Lotus EUROPA

By , 2011年2月27日 3:31 PM

europa_1 1974年5月の連休に、横浜・東京・千葉・埼玉・栃木・茨城のロータスヨーロッパオーナーが東名高速の海老名インターに集合し、親睦を深めました。写真の場所は夫々東名足柄、海老名の各サービスエリアだったと思います。この日は5月とは言え夏を思わせるような陽気で、大変暑かったと記憶しています。この時に集まったメンバーは、ELANの記事に記したように、私の人生に指針を与えてくれた恩人の方々や、後の自動車業界に大きな足跡を残す方も居られ、40年近く経った今振り返ってみても感慨深いものがあります。
 
 
europa_2 この頃、ロータスの輸入代理店はアトランティック商事になっていて、販売活動が積極的に行われていました。それまでは、ほとんど見掛けることのなかったロータス車が、時々街中で見られるようになっていました。これは、ヨーロッパの販売が好調であったことが、大きな要因になっていたのではないかと思われます。とは言え、まだまだロータスはマイナーな存在で知名度は低く、ヨーロッパは500~600万円もする超高級スポーツカーと思われることが多かったようです。

 そのような時期に例え十数台とは言え、色とりどりのヨーロッパが集合したのですから、かなりの注目を集めたように思います。私は、ヨーロッパの助手席で参加させてもらいました。所々で運転を代ったりして、一般道、高速道路などでヨーロッパの素晴らしさを再認識しました。

 この時に参加したヨーロッパの中に、珍しい車が1台ありました。それは対米輸出用のS2だったのですが、ルノー1600ccOHVクロスフローエンジンを搭載していました。通常S2は、対米輸出用でもルノー1500ccOHVのカウンターフローエンジンを搭載していますので、1600ccOHVクロスフローエンジンを積んだS2を、この時初めて見ました。SPに比べて車重が軽いせいか、この1600ccエンジン搭載車はツインカムエンジン搭載車と遜色のない走りをしていました。
 
europa_3 ヨーロッパの運転感覚は、普通の自動車には例えようが無く、どちらかと言えばカートに極く近い感じがします。ドライバーが車の中心付近に座るせいか乗り心地は素晴らしく良く、下手なスポーツセダンよりも良いくらいです。サスペンションは硬いにも関わらず、路面からの直接的なショックは一切感じることがありませんでした。しかし、運転した感じはカートそのものと言っても良いかもしれません。

 走行中にハンドルを切った時の感覚は、ロールを一切感じずに、サスペンションの存在さえ無いように、スパッと瞬間的に移動する感じがします。1枚の板切れの上に乗っているような、そんな感じです。ハンドルはどのような状況でも常に軽く、極端な表現をすれば指1本で回せるほどでした。その代りキャスターアクションは弱く、ハンドルを切ったら自分で戻してやる必要があります。その代償のようなものですが、高速では慣れていないとその軽さが仇となり、真直ぐに走るのが難しい状況に陥ります。
 
europa_6 このように素晴らしい操縦性を持つヨーロッパですが、この性能を充分に発揮させるためには、色々と苦労も多かったようです。その最たるものはタイヤでした。当時、ヨーロッパの純正タイヤとしてはファイアストーンキャバリーノと言う銘柄が指定されていたと記憶しています。しかし、このタイヤが実は入手難で、他のタイヤではなかなか思うような感触が得られなかったようです。ハンドルを切った時に一瞬腰砕けのような感触が残り、それが我慢できないとオーナーの方々が口にされていました。これは、タイヤのショルダー部分の構造や硬さが影響していたのだろうと思います。

 いろいろと試した結果、純正タイヤに近い感触が得られたのはミシュランXWXだけだったとお聞きしました。しかしXWXは重量が重いため車のバランスが崩れるようで、最終的にはダンロップG5を選択されていたようです。当時は、今のように様々なパーツを選択できるような状況ではありませんでしたから、タイヤひとつ選ぶのも大変な労力と費用を必要としたようです。
 
europa_4 写真の白いヨーロッパTCは、エランの記事中に記した、鎌倉にあるお寺のご子息の車です。私が初めてヨーロッパを運転したのは、正にこの車でした。その時のショックは相当なもので、それまで自分なりに持っていたスポーツカーの理想像が一瞬にして崩れ去りました。私がヨーロッパの信奉者になったのは、言うまでもありません。

 ヨーロッパと言う車をじっくり見ると、ミッドシップスポーツの理想像を見ることができます。車の全長に対して前後のオーバーハングが短く、ホイールベースはそこそこ長く、全高は低く、トレッドは広く、車重は軽く、そしてエンジン-ミッションが縦一列に並び重量物の高さが低く抑えられているなど、レーシングカーを元にロードカーを作ったと言っても良いくらいスポーツカーとしては理想的な車なのです。
 
europa_5 今となっては、ヨーロッパは速い遅いを論じる車ではありません。例え山道でも、ヨーロッパより速い車は幾らでもあるでしょう。しかし、それらの車の内、運転していて楽しいと思える車がどれほどあるでしょうか。ヨーロッパは運転の難しい車ではありません。しかし、誰でも気軽に乗れるような種類の車ではありません。足代りにできる車でもありませんし、天気が悪かったり、気候の適さない季節(夏です)には、最も乗りたくない車です。

 でも、いつどのような状況の時に乗ったとしても、常に新鮮な感動を与えてくれる車です。ポルシェボクスターのような快適性や利便性は備えていませんが、運転していて楽しいと感じる割合は、それよりもはるかに上のように思います。趣味の車として持つのならば、ロータスヨーロッパはお勧めの車です。

再びQRV

By , 2011年2月23日 4:59 PM

HAM1976_1 オートバイ、自動車にうつつを抜かしている間、主として経済的理由により、暫くアマチュア無線の活動を停止していました。その間に周りの状況はかなり変化していて、中学時代からの仲間はアマチュア無線を止めてしまい、近所のOMさん達(ベテランの方達)の声も聞こえなくなっていました。OMさん達は、以前と違う周波数帯に移られた方も多かったようですが、仕事が忙しくなり、昔のようにon airされる時間が少なくなってしまったようです。

 この頃は既に、無線機を作るなどと言う時代ではなく、自分自身も昔と違い収入があったため、憧れであった無線機を自由に購入できるようになっていました。ソリッドステートの時代になり国産通信機の実力も上がり、海外では日本製の通信機が広がり始めていました。とは言え、アメリカ製の通信機は依然として高嶺の花であり、コリンズなどは手が出せる価格ではありませんでした。

 そこで、以前より情報を収集していたドレーク社の通信機を購入することにしました。この通信機は真空管+ソリッドステートのハイブリッド式ですが、写真のような小型の筺体に、ぎっしりといろいろな機能が詰め込まれていました。見た目もスマートで、アマチュア無線用通信機の傑作と言っても良いのではないかと思います。
 
HAM1976_2 アマチュア無線で一番の問題は、アンテナをどうするかです。高い周波数にon airする場合は、TVのアンテナ程度の大きさで済むことがありますし、低い周波数帯でもバーチカルアンテナで運用することが充分可能です。しかし、やはり短波帯にon airするのであれば、海外との通信も目的の1つになりますので、できるだけ大きなアンテナを建てようと考えるものです。当時の自宅の庭は特別広いわけではありませんでしたので、隣近所に配慮すると、そこそこの大きさにせざるおえません。

 そこで建てたのが写真のタワーとアンテナです。当初、自分たち数人で建てられるのではないかと考えていましたが、いざタワーが届いてみると、その大きさと重さで、専用の道具も無く経験も無い自分達にどうこうできる問題ではないことが分かりました。基礎部分のタワーを土中に埋め、水平を出してコンクリートで埋めるところまでやり、後は近所の鳶の方達にお任せすることにしました。

 タワーも建ちアンテナの設置も終り、本当に久しぶりにon airしてみました。うーむ、知っている方が誰も居ない・・・と言う状況で、冒頭の書き出しとなるわけです。その代り、自分よりも若い世代のご近所の人たちが、元気にon airされていました。正に、時代はめぐると言った感じがしたものです。

続Lotus ELAN

By , 2011年2月19日 1:09 AM

elan_5 前の記事では、エランそのものについて書けなかったので、続きを書きたいと思います。左の写真は、箱根に出掛けたときに、マフラーが落ちて応急修理しているところです。エラン購入後、1年近く経過した時の写真ですが、この頃は、もう何が起きても慌てない心構えができていました。

 動いてくれさえすれば、どうにでもなると考えられるようになったのですが、このような心境になるまではかなりの時間が必要でした。私が経験したエランの比較的大きな故障を列記してみます。
ラバードーナッツの破損、クラッチプレートの破損、ウォータージャケットからの水漏れ、ラジエターからの水漏れ、ライトハウジングの破損、DC発電機の破損、ステアリングラックの破損・・・etc

 細かい修理個所は、憶えているだけでも、書ききれません。私自身は、電気周りに関しては何とかできる知識がありましたので、お蔭で随分助かりました。電気系統の故障でいちいち修理に出していたら、乗る暇が無いくらいでした。上に挙げた故障個所は、軽量化のためか、コスト低減のためか定かではありませんが、絶対的な強度不足が原因だと思います。私の車は1969年の製造でしたから、この時点では製造後4年しか経っていませんでした。

 購入した当初、ドライブシャフトが大人の親指程度の太さなのを知った時は、何故ラバードーナッツが必要なのか、何故軽いのか、理解できたように思いました。これがエランなんだと思うと、より一層愛着が湧いたものです。このような思いがあったから、故障続きであっても、手放す気になれなかったのだと思います。加速性能は、当時国産No.1だったサバンナRX-3よりも速く、高速道路以外であれば大抵の車には負けませんでした。

 箱根あたりでは、軽快なコーナリング性能と共に、小さな車体が大きな武器になっていたように思います。少なくとも、ロータスヨーロッパに乗るまでは、最高のコーナリングマシンと思っていました。ヨーロッパは、どの車と比較しても次元が違う感じがします。今まで、かなりの台数のスポーツカーに乗って来ましたが、本当のミッドシップスポーツが欲しければ、ロータスヨーロッパに乗るのが一番良いと思います。その思いは、40年近く経った今も変わっていません。
 
elan1974 右の写真は、前回の記事に書いたヨーロッパに乗っている方達と、忍野八海までドライブした時のものです。どこをどう見ても、ヨーロッパの方が地上高が低そうなのですが、ヨーロッパが平気で通れる個所も、エランはエキゾーストパイプを擦ってしまい、ヨタヨタと迂回する必要がありました。ヨーロッパと並べてみると、やはりその古さは否めない感じがします。修理工場で、エランスプリントも何回か見掛けましたが、やはりクラシカルな感じがしました。

 エランの操縦に関して大きな問題はありませんでしたが、クラッチは半クラッチ可能な部分が少なく、スパッと繋がるタイプでした。ハンドブレーキはステッキ型ですが、ボタンを押してリリースするタイプで、ブレーキが効いている範囲が非常に狭いため、坂道発進は充分な慣れを必要としました。

 クラッチは強力で、上手く繋げばとても素早いダッシュが可能でしたが、ドライブシャフトの途中にラバーカップリングが存在していますので、このような運転を繰り返すと、それを早く痛める原因になります。電気系統は、発電にDCダイナモが使われていましたので発電量が少なく、余程注意していないとバッテリー上がりを起こし易い状態でした。バッテリーは、トランクルームの奥まった位置に設置されていますのでメンテナンスは結構面倒でした。

 記事の冒頭でよく壊れたことを書きましたが、聞くところによれば、全体的にきちんと整備してあげればそうそう壊れる車ではないようです。もともと車重は軽いので、無茶な運転をしなければ、掛かるストレスも小さいはずです。そう考えると、華奢な作りは、そのように意図して作ったのだろうと思えます。

Lotus ELAN

By , 2011年2月17日 2:24 AM

elan_1 私は19歳の年に、普通自動車運転免許を取得しました。私の誕生日は12月ですが、もっと早い誕生日の友人は、高校に在学中から自動車学校に通い、免許を取得していました。私の場合、18歳になったと思ったら直ぐ年が明け、高校の卒業も間近に迫っていましたから、自動車の運転免許を取りに行く暇がありませんでした。勿論、大学受験の準備などもありましたので、それどころではなかったのです。

 大学の入試も終り、高校も卒業して、やっと自動車の運転免許を取りに行く気になりました。それまではオートバイに乗っていましたし、特別自動車に乗りたいと思っていたわけではありませんでしたので、そのうちに取れれば良い程度に考えていました。そんな具合でしたので自動車学校には行かず、直接、運転免許試験場に行き試験を受けました。当時は、路上試験など無い時代でしたから、直接試験を受けに行っても、それほどの困難はありませんでした。幸いなことに、2回目の試験で合格し、交通費その他全て含めて、12,000円程度で免許を取得できました。
 
elan_2 免許が手に入ると、例によって自動車が欲しくなりました。それまでオートバイに乗っていたので、極く普通の乗用車にはとても乗る気がしませんでした。とは言っても、アルバイト程度しかできない身の上ですから、お金はあまりありません。いろいろと中古車を探している時に目に止まったのが、フェアレディ1600(SP311)でした。オープン2シーターと言う姿、形が気に入って手に入れたのですが、大いに楽しむことができました。

 勿論、それまで乗っていたオートバイの気違いじみた性能とは比べるべくもありませんでしたが、天気を気にする必要が無いこと、楽ちんであることなど、遅くても構わないと思える要素は沢山ありました。半年後にフェアレディ2000(SR311)に乗り換え、当時絶大な人気を誇ったフェアレディZとよく競争したものです。

 そうこうして免許を取得してから1年が過ぎようとしていた頃、東名横浜インター近くの中古車屋さんに、ロータスエランが展示されていることに気がつきました。当時、ロータスの車はほとんど見掛けなかったのですが、エランの実物を目の当りにして一目で気に入ってしまいました。私にとっては正に衝撃的な車だったのです。価格はフェアレディZの新車を買ってもお釣りが来る金額でしたが、人と同じものは嫌だと言う天邪鬼的性格が災いして、結局買うことに決めました。オートバイでも自動車でも、中古車の経験は結構ありましたので、どうにかなるだろうと考えていました。
 
elan_3 金策に苦労し、やっとのことでエランが納車されました。私の購入したエランはS4のFHCでした。その小さなこと、そして低いこと、独特な美しい姿など、もうこれ以上の車は無いだろうと思えるほどでした。しかし、良くも悪くもエランの本質を理解しないまま乗っていましたので、結構無謀なこともしました。その最たるものが真夏の京都旅行でした。

 1973年8月に、京都、奈良へのドライブを敢行したのですが、幸いなことに、人間が暑さで参ったもののエランは終始無事に動いてくれました。しかしこの直後から、いろいろと故障が出始めます。故障個所のリストを作ったら、A4用紙の1ページがまるまる埋まるほどの数になると思います。エランとはどのような車なのか、それを理解していたら、多分、真夏の京都旅行などには出掛けなかったと思います。

 今と違って、その頃はロータス車を扱うお店はほとんど無く、修理と言えば、それまでの輸入代理店であった東急商事のサービス部門に頼るしかありませんでした。このサービス部門は横浜に近い場所にありましたので、修理と言うと、小型のローダーで引き取りに来てもらいました。パーツの入荷が遅いこともあり、修理に出すと1ヶ月くらい戻って来ませんでした。結局、元気に走っている時間よりも、修理工場に鎮座している時間の方が長かったのではないかと思います。
 
elan_4 それでも、エランを他の車に替える気など毛頭無く、修理から戻って来た日から、次に修理に出す日までの短い?時間を大いに楽しみました。そんなある時、箱根からの帰りに湘南海岸沿いの道路(R134)を走っていると、七里ガ浜の料金所(当時は料金所があったのです!)を過ぎた辺りで、1台の白いロータスヨーロッパTCとすれ違いました。

 エランが珍しかったのかUターンして追い掛けて来られて、当時から稲村ケ崎にあったレストラン「メイン」でいろいろとお話をしました。この方は鎌倉腰越にあるお寺のご子息で、当時は電機メーカーに勤めておられました。お話を聞くと、ヨーロッパに乗っている仲間が何人かいらっしゃるとの由でしたので、近いうちに会わせていただくことにしました。これが、それからの私の人生を方向付ける方達との出会いの始まりでした。

Motorcycle

By , 2011年2月16日 9:53 PM

スズキセルペットM80A 高校は地元ではなく、通学に1時間程度掛かる学校に入学しました。この高校は、中学1・2年のクラス担任であった恩師が出た高校で、自由をモットーとする校風が特徴でした。入学当初は余所者?の身であったため、おとなしく真面目に勉学に励んだのですが、様子が分かって来るに従って、本来の性格が表に出るようになりました。

 とにかく無類の機械好きでしたので、オートバイへの興味が出るのは必然でした。昔は「軽自動車運転免許」と言うものがあり、16歳になると軽自動車専用の運転免許を取得することができました。運悪く?軽自動車運転免許制度は、私が12月で満16歳になる年の9月に廃止されました。自分の意志で、何処にでも行きたいと考えれば、もうオートバイの免許を取るしかありませんでした。
 
motorcycle_2 父親は、オートバイの危険性を充分承知していましたので、私がオートバイの運転免許を取得するのは絶対に反対でした。しかしそうは言っても、私は自分で経験しないと何事も納得しない性格ですから、こっそりと隠れて運転免許試験場まで自動二輪運転免許を取得に行きました。

 私が二輪の免許を取得する頃は、原付と自動二輪の二本立ての免許制度でした。運転免許試験場での自動二輪の実技試験には「スーパーカブ90cc」が使われていました。運転免許試験場に通うこと3回目にして、ようやく自動二輪の免許を取得することができました。試験を受ける日は、当然ながら学校はズル休みです。
 
motorcycle_3 自動二輪の免許を取得すると、とくかく乗れるオートバイが欲しくなります。父親に何やかんやと理屈をこね、免許の取得とオートバイの購入を認めてもらいました。

 最初に乗ったオートバイは、スズキセルペットでした。中学の時の友人が紹介してくれた人から、安く譲ってもらいました。さすがに、この程度の大きさのオートバイでは遠出する気にはなれませんでしたが、近場を毎日のように乗り回していました。その後、CB125、YDS2、CB450と何れも中古車を乗り継ぎ、高校3年生の時にマッハ3を新車で購入しました。この頃、ホンダからはCB750が発売されていて、一気に大型バイクの時代に突入したのでした。
 
motorcycle_4 その結果として、オートバイによる事故が急増し、ヘルメットの着用義務、免許制度の変革などに繋がって行きました。私がオートバイに乗っていたのは、主として16歳から19歳までの3年間でした。最後はW1SAに乗っていましたが、その間、何回か事故に遭遇しています。

 今考えると、よく無事だったとしか言いようがありませんが、それも貴重な経験だったと思います。最近は、暴走族を除いて、オートバイの数がめっきり減っているように思いますが、オートバイに乗っている時の爽快感は何物にも代えがたいものです。高校時代の友人で、今も1300ccのオートバイに乗っている人がいますが、その気持ちが良く分かります。体力と気力が許すならば、私ももう一度オートバイを所有したいと思います。しかしオートバイは、どのような運転をしても、自分が幾ら気を付けても、危険な乗り物に変りはありません。オートバイを愛する人たちの、日々の安全を祈りたいと思います。

QRV

By , 2011年2月12日 8:44 PM

HAM1967-1 QRVとは、アマチュア無線用語で「on airする」と言う意味です。小学校6年生の時に、ラジオ作りに夢中になっている友達に誘われて、アマチュア無線にのめり込むようになりました。当時、ダイオード、トランジスタなどは普及しておらず、ラジオ・テレビと言えば真空管式が当たり前でした。今のように、あらゆる種類の電化製品があるわけではなく、自分でラジオを作ることを趣味にできた時代です。

 中学生になり、アマチュア無線の免許を取るために勉強を始めました。学校の勉強はそっちのけでしたから、通信簿に「HAMと同じくらい勉強に励め」と書かれたこともありました。自分で通信機を作りたいと言う願望があったため、お小遣いを貯めては、真空管、トランス、コア類を秋葉原まで買いに出掛けたものです。しかしいざ免許が取得できると、早くon airしたくて、当時のスタンダード製品であったTRIOの9R59 + TX88D(なぜかDです)を買ってもらい、自分で組み立てました。

太陽無線NT110Aの情報

 
HAM1967-2 その頃、私の家の近所には、アマチュア無線をしている方が沢山いて、その殆どの方が年上の学生か社会人でしたので、いろいろと教えていただきました。社会の右も左もわからない中学生を一人前の人間として見ていただき、大変勉強させてもらいました。アマチュア無線はその頃、趣味の王様と呼ばれていましたが、年齢に関係無くこのような付き合いができることが、その本質だったように思います。

 しかし、これはアマチュア無線の世界だから実現されたことではなく、それを趣味としている大人たちが寛大な心を持ち、年下の人間を指導しようと努力していたからだと思います。あの頃の大人は偉かった、と私は今でも思っています。偉ぶることなく奢るわけでもなく、気持ちが熱くなるような話を沢山聞くことができました。そのような意味で今までの自分を省みると、忸怩たる思いがあります。残りの人生をどのように生きるか、もう一度考えてみようと思います。まだ時間は残されていますから。

磯子の山歩き

By , 2011年2月10日 11:38 PM

yamada_1 私が子供の頃、両親によく磯子の山に連れて行ってもらいました。昭和30~40年初期の磯子の山は、汐見台はまだ造成されておらず、結構奥深い山でした。
 私の家は八幡橋のそばでしたので、行きはいつも歩きでした。八幡橋から歩いて、浜マーケットの前を過ぎて旧道に入り、芦名橋の辺りから山の方に入っていきます。今も地名として残っているのではないかと思いますが、その頃は「山田谷戸」と呼んでいました。

 山の方へ向かって行き人家のある辺りを過ぎると、いよいよ田畑のある山道が現れます。この辺りの山道は、畑があることから分かるとおり険しい場所は無く、子供でも充分に歩けました。写真は昭和34年頃と思われますので、私が7歳、弟が3歳くらいと思います。歩き易いとは言え、小さな弟にとっては長い距離です。帰りには、いつも父親の背中におんぶされていたことを思い出します。
 
 
yamada_2 当時、私の両親は30歳を少し過ぎたあたりです。若いですね。この写真を見る度サライの歌詞を思い出します。
「離れれば 離れる程 なおさらにつのる
この想い 忘れられずに ひらく 古いアルバム
若い日の 父と母に 包まれて過ぎた
やわらかな 日々の暮らしを なぞりながら生きる」
幸いなことに両親は健在で、近くに住んでいます。
本来であれば同居して、これからの世話をいろいろとしてあげなければいけないのですが、未だに両親に心配を掛ける不肖の息子です。
 
yamada_3 さて、肝心な磯子の山ですが、いつも歩くコースは山田谷戸から山に入り、田んぼで水遊びをしたり、春にはオタマジャクシを捕まえたりして歩き回り、いい加減疲れた頃に岡村の「ブドウ園」にたどりつきます。
 ブドウ園で一休みして山を下り、笹掘から間坂に抜ける道に出ます。この道の途中には「横浜プリンスホテル」が建っていたはずなのですが、とんと記憶にありません。

 道は舗装されていたのでしょうが、やたらと砂埃が立ち、車が走っているのを見たことがありませんでした。帰りはこの道をダラダラと歩き、間坂に続く急坂を下ります。この坂の途中には、当時「ひばり御殿」もあった筈なのですが、これも記憶にありません。坂を下りきって16号線に出て、浜小学校前か間坂あたりから市電に乗って家に帰ったのではないかと思います。

 この頃はまだ、市電の通っている道の向こう側は海で、間坂から屏風ヶ浦あたりに掛けては、磯子園、偕楽園などの料亭が立ち並んでいました。私のお婆さんが、婦人会の会合で時々偕楽園に行くことがあり、一度だけ連れて行ってもらったことがあります。海にせり出した舞台のような場所があり、子供心に「おお!すごい」と思ったことを憶えています。その海も、もうとっくの昔に無くなってしまいました。山歩きでは、山道の記憶は所々あるのですが、帰りはどうやって帰ったのか憶えていません。今度機会があったら、両親に聞いてみようと思います。もう忘れちゃっているかもしれませんが・・・。

氷川丸の出航

By , 2011年2月8日 10:31 PM
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 今は山下公園に係留されて博物館になっている氷川丸ですが、この当時はまだ現役の客船でした。
写真は昭和34年8月24日に撮影したものです。氷川丸は翌年の12月に現役を引退していますので、最後期の頃の写真です。

 この時、氷川丸が出航する前に乗船して、船内を一通り見せてもらいました。「昔の根岸中学」のブログに書いた、隣の家の中学生のお兄さんですが、当時その方のお父さんが氷川丸の機関長をしていて、見送りに行った時のものです。はっきりとした記憶はありませんが、場所は大桟橋だと思います。
この写真は、私の父親が撮ったものです。

観音崎のゴジラ

By , 2011年2月7日 11:05 PM

観音崎のゴジラ 時は昭和34年8月12日の観音崎の写真です。当時、観音崎にはゴジラが居ました。このゴジラ、実は滑り台になっていました。昭和33年に作られ、風化により壊れ昭和48年に撤去されたそうです。写真を撮ったのは、ゴジラの滑り台ができて、1年経った頃です。
怪獣映画「ゴジラ」でゴジラが日本に上陸したところが観音崎だったことにちなみ、ゴジラの滑り台が作られたと言う話を聞きました。
 
 
 
観音崎海岸 私が子供の頃は、父親の会社の慰安旅行で、毎年夏に海水浴に行っていました。この年は観音崎だったのですが、逗子、江の島、金田(三浦海岸)など、毎年あちこちの海水浴場に連れて行ってもらいました。
その催しが何年も続いたある年の夏、一人の社員の方のお子さんが水難事故に遭われ、それ以降は開催されないことになりました。子供心にも、その方の悲しみが分かるような気がしました。
 
 
観音崎から鴨居への道 左の写真に写っている細い道は、鴨居方面へと続く海沿いの道だったのではないかと思います。今は舗装されて快適な道路になっていますが、この頃はこんなだったんでしょうか。それにしても、現在の様子とはかけ離れています。
この写真は、私の父親が撮ったものです。
 
 
 

昔の根岸中学校

By , 2011年2月6日 8:30 PM

1949-02-28Negishi 私が小学校1~2年の頃、隣に引っ越して来た家に、中学生のお兄さんが居て、地元の根岸中学に転入しました。私はそのお兄さんに、根岸中学に連れて行ってもらったことがあります。その頃の根岸中学は、岸壁の直ぐそばに建っていて、本牧岬の辺りを見渡せたのを何となく覚えています。

 それから数年して根岸湾の埋め立てが始まり、根岸の景色は一変してしまいます。まだ小さかったこともありますが、昔の根岸中学がどの辺りに建っていたのか正確な記憶はなく、以前からずっと気になっていました。たまたま現在の根岸中学のホームページを見たところ、昔の根岸中学について「国有地の一部を埋め立てて校舎を建てた」と書かれています。記憶を頼りに、昔住んでいた所からそれ程遠くない場所を航空写真で探すと、すぐ近くに見つかりました。上の写真で、小さな入り江のようになっている場所を埋め立てたようです。
 
1956-03-08Negishi 左の写真では、埋め立てられた場所に2棟の校舎が建っています。昔の根岸中学がどこに建っていたのか、これでやっと知ることができました。

 根岸の海と言っても、私の住んでいた場所の近くは全て岸壁でしたから、泳ぐことも砂浜で遊ぶこともできませんでした。砂浜は、間門の近くまで行かないとなかったのではないかと思います。私には砂浜の記憶がありませんので、小さかったせいもあるのでしょうが、多分、行ったことはないのだろうと思います。ですから、根岸の海で泳いだ記憶は、残念ながらありません。
 
 当時私は、写真にも載っている根岸小学校に通っていましたが、通学路は山側の道でした。また、海そのものが珍しい存在ではありませんでしたので、日常生活の中で海の近くに出掛けることは少なく、根岸の海に関する記憶はあまり多くありません。市電(六角橋行き11系統)の通っていた電車道を向こう側に渡れば直ぐ岸壁で、本牧の先まで見渡せる海が広がっていたのですが・・・。

 小さい頃、遊びの興味は他にありましたから、海を見に行くことはあまりありませんでしたが、海が無くなるのなら、もっといろいろとみておきたかったと、今になって思います。

 たまに根岸の近くに行くことがありますが、車の混雑振りや、根岸駅周辺の変化には驚かされます。私が現在の住居に越してから30年以上経ちますから、変化は当然と言えば当然なのですが、昔の風情を余り感じられないのが残念です。

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