昭和30年代

By , 2011年9月25日 12:32 PM

 私の父は、昔、タクシーの運転手をしていました。その頃タクシーの運転手と言えば花形の職業だったと聞いたことがありますが、その変則的な勤務時間のせいで、私が子供の頃は結構寂しい思いをしました。タクシーの勤務は、朝、会社に出勤して、一日中通しで仕事をします。次の日の朝方に乗務の仕事を終えるわけですが、次の乗務員に車をバトンタッチするための準備とか、事務処理だとかがあり、直ぐに勤務が終わるわけではなかったようです。勤務を終えた日が「明け番」で、次の日がお休みと言う勤務体系でしたが、私は日曜日以外は学校に行っていますので、下手をすると3日に1度、それも夜しか父親に会えないと言うこともありました。

 そんなわけで、寂しい思いをすることもあったのですが、乗せたお客さんの話をよく聞かせてくれて、それが楽しみの一つでもありました。上の写真は1957年8月に撮影したものですが、父がタクシーで乗っていた観音開きのクラウンです。父は時々、乗務の途中で家に立ち寄り、私を膝の上に乗せて近所を一周してくれました。私の自動車好きは、こんなところから始まったのかもしれません。
 

 上の2枚の写真は、1959年4月と9月に撮影した自宅の様子です。
左側の写真は、私が小学校に入学した頃のものです。この頃の旧家は、大部分の家が写真のような構造をしていて、玉石の上に柱を立て、その上に家が乗っているような作りでした。そのため「縁の下」が高く、小さな頃は縁の下に入ってよく遊んだものです。こんな構造ですから、強い地震には弱かったのではないかと思います。幸いその頃は、家が倒壊するかと思うような大きな地震には遭遇しませんでしたが、今年の東日本大震災のような大きな地震にあっていたら、どうなっていたか分かりません。

 右側の写真は、左側の写真から半年後のものですが、弟の成長が良く分かります。縁側に腰掛けてポーズを取っていますが、弟は母親似で、兄の目から見てもとても可愛らしい仕草をしていました。この写真には家の中の様子が写っていますが、「障子」に「からかみ」と言ったその頃の家屋の様子が分かると思います。

 ちなみに、この家はいつ頃建てられたのか、迂闊なことに私は知りません。祖父の代に建てたことは間違いないと思うのですが、近い内に、両親に確かめてみようと思います。私達が引っ越してから間もなく建て替えられたと聞きましたので、もう写真でしか見ることができないのですが、子供の頃の思い出がいっぱい詰まったこの家のことを、しっかり憶えておきたいと思っています。
 
 左の写真は、1960年4月に自宅の前で自転車に乗っているところを写してもらったものです。この頃は、写真で分かるように「板塀」の家が一般的で、道もでこぼこしていて雨が降る度にぬかるんでドロドロになり、運動靴を汚しては母親に怒られたものです。当時はまだ日本全体が貧しく、テレビが(それも白黒)やっと普及し始めた頃です。テレビに比べると冷蔵庫などの大物の普及は遅く、この頃までの冷蔵庫と言えば木製で、氷の塊を入れて庫内を冷やすと言う代物でした。洗濯機も手回しの絞り器が付いた1槽式で、パルセーターがとにかく目一杯勢いよく回り、物によっては洗濯物がポロポロになってしまうこともあったようです。

 ゴミの処理は、各家庭の勝手口などに「ゴミ箱」があり、その中にゴミを入れておき、1週間の内に何回か「ゴミ屋さん」がリヤカーで回ってきてゴミを回収していました。当然、夏場は腐敗臭がすごく、蠅は飛んでいるわウジ虫は湧いているわで、家の中で一番近寄りがたい場所でした。また、水洗トイレなんてものは想像さえもつかず、汲み取り式が当り前で、肥桶を担いで来た人が柄杓で汲み取っていたことを憶えています。それからバキュームカーになり、浄化槽になり、完全水洗にと発展?して行くのですが、ことさら左様に「何も無かった」と言っても良い時代でした。
 
 この頃の子供の遊びと言えば、男の子は「自転車」「野球」「めんこ」「べーごま」など、外で遊ぶことが当然で、雨降りの日は一日中家の中で、「何か面白いことないかな-」と言っていたものです。女の子は「ゴム飛び」「ケンケン」や、「ビー玉」「おハジキ」などが主な遊びだったようです。

 遊びもおもちゃの種類も、今に比べれば実につつましいものでしたが、自然だけはどこにでもありました。その自然の中で遊び回ったことが、私達の世代の大切な思い出となっています。今の子供は、私達の世代とは違った種類の素敵な思い出を持っていることと思いますが、それでも、昔の自然を見せてやりたかったなぁと思うのです。右側の写真は、1960年4月に根岸山の登り口で撮ったものです。この根岸山や根岸八幡神社などが、小学校の帰り道の遊び場でした。

続 50年前の江の島

By , 2011年9月24日 9:38 PM

 古い写真を整理していたら、またまた江の島の写真が出て来たので、前回の続きを書きたいと思います。左の写真は、1960年3月に江の島に行った時のものですが、海側から江の島マリンランドを撮影した写真です。向って右側の白い建物がマリンランドですが、左側の大きな建物は何なのか不明です。

 この頃は、児童海水プールがあった筈ですので、その建物かもしれませんが、およそプールらしい建物ではありません。
後年(1964年)になって、江の島海獣動物園ができるのですが、この写真の頃は当然ながら無いわけで、この建物は何?と言う疑問が頭の中で渦を巻いています。@@@@@
 

 それに輪を掛けて不思議な写真がこれです。
上の写真は、1962年3月に江の島に行った時のものですが、左側の写真の題名が「江の島遊園地」となっています。遊園地って、江の島の何処にあったんだろう?と新たな「@」が増えました。
 弟が「チンチン電車」のようなものに乗っているのですが、江の島の中にあった筈もないので、江の島水族館か江の島マリンランドのどちらかにあったのではないかと思います。

 右側の写真は「妙音弁財天賛歌の碑 沼田頼輔博士」と書かれているのが読めますが、この碑は今もあるのでしょうか。江の島に関する他の方の力作WEBページを見ても、この碑のことが書かれているのを発見できなかったので、ひょっとしたらもう無いのかなと思っています。

 実のところ、この写真で気になったのは、この碑のことではなく一緒に写っている可愛い女の子のことです。どこの誰さんなのか全く思い出せないのですが、こんな妹が居たら良かったのになと、今更ながら思います。子供の頃は、兄弟の多い少ないなんて考えたこともありませんでしたが、こんな可愛いらしい妹が居て、兄弟が5人くらいいれば、きっと毎日毎日楽しかっただろうなと思うのです。子供が5人も居たら親は大変ですが、子供にとっては沢山の思い出を作れるのではないかと思います。やはり、子供は多い方が良いです。皆さん、頑張りましょう???
 

 上の左側の写真は、前回も掲載した写真です。右側の写真は、このブログにコメントをいただき、その後、貴重な写真や資料を提供していただいている SATURNO IOMさん から、今年(2011年)のお正月に江の島に参詣した時の写真をお送りいただいたものです。両方の写真を見比べると、やはりこの50年間で、かなりの移り変りがあったことが良く分かります。しかし、なにはともあれ、未来永劫この景色が変わらないことを願って止みません。

 私は、前のブログにも記したように、自分の住んでいた地域の海が埋め立てられたことを経験しています。埋め立てた場所に誘致した企業が、近い将来、撤退する予定であると言う記事が、昨年、新聞に載りました。この埋め立ては、地元から強固な反対があったにも関わらず、市議会が無理やり推進したのですが、たった50年ほどで誘致した企業は去り、跡地の利用をどうするか、そのために税金がどれだけ必要になるかと言う問題が持ちあがる可能性があります。

 昨今では、諫早湾の干拓事業のことが大きな問題となり、水門を開門することの検証をどのように行うか揉めているようですが、全く馬鹿馬鹿しい話です。一度破壊してしまった自然は元には戻らないし、違う環境に順応した人間も、簡単に元には戻れません。環境問題への取り組みでは、世界的に評価が高い日本ですが、まだまだ、くすぶり続けている環境破壊事業が多々あります。決まったことだから推進するではなく、今一度立ち止まって、再度検証するという余裕を、政治家には持ってもらいたいものです。
 
 左の写真は、同じく SATURNO IOMさん から送っていただいたものですが、 日本の夜景は、何でこんなに懐かしくて美しいのだろうと改めて思います。今も時々、生まれ育った場所の海が、昔のままの姿で残っていたら、どんなに素晴らしいだろうと思うことがあります。今となっては、昔を懐かしみ、そして自分が成長してきた様子を記録することくらいしかできませんが、それはそれで大切なことだと考えています。自分の家系のことや子供時代のことを、自分の子供に伝えることで、子供は自分のルーツを認識できるようになります。

 そのような意図もあるのではないかと思いますが、 SATURNO IOMさん とご友人の kouさん が、生まれ育った磯子の昔の姿を掘り起こして、資料化しようとしておられます。私が忘れていたことや、知らなかったことも、お二人の集められた写真や資料で、思い出したり勉強させてもらったりしています。最終的に、どのような形にまとまるのか楽しみです。

2016年3月17日追記
冒頭の「江の島遊園地」ですが、「江の島植物園」の中に小さな遊園地があったそうです。
微かにではありますが、植物園に行ったような記憶が有りますので、多分、その中にあった遊園地だったのではないかと思います。江の島には、近い内に行きたいなと思いつつ、もう5年近く過ぎてしまいました。

Eimac 4X150G

By , 2011年9月18日 10:18 AM

 古い写真を整理しようと思って幾つかの整理箱をひっくり返していると、アマチュア無線関係の資料が出て来ました。保管箱に入れたMT管や3-500Z等の送信管、コイルやバリコン、パリLなども出て来て、暫くの間、見入ってしまいました。

 そんな中で、1つだけ小さな箱があったので開けてみると、クッション材に包まれた送信管でした。4X150Gと言う名称の送信管で、特殊な専用ソケットが必要だったことから一般的にはあまり利用されていなかったと思いますが、かなり以前から所有していたものです。

 自分で買ったのか、誰かに貰ったのか憶えていませんが、私がアマチュア無線を始めて幾らも経たない頃から持っていたように思います。この送信管を使って高い周波数帯の送信機を作成しようとしていたのだと思いますが、何をどうしようとしていたのかは憶えていません。

 ただ、この送信管については、1つだけハッキリと記憶していることがあります。他のEIMAC送信管は4CX250などのように4CXと言う名称なのですが、150シリーズは4X150となっています。それは、他の送信管がセラミック封入なのに150シリーズだけはガラス封入だったからなのですが、私の中ではずっと疑問でした。当時は、そのような単純な情報さえも入手することがなかなか困難だったのです。知り合いのOMさんに教えていただき、その疑問が解けた時は「なぁ-んだ!」と言った感じだったのですが、このようなあまり重要ではないことは憶えているくせに、肝心なことは忘れていて、最近は随分と歯痒い思いをすることが多くなっています。

 そんなことをぼーっと考えていると、昔の資料を見たくなり、きちんと梱包してあった本を取り出し時の経つのを忘れて読みふけってしまいました。1冊の本を見ると思い出すこともあり、次から次へと・・・。お陰で、狭い部屋が本で溢れかえり、年末のような大掃除をする羽目になりました。久し振りに資料や本の整理ができましたが、次の日、腰が痛いのには参りました。日ごろの運動不足が影響しているのでしょうが、暫くは治りそうにありません。

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