昔の磯子界隈-禅馬川、芦名橋

By , 2011年6月14日 12:59 AM
1975禅馬川21975禅馬川1

 上の写真2点は、禅馬川の写真です。左側の写真は、磯子小学校前から浜マーケットに通じる路地に入って直ぐのところに架かっていた橋です。この道を真直ぐに進むと、浜マーケットの出口を過ぎ、間坂・汐見台・岡村へと続く旧道の入口付近に出ます。右側の写真は、国道16号線側から見た禅馬川です。私が禅馬川に特別の思い出があるのは、母の実家が直ぐそばにあったからです。
 

1960-01-02禅馬川21960-01-02禅馬川1

 上の2点は、禅馬川のそばで撮った、伯父さん達と父母と弟の写真です。写真の日付は1960年1月2日で、先頭の2点の写真よりも15年以上前のものです。写真の向って左側が禅馬川で、この頃はまだ住宅は少なく、川岸も広場のようになっていました。当時、禅馬川沿いの道は、右側の写真のように、大きな門構えの家で行き止まりになっていました。
 母の実家は、根岸の家から歩いても、子供の足で15分ほどしか掛かりませんでしたから、よく遊びに行きました。左側の写真の右手に数軒の住宅があり、母の実家はその内の1軒でした。伯父さん達はまだ独身でしたが、私達兄弟は本当に良く面倒を見てもらいました。それから数年して、母の実家はすぐ近くの久木町に引っ越しました。

 禅馬川は先頭の写真で見るとおりの川で、昔から生活排水が流されていましたので、決して綺麗な川ではありませんでした。それでも、子供の遊び場としては充分面白い場所でした。台風などで大雨が降った翌日は、必ずと言ってよいほど大きな鯉や金魚が泳いでいましたので、それを捕まえるのに大騒ぎしたことがありました。鯉や金魚は、当時「金魚池」と呼ばれていた、岡村の高台にあった養魚場から流されて来たもののようでした。また、伯父さんが空気銃を持っていて、私もそれを持たせてもらい川石の上のカニやスズメを狙うのですが、上手く当った試しはありませんでした。当時の子供たちは、およそ今の時代では考えられないような遊びをしていたのです。

 禅馬川は、写真の場所を過ぎると、国道16号線の下を通って磯子の海に流れ出ていました。川には簡単に降りることができたのですが、国道下へは入れないようになっていたと記憶しています。近所には、私と同年くらいの子供もいましたが、国道下がどのような様子になっているか聞いたことがありませんので、さすがに地元の子供も近づかなかったのだと思います。もっとも、国道の下は下水口のようになっていた筈ですので、見ても何も面白いことはなかったと思います。

 禅馬川が国道下に入り込む場所には、「紅葉軒(コウヨウケン)」(SATURNO IOMさんからご指摘いただきました。この名前をすっかり忘れていたのですが、思い出しました。「小川ペーカリー」と言うパン屋さんも確かにあったと思うのですが、果たして何処だったのか・・・)と言うパン屋さんがあり、浜マーケットの入り口からそのパン屋さんまでの間には「浜書房」があったと記憶しています。禅馬川を過ぎてもう少し八幡橋方面に行ったところにはパチンコ屋さんもあったと思いますし、夕方は買い物客でごった返していましたので、この近辺は結構賑わっていたように思います。
 
1961-08葦名橋のプール左の写真は、当時芦名橋にあった小さなプールの写真です。写真の日付は1961年8月です。現在も同じ場所にあるようですが、多少形が異なるようです。根岸のマンモスプール(通称)は1965年7月の開園でしたから、磯子界隈のプールと言うと、ここしかありませんでした。足を延ばせば白旗にもプールがありましたが(現在の森町公園プール?記憶が曖昧です)、子供が行くには遠かったため、1~2回行っただけだったと思います。

 根岸・磯子と言えば海の直ぐそばですから、プールではなくて海に行きそうなものですが、私には地元の海で泳いだ記憶がありません。本牧から杉田に掛けて、多くの海水浴場があったそうですが、海水浴場そのものの記憶が無いのです。1960年頃から埋め立てが始まりましたので、私が海で泳げる年頃になった時は、地元の海水浴場は残っていなかったのだと思います。海水浴場の記憶と言えば、近場では、金沢八景・野島・湘南海岸などしかありません。私より4~5歳年上の方であれば、根岸湾の海水浴場で泳いだ記憶をお持ちなのではないかと思います。
 

1960-03横浜新道磯子界隈の話とは全く関係ありませんが、珍しい写真が出て来たので掲載します。
1960年3月、横浜新道戸塚料金所の写真です。横浜新道の開通は、前年の1959年10月でした。この写真は、父が会社の慰安旅行で出掛けた際に撮ったものです。

※先頭の禅馬川の写真2点は「横浜開港150周年記念事業」のホームページより引用させていただきました。
※ブログ中の画像は、他所からの引用ではないもの及び、人物が写っていないものに限り、自由にご利用ください。

昔の磯子界隈-八幡橋神社

By , 2011年6月13日 12:19 AM

 八幡橋で忘れてならないのは、「八幡橋神社」です。
子供の頃、ここは私の格好の遊び場でした。当時の写真があると良いのですが、残念ながら手元にありません。最近の写真はインターネット上にアップされていて、それらを懐かしく拝見させていただいています。私達が子供の頃は、神社の境内はもっと広々としていて、拝殿の裏側は木々の茂った何も無い空間でした。当時は拝殿の縁の下に入ることができ、かくれんぼした際の隠れ場所になっていました。また、正面の鳥居をくぐった直ぐの右側に大きな楠か銀杏の木があり、太い幹に大きな穴が開いていました。それも、かくれんぼの時の隠れる場所になっていました。

 当時の宮司さんは年配の穏やかな人で、子供があちこちに登って騒いでいても、「怪我をしないように」と仰ってくれるような方でした。そんな気安さもあって、他に行く場所が無ければ必ずと言ってよいほど、この神社に来て遊んだものです。
 
yahatabashi-jinjya 夏休みになると、神社の境内でラジオ体操が行われました。夏休みの最初の2週間程度だったと思いますが、出席カードにハンコを貰う必要がありましたので、嫌々ながら早起きしなければなりませんでした。8月に入ると、毎年、盆踊りとお祭りが催されました。盆踊りが先に開催され、夕方から夜に掛けて3~4日間くらい催されたのではないかと記憶しています。毎年のことながら、私はこの盆踊りに行くのが嫌で嫌で、何かと理由を付けては行かないので、終いには祖母に無理やり連れて行かれるのが常でした。今思うと、なぜ嫌だったのか思い出せないのですが、出不精の面倒くさがり屋と言う性格は、この頃から始まっていたのかもしれません。

 盆踊りの催しが終わると、いよいよお祭りが開催されます。20くらいの数の出店が境内に建ち並び、子供にとっては大きな楽しみになっていました。この頃は、大きな公園があるような場所では必ず夏祭りが開催されていましたので、盆踊りの時とは打って変わって、何日にも渡り、夏祭りのはしごをしたものです。

 私がもっと小さかった頃(1957年頃)、八幡橋神社のお祭りには山車が出ました。現在の消防用具置場の建物があった場所に、もっと背の高い、山車を仕舞っておく建物があり、毎年お祭りの初日にそこから山車を引き出して、八幡橋から現在のマンモスプール方面に向けて車道の上を引くのです。八幡橋神社のお祭りで、山車を引いている写真がどこかにあった筈なのですが、見当たりません。もし出てきましたら、追加して掲載したいと思います。当時はまだまだ交通量も少なく、のんびりしたものだったのですが、いつ頃から山車を引かなくなったのかは記憶にありません。

 八幡橋神社で忘れられないのは、昭和天皇御大典記念碑と呼ばれる大きな鉄球が乗っている記念碑です。子供の頃、この鉄球は一体何なんだと常々思っていたのですが、機雷だと言う説があり、何でそんなものがここに乗っているのかと子供ながら大いに心配したことがありました。もし機雷であったとしても火薬が入っているわけはないのですが、子供の頃は、大人が想像もできないようなことで驚いたり心配したりするものなのですね。実際、これが何なのか未だに私は知りませんが、他の神社ではまずお目に掛かれない代物には違いありません。

 根岸から引っ越した後も、仕事の関係で八幡橋神社の傍を通ることがあるのですが、先の東日本大震災の翌々日に通った時は、石作りの塀が全て倒れていました。塀が綺麗な形で並んで倒れていると同時に、境内がぐるっと一望でき、ある種、壮観な眺めでした(罰当りな・・・)。例の鉄球もさすがにボロボロになって穴が開き始めています。時の流れと共に、記憶の中にあるいろいろなものが変わって行くのは、寂しいような悲しいような、発展していると思えば嬉しいような、複雑な気分です。
 私の一番上の子は、私がまだ根岸に居る1976年5月に生まれました。お宮参りは、当然ながら八幡橋神社に行きました。お祓いをしてくださったのは、先代の息子さんだったと思いますが、その方が今も宮司をしておられるのではないかと思います。

 ここに掲載した写真は、1960年8月に私の父が八幡橋神社の境内で撮ったもので、弟と、まだ小さかった隣の家の息子さんが写っています。後ろの方にちょっとしか写っていませんが、境内が広々としていたのが分かると思います。

昔の磯子界隈-八幡橋、屏風ヶ浦

By , 2011年6月9日 10:00 PM

 私は、自己紹介のページに書いたとおり、横浜市磯子区(根岸)の生まれです。
家庭の事情で、25歳の時に横浜市栄区(当時は戸塚区)に引っ越しました。磯子に住んでいた年月より、今の所在地で過ごした年月の方が長くなってしまいましたが、小さな頃から、多感な青春時代までを過ごした磯子の思い出には、忘れ難いものが多くあります。

 しかし先日、両親の撮り貯めた写真を見ていた時に、私の中では既に忘れてしまっているものが多いことに気付きました。昔は確かに記憶していたことが、今はぼやっとしか思い出せないのです。この記事に書き留めた内容も、あと10年もすれば忘れてしまっているかもしれません。そんな危機感もあって、思い出すままにブログに残して行こうと考えています。
 
八幡橋幼稚園 八幡橋には、私が通っていた「八幡橋幼稚園」がありました。左の写真は1958年頃の写真です。今でこそ、ビルになっていますが、昔は木造の小さな幼稚園でした。園庭が余り広くなかったため、川沿いの道や、動物検疫所との間にあった広場が、外での活動の場でした。直ぐそばには掘割川が流れていましたが、悪戯をしたりして先生に怒られると、両足を持たれて川の上で逆さ吊りにされたりしました。今、そんなことをしたらどのような問題になるか分かったものではありませんが、あの頃は、先生も園児も承知の上で、それを楽しんでいたような気がします。

 雨の日は、外での活動はありませんのでずっと教室に居るのですが、傘をさして外の歩道を行く人の姿を、何故か良く憶えています。またそれぞれの時節には、全園児で直ぐ前の「八幡橋神社」に行ったのも憶えています。ただ惜しいことに、その頃の私は病弱で一年の内の半分程度しか通園しなかったため、幼稚園での思い出はあまり多くありません。

 私の祖母方の親戚は根岸の漁師で、幼稚園の対岸には大伯父さんの船を係留していた河岸があり、時々漁船で掘割川の河口沖まで連れて行ってもらったりしました。祖父が魚を大好きだったこともあり、漁があった日は毎回、祖母はこの河岸に行って獲れたての魚を仕入れていました。時期によって獲れる魚の種類は違うのですが、シャコ、カレイ、ヒラメ、アジ、サバなど、毎日必ず煮魚か刺身が食卓に載っていました。どちらかと言うと魚が苦手だった私は、シャコを茹でている臭いや魚を煮ている臭いに閉口したものです。この河岸の跡は、今もしっかりと残っています。

 この頃は、埋め立てにより根岸がダイナミックに変化して行った時期なのですが、まだ小さかったためか、曖昧な記憶しか残っていないのが残念です。
 
1972年八幡橋 左の写真は、1972年1月の八幡橋です。市電が写っていますが、この年の3月一杯で廃止されました。この写真に写っているパチンコ店ですが、私がまだ小さな頃(1956年頃)、ここにはデパートがありました。このデパートには玩具売場があり、陳列されていた玩具を良く眺めていたことを憶えています。また、その手前にある写真屋さんは「横山写真店」と言ったと思いますが、写真の趣味が高じた高校生の頃、良く通ったお店でした。パチンコ店の向こう側の大きな建物は「バブコック日立」と言う会社の建物です。私は1977年に引っ越したため知らないのですが、この会社は1999年まで、この場所で操業していたそうです。

 私は、小学校、中学校とも地元の学校に通いましたが、高校は金沢八景にある学校に進学しました。金沢八景まで通うのですから、屏風ヶ浦か杉田で京浜急行に乗ることになります。高校に入学する前年の1967年まで、市電は杉田まで行っていたのですが、その年の内に芦名橋止まりとなり、京浜急行の駅まではバスで行くことになりました。その頃のバスは車掌さんが居て、ある時、中学で同級生だった女の子が車掌さんになっていて、随分大人びて見えたものでした。市電が健在だった当時は、何処に出掛けるにも市電に乗ることが多かったので、最初の内は、バスに乗ることが新鮮に感じられました。

 高校への通学は、杉田(聖天橋)までバスで行って、京急杉田駅から電車に乗っていたのですが、通学時間短縮のため屏風ヶ浦駅から乗ることに変更しました。杉田駅までは商店街を抜けて行ったので、その様子に今と大きな違いはなかったと思いますが、屏風ヶ浦駅の周辺は大きく変化しました。私が高校に通っていた頃は、細い片側1車線の道路があるだけで、雨の日などはぬかるんで大変歩きにくかったことを憶えています。その細い道は、今も少しの距離だけ残っています。時々車でそこを通ることがありますが、こんなに細い道だったんだと思うと、隔世の感があります。この道は、屏風ヶ浦から栗木(打越)に抜ける道だったのですが、その細さが影響してか、車の台数が増え始めた頃からは、いつも渋滞していたように思います。

 この道は、屏風ヶ浦駅前を過ぎたあたりから丘を登る様な感じになっていて、坂の頂上付近で道が枝分かれしていました。左側の枝道に進むと、その先には「磯子工業高校」がありました。私が中学生の頃、この高校のアマチュア無線クラブを見学させてもらったことがあり、その影響もあってか、この学校に進学しようと考えていました。将来、プロの無線技術士の資格を取り、それを職業としたいと思っていたのですが、母親の反対に遭い普通高校に進学したのでした。無線技術士の資格は、2級ですが、大学に行ってから数年掛かりで取得しました。調子に乗って無線通信士の資格取得にも挑戦したのですが、こちらは予備試験に合格した時点で熱が冷め、そのままになってしまいました。苦労して取得した資格ではありますが、現状、何の役にも立たないのは大変残念なことです。

※八幡橋の写真は「横浜開港150周年記念事業」のホームページより引用させていただきました。
※ブログ中の画像は、他所からの引用ではないもの及び、人物が写っていないものに限り、自由にご利用ください。

ゴールデンレトリバー

By , 2011年6月2日 12:33 AM

19990227 1999年2月末のこと、家族の一員にゴールデンレトリバーの子犬が加わりました。男の子でしたから、名前は「タロー」と名付けました。1月の初めに兄弟5匹と共に生まれ、生後3ヶ月を迎える頃に、我が家にやって来ました。私の家族は元々動物が好きで、私がまだ小さかった頃よりペットを飼い続けて来ましたが、とても可愛がっていたマルチーズが亡くなって以来、5年間ほどペットを飼っていませんでした。そんな時、ゴールデンの子犬を飼いませんかとお誘いをいただき、ゴールデンの優しく愛らしい姿を思い浮かべると、またペットを飼ってみようかと言う気になったのでした。
 
19990302 我が家に来たばかりの頃のタロー君は、とても大人しくドテッとした感じの愛らしい子犬でした。最初の1週間は寝ている事が多く、遊んでやっても直ぐに疲れてしまうような感じでした。ところが1週間を過ぎた頃から動きが活発になり、部屋からベランダに出たりして、あらゆるものに興味を示し始めました。家が狭かったため何れは外で飼うつもりでしたから、私の仕事部屋をタロー君の寝る部屋にしていたのですが、活発になると同時に始まった悪戯には、何度も困らされました。
 
 
 
19990327 寝る前に必ず部屋の片づけをして、できるだけ手(足?)の届かない場所に本やペーパー類を移動させるのですが、それが少しでも疎かになると、次の日の部屋の散らかりようは想像を絶するほどでした。狭い部屋なのに、片付けにはいつも1時間ほど掛かりました。電話帳ほどもある仕事の!分厚い本がばらばらになっていたり、ティッシュペーパーは中味を全部箱から出して丁寧に1枚づつ引き詰めてあったり、餌はばら撒いてあるわ、水はこぼしてあるわ、マウスはかじってあるわ、絨毯の端はほつれているわ、窓の木枠には歯形が・・・。私が怒ると、写真のように部屋の隅に行き、そっぽを向いて目をあわせようとしないのですが、その仕草が可愛くて笑って済ませることが多かったように思います。この頃は、我が家の一員になって1ヶ月を過ぎたあたりでした。
 
 
 
19990404 そんな激しい悪戯も、時が過ぎると共に落ち着いて来て、鼻も伸び?なかなか男前の顔立ちになって来ました。犬は人間に比べて寿命が短いせいか、子犬の頃の成長は驚くばかりで、1週間違うと顔つきまで違うほどの成長ぶりです。愛らしい子犬の期間は、本当に短い時間でしかありません。その間に大きな愛情を注いで上げることが、一番大切のことのように思います。犬は、本来頭の良い動物です。我儘に育てさえしなければ、多少の問題があっても、何回も繰り返し話して聞かせることで、色々なことを理解するようになります。
 
 
19990727 左の写真は、1999年7月に撮影したものです。姿だけ見れば、もう立派な成犬ですが、まだまだ子供に変わりはありません。色々なことに興味を持ち人懐こくて、妥協を知らないだけに、時として人間の方が疲れてしまいます。そこである時、とことん遊んでやれば少しは満足するだろうと思い、広場で1時間ほど相手をしてあげたのですが、さすがに疲れたのか最後には横になってしまいました。しかしこれは全くの逆効果でした。それからは散歩に出る度に、同じように遊んでもらえるものと思いまとわりついて来て、私が疲れ果ててベンチで横になることもありました。大型犬を飼うには、飼い主の方にもそれなりの体力が必要なことが良く分かりました。
 
20001123 右の写真は、それから1年以上も経った2000年11月に撮影したものです。既に、名実ともに成犬になっていましたが人懐こいのは相変わらずで、どこに行っても、よその人にいい子ぶりを振りまいていました。ただ我が娘は、タロー君の小さな頃の傍若無人振り?を知っているためか、多少及び腰になっているのが笑えます。娘にしてみれば、自分よりタロー君の方が大きくなってしまったわけですから、切実な問題だったのかも知れません。この頃、私達は横浜市栄区の市民の森近くの住宅街に住んでいましたので、毎日の散歩は市民の森へ出掛けて行きました。ここは初夏にはホタルが鑑賞できたりなど自然が良い形で残っていて、その山道を1時間ほど歩き戻って来るのが散歩のコースでした。
 
20021014 そうこうしているうちに、「三度目のQRV」の記事にも書きましたが、2002年7月に近くに引っ越すことになりました。引っ越した先は住宅街で、引っ越す前のような大きな山はありませんでしたが、毎日の散歩には事欠かない程度の自然は残っていました。自宅から10分程度のところに大きな公園があり、その周りを含めて住宅街の数ブロックを回って帰って来るのが、毎日の散歩コースになりました。ただ歩く場所は、公園を除き殆どが舗装されていますので、夏の暑さや冬の寒さは、土の上を歩かせるのに比べて影響が大きかったのではないかと思います。
 
20041222 右の写真は2004年12月に撮影したもので、もうすぐ5歳になろうと言う時です。この後、尿道結石を患い近くの動物病院に世話になったのですが、手術は難しいとのことで食事療法を摂り、半年間ほど結石を溶かすための専用食を与えることになりました。この他にも、皮膚病になったり、消化不良を起こしたりもしましたが基本的に丈夫で、直ぐに回復するのが常でした。私自身も体の問題や仕事の問題を抱えた時期があり、文字通り、家族と共にタロー君も苦楽を共にして来ました。

 しかし何れにしても、犬の寿命は人間よりも遥かに短いことに変わりありません。生後3ヶ月の子犬の時から始まり、その後10年間一緒に生活をして来ましたが、2009年5月にガンのために亡くなりました。その時までには、何回か獣医さんに往診に来ていただいていて、近い内に入院・検査を行う予定でしたが、それを待つことなく、冷たい雨がそぼ降る日の明け方に亡くなりました。火葬して骨を拾う時に火葬場の方が、「綺麗な骨だから、病気で苦しんだ期間は短かったはずですよ」と言ってくれたのが、せめてもの慰めとなりました。今、タロー君は自宅近くの墓地に眠っています。その一角にはペット専用のお墓があり、多くの仲間に囲まれて、安らかな眠りについていることと思います。

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