Category: 昔の記憶

高校入学当時の思い出

By , 2012年4月2日 1:31 PM

 私が高校に入学したのは1968年、今から丁度44年前のことでした。
小学校、中学校は地元の学校に通ったのですが、地元の高校は嫌だ!と言う思いが強く(今となってはその理由は不明)、金沢八景にある高校に進学しました。

 同じ中学からこの高校に進学したのは6人しか居ませんでしたが、自由奔放な校風もあって、地元の生徒に馴染むのに時間は掛かりませんでした。忘れもしません、入学して間もない頃、今で言う「イケメン」の同級生に「ねぇ、ズートルビーってフォークルだよね?」と声を掛けられたのです。
 すかさず「おお!そうだと思うよ」と返答したのですが、心の中では「えっ?ズートルビー・・・ビートルズじゃないの?、フォークルって何?えっえっ??」と焦っていたのでした。と言うのも、中学生の頃に聞いていた、そして弾いていた音楽は「ロック!」そして「ポップス」だったからです。

 ベンチャーズ、ローリングストーンズ、ビージーズが特に気に入っていて、友人3人とギターを弾いたりしていました。事の始まりは1965年末に発売されたベンチャーズのシングルでした。「クルー・エル・シー」を聞いて一気にファンになり、それ以降、私の中で音楽と言えば「ロック&ポップス」になってしまったのです。ですから、当時全盛だったグループサウンズに興味は無く、フォークソングそのものを知らない状況でした。

 そんな状態で入学した高校では、フォークソングの嵐が吹き荒れる一歩手前でした。この状況には、「ええ~参ったなぁ」と言うのが正直な気持ちで、それからは毎日ラジオの深夜番組で「ポップス」と共に「フォークソング」も聞くことにしました。
 その甲斐あって、みごとにフォークソングの「オタク」が出来上がったのでした。

19681226 今聞いてみても、当時の音楽・歌には素晴らしいものがあります。もうすぐ18歳になる末の娘が、私の録り貯めた昔の音楽を時々聞いているようです。今、私のPCのiTuneには、1967年から1975年頃までのフォークソングとニューミュージック、そして同時期のポップスなど、数百曲を登録してあります。気分が滅入った時などに聞くと、当時の思い出と共に、明日に向かう気力が湧いてきます。心の中の音楽、これからも大切にしていきたいと思います。

ところで、ズートルビーとフォークル、ご存知ですか?

伊勢佐木町 えり藤

By , 2012年3月15日 1:29 AM

 昨年10月、伊勢佐木町にあった呉服店「えり藤」が閉店したそうです。
私がこの老舗のことを書こうと思ったのは、随分昔のことになりますが、私の叔父がえり藤の当主であった藤本家にお婿さんに行った関係で、少なからぬ縁があったからです。

 私が小学生の頃は、家族でよく伊勢佐木町に出掛けたのですが、その度、必ずえり藤に立ち寄りました。しかし、呉服のことなど分からない私は暇を持て余し、何軒か先にあったおもちゃ屋さんに行っては遊んでいました。当時のことは細かく憶えていないのですが、「へびやさん」があって「おもちゃ屋」さんがあって、やたら賑やかだったことは憶えています。

 また、私が23歳になった頃(1975年頃)、磯子の高台にあった藤本家に、何回か遊びに行ったことがありました。結婚の仲人を、叔父さんご夫妻にお願いに行ったのが始まりだったのですが、当時、藤本家の二階からは、造成が開始された丸山町付近の様子が良く見えました。その後、藤本家の当主が高齢のため、叔父さんご夫妻が店を継ぐことになるのですが、悪いことに叔父が病気で急逝してしまいます。叔母一人でお店を切り盛りするのは大変で、後年、お店を手放すことになります。

 その叔母も、今から十年ほど前に亡くなりました。今は藤本家とのお付き合いはほとんどありませんが、ご夫妻の息子さん、娘さんが立派に事業を起こされています。えり藤との縁は、とうの昔に無くなっていますが、子供の頃の思い出が消えてしまうのはさびしいものです。

へびやさんの手前の、青い日よけのお店が「えり藤」です。
叔父、叔母がこのお店で忙しく働いていたのは、もう40年以上も前のことになります。

 

 

 

 

昭和30年代

By , 2011年9月25日 12:32 PM

 私の父は、昔、タクシーの運転手をしていました。その頃タクシーの運転手と言えば花形の職業だったと聞いたことがありますが、その変則的な勤務時間のせいで、私が子供の頃は結構寂しい思いをしました。タクシーの勤務は、朝、会社に出勤して、一日中通しで仕事をします。次の日の朝方に乗務の仕事を終えるわけですが、次の乗務員に車をバトンタッチするための準備とか、事務処理だとかがあり、直ぐに勤務が終わるわけではなかったようです。勤務を終えた日が「明け番」で、次の日がお休みと言う勤務体系でしたが、私は日曜日以外は学校に行っていますので、下手をすると3日に1度、それも夜しか父親に会えないと言うこともありました。

 そんなわけで、寂しい思いをすることもあったのですが、乗せたお客さんの話をよく聞かせてくれて、それが楽しみの一つでもありました。上の写真は1957年8月に撮影したものですが、父がタクシーで乗っていた観音開きのクラウンです。父は時々、乗務の途中で家に立ち寄り、私を膝の上に乗せて近所を一周してくれました。私の自動車好きは、こんなところから始まったのかもしれません。
 

 上の2枚の写真は、1959年4月と9月に撮影した自宅の様子です。
左側の写真は、私が小学校に入学した頃のものです。この頃の旧家は、大部分の家が写真のような構造をしていて、玉石の上に柱を立て、その上に家が乗っているような作りでした。そのため「縁の下」が高く、小さな頃は縁の下に入ってよく遊んだものです。こんな構造ですから、強い地震には弱かったのではないかと思います。幸いその頃は、家が倒壊するかと思うような大きな地震には遭遇しませんでしたが、今年の東日本大震災のような大きな地震にあっていたら、どうなっていたか分かりません。

 右側の写真は、左側の写真から半年後のものですが、弟の成長が良く分かります。縁側に腰掛けてポーズを取っていますが、弟は母親似で、兄の目から見てもとても可愛らしい仕草をしていました。この写真には家の中の様子が写っていますが、「障子」に「からかみ」と言ったその頃の家屋の様子が分かると思います。

 ちなみに、この家はいつ頃建てられたのか、迂闊なことに私は知りません。祖父の代に建てたことは間違いないと思うのですが、近い内に、両親に確かめてみようと思います。私達が引っ越してから間もなく建て替えられたと聞きましたので、もう写真でしか見ることができないのですが、子供の頃の思い出がいっぱい詰まったこの家のことを、しっかり憶えておきたいと思っています。
 
 左の写真は、1960年4月に自宅の前で自転車に乗っているところを写してもらったものです。この頃は、写真で分かるように「板塀」の家が一般的で、道もでこぼこしていて雨が降る度にぬかるんでドロドロになり、運動靴を汚しては母親に怒られたものです。当時はまだ日本全体が貧しく、テレビが(それも白黒)やっと普及し始めた頃です。テレビに比べると冷蔵庫などの大物の普及は遅く、この頃までの冷蔵庫と言えば木製で、氷の塊を入れて庫内を冷やすと言う代物でした。洗濯機も手回しの絞り器が付いた1槽式で、パルセーターがとにかく目一杯勢いよく回り、物によっては洗濯物がポロポロになってしまうこともあったようです。

 ゴミの処理は、各家庭の勝手口などに「ゴミ箱」があり、その中にゴミを入れておき、1週間の内に何回か「ゴミ屋さん」がリヤカーで回ってきてゴミを回収していました。当然、夏場は腐敗臭がすごく、蠅は飛んでいるわウジ虫は湧いているわで、家の中で一番近寄りがたい場所でした。また、水洗トイレなんてものは想像さえもつかず、汲み取り式が当り前で、肥桶を担いで来た人が柄杓で汲み取っていたことを憶えています。それからバキュームカーになり、浄化槽になり、完全水洗にと発展?して行くのですが、ことさら左様に「何も無かった」と言っても良い時代でした。
 
 この頃の子供の遊びと言えば、男の子は「自転車」「野球」「めんこ」「べーごま」など、外で遊ぶことが当然で、雨降りの日は一日中家の中で、「何か面白いことないかな-」と言っていたものです。女の子は「ゴム飛び」「ケンケン」や、「ビー玉」「おハジキ」などが主な遊びだったようです。

 遊びもおもちゃの種類も、今に比べれば実につつましいものでしたが、自然だけはどこにでもありました。その自然の中で遊び回ったことが、私達の世代の大切な思い出となっています。今の子供は、私達の世代とは違った種類の素敵な思い出を持っていることと思いますが、それでも、昔の自然を見せてやりたかったなぁと思うのです。右側の写真は、1960年4月に根岸山の登り口で撮ったものです。この根岸山や根岸八幡神社などが、小学校の帰り道の遊び場でした。

氷川丸の出航

By , 2011年2月8日 10:31 PM
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 今は山下公園に係留されて博物館になっている氷川丸ですが、この当時はまだ現役の客船でした。
写真は昭和34年8月24日に撮影したものです。氷川丸は翌年の12月に現役を引退していますので、最後期の頃の写真です。

 この時、氷川丸が出航する前に乗船して、船内を一通り見せてもらいました。「昔の根岸中学」のブログに書いた、隣の家の中学生のお兄さんですが、当時その方のお父さんが氷川丸の機関長をしていて、見送りに行った時のものです。はっきりとした記憶はありませんが、場所は大桟橋だと思います。
この写真は、私の父親が撮ったものです。

観音崎のゴジラ

By , 2011年2月7日 11:05 PM

観音崎のゴジラ 時は昭和34年8月12日の観音崎の写真です。当時、観音崎にはゴジラが居ました。このゴジラ、実は滑り台になっていました。昭和33年に作られ、風化により壊れ昭和48年に撤去されたそうです。写真を撮ったのは、ゴジラの滑り台ができて、1年経った頃です。
怪獣映画「ゴジラ」でゴジラが日本に上陸したところが観音崎だったことにちなみ、ゴジラの滑り台が作られたと言う話を聞きました。
 
 
 
観音崎海岸 私が子供の頃は、父親の会社の慰安旅行で、毎年夏に海水浴に行っていました。この年は観音崎だったのですが、逗子、江の島、金田(三浦海岸)など、毎年あちこちの海水浴場に連れて行ってもらいました。
その催しが何年も続いたある年の夏、一人の社員の方のお子さんが水難事故に遭われ、それ以降は開催されないことになりました。子供心にも、その方の悲しみが分かるような気がしました。
 
 
観音崎から鴨居への道 左の写真に写っている細い道は、鴨居方面へと続く海沿いの道だったのではないかと思います。今は舗装されて快適な道路になっていますが、この頃はこんなだったんでしょうか。それにしても、現在の様子とはかけ離れています。
この写真は、私の父親が撮ったものです。
 
 
 

金沢道(かねさわみち)

By , 2011年2月1日 8:00 PM

19681010-1 高校1年生の頃、地学の課題整理のため、クラスの男女十数人のグループで磯子区氷取沢の地層調査に行ったことがあります。日付は、1968年10月10日体育の日でした。当時は、現在の笹下釜利谷道路も二本松トンネルも無く、笹下方面からの道は氷取沢で行き止まりになっていました。

 昔、笹下-金沢間には金沢道と呼ばれる主要道路があり、浦賀道と共に保土ヶ谷から浦賀まで続く往還道路になっていたそうです。金沢道については、昭和30年頃(1955年)の資料にもその名前が出てきますが、いつ頃まで使われていて、どの辺りを通っていたのか調べてみました。
 
19681010-2 金沢道の一方の起点は保土ヶ谷です。JR横須賀線の保土ヶ谷駅東口から、正面の国道1号線を向こう側に渡り戸塚方面に少し行くと、左手に急坂があります。その急坂を登ると横浜清風高校(旧明倫高校)の脇を過ぎ、そのまま道なりに進み清水ヶ丘公園を過ぎ、鎌倉街道の蒔田に出ます。

 蒔田から鎌倉方面に進み、弘明寺、上大岡を過ぎ、関の下を笹下方面に曲がります。そのままずっと直進して、上中里の交差点を左折し坂道を上って行くと、富岡西公園の脇を過ぎ能見堂跡に出ます。そのまま道なりに行くと、金沢文庫駅手前の踏切にぶつかりますので、それを渡ると国道16号に出ます。国道16号線の君ヶ崎交差点から旧道に入り、瀬戸神社に行き着きます。金沢道のもう一方の起点は瀬戸神社になるそうです。
 
19681010-3 金沢道の検証のため、保土ヶ谷駅から瀬戸神社まで歩いた方が何人も居て、その方達の記事を元にこの文章を書いています。しかし、凄いですね。例え私がもっと若くても、とてもチャレンジする気にはなれません。ちなみに、所要時間は約5時間程度だったらしいです。金沢道を往来していた昔は、道路事情など現在よりも悪かった筈ですから、もっと時間が掛かったのではないかと思いますが、それでも意外に速いのに驚きます。江戸時代は、日本橋から保土ヶ谷の権太坂まで1日で歩いたそうですから、人が歩いて移動する距離って、馬鹿にできないのですね。

 上記の記事により、笹下釜利谷道路と金沢道は、関の下から現在の上中里交差点までは、ほぼ並行して通っていることが分かりました。笹下釜利谷道路は、上中里交差点から大きく右にカーブして氷取沢方向に行きますが、金沢道はそこから左側の山道を登る形となります。昭和38年(1963年)の横浜市三千分の一地形図を見ると、栗木町の交差点は、笹下、峰、そして杉田の各方面からの比較的太い道が交差していますが、上中里方面への道は極端に細く、当然、バスは走っていなかったと思います。その地図に載っている道をなぞってみると、上中里近辺で氷取沢への道と分かれ山道に入って行き、金沢文庫駅手前の踏切に出ます。正に金沢道そのものです。1963年頃はまだ、栗木から先の金沢道は、現役の道だったんですね。

 1968年に私達が氷取沢に行った頃は、笹下の辺りと同様の比較的太い道になっていて、バスも終点の氷取沢まで行っていたと思います。その頃金沢道は、富岡や谷津坂の宅地造成で、所々分断されたのではないかと思います。何れにしても、昭和50年(1975年)に二本松トンネルができるまでは、笹下から釜利谷方面に直接出られる道は無かったのではないかと思います。

 さて、金沢道とは何の関係もありませんが、1968年当時、私達はどのようにして氷取沢まで行ったのか・・・。当時、氷取沢までは上大岡からの江ノ電バスしかありませんでしたので、上大岡駅からそれに乗って行ったのではないかと思います。周りが田畑ばかりの道を、バスに揺られて行ったような記憶があります。帰りは、バスの本数が少なかったからか、砂埃の立つ道をダラダラと歩いた記憶があるので、杉田駅まで歩いたのかも知れません。あれこれ考えてはみるのですが、忘れちゃっているのですから結論は出ません。何かに記録しておけばよかったのですが、42年後の自分がそんな事を考えるなんて、夢にも思いませんしね。(^^;;

ちなみに10月10日が「体育の日」だったのは、1966年~2000年の間でした。

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