行脚を楽しみたいと密かに考えています。それを目標に頑張っていますが、年々気力と集中力が低下して行くような気がして、なかなか思うように行きません。
      何はともあれ、先ずは車を買うことが先決ですね。

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