1963年根岸線開通前年の根岸

By , 2017年1月29日 7:58 PM

桜木町駅から磯子駅までの新路線が1964年に開通し、それを機に横浜駅から磯子までの路線は根岸線と命名されました。
根岸線はこの後、1970年に洋光台まで、そして1973年に大船まで延伸され全線が開通しました。
この記事は、根岸線が開通する前年の1963年の、根岸駅周辺について記したものです。
1963年と言うと、私は小学校5年生でした。
もう50年以上前のことですから細かい部分は忘れてしまっているのですが、自分の記憶を再確認するためにも、根岸線開通前の根岸駅周辺の様子を記したいと思います。

 

【1963年】上の写真は、磯子区中根岸町(当時)を中心にした航空写真です。この写真の中に写っている建物を中心に、当時の根岸駅周辺がどのような様子であったのかを記したいと思います。

●根岸駅
根岸駅の前にはロータリーができていますが、周りの土地は殆どが空き地で、区画毎に太い木の杭に鉄線を張り巡らせた塀ができていました。1964年に根岸線が開通してからも、暫くの間はこのような状態が続きました。現在のような駅前のマンションが建つのは、かなり後になってからのことでした。この写真の日野自動車があった場所にトヨペットの研修センターが建ったのが、最も早い時期の建物であったと記憶しています。

●根岸小学校
この年に、創立90周年を迎えました。校舎は木造2階建で校庭を口の字型に囲むような形でした。第2校庭は校舎の裏側にあり、ここに回転ブランコや雲梯がありました。講堂は校門を入った左手にあり、こちらも木造の古い作りでした。講堂にはステージがあり、ここで学芸会の発表や卒業式が行われました。講堂は体育館も兼ねていて、隅には跳び箱やマットなどが並べられていました。1986年に立正佼成会から土地を譲り受け、校庭・校舎の拡張がされました。

●根岸中学校
根岸中学は、この年に旧校舎から新校舎に移転しました。写真では2棟あった旧校舎の内、1棟が残っています。新校舎の校庭には体育館が置かれたままになっています。これは1966年に正規の位置に移築されます。2つある校舎の内、右側の建物は教室になっていました。この建物の1Fには職員室・保健室などがありました。左側の建物は音楽室・家庭科室・理科室などがあり、夫々の授業の時はこの建物に移動して授業を受けました。校庭にあった体育館は、この建物の隣に移築されました。私が根岸中学に入学したのは1965年でしたから、校庭に体育館が残されていた筈なのですが、さっぱり記憶にありません。私が在学中は校庭と根岸線との堺には何も無く、電車がゴトゴト走る姿を教室から目で追っていたことを憶えています。今は防音壁が設けられ、電車の中から根岸中学校を見ることはできません。

●海外移住センター
この建物は1961年に建設され、2002年9月に閉鎖されました。この施設の本来の目的は、移住のために家や家財を処分した人達が横浜港から海外に向けて出船するまでの間、家族共々宿泊滞在し、永住査証の取得や予防接種、現地情勢や語学の研修を受けるなど、出発準備を行うためのものでした。日本の経済成長に伴い海外移住の希望者は減り続け、1994年には海外移住業務は停止されたそうです。その後この建物では、海外開発生年制度等で海外に行く人のために、語学研修を行っていたそうです。

●国鉄アパート
根岸駅の開設に伴い、国鉄の仕事に従事する人のために建てられました。2棟建てられましたが、この写真にはまだ1棟しか写っていません。私が1965年に根岸中学に入学した時、このアパートに住んでいる同級生が何人かいました。何度か改修されたようですが、元の形のまま2012年頃まで存在していました。いつ頃から使われなくなったのか分かりませんが、かなり長い間放置されていたように思います。

●立正佼成会
立正佼成会は法華経の流れを汲む宗教団体で、写真の建物は1952年に横浜支部として建てられました。その後横浜駅西口に移転し、1986年に跡地を根岸小学校に譲渡しています。

●横浜赤十字病院(日赤病院)
1923年に起きた関東大震災の臨時救急病院として開院し、1946年に横浜赤十字病院と改称しました。この頃の建物は木造2階建で、総合病院としての機能を有していました。根岸小学校で毎年行われる身体検査には、この病院から先生・看護婦さんが出張してきて検査が行われました。ツベルクリンの注射だけはクラス毎に日赤病院まで行き、そこで接種を受けました。この頃の身体検査には眼病検査なども含まれていたため、結膜炎とか外耳炎・中耳炎はこの病院で治療を受けていました。その後1964年に中区根岸町の根岸線沿いに病棟を新築し、移転しました。1964年に移転した後、木造の病棟は壊され、新しく鉄筋の神奈川県医師会准看護婦学校が建てられました。中区根岸町に移転した病院も、新山下町にみなと赤十字病院が開設される際に統合され、2005年3月に閉院されました。

●神奈川県医師会准看護婦学校
1965年に、神奈川県医師会准看護婦学校が開設されました。元横浜赤十字病院だった所に、鉄筋の新しい校舎が建てられました。その後の1971年に、中区根岸町の横浜赤十字病院の隣に鉄筋の校舎が建ち、そちらに移転しました。新校舎の移転先は神奈川陸運事務所があった場所で、陸運事務所が港北区の池辺町に移転した際に、跡地を利用して建てられたものです。この学校は、運営する団体が変る度に名称が変り、現在は神奈川県の運営となり、神奈川県立衛生看護専門学校と言う名称になっています。根岸駅前にあった旧校舎は、移転後暫くの間はそのままの形で残っていましたが、現在は解体されて更地になっています。

●市電
1963年当時は、六角橋-青木通り-高島町-尾上町-麦田-間門-葦名橋を走っていた市電11系統が、根岸駅前の道路を走っていました。1968年8月に六角橋-青木通り、八幡橋-本牧三渓園前の路線が廃止され、11系統は無くなりました。当初11系統は、六角橋-間門までの路線でしたが、間門-八幡橋間が1955年に開通したため、その年に葦名橋まで延伸されました。当時、私の父は横浜駅東口にあった会社に勤めていたのですが、たぶん、この11系統に乗って通勤していたのではないかと思います。祖父もまだ仕事をしていた筈で、西区の浜松町交差点の傍にあった「正金」と言う会社に行っていましたので、八幡橋-睦町-浦舟町-久保山-浜松町を通っていた7系統を利用していたと思います。祖母が鼻の手術で、浜松町から保土ヶ谷駅に通じる1号線沿いの病院(今はもうありません)に入院していましたが、この時のお見舞いも市電に乗って行った記憶があります。私が子供の頃は、どこに行くのも市電でした。1960年に作成された市電の系統図を見ると、路線が張り巡らされていて随分と便利だったのだなと感心します。ただ残念なことに、トロリーバスの実物を見る機会はありませんでした。

左の写真は、1963年の間門近辺の航空写真です。
横浜赤十字病院の建物が見えますが、翌年(1964年)の移転を控えて、新病棟の工事が進んでいる頃と思われます。新病棟の隣は神奈川県陸運事務所で、後の1971年に、この場所に神奈川県衛生学院(当時の名称)が移転します。
埋立地では日石の工場や石油タンクの建設が進んでいます。この頃は埋め立ても沖合までは進んでおらず、三渓園の辺りは未だ海がありました。その後本牧の沖合にまで埋め立てが進み、現在の姿になって行きます。

 

 

 

 

 

 

 

【1977年】上の写真は、1977年の根岸駅周辺と間門近辺の航空写真です。
根岸駅周辺には沢山の建物が建っています。マンションが建つ予定地はまだ空き地のままですが、その他は現在の状況に近くなっています。私が引っ越したのが丁度この年の暮れでしたから、私の根岸の記憶はこの航空写真に近い状態で止まっています。
根岸小学校は鉄筋の新校舎になり、プールも作られています。根岸中学にもプールが作られていますね。校舎の隣の青い屋根の建物は、運動クラブの部室でした。
旧横浜日赤病院の跡地には、鉄筋の神奈川県医師会准看護婦学校が立てられました。その建物は左側の写真に写っていますが、この時は右側の写真に写っているように、既に新校舎に移転した後です。看護学校が移転した後、この建物が何かに利用されていたのか、または空家になっていたのかは分かりません。
1963年の写真と比べると、14年間の時の流れがはっきりと分かります。根岸駅前を走っていた市電は1968年に廃止されていますが、線路がいつ撤去されたのかは記憶にありません。1968年は私が高校に入学した年で、毎日のように市電が通っていた電車道を渡っていたのですが、記憶に残っていません。日常の生活の中の風景は徐々に変化して行きますから、写真にでも撮っておかないと記憶に残らないことが多いように感じます。
もし、埋め立てが無かったら、現在この辺りはどんな景色になっていたのでしょうね。国鉄アパートが建っている場所から先は海だったわけですし、根岸は海と山に囲まれた地ですから、昔と変わらないままの景色だったかもしれませんね。

 


 

 

 

 

 

【2016年】ついでですから、2016年の航空写真も載せておきたいと思います。

前回の投稿が2014年3月ですから、もう3年近く記事を書いていなかったのですね。
時が経つのは本当に早いです。年を取るわけです。

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