Category: 昔の根岸・磯子

1963年根岸線開通前年の根岸

By , 2017年1月29日 7:58 PM

桜木町駅から磯子駅までの新路線が1964年に開通し、それを機に横浜駅から磯子までの路線は根岸線と命名されました。
根岸線はこの後、1970年に洋光台まで、そして1973年に大船まで延伸され全線が開通しました。
この記事は、根岸線が開通する前年の1963年の、根岸駅周辺について記したものです。
1963年と言うと、私は小学校5年生でした。
もう50年以上前のことですから細かい部分は忘れてしまっているのですが、自分の記憶を再確認するためにも、根岸線開通前の根岸駅周辺の様子を記したいと思います。

 

【1963年】上の写真は、磯子区中根岸町(当時)を中心にした航空写真です。この写真の中に写っている建物を中心に、当時の根岸駅周辺がどのような様子であったのかを記したいと思います。

●根岸駅
根岸駅の前にはロータリーができていますが、周りの土地は殆どが空き地で、区画毎に太い木の杭に鉄線を張り巡らせた塀ができていました。1964年に根岸線が開通してからも、暫くの間はこのような状態が続きました。現在のような駅前のマンションが建つのは、かなり後になってからのことでした。この写真の日野自動車があった場所にトヨペットの研修センターが建ったのが、最も早い時期の建物であったと記憶しています。

●根岸小学校
この年に、創立90周年を迎えました。校舎は木造2階建で校庭を口の字型に囲むような形でした。第2校庭は校舎の裏側にあり、ここに回転ブランコや雲梯がありました。講堂は校門を入った左手にあり、こちらも木造の古い作りでした。講堂にはステージがあり、ここで学芸会の発表や卒業式が行われました。講堂は体育館も兼ねていて、隅には跳び箱やマットなどが並べられていました。1986年に立正佼成会から土地を譲り受け、校庭・校舎の拡張がされました。

●根岸中学校
根岸中学は、この年に旧校舎から新校舎に移転しました。写真では2棟あった旧校舎の内、1棟が残っています。新校舎の校庭には体育館が置かれたままになっています。これは1966年に正規の位置に移築されます。2つある校舎の内、右側の建物は教室になっていました。この建物の1Fには職員室・保健室などがありました。左側の建物は音楽室・家庭科室・理科室などがあり、夫々の授業の時はこの建物に移動して授業を受けました。校庭にあった体育館は、この建物の隣に移築されました。私が根岸中学に入学したのは1965年でしたから、校庭に体育館が残されていた筈なのですが、さっぱり記憶にありません。私が在学中は校庭と根岸線との堺には何も無く、電車がゴトゴト走る姿を教室から目で追っていたことを憶えています。今は防音壁が設けられ、電車の中から根岸中学校を見ることはできません。

●海外移住センター
この建物は1961年に建設され、2002年9月に閉鎖されました。この施設の本来の目的は、移住のために家や家財を処分した人達が横浜港から海外に向けて出船するまでの間、家族共々宿泊滞在し、永住査証の取得や予防接種、現地情勢や語学の研修を受けるなど、出発準備を行うためのものでした。日本の経済成長に伴い海外移住の希望者は減り続け、1994年には海外移住業務は停止されたそうです。その後この建物では、海外開発青年制度等で海外に行く人のために、語学研修を行っていたそうです。

●国鉄アパート
根岸駅の開設に伴い、国鉄の仕事に従事する人のために建てられました。2棟建てられましたが、この写真にはまだ1棟しか写っていません。私が1965年に根岸中学に入学した時、このアパートに住んでいる同級生が何人かいました。何度か改修されたようですが、元の形のまま2012年頃まで存在していました。いつ頃から使われなくなったのか分かりませんが、かなり長い間放置されていたように思います。

●立正佼成会
立正佼成会は法華経の流れを汲む宗教団体で、写真の建物は1952年に横浜支部として建てられました。その後横浜駅西口に移転し、1986年に跡地を根岸小学校に譲渡しています。

●横浜赤十字病院(日赤病院)
1923年に起きた関東大震災の臨時救急病院として開院し、1946年に横浜赤十字病院と改称しました。この頃の建物は木造2階建で、総合病院としての機能を有していました。根岸小学校で毎年行われる身体検査には、この病院から先生・看護婦さんが出張してきて検査が行われました。ツベルクリンの注射だけはクラス毎に日赤病院まで行き、そこで接種を受けました。この頃の身体検査には眼病検査なども含まれていたため、結膜炎とか外耳炎・中耳炎はこの病院で治療を受けていました。その後1964年に中区根岸町の根岸線沿いに病棟を新築し、移転しました。1964年に移転した後、木造の病棟は壊され、新しく鉄筋の神奈川県医師会准看護婦学校が建てられました。中区根岸町に移転した病院も、新山下町にみなと赤十字病院が開設される際に統合され、2005年3月に閉院されました。

●神奈川県医師会准看護婦学校
1965年に、神奈川県医師会准看護婦学校が開設されました。元横浜赤十字病院だった所に、鉄筋の新しい校舎が建てられました。その後の1971年に、中区根岸町の横浜赤十字病院の隣に鉄筋の校舎が建ち、そちらに移転しました。新校舎の移転先は神奈川陸運事務所があった場所で、陸運事務所が港北区の池辺町に移転した際に、跡地を利用して建てられたものです。この学校は、運営する団体が変る度に名称が変り、現在は神奈川県の運営となり、神奈川県立衛生看護専門学校と言う名称になっています。根岸駅前にあった旧校舎は、移転後暫くの間はそのままの形で残っていましたが、現在は解体されて更地になっています。

●市電
1963年当時は、六角橋-青木通り-高島町-尾上町-麦田-間門-葦名橋を走っていた市電11系統が、根岸駅前の道路を走っていました。1968年8月に六角橋-青木通り、八幡橋-本牧三渓園前の路線が廃止され、11系統は無くなりました。当初11系統は、六角橋-間門までの路線でしたが、間門-八幡橋間が1955年に開通したため、その年に葦名橋まで延伸されました。当時、私の父は横浜駅東口にあった会社に勤めていたのですが、たぶん、この11系統に乗って通勤していたのではないかと思います。祖父もまだ仕事をしていた筈で、西区の浜松町交差点の傍にあった「正金」と言う会社に行っていましたので、八幡橋-睦町-浦舟町-久保山-浜松町を通っていた7系統を利用していたと思います。祖母が鼻の手術で、浜松町から保土ヶ谷駅に通じる1号線沿いの病院(今はもうありません)に入院していましたが、この時のお見舞いも市電に乗って行った記憶があります。私が子供の頃は、どこに行くのも市電でした。1960年に作成された市電の系統図を見ると、路線が張り巡らされていて随分と便利だったのだなと感心します。ただ残念なことに、トロリーバスの実物を見る機会はありませんでした。

左の写真は、1963年の間門近辺の航空写真です。
横浜赤十字病院の建物が見えますが、翌年(1964年)の移転を控えて、新病棟の工事が進んでいる頃と思われます。新病棟の隣は神奈川県陸運事務所で、後の1971年に、この場所に神奈川県衛生学院(当時の名称)が移転します。
埋立地では日石の工場や石油タンクの建設が進んでいます。この頃は埋め立ても沖合までは進んでおらず、三渓園の辺りは未だ海がありました。その後本牧の沖合にまで埋め立てが進み、現在の姿になって行きます。

 

 

 

 

 

 

 

【1977年】上の写真は、1977年の根岸駅周辺と間門近辺の航空写真です。
根岸駅周辺には沢山の建物が建っています。マンションが建つ予定地はまだ空き地のままですが、その他は現在の状況に近くなっています。私が引っ越したのが丁度この年の暮れでしたから、私の根岸の記憶はこの航空写真に近い状態で止まっています。
根岸小学校は鉄筋の新校舎になり、プールも作られています。根岸中学にもプールが作られていますね。校舎の隣の青い屋根の建物は、運動クラブの部室でした。
旧横浜日赤病院の跡地には、鉄筋の神奈川県医師会准看護婦学校が立てられました。その建物は左側の写真に写っていますが、この時は右側の写真に写っているように、既に新校舎に移転した後です。看護学校が移転した後、この建物が何かに利用されていたのか、または空家になっていたのかは分かりません。
1963年の写真と比べると、14年間の時の流れがはっきりと分かります。根岸駅前を走っていた市電は1968年に廃止されていますが、線路がいつ撤去されたのかは記憶にありません。1968年は私が高校に入学した年で、毎日のように市電が通っていた電車道を渡っていたのですが、記憶に残っていません。日常の生活の中の風景は徐々に変化して行きますから、写真にでも撮っておかないと記憶に残らないことが多いように感じます。
もし、埋め立てが無かったら、現在この辺りはどんな景色になっていたのでしょうね。国鉄アパートが建っている場所から先は海だったわけですし、根岸は海と山に囲まれた地ですから、昔と変わらないままの景色だったかもしれませんね。

 


 

 

 

 

 

【2016年】ついでですから、2016年の航空写真も載せておきたいと思います。

前回の投稿が2014年3月ですから、もう3年近く記事を書いていなかったのですね。
時が経つのは本当に早いです。年を取るわけです。

昔の根岸の町名

By , 2013年7月6日 11:17 PM

小学校の卒業アルバムを見ていたら、卒業生名簿の住所が「西根岸坂下町」とか、「中根岸町」になっている生徒がいるのに気がつきました。
普段、余り気にして見ることもないのですが、私が小学校を卒業した時は、まだこの旧町名が使われていたわけです。

その後、小学校を卒業した年(1965年)の7月1日に、現在の町名に変更になりました。

・西根岸下町  → 下町
・西根岸坂下町 → 坂下町
・西根岸馬場町 → 馬場町
・西根岸上町  → 上町
・中根岸町   → 西町、東町

私が住んでいた原町も、○○番地から、○番○号へと住居表示が変更されました。

ちなみに、磯子区に「根岸町」と言う町名はありません。
「根岸町」は中区で、磯子区東町の隣になります。
根岸町から見て、近くが「中根岸」、西側が「西根岸」となっていたようですが、「東根岸」と言う町名はありそうで、ありませんでした。

磯子区の「根岸」と総称されている地域の町名は、よく見ると「手抜き」なんじゃないかと思うことがあります。
上町、下町、西町、東町、分かり易いと言えば分かり易いですが・・・・。

磯子町より先には、「禅馬・滝頭・浜・芦名橋・広地・間坂・屏風ヶ浦」など、歴史的な町名が多くあります。
根岸は、磯子のように史跡が多くないので、歴史に直結するような町名が無いのかなと思います。
「根岸」と言う総称が、歴史的名称と言えなくもありませんが・・・。

根岸小学校

By , 2013年7月6日 9:44 PM

先日、のんちゃんのパパさんよりコメントをいただきました。

コメントの内容は、コメント欄を参照していただきたいのですが、そこで紹介されている写真やその説明書きに、非常にびっくりしました。
それらは、既に他界されたご両親が撮った写真との由ですが、その中には、今まで見たくても見ることができなかった場所の写真が含まれていたのです。

1番目は「根岸山から見た根岸湾」、2番目は「掘割川の河口付近」、そして3番目は「掘割川掘削時の切通しの跡」です。
見れるものなら見てみたいと思っていた写真ばかりでしたので、のんちゃんのパパさんには、心より感謝したいと思います。

これらの写真は、「みんなでつくる横濱写真アルバム」に投稿されていますので、興味のある方は、下記URLでご覧になってみてください。

< http://www.yokohama-album.jp/picture/view/296/ >

また、のんちゃんのパパさんのお母上が通学しておられた、根岸小学校のクラス写真も公開されています。

私が卒業した当時とは校舎の様子など異なっていますが、100年を超える歴史の重みを感ぜずにはおれません。

1970年代に、昔からの木造校舎から、近代的な校舎に順次建て替えられましたが、私の卒業アルバムより、最後期の頃の木造校舎の様子を掲載します。

ここには、当時の校長先生の写真も写っていますが、写真のとおり温厚な方で、生徒に大変人気のあった校長先生でした。

自己紹介のページにも根岸小学校の校舎の写真を載せていますが、こちらは建替中のもので、一番手前の体育館は、新しい建屋に替っています。

50年前の根岸-2

By , 2012年3月20日 5:34 PM

【1962年】
 この写真は、1962年10月に根岸小学校の校庭で行われた、八幡橋幼稚園の運動会の模様を写したものです。この時、弟は八幡橋幼稚園の園児で、私は小学校4年生でした。根岸小学校の木造2階建て校舎の様子が、良く分かると思います。この頃、とても広いと感じていた校庭は、後に高校生になってから訪ねた時には、やけに狭く感じられたものでした。校庭を囲むように「口の字型」に建てられた校舎、そして校庭にあった大きな楠、特徴的な昇降口などを懐かしく思い出します。しかしこうして改めて写真を見ると、どの位置から写したものか判然としません。あと10年もすれば、「根岸小学校に通っていた」と言う事だけが記憶に残り、他のことは忘れてしまうのかなぁなどと思っています。
 
【1964年】
 左の写真は、1964年の根岸を写した航空写真です。1964年と言えば、東京オリンピックが開催された年で、私は小学校6年生になっていました。根岸線の根岸-磯子間が開通したのがこの年ですが、この写真は開通前か開通後のものか分かりません。
 この前年の1963年に、根岸中学は新校舎になり、それ以前の旧校舎から移転しました。旧校舎は岸壁の傍に建っていましたので、埋立の様子などがよく見えたのではないかと思います。根岸中学の新校舎の隣は、「横浜プールセンター(通称マンモスプール)」が建つことになる場所です。プールセンターの工事はこの年の12月に始まり、翌年の1965年7月に竣工しました。

 プールセンターが建つ前のこの場所は、「自己紹介」のページに記したように、駐留を終えた米軍のかまぼこ型兵舎が建ち並び、秋にはススキが一面に生い茂り、子供の格好の遊び場でした。米軍から返還され、プールセンターの工事が始まるまでの間、ずっとそんな感じで放置されていたと記憶しています。と言っても、それはほんの短い期間だったろうと思います。子供の頃は、小学校の6年間が永遠に感じられるほど時間の流れがゆっくりでしたから、ほんの数年の間に起きた変化も、私の中では、長い時間の中で起きた変化として記憶されているように思います。

 ですから、自分の記憶と、実際の年数が符合しないことが度々あり、その都度不思議な気持ちになります。もう既に、ブログには何回も書きましたが、あと5年ほど早く生まれていれば、根岸の海のこと、埋立によって変わって行った様子などを、きちんと記憶していたのではないかと思います。
 
【1965年】
 この写真は、1965年、小学校を卒業する年の1月に撮影したものです。根岸小学校の特徴的な昇降口が写っています。校門を入るとすぐに、職員室などがある校舎の通用口があり、それがそのまま昇降口となっていました。細かいところはもう忘れてしまいましたが、写真左手の校舎が6年生の時の教室だったと記憶しています。校舎の裏手には第二校庭があり、そこには回転ブランコやうんていなどが設置されていました。
 私が在学していた頃は、1年から6年まで各学年4クラスあり、1クラス40人程度の生徒数でした。先生や職員を混ぜると、大凡1,000人近い人数が居たことになります。私が在学していた当時に「開校90周年」の記念行事があったと思いますが、もう既に忘却の彼方の出来事となってしまいました。
 
【1967年】
 この写真は、根岸中学の運動会の時のものです。卒業する前年のもので、私は中学3年生でした。生徒の輪の中で、私もフォークダンスを踊っている筈です。たまたま根岸線が通過するところが写っていますが、写真で分かるとおり、どこかの路線のお下がりではないかと思ってしまうような旧式な形をした電車を使用していて、新設された路線と言うイメージはあまりありませんでした。もっともこの頃は磯子駅止りで、利用客もそれほど多くなかったため、地方のローカル線と言う感じだったのかも知れません。その後、磯子の埋立地に建った工場への通勤(新杉田駅)、大規模開発された住宅地の住人の利用(洋光台、港南台)などで飛躍的に利用客が増え、それに伴い主要駅(大船駅)との接続や専用車両の開発などが行われて来ました。

 この写真には、根岸水上飛行場の格納庫だった建物も写っています。根岸線の後ろに写っている大きな四角い建物がそうですが、改修されながら、戦争当時よりこの頃まで利用され続けていたのだと思います。小学生の頃は目と鼻の先に飛行場の跡地があったわけですが、主要な施設はフェンスに囲われ、その中がどうなっていたのかは窺い知ることができませんでした。子供心にも「近づいてはいけない場所」と言う思いがあり、そこへの冒険だけは避けていたように思います。今は製油所の敷地となっていますが、一時期「日航」と呼ばれていた時がありました。勿論、製油所になる前の話です。その頃、中はどのようになっていたのか、一度は冒険してみるべきだったかも知れません。(笑)
 
【1969年】
 自己紹介のページに載せた写真です。高校に入学してから撮影した写真であることはハッキリしているのですが、何年頃撮ったものなのか、実のところ憶えていません。自分で撮影したのに・・・。1969年か1970年のどちらかなのですが、写真は撮るだけではなく、その説明も何処かに記録しておかないと、後で悩む羽目になります。
 この写真には、手前に根岸小学校、向こう側に根岸中学の校舎と音楽室などがある特別校舎、そして体育館が写っています。その右手には横浜プールセンター、その後ろ手には新磯子の工場群が見えます。この写真を撮ってから、40数年が経っています。今、同じ場所(根岸山の登り口)から見ると、どんな景色が見えるのでしょうかねぇ。

※一部の写真は「横浜開港150周年記念行事-みんなでつくる横濱写真アルバム」から引用させていただきました。

50年前の根岸-1

By , 2012年3月16日 9:54 AM

 自己紹介のページに、私の生まれ育った場所のことを書きましたが、それに追加する意味でこの記事を書いています。
 根岸・磯子と言えば、何はさて置いても「埋立」のことが頭に浮かんできます。私に近い歳の方は、間違いなくそうなのではないかと思います。ただ惜しいことに、当時の私は幼稚園から小学校低学年と言う年でしたので、記録と呼べるような資料を持っていません。今まで掲載して来た写真も、古いものは自分が撮影したものではありません。しかし、自分が体験したことや両親から聞いた話が、断片的にですが記憶に残っているため、それを記しておきたいと思います。そのためこの記事には、他サイトから引用させていただいた写真があることをお断りしておきます。

 この2枚の写真は間門にあった米軍の飛行場です。左の写真は1952年、上の写真は1958年のものです。私は1952年の生まれですが、「赤ん坊の頃、飛行機の飛んでくる音でよく泣いた」と両親から聞いたことがあります。その話を初めて聞いたのは小学生の時で、その飛行機は「日航(旧根岸水上飛行場)」に飛来した飛行機だと思っていたのですが、実際には水上飛行機の運用はありませんでした。その後、間門に飛行場があった事を知るのですが、具体的な情報が無かったため忘れてしまっていました。ところが最近になって、これらの写真を発見して、初めて合点が行きました。

 私が赤ん坊の頃、その音で泣いたと言う飛行機は、この飛行場を離着陸していたのです。私の生家は、ここよりもずっと八幡橋寄りにあったのですが、その辺りは比較的開けた空間になっていました。写真を見る限り、この位置にあった滑走路を離着陸するために、正に私の家の頭上とも言える処を低空飛行していたのではないかと想像できます。多分、赤ん坊でなくても、びっくりするような音だったのではないでしょうか。近年の暴走族などとは比較もできないくらいの、大音響だったと思います。

 また、この2枚の写真には、八幡橋から本牧へ抜ける道が写っています。1952年の頃は道も細く、市電は走っていません。間門-八幡橋間の市電が開通したのが1955年(昭和30年)とのことですので、その施設工事の時に拡幅されたのだと思います。飛行場は1958年に返還されたそうですが、物心がついた頃以降、頭上を飛行機が飛んでいた記憶がありません。ですから、返還直前の頃はすでに、飛行機の離着陸はほとんど無かったのだと思います。返還後この場所には、陸運事務所、日赤病院などが建ち、現在は大規模マンション群、看護学校などが建っています。

※掲載した写真は「横浜開港150周年記念行事-みんなでつくる横濱写真アルバム」から引用させていただきました。

磯子Old & New

By , 2011年12月19日 7:20 PM

 ここに掲載する写真は、SATURNO IOMさんから提供していただいたものです。1960年代の写真と最近の写真を比べると、其々の場所の変化が良く分かります。1960年代と言えば、日本は高度成長期の真っ只中です。ですからこの頃の写真には、日本全体が貧乏だった頃の佇まいと、活気に満ちた雰囲気が同居していて、何とも言えない懐かしさを感じます。

 芦名橋の奥から磯子山に向って行くと、途中に長い急坂がありました。1964年の写真では車が通れるように整備されていますが、私が両親に連れられてこの辺りを散策していた1960年頃は、まだ細い山道だったと思います。後年開始される宅地開発のため、先ずは工事車両が通行できるように整備されたのだと思います。今まで宅地ではなかったところが住宅街になると、その変貌ぶりが良く分かります。当たり前とは言え、坂道の形が変わっていないところが、妙に印象に残ります。
 

 磯子旧道入口から、磯子小学校前に抜ける道の途中で撮った写真です。其々の写真を見比べると、右側の家のブロック塀や左側の家の土留めが昔の姿のまま残っていて、何故かとても懐かしい気持ちになります。
 

 浜マーケットの出口近くにあった「室ノ木公園」周辺の写真です。新しい方の写真を見ると、左側に向って比較的太い道が写っていますが、昔はこの道はありませんでした。右側に行く細い道も見えますが、昔はこの道だけでした。太いほうの道は、禅馬川が暗渠化された後に作られた道です。細いほうの道は、下の写真に写っています。
 

 昔の写真に写っているのは、磯子旧道入口から磯子小学校前に抜ける道の途中にあった、禅馬川に掛かる橋です。禅馬川が暗渠になり、今ではその頃の面影はありません。昔の写真に「飛鳥田医院」の看板を見ることができますが、私が幼少の頃、こちらの医院に随分とお世話になりました。飛鳥田医院は、飛鳥田一雄元横浜市長の弟さんが開院された診療所で、八幡橋から少し磯子橋方面に行った16号線沿いにあります。今ではもう、お孫さんの代になっているのではないかと思います。
 

 磯子小学校や周りの住宅は異なっていますが、佇まいは殆ど変っていません。写真を撮った各々の季節が違うからかも知れませんが、最近の写真には何となく活気が無いように思われます。この辺りは、表通りから少し入ったところですが、昔は人通りも多く、良い意味でもっとごちゃごちゃしていたように記憶しています。
 

 この写真は、磯子小学校前から16号線に抜ける途中の様子を写したものです。昔の写真に写っているクリーニング屋さんは、以前は貸本屋さんでした。母の実家が久木町に引っ越した後、時々遊びに行った時などは、ここでマンガを借りたりしていました。ちょっと前まで、ここは何のお店だったか忘れてしまっていたのですが、SATURNO IOMさんから提供していただいた資料を見ていて、貸本屋さんであったことを思い出しました。それと同時に、当時のお店の様子や周りの雰囲気までもが鮮明に思い出されました。とっくに忘れてしまっていたことを何かの切っ掛けで思い出すと、その当時の周りの雰囲気まで蘇って来るのですから、記憶って不思議なものですね。

 昔の写真には、クリーニング屋さんだけでなく他のお店も写っていますが、今ではそれらは無く、何となく閑散としています。普段の買い物は、大型スーパーに車で乗り着ければ一遍で済んでしまいますが、その代り地元の商店街は廃れ、町の活気は失われて行きます。賑やかなのが良いとは限りませんが、活気が失われて行くのは、何となく寂しい気がします。
 
  写真の場所の地図です。地図は1961年のものですが、1963年頃と大きな違いはありません。一番上の写真からA~Fとして、写真を撮った位置を記してあります。
 
 
 
 
 
 

磯子山から

By , 2011年12月16日 2:49 PM

 左の写真(A)は1962年に磯子山から根岸湾を望んだものです。写真に写っているのは小学生の私ですが、ここはどこだったのか全く記憶にありません。この写真が、アルバムにポツンと貼ってあることは知っていたのですが、写っている本人も写した当人(父親です)も、ここがどこなのか憶えていませんので、汐見台の造成地じゃないのかと言う結論になっていました。ところが、SATURNO IOMさんの検証で、ここは「磯子配水池」の造成現場だったと言うことが分かりました。

 写真の右側に写っているビルは「日本発条」のビルであること、写真に写っている林が手前と奥と二重になっているため峰が2つあっただろうこと、そしてニョキッと突き出した背の高い3本の木の、左側の木と真ん中の木の間に「金蔵院」と思われる大きな建物の屋根が写っていること、それに当時のカメラの標準的なレンズの撮影角度を加味し、更に進駐軍(古い・・・)が作成した等高線の入った地図と重ね合わせて検証した結果、ここは「磯子配水池」の造成現場だろうとの結論になったそうです。

 もっと海に近い場所では、これらの建物が一緒に写り込むことはありませんので、それが正しい結論だと思います。場所の特定ができて、改めて写真を見ると、そこには埋立竣工前の根岸湾の姿がありました。ただ、山に遮られて海岸線に近いところは写っていませんので、実際には、かなり埋立は進んでいたのではないかと思います。本牧岬が海に迫り出しているところなどを見ると、この景色が今でも残っていたらと、未練がましく思うのは私だけではないと思います。
 
 この写真(B)は、上の写真より幾分根岸寄りの場所から写したもので、SATURNO IOMさん所蔵のものです。この写真は1964年11月に撮られたそうですから、根岸から磯子に掛けての埋め立てが終り、根岸線も磯子まで延伸し、これから周辺の工業地帯が稼働し始めようとしている頃のものです。

 写真の真ん中辺りには、根岸の製油所のタンクが見え、その左手には、工場の煙突なども見えます。上の写真とはたった2年程度の違いしかありませんが、こんなに変貌してしまうものなんですね。この時はまだ、磯子の山は健在でしたが、数年後には切り崩され、宅地造成が始まります。
 
 左の写真(C)は、真照寺傍の山から撮ったもので、正面に写っている木造の大きな建物は、磯子小学校です。これもSATURNO IOMさん所蔵の写真ですが、磯子の山を歩く時は、真照寺の脇から山に入ることが多かったそうです。写真右側に写っている大きな建物は「バブコック日立」の工場だと思います。

 私は中学生の頃にアマチュア無線を始めたとブログに書きましたが、その頃いろいろお世話になった人が、この近くにお住まいでした。現在の腰越プールがある後ろの山が、当時は緩やかな丘のようになっていて、そこに登ってはポータプルトランシーバー(TRIO TR-1000)で交信したものでした。丘の頂上には岡村の「金魚池」がありました。
 
 上に掲載した写真の場所を現在の地図に記すと、左の画像のようになります。一番上の写真から順番にA・B・Cと番号付けしています。
 
 
 
 
 
 
 

磯子旧道と岡村ブドウ園

By , 2011年12月14日 8:59 PM

 磯子旧道は、国道16号線の浜交差点から、16号線を離れて岡村の笹掘まで続く山側の道です。大正3年に国道16号線が開通した当時、磯子旧道は後にプリンスホテルが建つことになる山で行き止まりになっていたようです。その後、その山を切り開いて、昭和4年に岡村の笹掘まで繋がったそうです。この磯子旧道の延伸部分を「岡村道」とも呼ぶようですが、呼び名の定義は明確ではありません。

 このような大昔の話は検証できませんが、その後の昭和30年代には「磯子の山歩き」に記載したように、実際に自分でこの辺りを歩いていますので、その頃の記憶と、現在と比較した写真を載せたいと思います。以下に掲載する写真は磯子区役所発行の「浜・海・道(昭和63年発行)」から引用させていただいたものと、度々本ブログに登場していただいているSATURNO IOMさんから提供していただいたものです。
 
 
 

 上の写真は磯子旧道の途中にある、「広町バス停」の1963年当時と現在の様子とを写したものです。左の写真の電柱の位置からすると、現在のバス停は多少磯子寄りに移動しているようです。後ろに続く山は、当時まだ未開?で、磯子台などの住宅地が出現するのは暫く後のことになります。
 

 上の左側の写真は、上記の「広町バス停」近くから笹掘方面を見た写真です。右側の現在の様子と比べると、同じ場所を撮ったものとは思えません。もの凄い勢いで山が切り開かれ、住宅地に変貌して行ったのが良く分かります。それにしても、電柱の位置が変わっていないのは驚くべきことです。土地開発計画が、緻密に練られていたことの良い証拠だと思います。
 

 この写真は、上述のものとは反対に、「広町バス停」近くから汐見台方面を見たものです。昭和10年頃の地図と現在の地図を照らし合わすと、昔、主要な山道だった道が、現在の住宅街の中心的な道路になっています。これにより、小さな頃に両親と歩いた山道は、現在のこの辺りだっただろうと見当をつけることができます。そんなことを考えながら地図を辿っていると、忘れかけていた記憶が蘇るような気がします。
 

 この写真は、「広町バス停」の辺りから、もう少し汐見台寄りに行った場所で写したものです。左側の写真は、現在の汐見台中学の前辺りで撮影したものではないかと思います。汐見台に続く歩道は綺麗に整備され、ここに至るまでの途中の道路とは、全く違う道に見えます。この写真の1963年当時は、このようなコンクリート製の団地やマンションのはしりのような建物は珍しく、子供の目には「高級」な住宅地と写っていました。汐見台には、公団と分譲と社宅と、夫々目的の違った建物が混在していたのですが、全く新しく開発された土地に新築の建物が林立したのですから、やはり新鮮な驚きがあったと思います。

 汐見台の開発は、1963年の初入居後も継続されました。私の中学時代の友人が岡村の仲久保に住んでいましたが、1966年頃に何回か遊びに行った時も、汐見台開発のためのダンプカーが往来していたことを憶えています。ちなみに友人の家は、現在の岡村郵便局の向いのあたりで「お菓子屋さん」を営んでいました。
 

 上の2枚の写真は「浜・海・道」から引用させていただいたものです。時は1955年とのことですので、55年以上前のものです。写真の場所は、上述の磯子旧道のブドウ園近くから笹掘方面を写したものです。背後の山の形が、上述の写真とそっくりですので、そう判断することができます。私が両親に連れられ磯子の山歩きをしていたのが1959~1960年頃でしたので、その5年ほど前の写真と言うことになります。私の記憶では、当時の道路はもう少し整備されていたように思うのですが、風の強い日はかなり土埃が舞っていましたので、この写真と大同小異だったのかもしれません。上述の1963年の写真と比べると隔世の感がありますが、何故かものすごく懐かしい感じがします。

 右の写真の岡村ブドウ園の看板は、どこに建っていたものか分かりませんが、「中久保・磯子海岸」の記述があります。それを見ると、昔はこんなだったんだなぁと実感できます。そのブドウ園は、左側の写真の右手の斜面に位置していたそうです。50年以上前のこととなると、例え自分で体験したとは言え、殆ど憶えていないと言った方が正しいと思います。そう考えると、写真の存在は実に偉大だなと感じます。現在の地図に照らし合わすと、岡村ブドウ園の位置は冒頭の地図に記した辺りになると思います。このブログにコメントをいただいた、「くりさん」のお兄さんの、ご友人の家が「岡村ブドウ園」を経営されていたそうです。
 
 左の写真は1963年当時の岡村ブドウ園の様子です。ブドウの生る季節には、ベンチに腰掛けてブドウを食べることができました。両親に連れられて磯子の山を散々歩き回った後、ブドウ園にたどり着いた時は、「ああ、家に帰れる」と思ったものでした。その思いが強かったせいか、ブドウ園から間坂近辺まではそれ程距離があるように思いませんでしたが、実際は結構な距離があったわけです。子供心には、ブドウ園から山を下るとプリンスホテルまでは直ぐだったように記憶していたのですが、実際はそうではありませんでした。

 間坂に出るのにバスに乗った記憶がありませんので、笹掘近くのブドウ園から、間坂まで歩いたことになります。昔は歩くのが当たり前だったとは言え、山歩きの後で、更に結構な距離を歩いていたわけですからびっくりします。上の岡村ブドウ園の看板にも「磯子海岸 徒歩廿分」とありますから、20分程度歩く距離だったわけです。今の時代、特別な用事がない限り、笹掘近くから間坂まで歩こうとする人はまずいない筈です。これも、古き良き時代の思い出と言うことなのかもしれません。

磯子産業道路

By , 2011年12月4日 11:53 PM

 私は磯子区の根岸に生まれ、25歳になった年の12月に栄区(当時は戸塚区)に越しました。それ以来、34年間栄区に住んでいますが、子供時代から思春期、青年期を過ごした磯子のことを懐かしく思い出します。このブログにも磯子の記事を幾つか載せましたが、磯子に関して私が記憶しているのは、引っ越す前の1977年12月までのことです。それ以降の磯子周辺の変化は記憶にないため、現在目にする磯子とのギャップが凄く、どのような変遷を経て今の姿になったのか想像することができません。

 特に国道16号線沿いの、八幡橋から森町あたりに掛けての変化には驚くばかりです。私が引っ越す前くらいまでは、磯子駅近くの16号線沿いには普通の民家が多く建っていて木々も茂り、「三宅胃腸科」などのお医者さんがありました。不二家レストランも、そんな街並みの一角に建っていたと思うのですが、今となってはその位置すら分かりません。しかし、街並みや道路が綺麗になり、バイパスや高速道路との接続も良くなり、磯子がますます発展していると思うと嬉しくなります。

 私と同様、幼少期を過ごした磯子の事を、懐かしく思い出すと言う方は多く、このブログにもコメントをいただいております。そのような方々の中で、SATURNO IOMさんとそのご友人のkouさんから、ご自身の幼少期の写真と共に貴重な資料をお送りいただきました。私の拙いブログで紹介させていただいても良いとのことですので、私自身の記憶も絡めて、数回に渡り紹介させていただきたいと思います。手始めとして「磯子産業道路」について記したいと思います。
 
左の地図は、1961年の「浜」近辺の地図です。根岸湾の第一次埋立工事は1959年2月に開始されていますので、この地図は、それから2年ほど経過した時のものです。根岸線の線路も記入されていますので、埋め立てが順調に進んでいたことが分かります。肝心の産業道路は、まだ姿形が整っていなかった頃で、16号線から埋立地に向かう道路も、磯子警察の前は狭いままです。この後、磯子区役所側の道路が拡幅され、現在の広さになります。産業道路(橙色)と根岸線の線路を挟んで、もう一本の道路(緑色)も作られています。

 この緑色の道は、埋立地に建つ工場群へのアクセス用の道路ですが、長い間、磯子駅の裏手で途切れていました。この道路の事を何と呼んでいたか記憶にありませんが、当時、少年野球に入っていた私は、この道を通り埋立が終わった工場用地まで行き、毎週のように練習や試合をしていました。中学生になった頃もこの辺りはまだ更地のままで、Uコンを飛ばしによく出掛けたものです。
 

 上の左側の写真は、整備途中の磯子産業道路を写したものです。横浜開港150周年記念行事サイトから引用させていただいた写真ですが、1963年の撮影となっています。右の写真は、幼少のころのSATURNO IOMさんと弟さんが写っていますが、工事途中の産業道路の様子が良く分かります。撮影は1963年4月5日との由ですので、左側の写真と同じ頃かもしれません。ただ左側の写真では、根岸線の送電線などが施設されていません。SATURNO IOMさんからいただいた1963年7月の写真には、立派な送電線が写っていましたので、左側の写真は、ひょっとしたら1963年以前に撮影されたものかもしれません。
 

 上の写真も、同じくSATURNO IOMさんと弟さんが写っていますが、左側が1964年5月3日の日付で、磯子産業道路が開通する直前の写真だそうです。右側の写真は、それから1年程度経過した1965年8月20日のものです。この頃は、もうかなりの交通量であったことが良く分かります。また、右側の写真のように、道路沿いにはいろいろな会社やガソリンスタンドがありましたが、時の流れと共に、介護施設やマンションなどに変わっています。
 

 左の写真は、同じく横浜開港150周年記念行事サイトから引用させていただいた写真ですが、1960年末頃に撮影されたものと思われます。写真手前には、立派な日本庭園を持ったお屋敷が写っていますが、埋立前、この辺りは料亭が建ち並んでいましたので、そのうちの一軒と思われます。ちなみに、かの有名な偕楽園は、1968年まで営業を続けたとのことです。右側の写真は、現在の様子を写したものです。歩道は「磯子プロムナード」と呼ばれ、綺麗に整備されています。この道路は産業道路と呼ばれるくらいですから、自動車の交通量緩和のための意味合いが強い道路です。そのため、16号線とは異なり殺風景な感じを受けますが、それも仕方のないことだと思います。開通当初の16号線バイパス的な道路から、金沢区の工業地帯の道路と接続されたことで、今では磯子区の産業を担う、大動脈と言っても良いと思います。
 
 左の地図は、1963年の地図です。根岸線の線路はここまでで途切れており、翌年の1964年に根岸-磯子間が開通します。冒頭に載せた地図のところで、産業道路の線路向こうにあるもう一本の道路のことを記しました。その道路の末端が、この地図に示されています。この道路は、根岸線の磯子駅を過ぎたあたりで、根岸線の線路を跨ぐように高架になり、磯子産業道路に繋がっていました。私もオートバイや自動車を運転して屏風ヶ浦方面から来た時は、信号の多い16号線や産業道路を避け、この道路をよく利用しました。

 今では、この道路は八景島まで繋がっていて、国道357号線と呼ばれています。高架になっていた部分は、今では途中で切れ、通行止めになっているようです。

※この記事に記載しました写真は、借用したものが多いため、転載しないでください。

昔の磯子界隈-禅馬川、芦名橋

By , 2011年6月14日 12:59 AM
1975禅馬川21975禅馬川1

 上の写真2点は、禅馬川の写真です。左側の写真は、磯子小学校前から浜マーケットに通じる路地に入って直ぐのところに架かっていた橋です。この道を真直ぐに進むと、浜マーケットの出口を過ぎ、間坂・汐見台・岡村へと続く旧道の入口付近に出ます。右側の写真は、国道16号線側から見た禅馬川です。私が禅馬川に特別の思い出があるのは、母の実家が直ぐそばにあったからです。
 

1960-01-02禅馬川21960-01-02禅馬川1

 上の2点は、禅馬川のそばで撮った、伯父さん達と父母と弟の写真です。写真の日付は1960年1月2日で、先頭の2点の写真よりも15年以上前のものです。写真の向って左側が禅馬川で、この頃はまだ住宅は少なく、川岸も広場のようになっていました。当時、禅馬川沿いの道は、右側の写真のように、大きな門構えの家で行き止まりになっていました。
 母の実家は、根岸の家から歩いても、子供の足で15分ほどしか掛かりませんでしたから、よく遊びに行きました。左側の写真の右手に数軒の住宅があり、母の実家はその内の1軒でした。伯父さん達はまだ独身でしたが、私達兄弟は本当に良く面倒を見てもらいました。それから数年して、母の実家はすぐ近くの久木町に引っ越しました。

 禅馬川は先頭の写真で見るとおりの川で、昔から生活排水が流されていましたので、決して綺麗な川ではありませんでした。それでも、子供の遊び場としては充分面白い場所でした。台風などで大雨が降った翌日は、必ずと言ってよいほど大きな鯉や金魚が泳いでいましたので、それを捕まえるのに大騒ぎしたことがありました。鯉や金魚は、当時「金魚池」と呼ばれていた、岡村の高台にあった養魚場から流されて来たもののようでした。また、伯父さんが空気銃を持っていて、私もそれを持たせてもらい川石の上のカニやスズメを狙うのですが、上手く当った試しはありませんでした。当時の子供たちは、およそ今の時代では考えられないような遊びをしていたのです。

 禅馬川は、写真の場所を過ぎると、国道16号線の下を通って磯子の海に流れ出ていました。川には簡単に降りることができたのですが、国道下へは入れないようになっていたと記憶しています。近所には、私と同年くらいの子供もいましたが、国道下がどのような様子になっているか聞いたことがありませんので、さすがに地元の子供も近づかなかったのだと思います。もっとも、国道の下は下水口のようになっていた筈ですので、見ても何も面白いことはなかったと思います。

 禅馬川が国道下に入り込む場所には、「紅葉軒(コウヨウケン)」(SATURNO IOMさんからご指摘いただきました。この名前をすっかり忘れていたのですが、思い出しました。「小川ペーカリー」と言うパン屋さんも確かにあったと思うのですが、果たして何処だったのか・・・)と言うパン屋さんがあり、浜マーケットの入り口からそのパン屋さんまでの間には「浜書房」があったと記憶しています。禅馬川を過ぎてもう少し八幡橋方面に行ったところにはパチンコ屋さんもあったと思いますし、夕方は買い物客でごった返していましたので、この近辺は結構賑わっていたように思います。
 
1961-08葦名橋のプール左の写真は、当時芦名橋にあった小さなプールの写真です。写真の日付は1961年8月です。現在も同じ場所にあるようですが、多少形が異なるようです。根岸のマンモスプール(通称)は1965年7月の開園でしたから、磯子界隈のプールと言うと、ここしかありませんでした。足を延ばせば白旗にもプールがありましたが(現在の森町公園プール?記憶が曖昧です)、子供が行くには遠かったため、1~2回行っただけだったと思います。

 根岸・磯子と言えば海の直ぐそばですから、プールではなくて海に行きそうなものですが、私には地元の海で泳いだ記憶がありません。本牧から杉田に掛けて、多くの海水浴場があったそうですが、海水浴場そのものの記憶が無いのです。1960年頃から埋め立てが始まりましたので、私が海で泳げる年頃になった時は、地元の海水浴場は残っていなかったのだと思います。海水浴場の記憶と言えば、近場では、金沢八景・野島・湘南海岸などしかありません。私より4~5歳年上の方であれば、根岸湾の海水浴場で泳いだ記憶をお持ちなのではないかと思います。
 

1960-03横浜新道磯子界隈の話とは全く関係ありませんが、珍しい写真が出て来たので掲載します。
1960年3月、横浜新道戸塚料金所の写真です。横浜新道の開通は、前年の1959年10月でした。この写真は、父が会社の慰安旅行で出掛けた際に撮ったものです。

※先頭の禅馬川の写真2点は「横浜開港150周年記念事業」のホームページより引用させていただきました。
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