50年前の根岸-1

By , 2012年3月16日 9:54 AM

 自己紹介のページに、私の生まれ育った場所のことを書きましたが、それに追加する意味でこの記事を書いています。
 根岸・磯子と言えば、何はさて置いても「埋立」のことが頭に浮かんできます。私に近い歳の方は、間違いなくそうなのではないかと思います。ただ惜しいことに、当時の私は幼稚園から小学校低学年と言う年でしたので、記録と呼べるような資料を持っていません。今まで掲載して来た写真も、古いものは自分が撮影したものではありません。しかし、自分が体験したことや両親から聞いた話が、断片的にですが記憶に残っているため、それを記しておきたいと思います。そのためこの記事には、他サイトから引用させていただいた写真があることをお断りしておきます。

 この2枚の写真は間門にあった米軍の飛行場です。左の写真は1952年、上の写真は1958年のものです。私は1952年の生まれですが、「赤ん坊の頃、飛行機の飛んでくる音でよく泣いた」と両親から聞いたことがあります。その話を初めて聞いたのは小学生の時で、その飛行機は「日航(旧根岸水上飛行場)」に飛来した飛行機だと思っていたのですが、実際には水上飛行機の運用はありませんでした。その後、間門に飛行場があった事を知るのですが、具体的な情報が無かったため忘れてしまっていました。ところが最近になって、これらの写真を発見して、初めて合点が行きました。

 私が赤ん坊の頃、その音で泣いたと言う飛行機は、この飛行場を離着陸していたのです。私の生家は、ここよりもずっと八幡橋寄りにあったのですが、その辺りは比較的開けた空間になっていました。写真を見る限り、この位置にあった滑走路を離着陸するために、正に私の家の頭上とも言える処を低空飛行していたのではないかと想像できます。多分、赤ん坊でなくても、びっくりするような音だったのではないでしょうか。近年の暴走族などとは比較もできないくらいの、大音響だったと思います。

 また、この2枚の写真には、八幡橋から本牧へ抜ける道が写っています。1952年の頃は道も細く、市電は走っていません。間門-八幡橋間の市電が開通したのが1955年(昭和30年)とのことですので、その施設工事の時に拡幅されたのだと思います。飛行場は1958年に返還されたそうですが、物心がついた頃以降、頭上を飛行機が飛んでいた記憶がありません。ですから、返還直前の頃はすでに、飛行機の離着陸はほとんど無かったのだと思います。返還後この場所には、陸運事務所、日赤病院などが建ち、現在は大規模マンション群、看護学校などが建っています。

※掲載した写真は「横浜開港150周年記念行事-みんなでつくる横濱写真アルバム」から引用させていただきました。

2 Responses to “50年前の根岸-1”

  1. めぐみ says:

    昔磯子にマリーナがありませんでしたか?バナナジュースがジョッキで出されて、美味しかった記憶があります。

    • cube-kojima says:

      めぐみ様
      コメントいただき、ありがとうございます。
      磯子のマリーナと言うと、八幡橋の近くに横浜市民マリーナがあります。ここは1968年に、山下町から移転して来たとのことでした。私はここの中に入ったことがありませんので詳細は分かりませんが、マリーナの建屋から海の方角を見ると、横浜火力発電所の煙突などが見えたのではないかなと思います。
      1980年末頃まで、ここには日本発条の大きな工場がありましたが、この工場が金沢区に移転してから、結構大きな移り変りがあったようです。その頃、私は既に根岸から引っ越していましたので細かいことは分かりませんが、たまに近くを通ると、景色の移り変りに驚きます。しかし今でも海の近くに行くと、奇麗な景色を見ることができます。

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