1963年根岸線開通前年の根岸

By , 2017年1月29日 7:58 PM

桜木町駅から磯子駅までの新路線が1964年に開通し、それを機に横浜駅から磯子までの路線は根岸線と命名されました。
根岸線はこの後、1970年に洋光台まで、そして1973年に大船まで延伸され全線が開通しました。
この記事は、根岸線が開通する前年の1963年の、根岸駅周辺について記したものです。
1963年と言うと、私は小学校5年生でした。
もう50年以上前のことですから細かい部分は忘れてしまっているのですが、自分の記憶を再確認するためにも、根岸線開通前の根岸駅周辺の様子を記したいと思います。

 

【1963年】上の写真は、磯子区中根岸町(当時)を中心にした航空写真です。この写真の中に写っている建物を中心に、当時の根岸駅周辺がどのような様子であったのかを記したいと思います。

●根岸駅
根岸駅の前にはロータリーができていますが、周りの土地は殆どが空き地で、区画毎に太い木の杭に鉄線を張り巡らせた塀ができていました。1964年に根岸線が開通してからも、暫くの間はこのような状態が続きました。現在のような駅前のマンションが建つのは、かなり後になってからのことでした。この写真の日野自動車があった場所にトヨペットの研修センターが建ったのが、最も早い時期の建物であったと記憶しています。

●根岸小学校
この年に、創立90周年を迎えました。校舎は木造2階建で校庭を口の字型に囲むような形でした。第2校庭は校舎の裏側にあり、ここに回転ブランコや雲梯がありました。講堂は校門を入った左手にあり、こちらも木造の古い作りでした。講堂にはステージがあり、ここで学芸会の発表や卒業式が行われました。講堂は体育館も兼ねていて、隅には跳び箱やマットなどが並べられていました。1986年に立正佼成会から土地を譲り受け、校庭・校舎の拡張がされました。

●根岸中学校
根岸中学は、この年に旧校舎から新校舎に移転しました。写真では2棟あった旧校舎の内、1棟が残っています。新校舎の校庭には体育館が置かれたままになっています。これは1966年に正規の位置に移築されます。2つある校舎の内、右側の建物は教室になっていました。この建物の1Fには職員室・保健室などがありました。左側の建物は音楽室・家庭科室・理科室などがあり、夫々の授業の時はこの建物に移動して授業を受けました。校庭にあった体育館は、この建物の隣に移築されました。私が根岸中学に入学したのは1965年でしたから、校庭に体育館が残されていた筈なのですが、さっぱり記憶にありません。私が在学中は校庭と根岸線との堺には何も無く、電車がゴトゴト走る姿を教室から目で追っていたことを憶えています。今は防音壁が設けられ、電車の中から根岸中学校を見ることはできません。

●海外移住センター
この建物は1961年に建設され、2002年9月に閉鎖されました。この施設の本来の目的は、移住のために家や家財を処分した人達が横浜港から海外に向けて出船するまでの間、家族共々宿泊滞在し、永住査証の取得や予防接種、現地情勢や語学の研修を受けるなど、出発準備を行うためのものでした。日本の経済成長に伴い海外移住の希望者は減り続け、1994年には海外移住業務は停止されたそうです。その後この建物では、海外開発青年制度等で海外に行く人のために、語学研修を行っていたそうです。

●国鉄アパート
根岸駅の開設に伴い、国鉄の仕事に従事する人のために建てられました。2棟建てられましたが、この写真にはまだ1棟しか写っていません。私が1965年に根岸中学に入学した時、このアパートに住んでいる同級生が何人かいました。何度か改修されたようですが、元の形のまま2012年頃まで存在していました。いつ頃から使われなくなったのか分かりませんが、かなり長い間放置されていたように思います。

●立正佼成会
立正佼成会は法華経の流れを汲む宗教団体で、写真の建物は1952年に横浜支部として建てられました。その後横浜駅西口に移転し、1986年に跡地を根岸小学校に譲渡しています。

●横浜赤十字病院(日赤病院)
1923年に起きた関東大震災の臨時救急病院として開院し、1946年に横浜赤十字病院と改称しました。この頃の建物は木造2階建で、総合病院としての機能を有していました。根岸小学校で毎年行われる身体検査には、この病院から先生・看護婦さんが出張してきて検査が行われました。ツベルクリンの注射だけはクラス毎に日赤病院まで行き、そこで接種を受けました。この頃の身体検査には眼病検査なども含まれていたため、結膜炎とか外耳炎・中耳炎はこの病院で治療を受けていました。その後1964年に中区根岸町の根岸線沿いに病棟を新築し、移転しました。1964年に移転した後、木造の病棟は壊され、新しく鉄筋の神奈川県医師会准看護婦学校が建てられました。中区根岸町に移転した病院も、新山下町にみなと赤十字病院が開設される際に統合され、2005年3月に閉院されました。

●神奈川県医師会准看護婦学校
1965年に、神奈川県医師会准看護婦学校が開設されました。元横浜赤十字病院だった所に、鉄筋の新しい校舎が建てられました。その後の1971年に、中区根岸町の横浜赤十字病院の隣に鉄筋の校舎が建ち、そちらに移転しました。新校舎の移転先は神奈川陸運事務所があった場所で、陸運事務所が港北区の池辺町に移転した際に、跡地を利用して建てられたものです。この学校は、運営する団体が変る度に名称が変り、現在は神奈川県の運営となり、神奈川県立衛生看護専門学校と言う名称になっています。根岸駅前にあった旧校舎は、移転後暫くの間はそのままの形で残っていましたが、現在は解体されて更地になっています。

●市電
1963年当時は、六角橋-青木通り-高島町-尾上町-麦田-間門-葦名橋を走っていた市電11系統が、根岸駅前の道路を走っていました。1968年8月に六角橋-青木通り、八幡橋-本牧三渓園前の路線が廃止され、11系統は無くなりました。当初11系統は、六角橋-間門までの路線でしたが、間門-八幡橋間が1955年に開通したため、その年に葦名橋まで延伸されました。当時、私の父は横浜駅東口にあった会社に勤めていたのですが、たぶん、この11系統に乗って通勤していたのではないかと思います。祖父もまだ仕事をしていた筈で、西区の浜松町交差点の傍にあった「正金」と言う会社に行っていましたので、八幡橋-睦町-浦舟町-久保山-浜松町を通っていた7系統を利用していたと思います。祖母が鼻の手術で、浜松町から保土ヶ谷駅に通じる1号線沿いの病院(今はもうありません)に入院していましたが、この時のお見舞いも市電に乗って行った記憶があります。私が子供の頃は、どこに行くのも市電でした。1960年に作成された市電の系統図を見ると、路線が張り巡らされていて随分と便利だったのだなと感心します。ただ残念なことに、トロリーバスの実物を見る機会はありませんでした。

左の写真は、1963年の間門近辺の航空写真です。
横浜赤十字病院の建物が見えますが、翌年(1964年)の移転を控えて、新病棟の工事が進んでいる頃と思われます。新病棟の隣は神奈川県陸運事務所で、後の1971年に、この場所に神奈川県衛生学院(当時の名称)が移転します。
埋立地では日石の工場や石油タンクの建設が進んでいます。この頃は埋め立ても沖合までは進んでおらず、三渓園の辺りは未だ海がありました。その後本牧の沖合にまで埋め立てが進み、現在の姿になって行きます。

 

 

 

 

 

 

 

【1977年】上の写真は、1977年の根岸駅周辺と間門近辺の航空写真です。
根岸駅周辺には沢山の建物が建っています。マンションが建つ予定地はまだ空き地のままですが、その他は現在の状況に近くなっています。私が引っ越したのが丁度この年の暮れでしたから、私の根岸の記憶はこの航空写真に近い状態で止まっています。
根岸小学校は鉄筋の新校舎になり、プールも作られています。根岸中学にもプールが作られていますね。校舎の隣の青い屋根の建物は、運動クラブの部室でした。
旧横浜日赤病院の跡地には、鉄筋の神奈川県医師会准看護婦学校が立てられました。その建物は左側の写真に写っていますが、この時は右側の写真に写っているように、既に新校舎に移転した後です。看護学校が移転した後、この建物が何かに利用されていたのか、または空家になっていたのかは分かりません。
1963年の写真と比べると、14年間の時の流れがはっきりと分かります。根岸駅前を走っていた市電は1968年に廃止されていますが、線路がいつ撤去されたのかは記憶にありません。1968年は私が高校に入学した年で、毎日のように市電が通っていた電車道を渡っていたのですが、記憶に残っていません。日常の生活の中の風景は徐々に変化して行きますから、写真にでも撮っておかないと記憶に残らないことが多いように感じます。
もし、埋め立てが無かったら、現在この辺りはどんな景色になっていたのでしょうね。国鉄アパートが建っている場所から先は海だったわけですし、根岸は海と山に囲まれた地ですから、昔と変わらないままの景色だったかもしれませんね。

 


 

 

 

 

 

【2016年】ついでですから、2016年の航空写真も載せておきたいと思います。

前回の投稿が2014年3月ですから、もう3年近く記事を書いていなかったのですね。
時が経つのは本当に早いです。年を取るわけです。

16 Responses to “1963年根岸線開通前年の根岸”

  1. 大和田明美 says:

    こんにちは。1963,懐かしい時代の掲載有り難うございます。
    実家の「芦名橋」から市電に乗って、父と母の家に遊びに行くのが嬉しかった...
    小学生だった頃の思い出です。
    ご連絡 有り難うございました。

    • cube-kojima says:

      大和田様
      コメントいただき、ありがとうございます。
      本当に懐かしいですね、あの頃の事を思い出すと。
      私の家は、父母の夫々の実家が近所でしたから、いつも歩きでした。
      あの頃の思い出は尽きないのですが、写真が無いことが多くて、自分の記憶と実際の状況がズレていることがあります。
      時々間違った事を書いているような気もしますが、あれ?と思うことがございましたら、ご指摘いただければ嬉しいです。
      よろしくお願い致します。

      • 大和田明美 says:

        返信有り難うございました。
        PCの使い方がよく解らないので返信遅れましてすみません。

        昔の芦名橋公園、プールが未だ残っているのに驚きです。
        叔母が、森に住んで居るので2年前にバスで付近を通った時
        嬉しく思いました。
        両親のお墓が「久保山」なので、数年に一度帰ります。
        本当なら 毎年帰りたいのですが...
        そうもいかず 申し訳ない限りです。
        私にとってはとても懐かしい「故郷」磯子、本牧です。
        掲載に感謝して居ります。

        時間と余裕があれば 人生に心残りの無いように
        昔 歩いた道を辿ってみたいと思います。

        • cube-kojima says:

          大和田様
          コメントいただき、ありがとうございました。
          こちらへの返信は、どうか時間を気になさらずに、気が向いた時にでもいただければ幸いです。
          叔母様が森に住んでいらっしゃること、またご両親のお墓が久保山にあることなど、生まれ育った土地とはいつまで経っても深い繋がりがありますよね。私も生まれ育った根岸から越して早や40年近くになりますが、実家のお墓が磯子にあるため、一昨年亡くなった母の葬儀や法要で、最近は何回も足を運んでいます。6、7年前までは、春・秋には父方、母方両方のお墓にお墓参りに行っていたのですが、持病で歩くのが辛くなってからは出掛ける回数が随分と減りました。久保山には親戚のお墓がありますが、伯父、叔母が亡くなってからもう随分経ちますので、最近はお墓参りに行く機会もほとんどありません。
          2年ほど前に森の辺りまで行かれたそうですが、あの辺りは昔と比べると随分と変わりましたよね。私はこちらに越してきて以来、磯子方面に行く時は産業道路などを利用していましたから、16号線沿いを走る機会はありませんでした。ところが5年程前に16号線を走る機会があったのですが、その変貌ぶりには目を見張りました。知り合いに聞いた話では、私の生家があった辺りも随分と変っていて、昔ここはどうなっていたのか思い出すのも大変だったそうです。そんなことを考えると、大和田様がお書きになられた最後の一文が、随分と身に沁みます。自分も何とか今の体調に折り合いをつけて、幼少の頃に過ごした辺りを辿ってみたいものだと思っています。

  2. 大和田明美 says:

    こんばんは。お便り拝見して嬉しく思いました。
    実は、3歳から育てて貰った祖父母が住んで居た実家=本家)の
    お墓は磯子の金蔵院なので先ず本家から久保山へお参りに行って居ます。
    父の兄弟も亡くなり今では森の叔母が当時の話を聴ける ただ一人の身内です。
    出来れば何時までも元気で居て欲しいと願って居ます。
    こんな話をしていたら 直ぐにでも帰りたくなりました(笑)
    現実は 直ぐにとは行きませんが、今年こそは帰りたいと思って居ます。
    kojimaさん
    お身体お辛いようですが ご自愛下さい。

    • cube-kojima says:

      大和田様
      こんばんは。コメントお送りいただき、ありがとうございます。
      ご祖父母の菩提寺は金蔵院さんとの由ですが、そちらにお参りしてから久保山のご両親のお墓に参られるのは、結構時間が掛りますね。私の実家のお墓は滝頭の密蔵院ですが、根岸に居た頃と違って、今の住まいから行くのは結構大変です。また母方の実家の菩提寺は笹下にありますので、そちらにも行こうと思うと、車で行かない限り無理です。以前は、時節の度に両方のお墓に参っていたのですが、今は体調を考えるとつい億劫になってしまいます。私は持病のせいで長い時間歩けないので、休み休み歩くのですが、息を切らして休んでいると心配してくださる方も居て、なかなかこちらの気が休まりません(笑)。私の父には兄が1人おりましたが、戦前に亡くなっています。また、母は5人兄弟でしたが、伯父・叔母は皆既に亡くなっています。母も一昨年に亡くなりました。そんなわけで、昔話を聞けるのは、いつの間にか父だけになってしまいました。父もこの数年、ケガ等で何回か入院していますが、まだまだ元気です。いろいろと聞いておきたいこともありますし、近くに住んでいますので、できるだけ頻繁に会いに行こうと思っています。この寒い時期もあと少しで終ります。暖かくなった頃に、またお出掛けになられてください。

  3. アッキ says:

    ご無沙汰しております。
    思わず航空写真に見とれてしまいました。
    1963年は私も生まれていませんし、当時住んでいたマンションもまだ立っていなかったのですね。いつも窓から見ていたアパートは国鉄アパートだったのですね。
    以前も書きましたが海外移住センターからバスが出るとき蛍の光の旋律がながれ
    泣いている人たちにむけ幼かった私が手を振るのも遠い記憶ながら覚えています。
    根岸小学校までの道のり、根岸山を登り放置されていた競馬場での虫取りの記憶・・
    新世界交響曲の第2楽章(家路)のメロディがこういう時って流れます・・
    当時の人々 友達(団地はみんな去っていきますので)ももうここにはいませんし、私の家族も母がすでに他界して、思い出と同時切なさでしょうか。
    ただ、こういう写真に出会いあの当時あの場所で生きていた時間って幸せだったと実感させてもらえました。またこうしてあの当時を思い起こさせてくれるCube‐kojima様始め語っていただける方々に感謝いたします

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      お久し振りです。
      コメントいただきありがとうございました。
      ここ何日かいろいろとあり、ご返事が遅くなってしまいました。
      拙いブログですが、毎回ご自身の大切な思い出をご紹介いただき、感謝申し上げます。
      アッキ様が住んでいらしたマンションは、意外と建つのが遅かったようですね。
      私の思い出の中には、根岸駅のプラットホームから駅前のマンションを眺めていた情景があります。
      しかし、私が根岸駅を利用していたのは1977年の暮れまでですから、航空写真の日付(1977/12/22)に間違いが無ければ、当時はまだ駅前のマンションは建っていなかったことになります。
      その頃私は東京の中目黒まで通っていたのですが、根岸駅では駅周辺の会社に行く人が多く降車していましたので、随分賑やかになったなと感じていました。
      そんな記憶と駅前マンションの記憶が重なるのですが、写真を見る限りは記憶違いだったようです。
      現在の住居に越して来てからも根岸線は頻繁に利用していましたから、根岸駅前のマンションは電車の中から見ていたのかも知れません。
      もう40年近く前の話ですから、記憶が交差してしまっているのでしょうね。
      そんなことを考えると、自分の書いている記事が正しいのかどうか悩みますが、間違っていると思われるところは、ご指摘いただけると有り難いです。
      これからもどうぞよろしくお願い致します。

  4. アッキ says:

    Cube-kojima様 お返事ありがとうございます。お元気そうでなによりです。
    たいへん紛らわしい文章をお送りしてしまい申し訳ございません。私1963年の写真に見とれてしまい1977年の写真をよく見ておりませんでした。改めて見てさらに感動です。私の住んでいたマンションがしっかりと写っています。しかもそこは屋上が解放されて洗濯物を干せる場でもありましたので写真からもよくわかりました。当然幼い私はそこが遊び場で今では考えられない柵をこえて下に落ちるところぎりぎりのところで靴を落としてしまったりとやんちゃでした。おそらく1Fがカナショクと呼んでいたスーパーみたいなのがあったのでCube-kojima様はきっとご存知かもしれませんね。本当に便利な場所に住んでいたところを離れてしまったのは惜しい気持ちでいっぱいです。また、落ち着きましたらぶらりと散策しに行きたいと考えてます。この写真は個人的に大切にさせていただきたく思います。

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      私は大きな勘違いをしていました。アッキ様がお住まいだったマンションは、国鉄アパートの前の大きなマンションだったのですね。カナショク、良く憶えています。当時根岸にはは大きなお店がありませんでしたから、母はよくカナショクを利用していました。それで海外移住センターのお話が出てくるのですね、申し訳ございませんでした。お住まいのマンションの隣にあった薬事会館ですが、何かの行事のために時々ホールを利用していたと記憶しています。何の行事だったか全く憶えていませんが、カナショクと共に懐かしい名前を思い出しました。アッキ様がお住まいだったマンションやその裏側のマンション、そして薬事会館などの建設工事は結構大規模なものでした。父親のアルバムに工事中のマンションの写真が1枚だけありますが、結構長い期間工事をしていたように思います。マンションが建つ前はどんな風景だったのか、もう忘れてしまいましたが、大きなマンション群が建ってからは一気に近代的な街になったような気がしたものです。当時私は中学生から高校生になる頃で、気分的に落ち着かない日々を過ごしていたためか、周りの風景についてあまり憶えていません。写真を撮っておけば良かったとつくづく思いますが、今となってはどうにもなりません。掲載した航空写真は、国土地理院のサイトからダウンロードしたものです。他の年月の写真もありますので、もし興味がおありでしたらご欄になってはいかがでしょうか。

  5. アッキ says:

    根岸を語ることができる方はcube-kojima様だけなのでついついと語りたくなってしまい申し訳ございません。
    薬事会館というのですね、八幡橋幼稚園での行事 卒園式はそこで行いました・・
    夜になり窓を開けていると海風と共に薬事会館から箏の音が入ってきた遠い記憶があります。夜眠れないと、家族が寝静まった夜中にいつまでもコンビナートの灯
    を眺めていました。また裏側のマンションにも友達がいてよく手を振ったものです。
    根岸小学校の校庭の大きな木は今も健在なんですね。
    ちょうど私が入学したころ新しい校舎が出来ました。確か屋上にプールがあったかと。小学校の担任はとてもスパルタでしたが美人教師でした。竹の先端が割れた鞭を持ってビシビシと頭を叩くのです。
    ただ、文章を逆に暗記で読ませたり(合格した人から下校)なかなか脳を鍛える斬新な教育だったとも思えます。スパルタながら優しさも備えた先生でもありました。
    話は尽きないものですいません
     

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      薬事会館の正式名はちょっと違うのですが、当時は薬事会館と呼んでいました。箏の音が聞こえて来たとの由ですから、三曲の演奏会なども行われていたのですね。幼稚園の卒園式も同所だったとのことですから、いろいろな行事に使われていたのでしょう。立正佼成会も近くにありましたから、団扇太鼓の音などもお聞きになられたことがあったのではないでしょうか。根岸の夜景と言うと、やはりコンビナートと言うことになります。不動坂から見る夜景は、とても綺麗でした。あの夜景をご自宅から見ることができたなんて、羨ましいです。ちょっと前に、日石が根岸から撤退するなんて話が出ていましたが、その後どうなったのでしょうねぇ。根岸の埋め立てが始まってからそろそろ60年になろうとしていますが、もし日石が撤退するようなことになるなら、大規模な再開発が始まるのでしょう。横浜市にそんなお金があるのか分かりませんが・・・。根岸小学校に入学された時は、新しい校舎だったそうですね。私の小学校の6年間は、昔ながらの木造校舎でした。給食室が改築されたのが、僅かな変化でした。勿論プールなんてありませんから、暑くなると親に海に連れて行ってもらうか、自分達で葦名橋や腰越のプールに行くかで、右往左往していました。そのような感じでしたから、中学1年の時にマンモスプールが開設された時は、子供は皆、歓喜の涙を流したものです。私の年代では、根岸・磯子の海ではもう泳げませんでしたからね。学校のプールで泳ぐことができたのは、高校生になってからでした。私達の頃も、小学校の先生は怖かったですよ。6年間、全て女の先生でしたが、躾が特に厳しかったことを憶えています。成績のことで怒られるようになったのは、5年生になってからでした。今の小学生と違って当時の小学生(特に男の子)は、何も考えていない野生児(笑)のようなものでしたから、先生もさぞ手を焼いたことでしょう。1メートル程度の長さの竹の定規で、たたかれた憶えがあります。今考えると、いろいろと無茶なことをして叱られましたが、総じて楽しい6年間でした。あの頃の情景が再び訪れることは無いと思うと、やるせない気持ちになります。久し振りに、当時の友達に会ってみたいですね。

  6. アッキ says:

    もしかしましたらマンモスプールでお近くにいらっしゃったのかもしれませんね。
    もっとも私は浮き輪を使って浮いていただけですが・・
    また、コンビナート煙突がよく見えた公園にも行きました。三渓園のそばでしょうか
    そこに置いてあるD51機関車に乗るのが好きでした。

    マンション住まいは寂しいもので私達家族が去った後
    当時の友達も皆居なくなってしまいました。
    父も姉妹もあの当時のことを覚えていないようです。

    kojima様とあの当時を共有して頂けることに、癒され 感謝致します。

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      そうですね、小さかった頃のアッキ様と、マンモスプールの中ですれ違っていたかも知れませんね。マンモスプールは、あの辺りでは唯一大きなプールでした。水が流れるプール、広く深さが1.5メートルある本格的なプール等の触れ込みでした。子供用プールもありました。家から4~5分の距離でしたから、プール開きと共に出掛けて、夏休みが終わる頃まで頻繁に通いました。夏休みが終わると、当時は自動車の教習所に姿を変えていました。私がマンモスプールに通っていたのは、中学生の3年間だけでした。高校生になるとオートバイに乗り始めましたので、夏はもっぱら海に出掛けていました。本牧の公園は本牧市民公園ですね。確かプールもありましたよね。あの辺りの記憶と言うと、どうしても三渓園に重なります。三渓園の下が海だった頃、何回か潮干狩りに連れて行ってもらいました。現在その場所が、本牧市民公園になっています。当時、根岸側の埋め立ては進んでいたと思いますが、それでも三渓園の下から本牧岬に掛けて、暫くの間は海が残っていました。私が小学生の頃までは、両親はいろいろなところに連れて行ってくれました。その中でも三渓園は定番になっていて、何かと言うと三渓園に行っていたように思います。父親のアルバムを見ると、三渓園で撮った写真が沢山あります。本牧には親戚がありますので、そこに行くついでに三渓園に寄っていたのかも知れません。そんなある時、三重の塔の傍に白赤の煙突が見えるようになりました。それを見た時の両親の落胆は明らかで、子供心にも「それはないよね」と感じた記憶があります。もっとも、東京にある庭園や神社などは高層ビルに取り囲まれていて、それが常に視界に入るわけですから、それに比べればまだマシなのかも知れません。マンション・一戸建てのどちらに住んでいても、引越しをすると言うのは切ないものです。特に自分が小さな頃に育った場所を離れると言うことは、郷愁を感じずにはいられません。私は50歳代までは、人生最大最高の思い出は高校時代のことだと思っていました。それが60歳に近くなると、小さな頃の思い出が非常に懐かしくなりだしました。その頃は既に、記憶に曖昧な部分が多くなっていたのですが、それを忘れてしまわないうちに何かに記しておきたいと思い、このブログを始めました。ですからたぶん、大切にしたい思い出は、人夫々、その時々で変化するのだと思います。アッキ様のご家族が、根岸に住んでいた頃のことを今はあまり思い出せなくても、いつか懐かしく感じる時が来るかもしれません。歳を取ると、それまで憶えていたことを、突然思い出せなくなります(笑)。何とか思い出そうと必死になるのですが、そうならないためにも、アッキ様には是非とも幼少の頃の思い出を何かに記しておいていただきたいと思います。

  7. アッキ says:

    ありがとうございます。仕事上 医療関係なので以前の配置では亡くなる前の人と接することが多い時期がありました。その人たちのことを忘れないよう印象を綴ったノートを作成していました。そうしているうち私自身どこで植物状態の体になるかわからない とも思うようになったのです。子供たちに、もしくは後世の人たちに
    私という人間が生きていた・・と。それで時期は順不同で思い出を綴り始めました。
    ただ、仕事上責任も重くなり、忙しくなったりしてそういう行動から遠のいて50が見えてきました。私の遠い記憶の街のことをKojima様と共感できることはある意味 奇跡的なことと感じ、またそういう共感を抱くことで不思議と生きる力も頂いている気がします

    • cube-kojima says:

      アッキ様
      アッキ様は、医療のお仕事に就かれているのですね。私はここ6年間に2度入院しましたが、その度に、医師や看護師の方達の真摯な態度に感銘を受けました。同時に、この世にこれ以上過酷な仕事は無いだろうな、とも感じました。人の命を救うことに対してよほどの情熱を持っていなければ、絶対に務まらない仕事だと思います。私の場合は2度とも救急で入院したからかも知れませんが、時間との戦いを続けられている医師や看護師の方達を見ると、感謝の気持ちでいっぱいになります。医師や看護師のお仕事は、体力的にも精神的にも「自分の身を削る」ような仕事に思えてなりません。アッキ様は医療のお仕事に就かれてから長いようですが、どうぞご自身のお体だけは大切になさってください。
      私はこのブログを始めるか否か、随分と迷いました。自分の日常生活や思い出を記すのであれば、ブログである必要は無いからです。しかし趣味にしても歴史にしても、他の人の気持ちや経験を知りたいと思い、ブログを書くことにしました。私の書く記事を気に入っていただければ、コメントをいただけるのではないか、と考えたからです。有り難いことに、皆様から多くのコメントをいただき、自分の知り得ない情報も多数いただけました。皆様からいただいたコメントは、それ自身が重要な情報ですから、ご覧いただく方によっては貴重なものではないかと思います。人のフンドシで相撲を取るようなものですが、そこはどうかご容赦いただきたいと思っています。アッキ様からこのようなお言葉を頂戴すると、非常に嬉しい半面、正しい記事を書いているのか大きな責任を感じます。知っている人に聞く以外に検証できないようなことも書いていますので、多分間違いもあることと思います。情けない話ではありますが、それはそれとして、これからもお付き合いいただければ幸いです。

コメントを書く

Panorama Theme by Themocracy