磯子Old & New

By , 2011年12月19日 7:20 PM

 ここに掲載する写真は、SATURNO IOMさんから提供していただいたものです。1960年代の写真と最近の写真を比べると、其々の場所の変化が良く分かります。1960年代と言えば、日本は高度成長期の真っ只中です。ですからこの頃の写真には、日本全体が貧乏だった頃の佇まいと、活気に満ちた雰囲気が同居していて、何とも言えない懐かしさを感じます。

 芦名橋の奥から磯子山に向って行くと、途中に長い急坂がありました。1964年の写真では車が通れるように整備されていますが、私が両親に連れられてこの辺りを散策していた1960年頃は、まだ細い山道だったと思います。後年開始される宅地開発のため、先ずは工事車両が通行できるように整備されたのだと思います。今まで宅地ではなかったところが住宅街になると、その変貌ぶりが良く分かります。当たり前とは言え、坂道の形が変わっていないところが、妙に印象に残ります。
 

 磯子旧道入口から、磯子小学校前に抜ける道の途中で撮った写真です。其々の写真を見比べると、右側の家のブロック塀や左側の家の土留めが昔の姿のまま残っていて、何故かとても懐かしい気持ちになります。
 

 浜マーケットの出口近くにあった「室ノ木公園」周辺の写真です。新しい方の写真を見ると、左側に向って比較的太い道が写っていますが、昔はこの道はありませんでした。右側に行く細い道も見えますが、昔はこの道だけでした。太いほうの道は、禅馬川が暗渠化された後に作られた道です。細いほうの道は、下の写真に写っています。
 

 昔の写真に写っているのは、磯子旧道入口から磯子小学校前に抜ける道の途中にあった、禅馬川に掛かる橋です。禅馬川が暗渠になり、今ではその頃の面影はありません。昔の写真に「飛鳥田医院」の看板を見ることができますが、私が幼少の頃、こちらの医院に随分とお世話になりました。飛鳥田医院は、飛鳥田一雄元横浜市長の弟さんが開院された診療所で、八幡橋から少し磯子橋方面に行った16号線沿いにあります。今ではもう、お孫さんの代になっているのではないかと思います。
 

 磯子小学校や周りの住宅は異なっていますが、佇まいは殆ど変っていません。写真を撮った各々の季節が違うからかも知れませんが、最近の写真には何となく活気が無いように思われます。この辺りは、表通りから少し入ったところですが、昔は人通りも多く、良い意味でもっとごちゃごちゃしていたように記憶しています。
 

 この写真は、磯子小学校前から16号線に抜ける途中の様子を写したものです。昔の写真に写っているクリーニング屋さんは、以前は貸本屋さんでした。母の実家が久木町に引っ越した後、時々遊びに行った時などは、ここでマンガを借りたりしていました。ちょっと前まで、ここは何のお店だったか忘れてしまっていたのですが、SATURNO IOMさんから提供していただいた資料を見ていて、貸本屋さんであったことを思い出しました。それと同時に、当時のお店の様子や周りの雰囲気までもが鮮明に思い出されました。とっくに忘れてしまっていたことを何かの切っ掛けで思い出すと、その当時の周りの雰囲気まで蘇って来るのですから、記憶って不思議なものですね。

 昔の写真には、クリーニング屋さんだけでなく他のお店も写っていますが、今ではそれらは無く、何となく閑散としています。普段の買い物は、大型スーパーに車で乗り着ければ一遍で済んでしまいますが、その代り地元の商店街は廃れ、町の活気は失われて行きます。賑やかなのが良いとは限りませんが、活気が失われて行くのは、何となく寂しい気がします。
 
  写真の場所の地図です。地図は1961年のものですが、1963年頃と大きな違いはありません。一番上の写真からA~Fとして、写真を撮った位置を記してあります。
 
 
 
 
 
 

磯子山から

By , 2011年12月16日 2:49 PM

 左の写真(A)は1962年に磯子山から根岸湾を望んだものです。写真に写っているのは小学生の私ですが、ここはどこだったのか全く記憶にありません。この写真が、アルバムにポツンと貼ってあることは知っていたのですが、写っている本人も写した当人(父親です)も、ここがどこなのか憶えていませんので、汐見台の造成地じゃないのかと言う結論になっていました。ところが、SATURNO IOMさんの検証で、ここは「磯子配水池」の造成現場だったと言うことが分かりました。

 写真の右側に写っているビルは「日本発条」のビルであること、写真に写っている林が手前と奥と二重になっているため峰が2つあっただろうこと、そしてニョキッと突き出した背の高い3本の木の、左側の木と真ん中の木の間に「金蔵院」と思われる大きな建物の屋根が写っていること、それに当時のカメラの標準的なレンズの撮影角度を加味し、更に進駐軍(古い・・・)が作成した等高線の入った地図と重ね合わせて検証した結果、ここは「磯子配水池」の造成現場だろうとの結論になったそうです。

 もっと海に近い場所では、これらの建物が一緒に写り込むことはありませんので、それが正しい結論だと思います。場所の特定ができて、改めて写真を見ると、そこには埋立竣工前の根岸湾の姿がありました。ただ、山に遮られて海岸線に近いところは写っていませんので、実際には、かなり埋立は進んでいたのではないかと思います。本牧岬が海に迫り出しているところなどを見ると、この景色が今でも残っていたらと、未練がましく思うのは私だけではないと思います。
 
 この写真(B)は、上の写真より幾分根岸寄りの場所から写したもので、SATURNO IOMさん所蔵のものです。この写真は1964年11月に撮られたそうですから、根岸から磯子に掛けての埋め立てが終り、根岸線も磯子まで延伸し、これから周辺の工業地帯が稼働し始めようとしている頃のものです。

 写真の真ん中辺りには、根岸の製油所のタンクが見え、その左手には、工場の煙突なども見えます。上の写真とはたった2年程度の違いしかありませんが、こんなに変貌してしまうものなんですね。この時はまだ、磯子の山は健在でしたが、数年後には切り崩され、宅地造成が始まります。
 
 左の写真(C)は、真照寺傍の山から撮ったもので、正面に写っている木造の大きな建物は、磯子小学校です。これもSATURNO IOMさん所蔵の写真ですが、磯子の山を歩く時は、真照寺の脇から山に入ることが多かったそうです。写真右側に写っている大きな建物は「バブコック日立」の工場だと思います。

 私は中学生の頃にアマチュア無線を始めたとブログに書きましたが、その頃いろいろお世話になった人が、この近くにお住まいでした。現在の腰越プールがある後ろの山が、当時は緩やかな丘のようになっていて、そこに登ってはポータプルトランシーバー(TRIO TR-1000)で交信したものでした。丘の頂上には岡村の「金魚池」がありました。
 
 上に掲載した写真の場所を現在の地図に記すと、左の画像のようになります。一番上の写真から順番にA・B・Cと番号付けしています。
 
 
 
 
 
 
 

磯子旧道と岡村ブドウ園

By , 2011年12月14日 8:59 PM

 磯子旧道は、国道16号線の浜交差点から、16号線を離れて岡村の笹掘まで続く山側の道です。大正3年に国道16号線が開通した当時、磯子旧道は後にプリンスホテルが建つことになる山で行き止まりになっていたようです。その後、その山を切り開いて、昭和4年に岡村の笹掘まで繋がったそうです。この磯子旧道の延伸部分を「岡村道」とも呼ぶようですが、呼び名の定義は明確ではありません。

 このような大昔の話は検証できませんが、その後の昭和30年代には「磯子の山歩き」に記載したように、実際に自分でこの辺りを歩いていますので、その頃の記憶と、現在と比較した写真を載せたいと思います。以下に掲載する写真は磯子区役所発行の「浜・海・道(昭和63年発行)」から引用させていただいたものと、度々本ブログに登場していただいているSATURNO IOMさんから提供していただいたものです。
 
 
 

 上の写真は磯子旧道の途中にある、「広町バス停」の1963年当時と現在の様子とを写したものです。左の写真の電柱の位置からすると、現在のバス停は多少磯子寄りに移動しているようです。後ろに続く山は、当時まだ未開?で、磯子台などの住宅地が出現するのは暫く後のことになります。
 

 上の左側の写真は、上記の「広町バス停」近くから笹掘方面を見た写真です。右側の現在の様子と比べると、同じ場所を撮ったものとは思えません。もの凄い勢いで山が切り開かれ、住宅地に変貌して行ったのが良く分かります。それにしても、電柱の位置が変わっていないのは驚くべきことです。土地開発計画が、緻密に練られていたことの良い証拠だと思います。
 

 この写真は、上述のものとは反対に、「広町バス停」近くから汐見台方面を見たものです。昭和10年頃の地図と現在の地図を照らし合わすと、昔、主要な山道だった道が、現在の住宅街の中心的な道路になっています。これにより、小さな頃に両親と歩いた山道は、現在のこの辺りだっただろうと見当をつけることができます。そんなことを考えながら地図を辿っていると、忘れかけていた記憶が蘇るような気がします。
 

 この写真は、「広町バス停」の辺りから、もう少し汐見台寄りに行った場所で写したものです。左側の写真は、現在の汐見台中学の前辺りで撮影したものではないかと思います。汐見台に続く歩道は綺麗に整備され、ここに至るまでの途中の道路とは、全く違う道に見えます。この写真の1963年当時は、このようなコンクリート製の団地やマンションのはしりのような建物は珍しく、子供の目には「高級」な住宅地と写っていました。汐見台には、公団と分譲と社宅と、夫々目的の違った建物が混在していたのですが、全く新しく開発された土地に新築の建物が林立したのですから、やはり新鮮な驚きがあったと思います。

 汐見台の開発は、1963年の初入居後も継続されました。私の中学時代の友人が岡村の仲久保に住んでいましたが、1966年頃に何回か遊びに行った時も、汐見台開発のためのダンプカーが往来していたことを憶えています。ちなみに友人の家は、現在の岡村郵便局の向いのあたりで「お菓子屋さん」を営んでいました。
 

 上の2枚の写真は「浜・海・道」から引用させていただいたものです。時は1955年とのことですので、55年以上前のものです。写真の場所は、上述の磯子旧道のブドウ園近くから笹掘方面を写したものです。背後の山の形が、上述の写真とそっくりですので、そう判断することができます。私が両親に連れられ磯子の山歩きをしていたのが1959~1960年頃でしたので、その5年ほど前の写真と言うことになります。私の記憶では、当時の道路はもう少し整備されていたように思うのですが、風の強い日はかなり土埃が舞っていましたので、この写真と大同小異だったのかもしれません。上述の1963年の写真と比べると隔世の感がありますが、何故かものすごく懐かしい感じがします。

 右の写真の岡村ブドウ園の看板は、どこに建っていたものか分かりませんが、「中久保・磯子海岸」の記述があります。それを見ると、昔はこんなだったんだなぁと実感できます。そのブドウ園は、左側の写真の右手の斜面に位置していたそうです。50年以上前のこととなると、例え自分で体験したとは言え、殆ど憶えていないと言った方が正しいと思います。そう考えると、写真の存在は実に偉大だなと感じます。現在の地図に照らし合わすと、岡村ブドウ園の位置は冒頭の地図に記した辺りになると思います。このブログにコメントをいただいた、「くりさん」のお兄さんの、ご友人の家が「岡村ブドウ園」を経営されていたそうです。
 
 左の写真は1963年当時の岡村ブドウ園の様子です。ブドウの生る季節には、ベンチに腰掛けてブドウを食べることができました。両親に連れられて磯子の山を散々歩き回った後、ブドウ園にたどり着いた時は、「ああ、家に帰れる」と思ったものでした。その思いが強かったせいか、ブドウ園から間坂近辺まではそれ程距離があるように思いませんでしたが、実際は結構な距離があったわけです。子供心には、ブドウ園から山を下るとプリンスホテルまでは直ぐだったように記憶していたのですが、実際はそうではありませんでした。

 間坂に出るのにバスに乗った記憶がありませんので、笹掘近くのブドウ園から、間坂まで歩いたことになります。昔は歩くのが当たり前だったとは言え、山歩きの後で、更に結構な距離を歩いていたわけですからびっくりします。上の岡村ブドウ園の看板にも「磯子海岸 徒歩廿分」とありますから、20分程度歩く距離だったわけです。今の時代、特別な用事がない限り、笹掘近くから間坂まで歩こうとする人はまずいない筈です。これも、古き良き時代の思い出と言うことなのかもしれません。

磯子産業道路

By , 2011年12月4日 11:53 PM

 私は磯子区の根岸に生まれ、25歳になった年の12月に栄区(当時は戸塚区)に越しました。それ以来、34年間栄区に住んでいますが、子供時代から思春期、青年期を過ごした磯子のことを懐かしく思い出します。このブログにも磯子の記事を幾つか載せましたが、磯子に関して私が記憶しているのは、引っ越す前の1977年12月までのことです。それ以降の磯子周辺の変化は記憶にないため、現在目にする磯子とのギャップが凄く、どのような変遷を経て今の姿になったのか想像することができません。

 特に国道16号線沿いの、八幡橋から森町あたりに掛けての変化には驚くばかりです。私が引っ越す前くらいまでは、磯子駅近くの16号線沿いには普通の民家が多く建っていて木々も茂り、「三宅胃腸科」などのお医者さんがありました。不二家レストランも、そんな街並みの一角に建っていたと思うのですが、今となってはその位置すら分かりません。しかし、街並みや道路が綺麗になり、バイパスや高速道路との接続も良くなり、磯子がますます発展していると思うと嬉しくなります。

 私と同様、幼少期を過ごした磯子の事を、懐かしく思い出すと言う方は多く、このブログにもコメントをいただいております。そのような方々の中で、SATURNO IOMさんとそのご友人のkouさんから、ご自身の幼少期の写真と共に貴重な資料をお送りいただきました。私の拙いブログで紹介させていただいても良いとのことですので、私自身の記憶も絡めて、数回に渡り紹介させていただきたいと思います。手始めとして「磯子産業道路」について記したいと思います。
 
左の地図は、1961年の「浜」近辺の地図です。根岸湾の第一次埋立工事は1959年2月に開始されていますので、この地図は、それから2年ほど経過した時のものです。根岸線の線路も記入されていますので、埋め立てが順調に進んでいたことが分かります。肝心の産業道路は、まだ姿形が整っていなかった頃で、16号線から埋立地に向かう道路も、磯子警察の前は狭いままです。この後、磯子区役所側の道路が拡幅され、現在の広さになります。産業道路(橙色)と根岸線の線路を挟んで、もう一本の道路(緑色)も作られています。

 この緑色の道は、埋立地に建つ工場群へのアクセス用の道路ですが、長い間、磯子駅の裏手で途切れていました。この道路の事を何と呼んでいたか記憶にありませんが、当時、少年野球に入っていた私は、この道を通り埋立が終わった工場用地まで行き、毎週のように練習や試合をしていました。中学生になった頃もこの辺りはまだ更地のままで、Uコンを飛ばしによく出掛けたものです。
 

 上の左側の写真は、整備途中の磯子産業道路を写したものです。横浜開港150周年記念行事サイトから引用させていただいた写真ですが、1963年の撮影となっています。右の写真は、幼少のころのSATURNO IOMさんと弟さんが写っていますが、工事途中の産業道路の様子が良く分かります。撮影は1963年4月5日との由ですので、左側の写真と同じ頃かもしれません。ただ左側の写真では、根岸線の送電線などが施設されていません。SATURNO IOMさんからいただいた1963年7月の写真には、立派な送電線が写っていましたので、左側の写真は、ひょっとしたら1963年以前に撮影されたものかもしれません。
 

 上の写真も、同じくSATURNO IOMさんと弟さんが写っていますが、左側が1964年5月3日の日付で、磯子産業道路が開通する直前の写真だそうです。右側の写真は、それから1年程度経過した1965年8月20日のものです。この頃は、もうかなりの交通量であったことが良く分かります。また、右側の写真のように、道路沿いにはいろいろな会社やガソリンスタンドがありましたが、時の流れと共に、介護施設やマンションなどに変わっています。
 

 左の写真は、同じく横浜開港150周年記念行事サイトから引用させていただいた写真ですが、1960年末頃に撮影されたものと思われます。写真手前には、立派な日本庭園を持ったお屋敷が写っていますが、埋立前、この辺りは料亭が建ち並んでいましたので、そのうちの一軒と思われます。ちなみに、かの有名な偕楽園は、1968年まで営業を続けたとのことです。右側の写真は、現在の様子を写したものです。歩道は「磯子プロムナード」と呼ばれ、綺麗に整備されています。この道路は産業道路と呼ばれるくらいですから、自動車の交通量緩和のための意味合いが強い道路です。そのため、16号線とは異なり殺風景な感じを受けますが、それも仕方のないことだと思います。開通当初の16号線バイパス的な道路から、金沢区の工業地帯の道路と接続されたことで、今では磯子区の産業を担う、大動脈と言っても良いと思います。
 
 左の地図は、1963年の地図です。根岸線の線路はここまでで途切れており、翌年の1964年に根岸-磯子間が開通します。冒頭に載せた地図のところで、産業道路の線路向こうにあるもう一本の道路のことを記しました。その道路の末端が、この地図に示されています。この道路は、根岸線の磯子駅を過ぎたあたりで、根岸線の線路を跨ぐように高架になり、磯子産業道路に繋がっていました。私もオートバイや自動車を運転して屏風ヶ浦方面から来た時は、信号の多い16号線や産業道路を避け、この道路をよく利用しました。

 今では、この道路は八景島まで繋がっていて、国道357号線と呼ばれています。高架になっていた部分は、今では途中で切れ、通行止めになっているようです。

※この記事に記載しました写真は、借用したものが多いため、転載しないでください。

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